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クエリ検索: "植村政勝"
8件中 1-8の結果を表示しています
  • 住谷 雄幸
    山梨英和短期大学紀要
    1996年 30 巻 115-128
    発行日: 1996/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    わが国では、多くの名山・高山は修験者によって開山された。江戸時代に入り、講社がつくられ、信仰登山は庶民の間に広まった。宗教的な登拝だけでなく、高山に登り、その霊気にふれ、雄大な眺望を楽しむ風潮が、一部の文人・墨客の間に起ってきた。俳聖松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅の途中で月山に登拝し、俳人大淀三千風は、富士山・白山・立山の三山を含めて多くの高山に登り、『日本行脚文集』を著した。南画の大家池大雅は三山を登り、三岳道老と号し、多くの富士の絵を描いている。山水画の巨匠谷文晃は、三山を含めて山岳名画集『日本名山圖會』を上梓し、山好きの人々に愛されてきた。また、本草学者の
    植村政勝
    は、全国の山野を跋渉して、薬草を採集し、見聞したことを『諸州採薬記抄』として書き記した。文人・墨客の山旅紀行文とことなり、一尾張藩士が記した『三の山巡』は、文政六年(一八二三)に、三十五日間をかけて三山に登った紀行文である。これは江戸時代の登山の様子を知ることができるだけでなく、道中の町や村の風俗や生活様式などについて貴重な記述が多く、興味ある文献である。
  • 成田 研一
    薬史学雑誌
    2017年 52 巻 2 号 169-174
    発行日: 2017年
    公開日: 2020/08/09
    ジャーナル フリー
    A wooden license engraved with the characters Saiyakuka, signifying the use of medicinal herbs, was found at the Iwami-Ginzan Silver Mine in Omori Town, Shimane Prefecture. It was registered as industrial heritage of world heritage in 2007. The license was appropriated by a magistrate’s office for the purpose of allowing residents in the area to collect the medicinal herbs that grew wild and in abundance at the foot of Mt. Sanbe. Its contents shows that the magistrate’s office supported the needy circumstances of residents, whose livelihood was selling medicinal herbs it to medicinal wholesale dealers of Osaka. The chief administrator, Masunosuke Yashiro, confirmed the license following an investigation and entrusted management of the business management to Koun Nakamura, a botanist. There is no record regarding the results, but the wooden license is specific evidence, and is worthy of attention as a document that details arrangements were made at that time. Regional cultivation focusing on medicinal herbs has also been attempted various places in modern times, but this find seems to present a pioneering project as a community-based cultivation project in that tangible procedures for preparation were taken.
  • 逢沢 峰昭, 森嶋 佳織
    日本森林学会誌
    2018年 100 巻 2 号 65-69
    発行日: 2018/04/01
    公開日: 2018/06/01
    ジャーナル フリー
    電子付録

     1990年代以降,ニホンジカなどの増加と相まって,全国的にニホンヤマビルの分布拡大や吸血被害の増加が問題化している。被害対策を検討する上で,増加しているニホンヤマビルが昔はどこにいたのか,といった過去の分布情報は重要である。しかし,過去のニホンヤマビルの全国的な分布を扱った研究は少なく,特に1945年以前の分布情報は乏しい。本研究では,学術文献,紀行文および山岳書を基に,江戸時代中期から1945年までと,1946年からニホンヤマビルの分布拡大が生じる以前の1980年代までの二つの年代における全国のニホンヤマビルの分布情報を整理し,現在の分布と比較した。その結果,ニホンヤマビルは,東北地方,中部地方,紀伊半島および九州の一部の限られた山岳地に1945年以前から分布し続けていた。一方,九州の英彦山や伊豆の天城山のように,明治中期以降にニホンヤマビルがみられなくなった山岳もあることが示唆された。

  • 日本地学史資料調査委員会
    地学雑誌
    1979年 88 巻 5 号 338-352
    発行日: 1979/10/25
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
  • 安田 徹也
    建築史学
    2014年 63 巻 66-94
    発行日: 2014年
    公開日: 2018/08/17
    ジャーナル フリー
  • ―近世前期における妖怪の名づけ―
    香川 雅信
    日本民俗学
    2020年 302 巻 1-35
    発行日: 2020/05/29
    公開日: 2023/04/19
    ジャーナル フリー

     現在、妖怪には多くの種類が存在するように考えられているが、江戸時代に入るまでは、「鬼」や「天狗」といった限られた怪異のエージェントが想定されているだけで、個別の怪異に名前が与えられることはなかった。その状況が一変するのが十七世紀である。寛永年間(一六二四~一六四四)以降、妖怪の名称が急速に増えていくが、その背景には、怪異に対する認識の変容と、俳諧という新たな文芸の発達があったと考えられる。

     江戸時代初期、とりわけ寛永年間には流言としての妖怪が多く見られる。その一つに「髪切虫」があるが、同時代の資料を検討すると、それが一種の凶兆=「恠異」として捉えられていたことが分かる。しかし、「恠異」を判定し、しかるべき対処を行うという中世までの危機管理のシステムは江戸時代においてはすでに機能しなくなっており、怪異は凶兆としての意味を失って、ただそこに在るだけの「モノ」として扱われるようになっていったと考えられる。

     また、十七世紀の複数の文献に現れている妖怪の大半が俳諧に詠まれていることに注目し、「俳言」としての価値を持つものとして、妖怪の名称が俳諧にたずさわる者たちの関心を集めたのではないかという仮説を提示した。『古今百物語評判』という怪談集が俳人によって生み出され、河内国を代表する妖怪「姥が火」が俳人たちのネットワークの中から生まれてきたことがその証左として挙げられる。

     さらに、江戸時代の文献に記された妖怪の名称の中で最も大きな割合を占めるのは怪火の名称であったが、それは怪火が凶兆としての意味を失ってただ「見える」だけのモノになり、またそれゆえに俳諧の題材として捉えられたためだと考えられる。怪火ばかりでなく、名前をつけられた妖怪の多くは無害で日常的に存在するものとして捉えられており、そうした「怪異の日常化」と俳諧の題材としての意義が江戸時代における妖怪の「名づけ」を促したと推測することができる。

  • 科学史研究
    1989年 28 巻 170 号 106-122
    発行日: 1989年
    公開日: 2021/09/01
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  • 後閑 文之助
    地学雑誌
    1979年 88 巻 2 号 63-87
    発行日: 1979/04/25
    公開日: 2009/11/12
    ジャーナル フリー
    Japanese historical and geographical literatures, the Kojiki, the Nihongi, the Fudoki etc., were edited in the 8th century. Studies of minerals, rocks and fossils at that time were done on the basis of the Honzo (Pen-Tsao), Chinese ancient pharmacy. Since the 17th century studies of the Honzo were settled in Japan and progressed independently. With the development of the Japanese industry in the end of the 18th century, the Meibutsu-gaku, or the Bussan-gaku, learning on natural material or product, originated from the Honzo. On the other hand, since the end of the 17th century, Western natural sciences were transmitted to Japan through Dutch Commercial Office in Nagasaki. The eastern sciences such as the Honzo and the Bussan-gaku resulted in the establishment of the modern geology in Japan together with the western sciences.
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