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クエリ検索: "菊池山哉"
22件中 1-20の結果を表示しています
  • 都市の湾岸再生について
    小林 達明
    日本緑化工学会誌
    2007年 33 巻 2 号 342-343
    発行日: 2007年
    公開日: 2008/06/09
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  • 中野 朝明
    民族學研究
    1936年 2 巻 3 号 745-746
    発行日: 1936/07/10
    公開日: 2018/03/27
    ジャーナル フリー
  • 須藤 清次
    農業土木学会誌
    1987年 55 巻 7 号 670
    発行日: 1987/07/01
    公開日: 2011/08/11
    ジャーナル フリー
  • 荒井 貢次郎
    法制史研究
    1982年 1982 巻 32 号 243-246
    発行日: 1983/03/30
    公開日: 2009/11/16
    ジャーナル フリー
  • 草野 郁
    土木学会論文集
    1989年 1989 巻 406 号 213-222
    発行日: 1989/06/20
    公開日: 2010/08/24
    ジャーナル フリー
    Information about liquefied and not-liquefied sites during past earthquakes is useful for liquefaction potential mapping of wide area. Therefore, inquiry of liquefaction-induced ground failures during the Kanto earthquake was performed for preparing a liquefaction potential map in Tokyo lowland. Interviews with above 300 persons who had experienced the hazard in Tokyo lowland were carried out. Historic liquefaction-induced ground failures are determined from these narratives and the reports concerning the earthquake. Liquefied sites distribute along the rivers and old river beds, and in reclaimed lands. Not-liquefied sites distribute away from the coast or rivers. Liquefied grounds along the rivers consist of sandy deposits containing only a small amount of fines, and the grounds containing considerably fines hardly liquefied. However, the sandy deposits containing fines were prone to liquefaction in reclaimed lands.
  • 伊藤 数美
    大学図書館研究
    1980年 17 巻 97-98
    発行日: 1980/10/31
    公開日: 2018/12/27
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  • 菊池 山哉
    水利科学
    1964年 8 巻 4 号 12-19
    発行日: 1964/10/01
    公開日: 2022/04/10
    ジャーナル フリー
  • 松下 志朗
    経済史研究
    1999年 3 巻 188-192
    発行日: 1999/03/30
    公開日: 2019/03/01
    ジャーナル フリー
  • 宮内 悦藏, 赤堀 英三
    人類學雜誌
    1928年 43 巻 12 号 537-541_1
    発行日: 1928/12/15
    公開日: 2010/06/28
    ジャーナル フリー
  • 菊池山 哉
    人類學雜誌
    1931年 46 巻 5 号 201-206
    発行日: 1931/05/15
    公開日: 2010/06/28
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  • 山口 隼正
    史学雑誌
    1976年 85 巻 5 号 593-599
    発行日: 1976/05/20
    公開日: 2017/10/05
    ジャーナル フリー
  • 遠藤 毅, 川島 眞一, 川合 将文
    応用地質
    2001年 42 巻 2 号 74-87
    発行日: 2001/06/10
    公開日: 2010/02/23
    ジャーナル フリー
    大正時代の中ごろから激しさを増した東京都東部に位置する下町低地の地盤沈下は, 高潮被害の続出や湿地化による疫病罹災の増加等から昭和初期には社会問題に発展した. 一方, 当初, 地殻変動に起因するとされていた沈下原因は, 多くの原因模索の後, 第二次世界大戦終期に地下水の揚水であることが実証され, 昭和30年代半ばから地盤沈下抑止を目的に地下水の揚水規制が施されている. その結果, 地盤沈下は昭和40年代後半から東京都全域にわたり減少する傾向を示し, 昭和50年半ばから沈静状態にある. しかし, 沈下開始から沈静化に至る約70年間, 下町低地の歴史は相続く地盤沈下と洪水・高潮の被害への対応に終始したと言っても過言ではない. 昭和初期における地盤沈下原因の模索, 地下水揚水説の実証, その後の沈静化に至る一連の地盤沈下問題の整理・集約は, わが国の近代科学史, とくに, 公害史のうえで有意義なことと考える. そこで, 本論では下町低地を中心に, 地盤沈下の推移について, その概要を述べる.
  • 菊池 山哉
    水利科学
    1963年 7 巻 3 号 71-86
    発行日: 1963/08/01
    公開日: 2022/05/01
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  • 和田 一範
    水利科学
    2017年 61 巻 5 号 71-101
    発行日: 2017/12/01
    公開日: 2019/02/15
    ジャーナル フリー

    平成28年(2016年)10月30日(日),有吉堤竣工百年の碑が建立された。 竣工百年の碑建立は,新たなスタートである。この碑を前に,昔年の多摩川の水害の大きさ,これに対峙した一連の事件と一大プロジェクトを,後世に語り継いでゆく防災教育の継続的な展開が重要である。

