谷崎潤一郎が戦後最初の創作として執筆した「A夫人の手紙」(一九四六/一九五〇)は、戦時中の飛行訓練を描いたために、占領軍検閲によって「軍国主義的」だという理由で公開禁止となった。実は、この小説は戦時下にある女性(森村春子)が谷崎夫人の松子へ宛てた手紙数通がもとになっている。この執筆に用いられた原資料と同作の自筆原稿を『谷崎潤一郎全集』(全二六巻、二〇一五~一七、中央公論新社)編集に関わった際に調査した。その結果をふまえ、本稿では小説の生成過程と谷崎の書き換えと素材に施された虚構化の効果を分析し、原資料の同時代状況(戦中)や検閲制度と小説執筆の時間(戦後)が交錯する様相を明らかにする。最終的に、「A夫人の手紙」を谷崎の文学的営為全体の中に位置づけることを試みたい。
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