飛鳥では,飛鳥京跡の遺構にみるように,人頭大の玉石を整然と敷いた遺構が顕著に見つかっている。この敷石遺構は,当初は飛鳥京跡のほかには,旧飛鳥小学校の東地点などごく一部で知られるにすぎなかった。しかし,近年では伝小墾田宮跡,稲淵川西遺跡,豊浦寺下層遺構,石神遺跡,雷丘北方遺跡などで検出され,宮殿あるいは宮殿関連遺跡に顕著にみられる遺構であることが明らかになってきた。
さらに,1987~90年に発掘された桜井市上之宮遺跡でも,小規模ながら敷石遺構が見つかった。この遺跡は,厩戸皇子(聖徳太子)の上宮の想定地の一つであっただけに,そうみなしてよいかが大きな問題になった。
飛鳥の敷石遺構は,飛鳥川の流域に営まれた宮殿遺跡にともなうことから,低湿地あるいは沖積地の軟弱な地盤の地表を舗装したものと理解されている。しかし,この理解は,飛鳥の宮殿遺跡がもつ性格の一面を説明するのにとどまっているように思われる。これは,その上流に位置する稲淵川西遺跡が丘陵地に立地しながらも,整然と敷石されていたことを説明する理由としては不十分であろう。このことは,飛鳥にみられる7世紀の宮殿遺跡では,立地条件のほかにも整然とした敷石を行うことを必要とした固有の要因があったのではないかと思われる。
このように考えると,7世紀に営まれた前期難波宮では,敷石遺構が検出されていない問題がある。また,藤原宮以降の宮殿遺跡でも,飛鳥の宮殿遺跡にみられるような人頭大の玉石による大規模な敷石が行われていないことにも留意すべき点がある。
小稿では,7世紀の宮殿遺跡の広場に敷かれた玉石による敷石遺構が,この時期に宮殿などで行われた儀式にともなう固有の礼法と強い関連をもったものと推測した。宮殿のほか,石神遺跡のような宮殿関連施設の屋外広場では,多くの儀式が行われた。これには,7世紀には跪伏礼,匍匐礼が行われていたことからも,こうした礼法が宮殿内の敷地整備を大きく規制していたものと推測されるのである。
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