本稿は, 1990年代後半にみられる日本の地域統合戦略―多国間の貿易投資自由化交渉からアジアを中心とした地域経済統合を重視へ―について, 応用一般均衡 (Computable General Equilibrium: CGE) モデルを利用したシナリオ分析を基に検討している。シナリオとしては, 日本とシンガポールで取り交わされた新時代経済連携協定を含む9通りの自由貿易協定 (FTA) を想定し, 従来から試算されてきた関税・非関税の撤廃効果だけでなく, 企業活動の多国籍化・直接投資を通じた技術レベルの収斂効果と熟練労働の国際移動がもたらす生産力移転と送金効果についても織り込んだ。
分析の結果, 従来から貿易を通じた代替関係が指摘されているアセアン諸国と中国の間については, 両者が日本を含むFTAに参加することで厚生を改善することが出来る可能性が示された。また, 「アセアン+3」というFTAは, 何れの二国・地域間 (日本+アセアン, アセアン+中国, 日本+中国) から始めても, 第三の参加国・地域の厚生水準を落とすことなく実現することができると示された。従って, 各国は交渉順位に拘ることなく進めることが可能であると推察される。さらに, アセアン諸国と中国のFTAが日本を含まずに実施される場合, 資本蓄積の鈍化により日本の厚生水準が低下してしまうため, 日本としてもアジアとのFTAを進めることが合理的な選択となろう。なお, このようなアジア広域のFTAが, 何れの場合にもアメリカの経済厚生を悪化させないとの結果も得られたが, これは, アメリカがアジア内のFTAに反対する経済合理性を持ち合わせていないことを示唆している。
また, 日本国内で生じる変化を観察すると, FTA相手国の選択や自由化対象産業・商品の選択が比較優位の変化の方向を決定し, 最終的には必要となる産業間要素移動 (労働と資本) の量を決めることになる。これは, 他の事情に等しい場合, 社会全体としては純利得があるとしても, FTAよって調整を余儀なくされる社会的階層・集団が変化することを意味しており, それを与件とした政治過程の動きを検討する基礎的な判断材料になる。さらに, 関税・非関税障壁の撤廃だけでなく, 各国の要素成長に伴う集約度の変化が比較優位構造を変化させていくことに鑑みると, FTAを通じてこの変化を加速させたり, 遅らせたりすることが人為的に可能となり, いわゆる国内の構造調整・改革問題とFTAが深く関連していることを示唆している。例えば, 農業分野に講じられている各種の保護的な措置を撤廃することによって, 効率改善の利益が発生すると期待される所以である。
しかしながら, この点に関連して農業分野の自由化について別途試算をおこなった結果は, この議論―市場歪曲的措置の撤廃が厚生を改善する―を必ずしも支持していない。確かに, 農業分野の自由化は大きな効率改善をもたらすが, 交易条件の変化によって海外にトランスファーが発生すると同時に資本蓄積の鈍化が発生し, 事後的な実質GDPは低下してしまう。
但し, これを結論とするには時期尚早であり, 今後着手すべき最初の課題としては, 理論的な可能性として指摘される生産面の要素集約度の変化や需要面の偏向だけでなく, この点はモデルの収束演算過程を含めた再検証をおこない, どの要素・ルートが結果に対して大きく寄与したのかを精査する必要がある。
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