本稿では、大江健三郎『洪水はわが魂に及び』(新潮社、一九七三年九月)を一九七二年二月に起きた浅間山荘事件との関わりから捉え直し、同時代の文脈から「白痴」のジンがもつ役割を分析することで、彼の評価と不可分に結びつく作品の評価を一新すること、並びに、彼に仮託された作者の創作意識を明らかにすることを目的に論じた。本論において、浅間山荘事件にみられる民衆、報道陣、警察の声が一つに溶け合うあり方と、作品に描かれる複数の声が共振し押し寄せる「洪水」のあり方とが対応している点を指摘し、そうした合一的な言葉がもつ暴力性を相対化する人物としてジンが描かれていることを論じた。その上で、複数の声や音を聴き分けるジンの聴く者としてのあり方が、作者の創作意識と密接に結びついていることを明らかにした。
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