近代運河のはじまりは、1872 (明治5) 年10月に浜松堀留合資会社が免許を得て開設した堀留運河といわれる。わが国の運河計画には、単体の施設整備が多く、都市計画的な周辺整備を考えたものは少ない。
本稿で紹介する川崎運河の事例は、運河建設とあわせて工場用地を計画したものだ。今風にいえば、“運河のある工場団地造成計画”である。このような事例として知られているものに、都市計画法にもとずき1932 (昭和7) 年に竣工した名古屋市の中川運河計画がある。これに対し川崎運河計画は、都市計画法が未制定な時期に、都市計画的な考えでおこなわれた希有な事例で、鉄道の敷設をも考えた本格的なものであった。
本稿では、川崎運河の顛末とともに、あたらしく見いだされた図面の分析を通じて、工場団地計画の一端を明ちかにしている。
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