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クエリ検索: "舞台恐怖症"
4件中 1-4の結果を表示しています
  • 書評
    小笠原 隆夫
    映像学
    1995年 54 巻 108-113
    発行日: 1995/05/25
    公開日: 2019/07/25
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  • ─ トマス・トゥリノによる音楽行為の分類を切り口として ─
    西田 治
    音楽教育学
    2019年 49 巻 1 号 37-47
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/08/31
    ジャーナル フリー

     音楽科の授業では, 音楽を演奏したり, つくったり, 鑑賞したりするのに対し, 生活の中では多くの人々が再生機器による音楽鑑賞を主として行っており, 両者の音楽行為には隔たりがあるようにみえる。しかし, トゥリノによる音楽の領域区分を用いて, 学校の内と外の音楽行為がどのような価値観に基づいているかについて比較すると, 両者ともにサウンドの質の良し悪しで音楽行為を価値づけている点で共通している可能性があることが明らかとなる。そして, その共通する価値観は, 演奏することよりも聴き手にまわる人々を増やすという課題を生んでいる。そのため, より多くの人々が音楽科教育の中だけでなく, 生涯を通して演奏にかかわり続けるためには, その価値観を転換させることが必要となる。それは, 音楽とは「演奏者/聴き手」と分化して行われ, サウンドの質で判断するものであるという価値観を偏重することからの脱却を意味する。

  • ロメール&シャブロルの議論を導き手に
    小河原 あや
    映像学
    2014年 93 巻 23-40,94-95
    発行日: 2014/11/25
    公開日: 2019/07/25
    ジャーナル フリー

      Hitchcock's famous use of long takes and a tracking camera in Rope (1948) was criticized by Truffaut and others as being a rejection of montage. Hitchcock himself considered the film 'pure cinema' - the movement of camera and performers creating new compositions and maintaining continuity. French Nouvelle Vague directors, Rohmer and Chabrol, noted the film's 'sense of continuous space'. This paper examines Rope, in reference to their analysis, and posits that the moving camera creates a moral dimension.

      The film uses long takes for its entire running length, resulting in a tension between the visible (the party) and the invisible (the hidden dead body). The tracking camera inevitably presents the spaces between characters and objects, emphasizes their relationships and implies their inner thoughts.

      Despite its seeming continuity, however, there are nine hidden cuts. Some of them are eyeline matches to represent the moral leader's viewpoint. Others are edited in the black space of a character's back or the upturned lid of a chest. By moving the camera in such moments to exchange two characters' positions, Hitchcock not only creates a 'sense of continuous space' but represents the 'transfer of guilt'. Thus, 'pure' cinematographic technique is used to represent morality.

  • 『ヒッチコック劇場』と映画観客
    木原 圭翔
    映像学
    2017年 97 巻 24-43
    発行日: 2017/01/25
    公開日: 2017/03/03
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    【要旨】
     リンダ・ウィリアムズが2000年に発表した「規律訓練と楽しみ――『サイコ』とポストモダン映画(“Discipline and Fun: Psycho and Postmodern Cinema”)」は、ミシェル・フーコーによる「規律訓練(discipline)」の概念を援用しながら『サイコ』(Psycho, 1960)における観客の身体反応の意義を考察した画期的な論考であり、同作品の研究に新たな一石を投じた。ウィリアムズによれば、公開当時の観客はヒッチコックが定めた「途中入場禁止」という独自のルールに自発的に従うことで物語に対する期待を高め、結果的にこの映画がもたらす恐怖を「楽しみ(fun)」として享受していた。
     しかし、『サイコ』の要である「シャワーシーン」に対しては、怒りや拒絶などといった否定的な反応も数多く証言されているように、その衝撃の度合いや効果の実態については、さらに綿密な検証を行っていく必要がある。本稿はこうした前提の下、シャワーシーンの衝撃を生み出した複数の要因のうち、従来そうした観点からは着目されてこなかったヒッチコックのテレビ番組『ヒッチコック劇場』(Alfred Hitchcock Presents, 1955-62)が果たした役割について論じていく。これにより、先行研究においては漠然と結びつけられていた『サイコ』と『ヒッチコック劇場』の関係を、視聴者観客の視点からより厳密に捉え直すとともに、シャワーシーンの衝撃に大きく貢献した『サイコ』の宣伝手法(予告編、新聞広告)の意義をあらためて明確にすることが本稿の目的である。

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