鎌倉新仏教の開祖の一人として著名な
日蓮
(1222~82) は, インド・中国等から伝来された「法華経」を, ブッダ釈迦牟尼の諸経を統一する仏典として意義付けた.
日蓮
は, 自らを末法の日本にその教えを伝道する〈法華経の行者〉として位置づけた. その生涯を通じての伝道の軌跡から,
日蓮
は「法華経」が予言する六萬恒河沙の地涌の菩薩の代表である〈上行菩薩の再誕〉の自覚に到達する. これらを包んで,
日蓮
の生涯は〈法華経の未来記〉を実現したものとして後世に伝えられ, 今日に至っている.
日蓮
の法華仏教の一大特色は,「法華経」の題目を受持することを基本とするところにあると言えよう. 言うまでもなく,
日蓮
は少年時代・青年時代の仏教研究の成果を基にして, 三十二歳の建長五年 (1253) 四月二十八日に, 初めて「法華経」への帰依を「題目を唱える」という形式で唱え始めたとされている. 事実, この後の
日蓮
の著述には, その趣旨に沿った内容で一貫している. しかし, その論理構成については, 初めて御題目を唱えてから二十年後の文永十年 (1273) 四月二十五日を待たねばならなかった. 本稿は,
日蓮
教学の伝統に沿った解釈を基本にしながらも, 果たして二十年間,
日蓮
は「題目受持」について沈黙していたのか? という問いのもとに, 可能な限り, 初期からの「題目受持」のイメージを汲み取りたいという視点から,
日蓮
の著述を通して題目受持論構築の背景について検討を試みようとするものである.
抄録全体を表示