本稿では,18世紀の長崎方言を反映しているとされる,『吾妻鏡補』所載の『海外奇談』を調査し,同資料の基礎音系が呉語であると指摘した上で,音訳漢字に反映されている日本語のハ行子音を考察した。同資料では,ハ・ホが主に喉音合口字で写されており,ヒ・フ・ヘが主に唇音字で写されている。呉語系中国資料全体において,原音の各型とハ行子音との対応関係,とりわけ喉音合口字の位置づけを検討した結果,唇音字がハ行子音[ɸ]を,喉音開口字がハ行子音[h]([ç])を,喉音合口字が脱唇音化[ɸ]>[h]の中間段階の音価をそれぞれ示唆していると考えられる。さらに,現代呉語の音声を参照し,その中間段階の音価を[hw]と推定した。以上のことから,『海外奇談』が18世紀の長崎のハ行子音の脱唇音化を反映していると結論づけられる。当時,ヒ・フ・ヘの子音はまだ[ɸ]が全体的に保たれていたが,ハ・ホの子音は中間段階の音価[hw]を持ち,変化の途上とみられる。
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