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クエリ検索: "鳴尾競馬場"
5件中 1-5の結果を表示しています
  • 堀山 志朱代
    Journal of the Mass Spectrometry Society of Japan
    2019年 67 巻 1 号 47-51
    発行日: 2019/02/01
    公開日: 2019/02/15
    ジャーナル フリー
  • 新宅 賀洋, 原田 理恵, 永藤 清子
    日本家政学会誌
    2009年 60 巻 4 号 401-407
    発行日: 2009年
    公開日: 2011/10/12
    ジャーナル フリー
    The "Fundamental Law of Food and Nurture" was passed in 2005 and shows the importance of considering regional foods and the culture of dietary habits. Our interest is how to promote food education that adopts regional foods in traditional dishes and in cultivating dietary habits. The history of cultivating strawberries in the Naruo region and the changes in strawberry cultivars was therefore studied. Strawberry production grew from the Taisyo to Showa eras in the Naruo region as a subsidiary farming business. Strawberries were recognized as an indispensable seasonal food for residents in the surrounding areas. The kind of strawberry produced in Naruo is specified and there is a growth plan for the future. We will further study documents on how strawberries were eaten and how strawberry products were made in the Taisho era.
  • 八木 則行
    都市住宅学
    2017年 2017 巻 97 号 67-71
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/06/07
    ジャーナル フリー
  • 岸川 俊太郎
    日本近代文学
    2014年 91 巻 33-48
    発行日: 2014/11/15
    公開日: 2017/06/01
    ジャーナル フリー
    社会から距離を置き、反時代的姿勢を強めていく荷風の大正期は、<江戸回帰>ないし<江戸趣味>時代と称される。しかし、この時期に荷風が発刊した雑誌『文明』、『花月』に連載された『毎月見聞録』には、荷風と同時代との関わりが刻まれている。本論の目的は、『毎月見聞録』を手掛かりに、同時代の荷風の文学活動を再検討することで、荷風の大正期をあらためて捉え直すことにある。『毎月見聞録』を精緻に分析することで、荷風がどのように同時代と向き合っていたか、そして、『毎月見聞録』が大正期の荷風文学においてどのような役割を果たすものであったかが具体的に明らかにされるはずである。さらに、『毎月見聞録』は『断腸亭日乗』とも執筆の期間が重なる。両者の比較から日記をめぐる荷風の文学的営為についても新たな視座が示されることになるだろう。
  • ―明治末期~昭和初期の「青年らしさ」「純真」の言説に注目して―
    西原 茂樹
    スポーツ社会学研究
    2013年 21 巻 1 号 69-84
    発行日: 2013/09/30
    公開日: 2016/08/04
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は、明治末期から昭和初期にかけての甲子園野球関連言説を読み解き、当時において「甲子園野球」という独特の対象が構築されていく有様を明らかにすることである。
      「純真」は1920~30年代の甲子園野球関連言説において頻繁に使用された用語である。これは当初は主催者である新聞社により、選手や関係者が努めて遵守すべき「標語」として位置づけられており、必ずしも甲子園野球のあり方そのものを表現するものではなかった。しかし1920年代半ば以降、様々な論者が最高峰たる東京六大学野球と対比しつつ甲子園野球を言説化していく中で、「純真」は六大学野球とは一味違うこのイベントの魅力を表現し得る用語として捉え直され、その結果、それを核として定型化された一連の「物語」が構築されることとなった。
     そこから窺えるのは、存続の危機に晒された明治末期の野球界が生き残りをかけて確立させた「規範」としての「青年らしさ」が、草創期の甲子園大会の運営においても重要な前提となっていたこと、そして昭和初期に商業化の一途を辿る六大学野球への批判が拡大する中で、「青年らしさ」を正しく体現し得る「他者」として甲子園野球を捉える見方が定着し始めたことである。
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