本稿の目的は,テレビドラマ『鈴木先生』の映像分析を通して,ドラマのなかで,「普通」とされる教師や生徒の
表象を明らかとすることにある。このドラマは,一貫して「普通」の教師や生徒を描写しているが,「普通」とい
うカテゴリーを背負った登場人物たちは,個々に「生きづらさ」を感じている。彼らの背負う「生きづらさ」は,
「普通」というカテゴリーを意識し,いかに自分が「普通」でいられるのかを気にするがゆえに生まれるもので
あった。登場人物たちは,「普通」でいることに「生きづらさ」を感じつつも,それでもなお,「普通」でいるこ
とに執着し,「普通」が当然のことであると認識している。けれど,「普通」であるためには,生活のリアリティ
を排除し,あるカテゴリーを「演じる」必要がある。そうしたなか,ドラマ最終話において教室のなかに持ち込ま
れた教師の性交渉,避妊のあり方という話題は,教師と生徒が「普通」を脱却する契機となった。
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