詳細検索結果
以下の条件での結果を表示する: 検索条件を変更
クエリ検索: "新田"
36,829件中 1-20の結果を表示しています
  • *北西 諒介, 夏目 宗幸
    日本地理学会発表要旨集
    2021年 2021s 巻 P052
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/03/29
    会議録・要旨集 フリー

    1.はじめに

     近世前期における武蔵野台地上の千町野(現・東京都杉並区,三鷹市,武蔵野市に跨る地域)の開発は,関村(現・東京都練馬区)の井口八郎右衛門の主導によって行われ,寛文12(1672)年検地によって,新たに4つの

    新田
    村落が成立した.『井口家文書』には大宮前,牟礼前,れんちゃく
    新田
    前,関前の名称を確認できる.

     これらの

    新田
    村落の名称は,いずれも近隣の既存の村落名,ないしは地名の語尾に「前」を付ける形で命名されており,開発の一体性を物語っている.関前は豊島郡関村,牟礼前は多摩郡牟礼村,れんちゃく前は多摩郡連雀
    新田
    ,大宮前は多摩郡和田村にある大宮八幡社とそれぞれ対応するものと考えられる.このように「前」の付く
    新田
    村落名は,時代は下るが同じ武蔵野台地上に成立した砂川前
    新田
    のほか,尾張国の干拓
    新田
    である熱田前
    新田
    などにも見られる.

    2.問題の所在

     前・後のような語句を含む地名は,村落内の小地名として多く見られ,共同体の空間認識の指標として研究されてきた.例えば,丹波・吉備高原地方の村落空間の分類原理とその表現型を考察した山野(1977)は,前-後が斜面における日向-日陰,上-下などとともに,南北に分割された村内区分の識別に用いられていることを指摘している.

     一般的な

    新田
    村落の場合,親村との血縁的・地縁的関係を持つため,その村落名称も親村の名を冠することは多い.しかし,千町野の
    新田
    村落の場合,関村を親村としており,牟礼村,連雀
    新田
    ,和田村大宮八幡社との関係は希薄である.つまり,名称の上でのみ,親子関係が確認されるということになる.

     こうした名称上の親子関係は,単純に隣接関係を「前」と表現したことによるものとも捉えられる.しかし,尾張の干拓

    新田
    の中には,少ないながらも甚兵衛後
    新田や茶屋後新田
    のような「後」が付く
    新田
    名称が確認できることから,千町野の「前」もまた,何らかの前-後の感覚に基づいて名付けられているという仮説が成り立つ.では,それはどのような感覚であろうか.

    3.分析

     千町野の

    新田
    村落における名称上の親子関係を,親から子へ向かう矢印として考えた場合,それらは概ね西の方角を指し示すものの,定まった方向であるとは言い難い.また,千葉徳爾は杉並区の通称地名の分布から,この地域の社会集団が南を前・表,北を後・裏と意識していたと結論づけている(千葉 1992)が,これとも合致しないことがわかる.よって,千町野を含む武蔵野台地の開発は,これとは別の前-後の感覚によって行われていたと考えられる.

     ここで,千町野より視野を広げ,武蔵野台地というスケールで考えてみると,千町野の西方に広がる地域は後世に新たな武蔵野

    新田
    として開発されるが,千町野の開発当時は未開発の「武蔵野」であったことがわかる.千町野の
    新田
    村落名における「前」には,今後開発される地域に対する開発前線としての意識がそこにあったのではないだろうか.

     千町野の西に位置する境村の名称の「境」は,開発された千町野と,未開発の武蔵野との境目とする見方もあり,本仮説とも一致する(米崎2019).そのほか,後世の武蔵野

    新田
    開発において,武蔵野台地の西側に位置する砂川
    新田
    (砂川村)から分村する砂川前
    新田
    は,本村に対して東に位置しており,こちらも未開発である「武蔵野」の方向を示唆していると言えよう.

    4.おわりに

     本発表では千町野開発によって開発された4つの

    新田
    村落の名称に着目し,それらに共通して含まれていた「前」という語が,当時の武蔵野台地における開発の前進方向を示していたという可能性を指摘した.このことは,村落内で完結する前-後の体系と,武蔵野という広範囲に及ぶ体系という,視点の異なる命名原理の存在を示している.

    文献

    千葉徳爾 1992.杉並の通称地名.杉並区教育委員会編 『文化財シリーズ37 杉並の通称地名』3-28.

    山野正彦 1977.分類体系として見た村落の空間構成.人文研究29, 415-437.

    米崎清実 2019.境村村名考 〜武蔵野をめぐって〜.武蔵野ふるさと歴史館だより 第4号,4-6.

