1.はじめに
1997年の韓国
金融危機
の際に,それにともなう社会問題として非常に大きく取り上げられたものの一つが失業問題であった.この時期に失業者が農村に移住し,農業を始めるというケースが報道された.
金融危機
で失業者が増加した際に,どれくらいの人々が農村に移住し,どのような経緯で農業に従事するという選択肢を選んだのだろうか.
本稿では,
金融危機
前後の「帰農者」,すなわちその他の業種をやめ,農業を始めた人々がどのような属性を持ち,どのような状況で農業を選び,その後いかなる状況にあるのかについて、農家の収入が高く「帰農」者が比較的多い慶尚北道星州郡を事例として,
金融危機
の際の韓国農村の社会変動の一面を探りたい.
2.現代韓国における「帰農」
韓国において「帰農」という語は,若干曖昧な使い方をされるが、基本的にはひろく再就農者,新規就農者が「帰農」というカテゴリーに含められ、農家の子弟が都市へ出て働き,その後に故郷に帰って後継者になるような場合も,「Uターン帰農者」などとよばれることがある.
韓国全体で見ると,帰農農家は次第に増加している.特に本報告が注目する
金融危機
前後の状況をみると,
金融危機
直後の1998年には,前年(1997年)が1841世帯だったのに比して,6409世帯に急増している.
しかしながら,ここに表れた数字は,韓国全体で考えた場合,きわめて微々たる人数である.これは全体に大きな影響を与えるほどの数ではない.そう考えると,
金融危機
の際に失業者が続々と「帰農」したのではなく,選択肢の一つとして存在したと言うことだろう.
このような帰農者はどの地域に多いのかを見ると、全体として帰農者は京畿道,慶尚南北道に多いことが理解され、慶尚北道の中では,本稿で扱う星州郡が最も多いことが見て取れる.
3.
金融危機
前後の星州郡の農業と帰農者
韓国東南部の大都市大邱に近い,韓国慶尚北道星州郡は,ブランド化した特産物であるチャメ(瓜)の施設栽培に特化した地域であり,収入が多い農村地域として認識されている.このような地域の特質が,前述した帰農者の多さと関連していると考えられる.
金融危機
後の帰農者に対するインタビューによるとその多くは高卒学歴をもつ星州郡出身者であり,一旦星州郡外の都市に出た後,故郷に帰るという,「農村→都市→故郷農村」のケースの「Uターン帰農者」である.
帰農の経緯や動機については,近隣の大都市である大邱でブルーカラー業種や,サービス業に従事していた者で,
金融危機
の影響で失職したか,居づらい状況になり故郷に帰り,その際に農業に従事することを選択たしたケースが多い.また両親を養いつつ,両親が行っていたチャメ栽培中心の農業を引き継ぐという傾向が見て取れる.
土地の所有と,帰農時の資金や土地所有などの問題について見ると,Uターン帰農の場合と,新規就農者で大きな違いがある.Uターンの場合は,両親の土地をそのまま利用したり,あるいは引き継いだりするケースがほとんどで,両親とともに働く場合も多い.また帰農時の資金についても,Uターンの場合には,親の土地や施設を受け継ぐために,借入金等が少なくて済むか,ほとんど負担しなくてよいケースもある.
この傾向は実は
金融危機
以前のこの地域への帰農者と大差がない。
金融危機
後のUターン帰農者は帰農動機が
金融危機
に関わるだけで,他は大きな違いがなく,場合によってはいずれ何かあれば故郷に帰る選択肢をもっていた人々が,若干早くその選択肢を選んだと言うことかもしれない.
4.まとめ
まず
金融危機
の際の韓国全体の帰農者は,全国的に考えた場合,それほどの数ではない.したがって失業者が増大した際の十分な受け皿になったとは考えにくい.しかしながら星州の場合,おそらくは他の地域よりも帰農者が多く発生したものと考えられる.
すなわち,チャメという特殊な作物があり,ある程度の収入が期待できるので「帰農」が可能であり,何かを契機に故郷に帰り,農業の後継者となることができる環境がすでにあったと思われる.それが都市においてブルーカラー,あるいはサービス業に従事していた人々が
金融危機
の際に取りうる一つの選択肢となったと思われる.
抄録全体を表示