青森県下北半島尻屋崎一帯は明治初期、森林伐採による飛砂のため漁獲が減った。1911年尻屋の漁師は植林を始め、1940年造林の一応の完成に至った。1920年の「下北郡ノ産業計劃案」には、「魚附林ノ植栽ヲ奨勵スルハ単ニ漁業上ノ利益ヲ増進スルノミナラス将来防風林・氣候調節林且又水源涵養林トシテ効用ヲモ兼ネ…農耕ノ業モ之カ為メ進展シ地方ノ利益ヲ受クル」との記述がある。また、「磯焼け」に対する遠藤吉三郎札幌農学校教授の「水源地森林の荒廃」原因説(1903年)に対応する記述もある。1947年青森県は北大・函館水産専門学校等に対して「水産資源調査」を依頼した。調査団の代表格は犬飼哲夫北大教授であった。犬飼は尻屋崎の不漁は戦時中の松伐採によることを指摘し、海岸林復活の動因となった。1900年代の下北での造林活動は、江戸期から継承されてきた森林の複合的機能に関する伝統的思想と科学の研究成果とが絡まりながら推進されてきた。
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