目的:2011年3月11日の東日本大震災から10年が経過した.本発表では,筆者が取材した経験のある三陸ジオパークおよび南三陸地域の津波被災遺構について,解体と保存の経緯を振り返るとともに,改めてそれらの重要性を指摘したい.
経緯:甚大な津波災害をニュースで目の当たりにして,災害の爪痕を見たときに,その爪痕を後世に残し,防災に役立てることはできないものか,と思った研究者有志が数名でメールの意見交換を行うようになった.私もそれに3月下旬から加わり,次第にグループの人数が増えていき,メーリングリストができたのが地震後1ヶ月経過してからのことであった.当初は12名からスタートしたMLは,2年後の5月1日には50名ほどになり,3年余り継続して情報交換がなされた.その間に,筆者は2011年8月をはじめとして4回ほどジオサイトの取材も兼ねて現地を訪れ,新聞や著書などで津波被災遺構の保存の重要性を訴えた.取材した津波被災遺構は下の通りである.
解体・撤去された主な遺構候補
1.岩手県大槌町の民宿に乗り上げた釜石市の観光船「はまゆり」2011年5月撤去 同「はまゆり」を乗せた民宿「あかぶ」および大槌町役場 2021年2月撤去
2.
宮城県
石巻市の雄勝公民館の上に乗った大型バス 2012年3月撤去
3.
宮城県
気仙沼市の大型漁船(第18共徳丸) 2013年9月〜撤去
4.岩手県女川町の転倒ビル(女川サプリメント,
江島
共済会館)2014年3月〜 2016年1月撤去
保存が決まった遺構
6.岩手県女川町の転倒ビル(女川交番)2013年11月に保存決定,2020年整備
7.岩手県宮古市の田老観光ホテル 2013年11月復興庁が保存を決定,復興交付金の予算がついた.
8.岩手県陸前高田市の陸前高田YH・奇跡の一本松・道の駅高田松原タピック45・下宿定住促進住宅 2015年8月,高田松原津波復興祈念公園基本計画策定
9.
宮城県
南三陸町防災対策庁舎 2015年6月 町は解体の方針だったが,
宮城県
が保存・管理
10.
宮城県
南三陸町吉野会館 震災伝承ネットワーク協議会が遺構として認定
11.
宮城県
気仙沼市 気仙沼向洋高校跡(東日本大震災遺構・伝承館:写真)
解体か保存か:解体と保存を分けた理由として次のようなことが考えられる.
1.非常にリアルで強い発信力をもつ遺構:解体が決まった上記4つはすべてこれに当てはまり,船や大型バスが最大800mも移動,あるいは建物の上に乗り上げたもの(1−3)は,遺構としての強い発信力をもつが故に,住民のマイナスの感情も大きく,解体された.一方,保存された遺構は多くの場合,津波による移動がほとんどない建物(6−11)であった.
2.犠牲者の有無:保存が決まった遺構の多くは犠牲者を出さなかったことが挙げられる(佐藤・今村,2016).ただし,上記の中では9が例外であり,南三陸町は解体の方針であったが,
宮城県
が保存・管理するようになり,長期間のやり取りの末保存が決まった.そのほか,石巻市大川小学校では,児童生徒74人,教職員10人が犠牲となったが,避難行動の遅れを教訓として2016年に市が保存を決定した.
3.時間の経過:時間の経過に伴い,住民の感情が解体から保存に変わってきたことも重要である.手付かずのまましばらく放置された気仙沼向洋高校は,6年経過して重要な津波被災遺構,語り部の活動,映像を統合した重要なサイトになりつつある.
4.復興のシンボルになり得るもの:奇跡の一本松や,住民の命を守った防潮堤などは,保存されやすい.
5.予算的な問題と都市計画:県や国が買い取り,維持費を保証するか否か,ある程度時間を要したが,このような場合は保存されやすい.大槌町役場やはまゆりを乗せた民宿は10年経過した結果,予算がつかずに解体された.また,復興に邪魔になるものは撤去されやすい.女川の倒壊ビルの中で撤去されたビルと残された交番の違いはこの点も大きい.
文献 佐藤翔輔・今村文彦,2016, 東日本大震災の被災地における震災遺構の保存・解体の議論に関する分析-震災発生から 5 年の新聞記事データを用いて-,日本災害復興学会論文集,no.9, 11-19.
抄録全体を表示