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クエリ検索: "難波宮"
380件中 1-20の結果を表示しています
  • 栄原 永遠男
    大阪歴史博物館研究紀要
    2015年 13 巻 1-9
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
    研究報告書・技術報告書 フリー
    聖武天皇は、神亀₃年に
    難波宮
    に行幸し、藤原宇合を知造
    難波宮
    事に任命し、
    難波宮
    の造営に乗りだした。しかし、聖武天皇は、この行幸の前に、播磨国の印南野に行幸し、そののち
    難波宮
    にまわっている。この連続する二つの行幸には関連があるとみるべきである。聖武天皇の即位初期の行幸は、いずれも自らの皇位の正当性を明示する場所を目的地としているので、印南野行幸も同様に考えることができる。印南野にはかつて中大兄皇子が行き、祥瑞である豊旗雲を見ている。瑞雲の著名な例として、壬申の乱のさなか名張で大海人皇子が見たものがある。聖武天皇は、この両方を知っていたはずであるが、そのうち印南野に行幸したのは、その地が、節日や鎮魂祭・大嘗祭などに供される柏の採取地であったからである。印南野の柏がこれらの王権にかかわる祭祀に使用されるのは、かつてこの地の豪族と天皇家との間に婚姻関係があり、贄が貢納されていた伝統による。聖武天皇は、祥瑞を見るために天皇家とゆかりの深い印南野に行幸し、天智・天武天皇の後継者たることを自他ともに示した上で
    難波宮
    に行幸し、その皇位の正当性を象徴する宮として
    難波宮
    の造営を命じたのである。
  • 李 陽浩
    建築史学
    2015年 65 巻 61-78
    発行日: 2015年
    公開日: 2018/07/05
    ジャーナル フリー
  • 植木 久
    建築史学
    2015年 65 巻 140-148
    発行日: 2015年
    公開日: 2018/06/20
    ジャーナル フリー
  • 研究の現状と展望
    木原 克司
    人文地理
    1987年 39 巻 5 号 424-444
    発行日: 1987/10/28
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
  • 石上 英一
    史学雑誌
    1978年 87 巻 2 号 232-233
    発行日: 1978/02/20
    公開日: 2017/10/05
    ジャーナル フリー
  • 杉本 厚典
    大阪歴史博物館研究紀要
    2014年 12 巻 31-43
    発行日: 2014年
    公開日: 2022/06/04
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本稿では
    難波宮
    跡でこれまでに検出されている複廊、単廊、一本柱列、築地などの区画施設を集成してそれらの規模に見られる特徴を検討した。そしてこれまでに指摘されているように前期
    難波宮
    において複廊の梁行の広狭に規則性があることを確認した。また後期
    難波宮
    の複廊は内裏が掘立柱建物で梁行8尺、大極殿が礎石建物で梁行8.5尺を測り、建物様式、規模において差があるほか、基壇幅が広いことから朝堂院南面も複廊であったと推測した。そしてそれは大極殿のものより下回る規模となることから、後期
    難波宮
    の複廊梁行にも規模の差があると考えた。さらに平安時代の回廊が様々な儀式において用いられていることから、飛鳥・奈良時代の回廊の梁行差も、建物の格式や荘厳さの演出と同時に、各種の儀礼や降雨時の臨時の座といった実際的な側面を反映したものであったと推測した。
  • 理系分野との連携・遺構の認識などを中心に
    伊藤 純
    大阪歴史博物館研究紀要
    2015年 13 巻 75-85
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/10/30
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 栄原 永遠男
    大阪歴史博物館研究紀要
    2020年 18 巻 1-18
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/09/18
    研究報告書・技術報告書 フリー
    考古学的な調査研究により、後期
    難波宮
    の中枢部には壮大な宮殿建築群が建てられており、京域には条坊制が敷かれていたことが明らかになった。これにより、後期
    難波宮
    ・京には多くの人々が住み、繁栄していたというイメージが出来上がっている。しかしそれらはあまり根拠がなく、遷都や行幸時と平時とにわけて、再検討が必要である。大粮申請文書その他の分析によると、各官司はそれぞれ独自の建物や院を持つことはなく、合同庁舎・合同院の一角にコーナーを保持していた。合同庁舎・合同院は、一、二の官司が仕丁とそれを指揮監督する使部などの雑任を配置する形で保守されていた。後期難波京の京域については、貴族が邸宅を持っていたが常住することはなく、家令に管理させていた。また使部や家令が家を持ち家族が住んだ可能性はあるが、正方位の家がびっしり立ち並ぶ状態ではなかった。以上は平時の場合であるが、遷都や天皇が行幸してくると状況は一変した。多くの官人が来て官僚機構も機能し、貴族やその家族も居住した。
  • 松原 弘宣
    史学雑誌
    1995年 104 巻 6 号 1151-1159
    発行日: 1995/06/20
    公開日: 2017/11/30
    ジャーナル フリー
  • 鈴木 亘
    日本建築学会論文報告集
    1982年 319 巻 132-139
    発行日: 1982/09/30
    公開日: 2017/08/22
    ジャーナル フリー
    On the previous paper and this paper, we have investigated Daigoku-den, Chodo and Daian-den, Nan-en or Nan-in, of Heijo Imperial Palace, and considered the relations between them. The main results obtained from this study are as follows : 1) The original Daigoku-den and Chodo of Heijo Imperial Palace were built to the north of the Suzakumon (the main gate of the Imperial Palace). They are supposed to have been used as the Daigoku-den and the Chodo, until the transfer of the capital to Kuni-kyo (740 A. D.). Daigoku-den, the supreme hall in Heijo-kyu, was used for the national ceremonies like the Gensho-Choga (New Year's audiences) and the enthronement. Chodo was used as halls for official ceremonies and banquets, and also for administering State affairs, alike Chodo of Fujiwara-kyu. 2) It is supposed that Daian-den was built to the east of the original Daigoku-den, and the southern part of the Daian-den was called the Nan-en (the Imperial garden) in the reign of the Emperor Shomu. Daian-den of Heijo-kyu is considered to have followed that of Fujiwara-kyu and Aska-kiyomihara-kyu which were the supreme hall of Naicho, or the residential part of the Imperial Palace. Nan-en seems to have been used for private banquets. 3) Daigoku-den of Heijo Imperial Palace was removed and reconstructed in Kuni Imperial Palace in 740. Although the Emperor Shomu transferred the capital again to Heijo-kyo in 745, Daigoku-den was not reconstructed in the place of the former Daigoku-den in Heijo Imperial Palace. After the capital was transferred to Heijo-kyo, the Daian-den is supposed to have been used as Daigoku-den. 4) Daigokuden-nanin or Nan-in described in the chapter of the Empress Koken of Shokunihongi is considered to have been originally the Nan-en in the reign of the Emperor Shomu. In the reign of the Empress Koken, the Chodo which was located to the north of the Suzakumon was used as Chodo, or the Halls of State. 5) It can be assumed that, as a result of the repairs of Heijo-kyu from 760 to 762, the Daian-den was remodeled into Daigoku-den and the Nan-in into Chodo. Therefore the precinct of the original Chodo seems to have been mainly used for private banquets.
  • 佐藤 隆
    大阪歴史博物館研究紀要
    2016年 14 巻 47-58
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
    研究報告書・技術報告書 フリー
    特別史跡大坂城跡に指定されている徳川期再建大坂城の地下には、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で焼亡した豊臣期大坂城があり、さらにその下位には大坂本願寺の中枢部があったと推定されている。本稿では、この地区の南半部から出土している5~7世紀の土器をもとに、上町台地の最北端に位置して大阪市内で最も標高の高い地点であるこの地区が、古代からいち早く開発され、5世紀の法円坂倉庫群や7世紀の前期
    難波宮
    の時期においても権力の中枢となる施設がおかれていた可能性が高いことを指摘した。
  • 推定京域および歴史的評価を中心に
    佐藤 隆
    大阪歴史博物館研究紀要
    2021年 19 巻 37-52
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/03/05
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本稿は、2019年に筆者が発表した論文のふたつの主題である難波津と難波京のうち、後者の難波京について、さらに検討を加えたものである。特に、京域に含めるかどうか見解の分かれる大川南岸一帯の地区について、現在得られている発掘調査の成果を見直し、この地区がほかの地区よりも古い時期に開発された歴史的特徴に着目して、あらためて条坊として位置づける評価を行なった。この地区のみ、従来の説である900尺を基準とする地割ではなかった可能性を提示している。  近年、史料からの検討によって後期
    難波宮
    や同時期の難波地域のイメージに見直しを迫る重要な見解が提出されている。本稿で明らかにした考古資料からみた推定難波京域の実態は、こうした研究成果との比較検討が可能な内容であることを示した。
  • 若林 徹, 小島 一成, 長江 貞彦
    図学研究
    1999年 33 巻 Supplement 号 91-96
    発行日: 1999年
    公開日: 2010/08/25
    ジャーナル フリー
    近年, デジタル技術の進歩に伴い歴史的な無形文化財を再現し保存するデジタルアーカイブ構想が進められている.従来のデジタルアーカイブは, 現存する文化資産を保存・記録することがほとんどである.この「灘波の京と宮」などのような現存しない文化資産においては, いまだ手がつけられていないのが現状である.このような現存しない文化資産は, 資料をもとにある程度の人間の指示と推定が必要である.また, 小・中・高校のインターネットの整備にあたり教育の分野でもWeb上での教育を目的とするコンテンツの必要性が高まってきている.そこで, 本研究では大阪の古代の都であった「難波京と宮」をVRML (Virtural Reality Modeling Language) を用いて画像データベースの構築, また, HTML (Hyper Text Markup Language) またはXML (Extensible Markup Language) を用いてWeb上で教育を目的とするコンテンツの制作を試みた.この画像データベースとは, 大化の改新 (大化元年・645) 後に難波の地で構築された難波の宮遺構に対するVR博物館 (バーチュアルミュジアム) を創出するものである.この画像データベースと
    難波宮
    の時代背景と人物・歴史などを利用することで教育的なコンテンツの制作に可能性が高まり, Web上での情報化した文化財について学ぶことができ, その時代背景と人物像を把握することができることで一般化の利用の可能性を高めることができた.
