3月11日以降、地震・津波・原発事故に関する衝撃的な報道が列島を駆けめぐり、異常な喧噪と息苦しさが社会に蔓延した。それが一段落すると、続いて堰を切ったように現れたのは、「東日本大震災」「3・11」を画期や転換点として位置づけ、「復興」ひいては「革命」をも声高に論じる言説群であった。あたかもそれらは、人々の哀しみと痛みに満ちた廃墟を自らの欲望の糧として取り込み、消費し、無化してしまう巨大な重機のようにみえた。また、2月にクライストチャーチ近郊で起きたカンタベリー地震をはじめ、スマトラ島沖地震、四川大地震など、他の様々な災害を無自覚に軽視する点でも、私には拭いがたい違和感があった。一体かかる言説群の氾濫は、何を意味しているのだろうか。
多大な心的動揺を被った際、過去に遡ってその原因と現在に至る経過を構築し、情況を整理して不安を押し止め、未来へ一歩踏み出せるようにする――それが、私たち〈ホモ・ナランス〉の持つ〈物語り〉の主たる機能である。近代と前近代とを問わず、かかる〈物語り〉は歴史叙述一般の核をなすが、その本質は、現在の平穏と引き替えに過去を未来へ供犠することにあろう。祭儀が狂騒のうちに繰り返されるものとすれば、それは、「快感原則の彼岸」における糸巻き遊びのようなものといえるかもしれない。いずれにしろその過去に対する破壊力は、連綿たる繋がりのなかにあった人々の生活を一瞬でリセットした、あの津波に匹敵する(あるいは凌駕する)ものであるような気がしてならない。
かかる言説群に、リアリティはあるのか。人々は、社会は、それを必要としたのだろうか。またそもそも、リアリティとは何なのか。災害と物語り、言葉と他者との関係から考えたい。
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