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クエリ検索: "1970年代の日本"
226件中 1-20の結果を表示しています
  • *岩田 彩子
    日本デザイン学会研究発表大会概要集
    2019年 66 巻 D8-01
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/06/27
    会議録・要旨集 フリー

    本研究は、戦後日本のインダストリアルデザインの歴史をまとめ、検証することを目的としている。調査方法は主にJIDAが発行した機関誌を中心とした文献調査とした。
    1970年代は生活スタイルの多様性が花開いた時期である。そしてデザインの分野においてもそれは同様であり、また多様な生活スタイルを実現させたのもデザインの力であった。
    それでは今日の日本で、デザインは正しく文化として根付いているだろうか?
    本稿では、

    1970
    年代の日本
    のインダストリアルデザインを、生活への浸透という視点で検討する。

  • 綿貫 喆, 松原 与四郎, 都築 正和, 榊原 欣作, 村松 篤良, 市河 鴻一, 三浦 哲夫, 松本 謙一, 関 紀夫
    医科器械学
    1979年 49 巻 12 号 565-577
    発行日: 1979/12/01
    公開日: 2021/01/29
    ジャーナル フリー
  • 金 容度
    産業学会研究年報
    2001年 2001 巻 16 号 105-115,164
    発行日: 2001/03/30
    公開日: 2009/10/08
    ジャーナル フリー
    Previous studies on the Japanese IC industry have mainly focused on the period since the 1980s. Moreover, studies on IC production before 1980 are rare. To fill in these blanks in the history of research in this area, I investigate the automatization of mass production in the Japanese IC industry during the 1970's. For this paper, I interviewed a former engineers of Toshiba and NEC who direct promoted or were involved in the automatization of mass production of ICs in 1970's.
    The automatization of mass production in the Japanese IC industry started from the assembly process of IC production which had largely depended on the hands of female laborers. It had some characteristics, different from the automatization of production in other manufacturing industries in Japan. For example, the automatization of production in the Japanese IC industry was only weakly influenced by the Oil Crises. And, the number of laborers in the Japanese IC industry rose in 1970's, in spite of automatization.
    Automatization of production in the Japanese IC industry in 1970's was incremental. The incremental automatization made “learning” or the experience of maintenance engineers more important, and there was a good circularity between automatization of mass production and quality control.
    In the end, automatization of production contributed significantly to improvements in the productivity of labor, quality improvements, and pushing costs down. In particular, in late 1970's, big establishments turned out more advantageous in achieving higher productivity of labor than small and medium-scale establishments. In addition, systems of shift working were introduced extensively due to the automatization of mass production. In turn, these systems affected the share of female in employees in the Japanese IC industry, cost cutting, and the improvement in the productivity of labor.
  • 田中 丹史
    東京医科歯科大学教養部研究紀要
    2019年 2019 巻 49 号 25-35
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/06/28
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
    1970
    年代の日本
    の医の倫理論を振り返ると、澤瀉久敬は公害問題への対応を説くなど、医師―患者関係に還元されない視点を有していた。武見太郎は福祉国家の到来により、人間のより良き生存が問われることになると述べた。また砂原茂一は医学研究を社会の視点からチェックすることを主張していた。中川米造は、科学であると同時にそれに還元されない医学の特徴を踏まえる必要性を説いた。さらにヴァン・R・ポッターの著作『バイオエシックス』に触れ、人類の生存に関する議論も医の倫理論の中で行っている。以上を踏まえると、
    1970
    年代の日本
    の医の倫理論では1980年代以降の生命倫理が行っていた議論がすでに確認できること、また人間のより良き生存という環境倫理に関するような議論も行われていた点が特徴であると解される。
  • ――『宝島』,『Made in U.S.A. catalog』,『ポパイ』,『ブルータス』を事例に
    小森 真樹
    出版研究
    2011年 42 巻 47-68
    発行日: 2012/03/20
    公開日: 2019/03/31
    ジャーナル フリー

    1970
    年代の日本
    を代表する若者雑誌である『宝島』『ポパイ』などを事例として,日本のアメリカナイゼーションの変容を考察した.各編集関係者が雑誌に与えたコンセプトの違い,広告経営モデルが誌面に与えた影響,読者による読み替えなど,「送り手」と「受け手」のダイナミズムを分析することで,日本の「アメリカ」観が,対抗文化のような思想的理念から娯楽的な消費対象へと変容していく過程を明らかにした.