  • 山中 康行
    大学図書館研究
    2003年 68 巻 37-44
    発行日: 2003/08/31
    公開日: 2017/12/12
    ジャーナル オープンアクセス

    群馬大学附属図書館は,昭和41年

    新田
    岩松家の後裔である故
    新田
    義美(よしとみ)氏から旧
    新田
    男爵家に伝来された文献資料群の寄贈を受けた。寄贈時にもたらされた資料群の中に膨大な屑状の紙片があった。それらの紙片は屑としか見えない状態であったためにかえりみられることがなかった。平成13年春,この紙片の塊が廃棄寸前になって,日本画の下絵(粉本)であることが判明した。約1年半をかけて膨大な屑状の紙片の悉皆調査を行い,総点数1,265点の反故を画帳形式に復元整備した。寄贈者の遺族も知らなかった粉本の発見であった。平成15年3月には整理が終わるとともに群馬大学附属図書館所蔵「
    新田
    岩松家旧蔵粉本図録」が完成した。

  • 石崎 正和
    日本土木史研究発表会論文集
    1986年 6 巻 131-137
    発行日: 1986/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    1661年から1672年までの12年間にわたる寛文期は, 徳川幕府成立後およそ60年を経過し, 幕藩体制もほぼ安定期に入った時期である。
    新田
    開発史からみれば, 寛文期は近世前期開発隆盛期のピークにあたり, この時期は
    新田
    開発数から見れば, 近世中, 後期の開発隆盛期と比較して最も多い時代にあたる。また「諸国山川掟」に示されるように, この時期に幕府はそれまでの開発万能主義政策に反省を加え, 園地的精農主義政策に方向転換を図ったといわれる。いわば寛文期は
    新田
    開発の進展と一方では開発の限界あるいは弊害が内在していた時期であり,
    新田
    開発の基礎条件である水利開発でも同様のことがいえる。寛文期における主な水利開発としては, 箱根用水, 徳嶋堰, 岡上用水, 曽代用水, 大石長野堰, 奥寺用水, 広淵沼溜池築造などの用水開発, 新利根川の開削, 旭川の百間川放水路開削, 浦見川の開削などの洪水処理, 椿海干拓, 手賀沼干拓, 三方五湖干拓, 横浜洲乾湊埋立てなどの干拓・埋立てを挙げることができる。ここでは, 箱根用水, 徳嶋堰, 岡上用水, 新利根川開削, 椿海干拓の5事例について具体的に考察するとともに, その他の事例を含めて, 寛文期における水利開発の特徴を整理した。寛文期に行なわれた水利開発を見ると, 燧道開削を伴うなど比較的難しい水利開発が多いことと, 開発当事者に不明瞭な点が多いといった共通点がある。燧道開削や干拓に示されるような難工事を伴う水利開発と開発当事者の数奇な運命とを重ね合せてみると, 寛文期における水利開発は, 当時の技術段階における開発限界への挑戦ではなかったかと考えられる。寛文期はいわば近世初期における
    新田
    開発隆盛期のピークを形成しながらも, その次に続く開発衰微期を準備した時代といえる。そして, 行き過ぎた
    新田
    開発への警鐘がこの時代を象徴しており, まさに開発至上主義からの転換期にあったことを水利開発の事例は物語っている。
  • 機械學會誌
    1915年 18 巻 40 号 167-168
    発行日: 1915/10/06
    公開日: 2017/08/01
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 山西 琢文, 内山 雄介, 岩崎 理樹, 清水 康行, 津旨 大輔, 三角 和弘, 恩田 裕一
    土木学会論文集B2(海岸工学)
    2016年 72 巻 2 号 I_757-I_762
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/15
    ジャーナル フリー
     二級河川福島県
    新田
    川の流域には福島原発事故直後に大量の137Csが大気経由で沈着し,河道内には高濃度の137Csが吸着した土砂が堆積していた.本研究では,荒天・出水イベントによる事故直後の
    新田
    川河口および沿岸域における陸域起源の137Csインベントリを定量的に評価するために,iRIC-Nays2DHをベースとした平面2次元河道モデルを用いた高出水時の河川流量および粒径別土砂流入フラックスの計算結果を用いて,同河口域における
    新田
    川由来の懸濁態137Csの海洋分散解析を行った.河口域観測結果等も併せて検討した結果,2011年5月末の大出水時に
    新田
    川から流入した懸濁態137Csは,約一ヶ月経過しても70%程度が河口付近に残存していること,流入した懸濁態137Csは再懸濁と再輸送を繰り返しながら数ヶ月以上の長い時間スケールで再分配され,長期的には河口域から散逸することが示唆された.
  • *松中 哲也, 笹 公和, 末木 啓介, 恩田 裕一, 石丸 隆, 谷口 圭輔, 脇山 義史, 高橋 努, 松村 万寿美, 松崎 浩之
    日本地球化学会年会要旨集
    2015年 62 巻 2D12
    発行日: 2015年
    公開日: 2015/09/03
    会議録・要旨集 フリー
     本研究は、原発事故由来129Iの移行挙動に関して、1)
    新田
    川における粒子状129Iの供給源とフラックス、2)
    新田
    川河口沖における海洋堆積物中の129I分布、および3)海水、海洋生物中の129I分布について明らかにする事を目的とした。

