九州北部を流れる遠賀川は過去度々氾灘を繰の返し、近世
黒田長政
が福岡藩初代藩主として部後、その治水、かんがい用水、物資輸送の目的から公水路としての堀川運河の堀さくが計画された。
堀川は北九州市寿命を起点に折尾を経て洞海湾に至る延長10.1km、平均幅11mの人工運河で、1621(元麹7)年に着工されたが3年後長政の死去で中断し0、127年後第6代藩主継高によって1750(寛延3)年に再開され、岩山の切ぬき、水門の設置などの難工事を経て1762(宝暦12)年に一応の完成をみたが、取水口の上流への移設などによって全工事が完成したのは、1804(文化元)年である。
爾後は漢水防止、かんがい用水の確保による米の生産量増大、物資の輸送特に筑豊炭田の開発とともに石炭の輸送に大きく寄与した。しかし明治中期の鉄道敷設後は石炭の輸送は逐次陸運に切り換えられ、1939(昭和14)年頃には殆んど水運の利用はなくなり、戦後の石炭産業最盛期には洗炭汚水で荒廃にまかされ、生活下排水路と化し往時の面影はなくなった。
しかし、エネルギー革命による筑豊炭田の使命が終った1975(昭和50)年以降遠賀川の水が清浄化するとともに、近時の環境保全意識の高まりから護岸の改良工事も施工されつつあり、往民の遺構保存の気運も活性化し、その2湾生が期待されている。
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