1.無形文化遺産への関心の高まり
中国は、2004年にユネスコ無形文化遺産保護条約に批准し、また2011年に「
中華人民共和国
非物質文化遺産法」を公布し、無形文化遺産の保護を進めている。国家レベルでは、2006、2008、2011、2014年に無形文化遺産代表リストが作成され、合計1,372件が登録されている。本研究では、2013年8月の地域調査にもとづき、中国吉林省松原(Songyuan)市前ゴルロス(郭爾羅斯)モンゴル族自治県(以下、前ゴルロス県)における馬頭琴音楽の普及や代表リストへの登録の実態を考察する。
2.前ゴルロス県の無形文化遺産
前ゴルロス県はモンゴル族自治県であるにもかかわらず、総人口60.8万人に対して、漢族55.7万人(91.7%)、モンゴル族は4.1万人(6.8%)にすぎない。しかし、吉林省の無形文化遺産のなかで国家代表リストに登録されている41件のうち、前ゴルロス県のものは10件で、すべてモンゴル族に関連する。本県は吉林省のなかでもっとも多くの無形文化遺産が国家代表リストに登録されている県である。調査の結果、この背景には、地方政府リーダーや担当者が無形文化遺産の掘り起こしや保護、代表リストへの申請に力を入れていることがわかった。
3.前ゴルロス県における馬頭琴音楽の普及
(1)学校教育. 1998年に県内のモンゴル族小中学校に馬頭琴教育が導入され、2000年には16校で馬頭琴音楽の選択科目が開設された。一時、馬頭琴の教師が不足したが、内モンゴル自治区などから26人を招聘し厚遇した。これらの教師が、同県で馬頭琴教育を推進する基礎となった。
モンゴル族幼稚園や小学校、中学校(日本の高校を含む)にはモンゴル族のみならず漢族や他民族の生徒もおり、民族の別を問わず希望者は馬頭琴を学ぶことができる。中学校にはクラブ形式の馬頭琴楽団があり、漢族の生徒も含めて約100人が所属している。
(2)専門家. 専門的に馬頭琴を演奏し普及や伝承を担っている組織として、県公設の前ゴルロス民族歌舞団があり、内モンゴル自治区など省外出身の演奏者も招聘されている。聞き取りから、演奏者の経済的基盤として公的機関による支持が重要であることがわかった。また、これらの演奏者のもとで馬頭琴を学ぶ人のなかにはモンゴル族のみならず漢族もいる。さらに、前ゴルロス県には、吉林省で唯一といわれる馬頭琴製作工房があり、内モンゴル自治区出身のオーナーが馬頭琴を製作したり、弟子を育成している。県内で馬頭琴が安定的に生産、供給されていることも、普及に重要な役割を果たしている。
(3)政府リーダー. 前ゴルロス県における馬頭琴音楽の普及の原動力の一つとして、政府リーダーの積極的な関与が確認できた。2001~2007年に県長や書記、2007~2013年に
松原市
副市長、2013年より吉林省の要職を務めるモンゴル族の阿汝汗(アルハーン)氏は、作詞、作曲もする音楽家でもあり、馬頭琴をはじめとするモンゴル族文化の普及や伝承に積極的である。
前ゴルロス県では比較的早くから政府が馬頭琴音楽の教育や普及に努め、幼稚園から高校までの教育機関で馬頭琴を学ぶ体制が整っており、実際に馬頭琴を学んでいる人が多い。また、馬頭琴の教師や演奏者を内モンゴル自治区から招聘するなど、政府が馬頭琴音楽の普及に積極的である。前ゴルロス県の馬頭琴が無形文化遺産の国家代表リストに登録されるに際しては、これらの点が評価されたと考えられる。
4.まとめにかえて
1960~1970年代の文化大革命期にはモンゴル族の文化や芸術は軽視され、前ゴルロス県においても馬頭琴は壊され演奏者もほとんどいなくなったことから、近年の傾向は改革開放期以降の回復によるものである。馬頭琴音楽は国の無形文化遺産となり、普及や次世代への伝承が支援される存在となった。ただし、馬頭琴音楽が芸術性と専門性を高め、また漢族など他民族の演奏者が増えるなかで、モンゴル族文化の一部分という性格が薄れている。これは、当該民族の伝統文化の保護や伝承を促進するというユネスコの無形文化遺産制度の意図と相反するという懸念もある。
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