     
    新田
    川下流における懸濁物質の129I濃度は 0.92-4.1 mBq kg-1であり、懸濁物質量と相関性が認められた。2013年9-10月の粒子状129Iフラックスは7.6 - 9.0 kBq month-1であった。
    新田
    川沖堆積物中の129I濃度は5.8-8.4 μBq kg-1であり、河川の懸濁物質より2~3桁低かった。2014年7月における海水中の溶存態129Iは0.12-2.2 μBq L-1であった。シロメバルの129Iは42-48 μBq kg-1であり、海水よりも20-400倍高かった。事故直後における海水の高い129I濃度の保存による可能性が考えられた。
  • 見通丸 明, 白戸 哲法, 佐藤 昭彦
    農業土木学会誌
    1986年 54 巻 8 号 747-753,a1
    発行日: 1986/08/01
    公開日: 2011/08/11
    ジャーナル フリー
    吉井川農業水利事業の一環として, 昭和54年より工事を実施し, 現在ほぼ施工を完了した
    新田
    原井堰の施工概要を報告する。
    新田
    原井堰は, 有効貯水量2,000千m3貯留可能な全長220m, 堰高8.2mの全可動フローティングタイプの堰である。河床には直径以上の玉石が60~70%混入しているので, 基礎工法にニューマチックケーソンエを採用した。
  • 佐々木 清治
    新地理
    1955年 4 巻 1 号 1-21
    発行日: 1955/06/25
    公開日: 2010/08/10
    ジャーナル フリー
  • 入交 好脩
    社会経済史学
    1936年 6 巻 3 号 381-386
    発行日: 1936/06/15
    公開日: 2017/12/28
    ジャーナル オープンアクセス
  • 日野 宏, 渡辺 俊男, 山口 美紀
    日本体育学会大会号
    1972年 23 巻 64
    発行日: 1972/09/01
    公開日: 2017/08/25
    会議録・要旨集 フリー
  • 生田 正輝
    新聞学評論
    1966年 15 巻 140-141
    発行日: 1966/03/01
    公開日: 2017/10/06
    ジャーナル フリー
  • 日本機械学会誌
    1940年 43 巻 279 号 339-
    発行日: 1940/06/01
    公開日: 2017/06/21
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • つがる市 企画調整課
    風力エネルギー
    2019年 43 巻 4 号 637-639
    発行日: 2019年
    公開日: 2021/03/14
    ジャーナル フリー
  • 武蔵野新田の一事例について
    矢嶋 仁吉
    人文地理
    1952年 3 巻 5-6 号 86-93,A9
    発行日: 1952/01/15
    公開日: 2009/04/30
    ジャーナル フリー
    This is a study concerning Onumata-shinden situated nearIy in the central part of the plateau of Musashino, and describes the changes of both the number of houses and the area of the cultivated land, which are two of the fundamentals to the formation of a village, and also states the allotment of the cultivated land. Onumata-shinden is a settlement brought under cultivation in 1721, the 6th of Kyoho.
    This study based mainly of the old records preserved in the village may be summarized as follows:
    (1) Onumata-shinden is a settlement reclaimed in the latter period of the Tokugawa era.
    (2) About twenty-five years after the reclamation, a surveying of land was made, and since then the settIement has developed as an independent village.
    (3) A plot of land covering an area of from one to two cho has been allotted almost invariably to every house-holder. The only exception to this is the case of a land-owner who had owned a tract of cultivated land amounting to twenty cho.
    Since the reclamation days, the master of this house had always been the headman of the village (nanushi).
    (4) The cultivation land is for the most part sown to barley, wheat, etc., but about 1.8 of it are paddy-fields.
    (5) The cultivated land is generally barren, and from this may be infered the poverty of the livelihood of the villagers.
  • 浜田 栄夫
    人間教育の探究
    2007年 19 巻 71-74
    発行日: 2007/03/31
    公開日: 2023/01/12
    ジャーナル フリー
  • 矢作川河口部の新田を事例として
    神谷 智
    愛知県史研究
    2005年 9 巻 29-45
    発行日: 2005年
    公開日: 2020/02/27
    ジャーナル フリー
  • 菊地 利夫
    新地理
    1952年 1 巻 3 号 15-25
    発行日: 1952/11/20
    公開日: 2010/02/26
    ジャーナル フリー
  • 新井田 拓也, *脇山 義史, 高田 兵衛, 谷口 圭輔, 藤田 一輝, コノプリョフ アレクセイ
    水文・水資源学会研究発表会要旨集
    2021年 34 巻 PP-B1-38
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/12/30
    会議録・要旨集 フリー

