二〇一九年四月の「出入国管理及び難民認定法」の施行を契機に、メディアなどには「移民」という言葉が溢れ出した。このような「移民」言説は、植民地支配の「生き証人」である在日朝鮮人や台湾人を不可視化しながら、構造化されている。注目すべきは、これが文学・文化をめぐる環境にも大きなかかわりをもっていることである。例えば、日本語文学をめぐる議論は、日本語を母語としない書き手(現在)と在日(過去)を線引きしているが、両方とも日本語リテラシーの高い書き手の作品を所与の前提としている。しかも「日本人による日本(語)文学」と「外国人による日本(語)文学」の境界は強硬なものであり、議論の対象にすらならない。このような枠組みはすでに多元化されている言語環境とずれているだけではなく、資本の論理が作り出す位階の構図を「文学」を媒介に支える役割をしている。その一方で「文学」は、この社会において「共生」という名で強いられているステレオタイプの「マイノリティ・イメージ」からマイノリティ自身が抜け出すためのツールとして期待されている。本論では、このような状況との交渉の過程で作られた留学生文学賞、路上文学賞、非識字の在日朝鮮人女性による作文集などを手がかりとしながら、新たな対話のツールとしての文学の場=路上の可能性について議論した。
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