     アミガサ事件(大正3 年〈1914年〉9 月16日)から有吉堤完成(大正5 年 〈1916年〉9 月)までは 2 年間の出来事である。それからさらに 2 年後には,内務省直轄による多摩川の抜本改修が着工(大正 7 年〈1918年〉)となる。 このわが国近代治水事業の創始期において,洪水の被害に毎年悩まされてきた地域の住民とその指導者たち,公的な機関との連携,あるいは確執には,現代の防災にかかる多くの教訓が見いだされる。

     そしてこれら一連の展開を語るにあたっては,やはりアミガサ事件を引き起こした当時の,多摩川の状況をしっかり理解しておく必要がある。 アミガサ事件の直後,大正 3 年(1914年)10月29日付で,御幸村ほか10ケ町村の総代から内務大臣大隈重信に宛てた多摩川沿岸新堤塘築造陳情書には,地域住民の視点からの近年の洪水の原因の分析として, 一.下流ニ架設セル三橋カ一原因 一.(対岸の)築堤及上置腹附カ二原因 一.堤外地ニ果樹密埴カ三原因 一.砂利採掘カ四原因 の記載がなされ,的確な分析で多摩川の洪水の原因を述べ,その分析力は技術者顔負けの内容である。当時の地元住民には,それだけの災害リスクに対する分析力,技術力があったことも大きな驚きである。

     本論文は,この多摩川沿岸新堤塘築造陳情書に記された 4 つの原因に着目をして,アミガサ事件の背景を考察したものである。 この論文は,既報, ・多摩川近代改修にみる,防災の主役,自助・共助と,公助との連携について,2016年 4 月,水利科学 No. 348(第60巻第 1 号) ・有吉堤竣工100年・郡道改良事業を検証する,2016年12月,水利科学 No. 352(第60巻第 5 号) の続編である。

  • 和田 一範
    水利科学
    2017年 61 巻 4 号 38-72
    発行日: 2017/10/01
    公開日: 2019/01/15
    ジャーナル フリー

    平成28年(2016年)10月30日(日),有吉堤竣工百年の碑が建立された。 竣工百年の碑建立は,新たなスタートである。この碑を前に,昔年の多摩川の水害の大きさ,これに対峙した一連の事件と一大プロジェクトを,後世に語り継いでゆく防災教育の継続的な展開が重要である。

     アミガサ事件(大正3 年〈1914年〉9 月16日)から有吉堤完成(大正5 年 〈1916年〉9 月)までは 2 年間の出来事である。それからさらに 2 年後には,内務省直轄による多摩川の抜本改修が着工(大正 7 年〈1918年〉)となる。 このわが国近代治水事業の創始期において,洪水の被害に毎年悩まされてきた地域の住民とその指導者たち,公的な機関との連携,あるいは確執には,現代の防災にかかる多くの教訓が見いだされる。

     そしてこれら一連の展開を語るにあたっては,やはりアミガサ事件を引き起こした当時の,多摩川の状況をしっかり理解しておく必要がある。 アミガサ事件の直後,大正 3 年(1914年)10月29日付で,御幸村ほか10ケ町村の総代から内務大臣大隈重信に宛てた多摩川沿岸新堤塘築造陳情書には,地域住民の視点からの近年の洪水の原因の分析として, 一.下流ニ架設セル三橋カ一原因 一.(対岸の)築堤及上置腹附カ二原因 一.堤外地ニ果樹密埴カ三原因 一.砂利採掘カ四原因 の記載がなされ,的確な分析で多摩川の洪水の原因を述べ,その分析力は技術者顔負けの内容である。当時の地元住民には,それだけの災害リスクに対する分析力,技術力があったことも大きな驚きである。

     本論文は,この多摩川沿岸新堤塘築造陳情書に記された 4 つの原因に着目をして,アミガサ事件の背景を考察したものである。 この論文は,既報, ・多摩川近代改修にみる,防災の主役,自助・共助と,公助との連携について,2016年 4 月,水利科学 No. 348(第60巻第 1 号) ・有吉堤竣工100年・郡道改良事業を検証する,2016年12月,水利科学 No. 352(第60巻第 5 号) の続編である。