  • 難波宮・京の“副都説”を問い直す
    佐藤 隆
    大阪歴史博物館研究紀要
    2023年 21 巻 1-18
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/06/03
    研究報告書・技術報告書 フリー
    筆者は近年に行なった
    難波宮
    や推定難波京域に関する検討の成果をもとに、大川南岸と四天王寺周辺とにおける遺構・遺物の二極集中をふまえ、前者の地区でその分布が時代とともに西へ拡大することや、さらに北の旧中津川流域や、三国川など北摂山系からの河川流域まで開発が進んでいることを発掘調査成果から示した。奈良時代後半以降の難波での賑わいが上町台地の宮殿周辺からすでに大川南岸に移っているという観点から、関連する史料を参考にしつつ、難波津や摂津国府の位置推定などを検討した。少なくとも奈良時代には起 源を遡ることができる、難波での重要な祭祀儀礼である八十島祭や斎王の解除儀礼が、形は変化しつつも王権の祭祀として存続していたことからも、古代の難波は常に海を意識して発展してきたことがわかる。そうした理解をもとにして、
    難波宮
    ・京が“副都”と位置づけられることへの疑問を呈した。
  • 飛鳥宮跡との比較を中心に
    佐藤 隆
    大阪歴史博物館研究紀要
    2022年 20 巻 21-40
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/04/27
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本論では、前期
    難波宮
    の内裏前殿が孝徳朝の建造ではなく天武朝まで遅れるとする説について、その前提となる近年の飛鳥宮跡Ⅱ期遺構を飛鳥板蓋宮、Ⅲ-A期を後飛鳥岡本宮、Ⅲ-B期を飛鳥浄御原宮とする宮名比定を出土土器の型式やその出土状況から再検討し、Ⅱ期を後飛鳥岡本宮、Ⅲ期を飛鳥浄御原宮と結論づけた。その結果、内裏前殿の建造が遅れるという説も否定するに至っている。天武朝に殿舎の建替えや新たな建造が想定されるのは、主として天武12年(683)の複都制の詔によるものであるが、考古学的な根拠は乏しい。筆者は前期
    難波宮
    の造営とその後の殿舎の建替え時期について、既往調査の出土資料を検討することにより、650年前後から造営が行なわれ、それが660年代まで続くなかで一部の建替えが行なわれた可能性を示した。さらに加えて、天武朝の複都制において前期
    難波宮
    が組み入れられる背景について言及した。
  • 栄原 永遠男
    大阪歴史博物館研究紀要
    2016年 14 巻 1-14
    発行日: 2016年
    公開日: 2022/05/21
    研究報告書・技術報告書 フリー
    前期・後期
    難波宮
    の造営には膨大な資材が使われたはずであるが、その実態はほとんどわかっていない。材木についても、どの地域のものが使用されたのかという点については、先行研究がない。本稿では、
    難波宮
    造営に特徴的に使用されたコウヤマキに注目することにより、播磨国や西摂地域の材木が使用された可能性があることを示した。この地域の大河川を筏で運ばれた材木は、海洋筏によって難波まで運漕され、
    難波宮
    の造営その他に使われるとともに、淀川をさかのぼらせて、平城京や平安京およびその周辺で使用された。播磨国や西摂地域からの材木の流通を新たに考慮することにより、それが集散する難波地域の経済的位置・都市的機能を再検討する必要が生じる。
  • 佐藤 隆
    大阪歴史博物館研究紀要
    2017年 15 巻 1-18
    発行日: 2017年
    公開日: 2022/05/14
