飛鳥時代に宮都がおかれた飛鳥には,飛鳥寺をはじめ多くの寺院が建立された。これらの中には未だに寺院を建立した造営氏族が明らかでないものも少なくない。その一つに奥山久米寺がある。奥山久米寺は飛鳥川流域の飛鳥の中心地域に建てられた古代寺院で,この寺院に葺かれた角端点珠形式の軒瓦は,奥山久米寺式とも呼ばれてよく知られている。この寺院は飛鳥寺,豊浦寺の創建期の軒瓦と同笵瓦が出土していることから,蘇我傍系氏族の寺院とみなされている。しかも近年の調査で寺名を記した墨書土器が出土したことから,小治田寺と呼ばれたことが想定されるようになり,その造営氏族も小墾田臣が有力視されている。
しかし,これまでの研究では,この寺院に葺かれた軒瓦を製作した瓦窯と造営者との関連の検討が,なお不十分なように思われる。そこで小稿では,奥山久米寺の造営にあたって軒瓦を供給した大和国天神山瓦窯,山背国と河内国の境にある平野山瓦窯,播磨国高丘瓦窯と蘇我傍系氏族との関連を重視して検討した。
奥山久米寺の創建時に葺かれた軒瓦の一つであるIIIA型式軒瓦を製作した天神山瓦窯は,大和国宇智郡坂合部郷に設けられたとみられる瓦窯である。ここと最も深い関連をもったとみなされるのは,蘇我傍系氏族のうち境部臣摩理勢とみてよい。また,奥山久米寺のIIID型式を供給した平野山瓦窯は,四天王寺の瓦を生産した上宮王家の瓦窯である。この上宮王家と最も関係が深かったのも,推古天皇の後継者として山背大兄王を強く推したことからみて境部臣摩理勢であったと推測される。これらの点からみると,奥山久米寺を建立したのは小墾田臣を想定するよりも,
蘇我馬子
の弟に想定されている境部臣摩理勢の可能性が最も高い。このように奥山久米寺が境部臣氏によって造営されたとすると,飛鳥の中心部にあたる飛鳥川流域に広がる空間には,山田道を主要幹道として蘇我氏関連の豊浦寺,飛鳥寺,和田廃寺,奥山久米寺,山田寺が計画的に建立されたことが推測される。また飛鳥時代の古代寺院に葺かれた軒瓦には,奥山久米寺をはじめ他の寺院の同笵軒瓦が顕著にふくまれている。このような同笵軒瓦の分有関係がもつ歴史的意義にも言及した。
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