  • 兵藤 裕己
    日本文学
    1989年 38 巻 2 号 28-39
    発行日: 1989/02/10
    公開日: 2017/08/01
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    近世の職人仲間でむすばれた講のひとつに、太子講がある。おもに大工・左官などの建築関係の職人によっておこなわれるが、それは、中世の各種職人、「道々の者」たちに担われた聖徳太子信仰のなごりといえるものである。その具体的な原型は、中世の修験・山伏の徒に率いられたタイシの徒にあるだろうか。また、律僧の太子堂に結縁した各種職人や賎民、あるいは、聖徳太子像をまつる一向宗寺内に結集した手工業者や行商人たちも、中世における太子講衆の原像である。たとえば、近世の木地屋が、木地職プロパーにおいて管理・統制される背景には、社会的分業を身分として固定化させる幕府の支配政策があったろう。諸国木地屋のあいだに、小椋谷の『惟喬親王縁起』が(太子信仰を駆逐するかたちで)流布した過程とは、要するに、中世的な「諸職諸道」が分断・解体される過程であり、それは、近世権力による一向宗寺内-そのイデオロギー的中核となった太子講衆-の解体という政治史的事件とも表裏する問題であった。
  • 地球規模の広域調査への適用
    安田 嘉純
    農業土木学会誌
    1987年 55 巻 7 号 663-670,a2
    発行日: 1987/07/01
    公開日: 2011/08/11
    ジャーナル フリー
    環境, 農業, 海洋などのグローバルな理解のためには空間的, 時間的に十分な分解能をもって広域を観測する必要がある。リモートセンシング技術の進歩は経済的な利点を含めて地球のグローバルな現象のルーチン的な観測を可能とするレベルに急速に近づきつつある。また, その能力を用いることにより, 従来不可能であった広域的観測に基づいた全地球システムの科学的理解が可能となる。さらに今後起こり得る地球環境の変動を予測できるようになると期待され, ここでは, 地球環境の変動の監視, 植生や農業の監視, 海洋の物理的性質の観測などについて現状, 将来方向を述ベている。最後に, 衛星による広域観測の技術的問題点についてまとめている。
  • 和田 一範
    水利科学
    2018年 62 巻 1 号 1-27
    発行日: 2018/04/01
    公開日: 2019/05/31
    ジャーナル フリー

    アミガサ事件(大正3年⟨1914年⟩9月15日)と有吉堤(大正5年⟨1916年⟩ 12月18日竣工)の一連の事件の中で,もっとも大きなクライマックスシーンは,神奈川県庁に押し寄せた数100人の大抗議集団の場面,および内務省からの再三の電報による中止命令と,対岸東京側からの連日100人にも及ぶ監視集団の怒号の中で,道路改良工事に名を借りた堤防工事を進めた地元住民の場面である。その後,内務省の調停を受けてこの一大事件は,一気にハッピーエンドの終息へと向かい,有吉忠一知事の譴責処分と,御幸堤防落成式の場での有吉堤の命名で,一大活劇はいったん幕を閉じる。続いて,2 年後の内務省多摩川直轄事業化に向けて大局は動いてゆく。 これら一連の流れには,時の為政者たちの大いなる政策シナリオがある。 この論文は,既報4件の続報である。これまでの論文で一貫して主張をしているのは,防災の主役,自助・共助と,公助との連携が重要であり,そのモデルが大正年間の多摩川で繰り広げられた,アミガサ事件と有吉堤,そして内務省直轄による抜本改修着工に至る一連の顛末にある,ということである。そこには,現代の防災に通ずる多くの教訓が詰まっている。 重要な視点は,一連の事件が,防災の主役,自助・共助から発信され,公助がこれに呼応するかたちで展開してきたことであり,自助・共助と,公助との連携,鉄の結束が生んだ大きな成果であることである。 そこにはヒーローはいない。 地元住民が自ら発信し,共助としての議員団を動かし,公助である様々な行政機関,村役場,郡役所,県庁の役人,県議会,そして神奈川県知事,さらに多摩川直轄化の流れにおいては,東京府側の議員,東京府の役人,東京府知事,そして内務省の役人たち,内務省次官,譴責処分書の発信者である総理大臣大隈重信までが居並ぶ,一連の連携プレーの勝利なのである。 この一連の大活劇の中で,唯一,悪者として登場して去って行くのは,石原健三知事である。しかしこの人は,そんなに治水に理解のない,災害弱者に冷たい小役人ではない。アミガサ事件直後の現地視察から,県議会での対応などに,アミガサ事件の事後処理のシナリオを垣間見ることができる。 有吉知事においても,良く知られた郡道改良事業着工と並行して,多摩川の直轄改修事業化に向けて様々な取り組みを展開しており,この人なりの有吉劇場とも言うべき,ダイナミックなシナリオが見える。 本論文は,アミガサ事件の勃発から,有吉堤着工までの空白の期間,内務省直轄化に向けて,どのようなシナリオが描かれ調整がなされたのか,論考を行ったものである。