    本研究では,河川における137Cs動態および海域への影響を明らかにすることを目的として、福島県浜通り地域の3河川の下流域において出水時の採水を行い,懸濁態・溶存態137Csの濃度変化を記述するとともに,懸濁物からの137Cs溶脱を含めて海域への137Cs移行量を求めた.

    新田
    川原町地点,請戸川幾世橋地点,高瀬川高瀬地点において、2019年9月9~10日,2020年7月14~22日,2020年7月28~30日の出水イベント時に採水を行い、懸濁態・溶存態137Csの濃度を測定し、懸濁態137Cs流出量・溶存態137Cs流出量および懸濁物からの137Cs溶脱量を推定し,海域への137Cs移行量を求めた.

    懸濁物の137Cs濃度はいずれの河川においても有意な正の相関(p <0.05)を示し,溶存態137Cs濃度は

    新田
    川と請戸川で有意な正の相関(p <0.05) を示した.137Cs流出量は
    新田
    川で6.6~24 GBq,請戸川で1.9~8.8 GBq,高瀬川で2.8~13 GBqであった。このうち,懸濁態137Csからの溶脱量は0.19~2.8 GBqであり,溶存態として流出する137Csの量の0.8~15倍の値となった.海域への移行を考える上でも,懸濁態137Csの動態の理解が重要であることがわかった.

  • 菊地 利夫
    人文地理
    1952年 4 巻 3 号 184-197,280
    発行日: 1952/07/30
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
    This study deals with the Shinden developed on the sand-bar at the lower Tone about 350 years ago. The author tried to illustrate the three items as follows, (1) the political-geographical meaning of this Shindien, (2) characteristics of the Shinden developed on the sand-bar of the river influenced by the river (3) the structuce of the village and the process of its disorganization.
    (1) The Tokugawa Clan permitted the hermits to develop the Shinden on the sand-bar of the lower Tone, the boundary with the territory of the Satake Clan. They were a group of the defeated Samurai (Japanese knights) who had fled to the Tokugawa Clan, losing their lands in the Satake Clan. The Tokugawa Clan made use of them for the match of the boundary, betwen the territory of the clan and that of the Satake Clan. Therefore, the Tokugawa sustained the Jurokushima Shinden when a dispute arose betwen the Tokugawa Clan and the Satake Clan.
    (2) The Jurokushima Shinden was developed to be fit for the characteristics of the Tone. As the Tone was influenced by the tide, in the rice-field developed on the sand-bar natural irrigation and drainage perfomed in accordance with flow and ebb. At first only the village was surrounded by the bank to provide against the flood but later the Tone overflowed its banks so often that the banks were built around not only the villages but also the arable lands, and water flowed in and out through the sluices.
    (3) As it was difficult to call for the new settlers, the structure of the village in the Shinden contracted for by the trademen. A hermit owned the arable land for 5 or 6 persons, which was distributed generally among some new settlers. According to this proportions in dividing lands, grass for manure were also allotted. But as the system of owning lands fell in disorder, this proportions came to de disregarded. And, it was poor peasants who required the change of the proprtions in distribution. The more often floods happened, and the more difficult life became, the more eagerly this claim was repeated. Thus, the proportions in distributing lands or daily necessities could be changed, and yet poor peasants had to cultivate the hermits lands in the system of statute labour as before.
  • 安居院 あかね
    大学の物理教育
    2023年 29 巻 3 号 111
    発行日: 2023/11/15
    公開日: 2023/12/15
    ジャーナル 認証あり

    日本物理学会の第78回年次大会 (2023年) の総合講演は,

    新田
    英雄氏 (東京学芸大学理科教員高度支援センター) から「物理教育におけるジェンダーギャップ」,ヨビノリたくみ氏 (YouTuber) から,「わからなくていいアウトリーチ」に

feedback
Top