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クエリ検索: "胡堂百話"
2件中 1-2の結果を表示しています
  • ―『報知新聞』文芸欄を視座として
    谷口 幸代
    出版研究
    2009年 40 巻 125-139
    発行日: 2010/03/20
    公開日: 2019/03/31
    ジャーナル フリー

    大正期の野村胡堂は,『報知新聞』文芸欄で,記事の執筆,新聞小説の企画などの編集作業,自らが連載読物を書く創作,と多彩に活動した.胡堂は,記者や学芸部長の活動を通して把握した文壇の動向と読者の好みに基づき,新聞小説において,新しい書き手の充実,作品の質の向上,既成の枠組みに囚われない新しい分野の開拓をめざした.読者と時代に迎合しない大胆な起用と企画力,これは胡堂自身の文学においても礎となった.

  • ――明治三四年盛岡中学校ストライキの事例――
    太田 拓紀
    ソシオロジ
    2018年 63 巻 2 号 43-61
    発行日: 2018/10/01
    公開日: 2021/07/10
    ジャーナル フリー

    本稿は、近代教育黎明期の負の側面ともいうべき明治後期の学校紛擾が、いかなる社会的背景のもとで生じたのかを、盛岡中学校ストライキ(明治三四年)を事例に、学校文化の変容過程に着目して検証した。 学校の史的経緯を辿ると、明治一三年の創立時から、盛岡中学校は藩校由来の地元士族が教員の中心で、当初は儒教的な教育文化が学校を支配していた。しかし、近代的な学問知、教育資格を基盤に新たな教授法で講ずる教員が県外から流入し、文化的摩擦の生じる土壌が形成された。そして、県外出身の英語教員が引き金となり、明治三四年に郷土の教員と外部教員との対立が顕在化した。その際、生徒らは指導法を問題視するなどで郷土の教員に対する排斥運動をおこない、ストライキに突入していった。 生徒の大半が外来の教員に与し、郷土の教員を排斥した理由として、明治三〇年代の進学熱の高まりで、近代的な知と学歴・資格をもつ教員に生徒らの憧憬が傾く一方、士族の身分倫理を支えた儒学を系譜とする伝統的知とその教師の権威が低下していたことが考えられた。さらに、士族から平民へと生徒の社会階層が変化したことで、士族の儒教的な教育文化が色濃く残る学校文化と生徒の階層文化との間に乖離が生じ、教師・生徒関係が不安定になっていた点をもう一つの要因として指摘した。 本事例より、明治後期中学校における学校紛擾の頻発には、教育の近代化に伴う新旧の文化的軋轢が背景にあると考察した。さらに、学校紛擾が人格や個性の結合ではなく、地位や役割に基づく合理化された教師・生徒関係への移行を促す契機となった可能性を示唆した。

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