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本論では、難波地域と飛鳥地域における土器の編年研究について現時点の成果を紹介した後、それぞれの土器の並行関係を詳細に検討し、暦年代を推定した。その結果、各々の段階ではどちらの地域の土器が質・量の面で優っているか、それがどのように推移するのかを明らかにすることができた。難波地域では7世紀第3四半期に良好な多くの資料が得られており、人々の活動が盛んで、宮域より外側へも開発が進んでいる。一方、同時期の飛鳥地域は良好な資料が少なく、7世紀第2四半期とは異なって低調に見える。反対に、7世紀第4四半期には難波地域では宮域周辺の土器が激減し、飛鳥地域では急激に土器が増えていく。こうした両地域の土器に見える流れによって、人々の動きが最も活発なところ—すなわち政治の中心—の変動が示されるとすれば、『日本書紀』が記す内容とは異なる歴史的事実の存在を認識する大きな手がかりとなる。
  • 村元 健一
    大阪歴史博物館研究紀要
    2015年 13 巻 11-24
    発行日: 2015年
    公開日: 2022/05/28
    研究報告書・技術報告書 フリー
    孝徳朝難波長柄豊碕宮と考えられる前期
    難波宮
    は、調査の進展により、宮内の状況はほぼ明らかとなった。一方、起伏に富んだ上町台地上に築かれたこともあり、周辺域の様子はあまり明らかでない。課題として、京の存在、朱雀大路の有無ということが挙げられるが、いずれの問題も宮城の南方域の実態解明という点に集約される。本稿では7世紀の倭、中国の都城のあり方を検討し、この問題を考察する。結論として、7世紀半ばの段階で難波に長大な朱雀大路をつくる必然性はなく、京域については自然地形による制約から宮城の西南方、上町台地脊梁部に開発が集中し、東南方はあまり開発が進まず、宮城南方は中軸線を挟んで東西不均衡な景観であったことを指摘した。ただし、台地上の区画は自然地形を無視して正方位を意識しており、新たな王都の誕生を予感させるものであった。
  • 栄原 永遠男
    大阪歴史博物館研究紀要
    2019年 17 巻 25-40
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/10/25
    研究報告書・技術報告書 フリー
    日本古代に「複都制」という「都」もしくは「京」を複数置くという制度があったとすることは、1967年に提起されて以来、ほとんど疑われることなく、自明の前提とされてきたが、その理解をめぐって議論は混乱してきた。「宮」は複数併存するもので、「京」は「宮」に外延部がついたものであるから、これも併存する。しかし「京」が併存すると、天皇の所在地を明示するために、天皇の居る「京」を「都」と称し、強調して「皇都」とも呼んだ。この観点で「京」「都」の変遷を検討すると、天武天皇の晩年を除いて「都」が併存することはないし、それを示す史料も存在しないことが明らかとなる。「複都制」は、天武朝に一時期実現が目指されただけで、それも観念的なものにとどまり、その後引き継がれることはなかった。
  • 都市計画基本線の検証
    須股 孝信
    土木史研究
    1991年 11 巻 269-280
    発行日: 1991/06/05
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    (その1) で提唱した都市計画基本線 (以下、基本線と呼称) 存在の検証として、基本線設定の時期, 目的, 使用尺度, ならびに測線設定の精度等を明らかにした。
    古墳等建造物の位置を定める場合の普通的論理である幾何学的思考「位置設定の原理」について述べ、畿内に点在する陵・著名古墳を対象にして、位置設定の原理から予想される古墳位置と基本線の関わり, 古代の大和に設けられた古道と基本線の関わり、等についで検討し次の結論を得た。
    (1)基本線設定の時期は4世紀で、(2)設定の主たる目的は領地の地理・地形の把握を意図する地図作成のための18里方格網の設定にあり、(3)大和の古道,上ッ道・中ッ道・下ッ道・横大路は方格綱設定の一環として基本線設定と同時期に計画された可能性が強く、(4)7世紀造営の前期
    難波宮
    中軸線の位置は方格網設定のための幾何学的な基準点に置かれ、(5)それらの基準尺度は尺29.2cm~29.4cmが使用され、(6)驚嘆すべき高精度の測量が実施された。
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