  • 1970年代の日本医療機構の考察
    松田 亮三
    日本医療経済学会会報
    2016年 32 巻 1 号 17-27
    発行日: 2016/03/01
    公開日: 2017/09/15
    ジャーナル オープンアクセス
    医療機構を集合的行為と共通の目的によって舵取りしていく過程を、医療機構の統治のあり方(ガバナンス)の問題と位置づけ、皆保険体制成立後の1970年代を中心に日本における医療供給についての統治のあり方を検討した。そこでは、価格の定められた拡大規制の緩やかな市場と多様なアクターが関与するネットワーク調整が認められた。
  • 郡司 賀透
    日本科学教育学会研究会研究報告
    2019年 34 巻 1 号 11-14
    発行日: 2019/11/30
    公開日: 2019/11/27
    研究報告書・技術報告書 フリー

    本研究は,

    1970
    年代の日本
    の中学校理科における応用科学的内容の選択を対象としたものである.とくに,学習指導要領における「化学工業」の取扱いに焦点を当てて,各種議事録を分析した.その結果,当初,創造性の育成及び主力産業に関する知識伝達の意図で,「化学工業」を導入する意見がみられた.やがて,自然科学の基礎的内容を重視する論調のなかで,生活単元への批判,他教科との関連といった理科教育の論理及び技術革新による陳腐化の加速など化学工業自体の特性などを理由として,「化学工業」が消えていった事実を明らかにした.

  • *大久保 英哲
    日本体育学会大会予稿集
    2019年 70 巻
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/12/20
    会議録・要旨集 フリー

     

    1970
    年代の日本
    学生三大駅伝とは、箱根駅伝、伊勢駅伝、それに能登駅伝をさした。能登駅伝は全国の有力校が集まり、箱根駅伝、伊勢駅伝を凌ぐ3日間、26区間、341.6キロを走破する、当時最長、最大規模を誇った日本三大学生駅伝であった。また3日間(3回)連続出走できる特色ある競争規定を持ち、日本一過酷なレースとも言われた。しかしながら1968年から1977年まで、わずか10年で廃止され、「幻の駅伝」となっている。その設立と廃止に至る経緯、および日本一過酷なレースの実態に迫りながら、日本陸上競技史およびスポーツ史上の位置づけを明らかにする。(主要参考文献、大久保英哲『箱根駅伝を超えようとした幻の「能登駅伝」』、能登印刷出版、2019、ほか)

