1661年から1672年までの12年間にわたる寛文期は, 徳川幕府成立後およそ60年を経過し, 幕藩体制もほぼ安定期に入った時期である。新田開発史からみれば, 寛文期は近世前期開発隆盛期のピークにあたり, この時期は新田開発数から見れば, 近世中, 後期の開発隆盛期と比較して最も多い時代にあたる。また「諸国山川掟」に示されるように, この時期に幕府はそれまでの開発万能主義政策に反省を加え, 園地的精農主義政策に方向転換を図ったといわれる。いわば寛文期は新田開発の進展と一方では開発の限界あるいは弊害が内在していた時期であり, 新田開発の基礎条件である水利開発でも同様のことがいえる。寛文期における主な水利開発としては, 箱根用水, 徳嶋堰, 岡上用水, 曽代用水, 大石長野堰, 奥寺用水, 広淵沼溜池築造などの用水開発, 新利根川の開削, 旭川の百間川放水路開削, 浦見川の開削などの洪水処理, 椿海干拓, 手賀沼干拓, 三方五湖干拓, 横浜洲乾湊埋立てなどの干拓・埋立てを挙げることができる。ここでは, 箱根用水, 徳嶋堰, 岡上用水, 新利根川開削, 椿海干拓の5事例について具体的に考察するとともに, その他の事例を含めて, 寛文期における水利開発の特徴を整理した。寛文期に行なわれた水利開発を見ると, 燧道開削を伴うなど比較的難しい水利開発が多いことと, 開発当事者に不明瞭な点が多いといった共通点がある。燧道開削や干拓に示されるような難工事を伴う水利開発と開発当事者の数奇な運命とを重ね合せてみると, 寛文期における水利開発は, 当時の技術段階における開発限界への挑戦ではなかったかと考えられる。寛文期はいわば近世初期における新田開発隆盛期のピークを形成しながらも, その次に続く開発衰微期を準備した時代といえる。そして, 行き過ぎた新田開発への警鐘がこの時代を象徴しており, まさに開発至上主義からの転換期にあったことを水利開発の事例は物語っている。
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