  • 大國魂神社八朔相撲祭の起源に着目して
    松本 彰之
    スポーツ史研究
    2016年 29 巻 55-66
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/06/08
    ジャーナル オープンアクセス
    The Ookunitama Shrine in Fuchu City, Tokyo, is a shrine that enshrines Ookunitama no ōkami who is the mikogami, the son of Susanoo. The Ookunitama Shrine used to be a shrine in Kokufu( the capital of the historical Provinces of Japan) that was referred to as Rokusho-no-miya Shrine and Musashi-no-Soja. The Hassaku Sumo Festival is a festival held in the Ookunitama Shrine. The sumo arena in the precincts of the Ookunitama Shrine has a monument built in August 1, 1990. The epigraph says,“ The Ookunitama Shrine Hassaku Sumo is a venerable sumo festival whose Mizuhikimaku curtain was dedicated by the Shogunate for the purpose of encouraging physical activities and which originally started as dedicatory sumo matches to pray for the peace reigns over the land and the huge harvest (of the five grains) in commemoration of the fact that Tokugawa Ieyasu-ko (Lord Ieyasu Tokugawa) made an entry into the Edo Castle in August 1, 1590”.However, currently there is no evidence for the “dedicated Mizuhikimaku curtain” or a document which provides an evidence for the“ purpose of encouraging physical activities by the Shogunate”. Most of the festivals in Japan with the word “Hassaku” are those which have their origin in August 1( August is“ Hachigatsu” in Japanese, while 1 is“ Sakujitsu” in ancient Japanese) that has the significance related to agriculture such as wish for a good harvest and disaster prevention, or those which were started by the feudal lord who gave a special meaning to“ Hassaku.” The Hassaku Sumo Festival was quite a rare case in that it was said to originate from the commemoration of the triumphal entry into the Edo Castle by Lord Ieyasu Tokugawa. This study suggests that Ookunitama Shrine and the Tokugawa Shogunate continued their close relationship, based on the historical examination of sacred treasures kept in the Treasure Hall of Ookunitama Shrine as well as the history and literature on Ookunitama Shrine. And it presents a possibility that these close relationships may have influenced the Hassaku Sumo Festival. These close relationships can be said to have had sufficient influence on Hassaku Sumo Festival at Ookunitama Shrine to be regarded as originating from the commemoration of the triumphal entry into the Edo Castle by Lord Ieyasu Tokugawa.
  • 和田 一範
    水利科学
    2018年 62 巻 2 号 84-126
    発行日: 2018/06/01
    公開日: 2019/07/31
    ジャーナル フリー

    アミガサ事件(大正3年〈1914年〉9月15日)と有吉堤(大正5年〈1916年〉 12月18日竣工)の一連の事件の中で,もっとも大きなクライマックスシーンは,神奈川県庁に押し寄せた数100人の大抗議集団の場面,および内務省からの再三の電報による中止命令と,対岸東京側からの連日100人にも及ぶ監視集団の怒号の中で,道路改良工事に名を借りた堤防工事を進めた地元住民の場面である。その後,内務省の調停を受けてこの一大事件は,一気にハッピーエンドの終息へと向かい,有吉忠一知事の譴責処分と,御幸堤防落成式の場での有吉堤の命名で,一大活劇はいったん幕を閉じる。続いて,2 年後の内務省多摩川直轄事業化に向けて大局は動いてゆく。 これら一連の流れには,時の為政者たちの大いなる政策シナリオがある。 この論文は,既報4件の続報である。これまでの論文で一貫して主張をしているのは,防災の主役,自助・共助と,公助との連携が重要であり,そのモデルが大正年間の多摩川で繰り広げられた,アミガサ事件と有吉堤,そして内務省直轄による抜本改修着工に至る一連の顛末にある,ということである。そこには,現代の防災に通ずる多くの教訓が詰まっている。 重要な視点は,一連の事件が,防災の主役,自助・共助から発信され,公助がこれに呼応するかたちで展開してきたことであり,自助・共助と,公助との連携,鉄の結束が生んだ大きな成果であることである。 そこにはヒーローはいない。 地元住民が自ら発信し,共助としての議員団を動かし,公助である様々な行政機関,村役場,郡役所,県庁の役人,県議会,そして神奈川県知事,さらに多摩川直轄化の流れにおいては,東京府側の議員,東京府の役人,東京府知事,そして内務省の役人たち,内務省次官,譴責処分書の発信者である総理大臣大隈重信までが居並ぶ,一連の連携プレーの勝利なのである。 この一連の大活劇の中で,唯一,悪者として登場して去って行くのは,石原健三知事である。しかしこの人は,そんなに治水に理解のない,災害弱者に冷たい小役人ではない。アミガサ事件直後の現地視察から,県議会での対応などに,アミガサ事件の事後処理のシナリオを垣間見ることができる。 有吉知事においても,良く知られた郡道改良事業着工と並行して,多摩川の直轄改修事業化に向けて様々な取り組みを展開しており,この人なりの有吉劇場とも言うべき,ダイナミックなシナリオが見える。 本論文は,アミガサ事件の勃発から,有吉堤着工までの空白の期間,内務省直轄化に向けて,どのようなシナリオが描かれ調整がなされたのか,論考を行ったものである。

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