  • 村西 寿一, 古藤 洋, 黒岩 重和
    日本内科学会雑誌
    1989年 78 巻 12 号 1789-1790
    発行日: 1989/12/10
    公開日: 2008/06/12
    ジャーナル フリー
    空腸転移というまれな転移形式をとり,小腸重積をきたした成人睾丸腫瘍の1例を経験したので若干の文献的考察を加えて報告する.症例は24才の男性.約1年前より右睾丸の腫大傾向に気づいていたが,無痛性のため放置していた.組織型は一部に卵黄嚢癌を混じた絨毛上皮癌で,入院時血清中human chorionic gonadotropin(HCG)が著明に上昇しており,剖検標本での免疫組織化学的検討よりHCG産生腫瘍であることが確認された.
  • 堀田 蕗敏, *安齋 利典
    日本デザイン学会研究発表大会概要集
    2017年 64 巻 B7-04
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/06/29
    会議録・要旨集 フリー
    本研究の目的は、「魅力的な昔風のデザイン」を「クラシックデザイン」として捉え、定義することでデザインの普遍的な魅力を抽出することである。目的を達成するために調査・分析を行い、クラシックデザインを視覚化し、メソッドを作成した。次に、そのメソッドを使って実際にデザインを行った。そのことでメソッドの有用性を確かめるとともに、クラシックデザインが現代においても実現できることを示した。クラシックデザインが確立されれば、デザインを行う上でのひとつの指標となり、デザイン行為自体の幅を広げることにもつながるはずである。
  • *中島 弘二
    日本地理学会発表要旨集
    2019年 2019s 巻 S604
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/03/30
    会議録・要旨集 フリー
    近年の「人新世」をめぐる議論では、もはや「人間−自然」の素朴な二分方では現実に生起するさまざまな環境問題を捉えきれなくなったことが指摘され、自然と人間をめぐる新たな関係のあり方が模索されている。本発表では、
    1970
    年代の日本
    におけるいくつかの環境運動の検討を通じて、このような「人新世」の時代における環境運動の新たな可能性を模索することを目的とする。それは、自然が人間によって一方的に破壊されたり、保護されたりするのではない、両者の存在論的な結びつきに対する認識と、そうした結びつきが破壊されることに対する危機感を基盤とするものであるだろう。
  • 中辻 啓二, 韓 銅珍, 山根 伸之
    土木学会論文集
    2003年 2003 巻 741 号 69-87
    発行日: 2003/08/22
    公開日: 2010/08/24
    ジャーナル フリー
    1960年
    1970
    年代の日本
    の急激な経済成長にともなって, 水環境問題は全国的規模で深刻な状況に陥った. これに対して陸域から流入する有機汚濁量を制限する総量規制施策が実施された. COD (化学的酸素要求量) が指標として採用され, 削減対象になっている. 本研究では低次生態系水質予測モデルを適用し, 大阪湾における削減・規制施策が水質保全に及ぼす影響を1950年から2020年に亘って予測した. 結論から言えば, 総量規制の対象項目にCODのみならず, 窒素もリンも付け加えるべきである. その理由は, 窒素やリンはCODの内部生産に直接的に係わるからである. この種の排水規制施策と富栄養化対策, ならびに環境を再生する施策をあわせながら, 政策を展開することが好ましい.
  • 藤井 伸勝, 佐々木 春明, 後藤 隆太, 池内 隆夫, 甲斐 祥生, 石鳥 直考, 益山 恒夫, 井上 克己, 斎藤 豊彦, 吉田 英機
    昭和医学会雑誌
    1997年 57 巻 5 号 435-439
    発行日: 1997/10/28
    公開日: 2010/09/09
    ジャーナル フリー
    1985年から1994年までの10年間に経験した昭和大学藤が丘病院泌尿器科41例および昭和大学病院泌尿器科31例, 計72例の精巣腫瘍について臨床的検討を行った。精巣腫瘍の平均年齢は35.2歳であり, セミノーマ群は38.5歳, 非セミノーマ群は30.8歳であった.主訴は陰嚢内腫瘤が68例 (94.4%) と最も多く, 有痛性陰嚢内腫瘤が16例 (23.5%) にみられた.組織分類ではセミノーマが43例 (59.7%) , 非セミノーマが29例 (40.3%) であり, 病期分類ではセミノーマはStage I: 38例, Stage IIA: 3例, Stage IIB: 0例, Stage III: 2例, 非セミノーマはStage I: 17例, Stage II: A: 1例, Stage H B: 3例, Stage III: 8例であった.治療法は, セミノーマStage Iでは, 精巣摘出術に加え放射線療法が行われてきたが, 最近では精巣摘出術のみとし経過観察している症例が増えていた.Stage II以上のセミノーマには精巣摘出術に加えて原則として化学療法および放射線療法または後腹膜リンパ節郭清術が行われた.一方, 非セミノーマStageIは, 精巣摘出術後に化学療法, 後腹膜リンパ節郭清術, 放射線治療が追加された.Stage II以上の非セミノーマには全例に化学療法を行い, 後腹膜リンパ節郭清術, 放射線治療が追加された.10年生存率は全体では98.5%であり, セミノーマは100%であった.非セミノーマはStage I, IIA, IIBは100%であったが, Stagem IIIは80.0%であり, Stageが高いほど予後不良の傾向にあった.
  • ─1970年代における方法的内省の再考─
    佐藤 方宣
    経済学論集
    2024年 84 巻 1 号 2-21
    発行日: 2024/03/29
    公開日: 2024/04/08
    ジャーナル フリー

    1970
    年代の日本
    では,近代経済学者たちの間で方法論的基礎についての反省(内省)が広がった.そこには同時期のアメリカのラディカルズの異議申し立てとの共通点と相違点が見出だせる.後に佐和隆光はこの動向を「日本のラディカルズ」と呼び,アメリカのラディカルズが経済学の価値前提を問うたのに対し,日本のそれは方法論的反省に留まったと評した.本稿はこの佐和の「日本のラディカルズ」という視角を補助線に用い,1970年代日本での方法論的内省という議論空間の成立について検討し,当時の議論には狭義の方法論に留まらない経済学の価値前提への問いや新たな「公正」の探求もまた見いだせたことを明らかにした.

  • 木屋 千恵子, 若木 邦彦, 前田 宜延, 岡田 英吉
    日本臨床細胞学会雑誌
    1997年 36 巻 1 号 62-65
    発行日: 1997/01/22
    公開日: 2011/11/08
    ジャーナル フリー
    乳児精巣に発生した卵黄嚢腫瘍 (yolk sac tumor) の捺印細胞診を経験したので報告する.患者は生後3ヵ月の男児で, 右陰嚢部の腫大を認め, 術前の血清AFP値は64,200ng/mlと高値で, 術後10ヵ月で正常化した.捺印細胞診では, 上皮様結合の細胞集塊やシート状配列の細胞集団を認めた.細胞質は明るく泡沫状, 核は類円形ないし楕円形で大小不同があり, クロマチンは増量し, 核小体は1~2個で大きい.細胞質内外にはライトグリーンに濃く染まる球状物 (硝子滴) を認め, PAS反応陽性であった.組織学的には, 腫瘍細胞は嚢胞状・網目状の配列を示し, 糸球体様の構造を呈すSchiller-Duvalbodyやジアスターゼ耐性PAS反応陽性の硝子滴を認めた.免疫組織化学的所見では, 腫瘍細胞の細胞質にAFP, α1-antitrypsin, cytokeratin (AE1/AE3) が陽性で, α-smooth muscle actin, EMA, Ki-1は一部の腫瘍細胞に陽性, hCG, CEA, CA125, vimentin, placentalA1-Pは陰性であった.細胞質のライトグリーンに濃く染まる硝子滴が本症に特徴的所見の一つであると思われた.
  • 七〇年安保前後の東京と沖縄
    村井 良太
    年報政治学
    2017年 68 巻 2 号 2_122-2_148
    発行日: 2017年
    公開日: 2020/12/26
    ジャーナル フリー

    1960年代から

    1970
    年代の日本
    では保守長期政権下にもかかわらず 「革新自治体」 が全国に広がった。ここでは事例研究の一方法である政治史を用いて, 佐藤栄作政権 (1964 ~ 1972) が革新自治体の隆盛にどう向き合ったのかを, 特に重視された東京都と琉球政府/沖縄県に注目して分析した。明らかになったのは, 第一に, 保守中央政府・陣営も革新地方政府・陣営もともに日米安保条約が再検討期を迎える1970年を重視していた。第二に, 同じく双方とも, 政治・行政の科学化と社会開発を共通目標としていた。第三に, 佐藤政権は予想される70年安保や沖縄返還という困難な課題と向き合う中で革新地方政府を地域住民の代表として彼らと協働した。そして第四に, 革新自治体は複合的性格を持っており, 1970年以降, ローカル・オポジションの拠点から市民参加や自治体改善運動の場へと変化していった。

  • 阿曽 佳郎, 鈴木 和雄, 須床 洋, 中原 正男, 鈴木 明彦, 増田 宏昭, 牛山 知己, 畑 昌宏, 太田 信隆, 大見 嘉郎, 大田原 佳久, 田島 惇
    日本泌尿器科學會雑誌
    1988年 79 巻 7 号 1248-1253
    発行日: 1988/07/20
    公開日: 2010/07/23
    ジャーナル フリー
    浜松医科大学泌尿器科において過去10年間に経験した睾丸腫瘍40例に対して統計学的検討を行った.
    全例高位除睾術ののち, セミノーマに対しては主に放射線治療を, 非セミノーマに対しては化学療法を施行した.
    Kaplan-Meier 法による実測5年生存率はセミノーマ88%, 非セミノーマ67%であり, 両者に有意差は認められなかった.
    セミノーマにおいては主訴発現より睾丸摘出までの期間による生存率の差はみられなかった. しかし, 非セミノーマにおいては主訴発現より2カ月以内に除睾術を受けた症例は他の症例に比べて有意に高い生存率を示した. また, 絨毛癌の有無による生存率の差はみられなかった.
    非セミノーマにおいては血清LDH値, HCG値の高い症例ほど予後は不良であったが血清HCG-β値, AFP値については, 生存率に影響を与えなかった.
    シスプラチンを含む化学療法を受けた症例は, シスプラチンを含まない化学療法を受けた症例に比べ高い生存率を示したが, 統計学的に有意差は得られなかった.
  • イランにおける工業化住宅の研究(その1)
    メイサム マスミ, 石田 壽一
    日本建築学会計画系論文集
    2010年 75 巻 658 号 2817-2825
    発行日: 2010/12/30
    公開日: 2011/03/02
    ジャーナル フリー
    The objective of this study is to disclose the evaluation indexes of industrial housing in the Building and Housing Research Center (BHRC). The intension of this paper is to understand the order of evaluation indexes regarding the industrial houses by analysis of BHRC expertise during 1970's. This study is based on the analysis of a plan regarding the importing industrial houses and expertise about 4 different housing systems. As the result the most important evaluation indexes for BHRC was efficiency of houses including technical and local needs. But some element of production system such as period of assembly, modularity and material of structure were part of evaluation indexes in BHRC during 1970's.
  • 益岡 隆志
    言語研究
    2001年 2001 巻 120 号 135-140
    発行日: 2001/12/25
    公開日: 2007/10/23
    ジャーナル フリー
  • *朴 恵淑
    日本地理学会発表要旨集
    2017年 2017a 巻 S101
    発行日: 2017年
    公開日: 2017/10/26
    会議録・要旨集 フリー
    1970
    年代の日本
    の高度掲載成長を支えた1960年代の日本初の四日市石油化学コンビナートからの大気汚染によって環境が破壊され、尊い命が失われた四日市ぜんそく(四日市公害)の過去・現在・未来を見据え、環境と経済とのバランスからなる持続可能な社会創りの有効なツールとしての「四日市公害から学ぶ四日市学」は、人間と自然(環境)との関係を探る地理学の大命題となる。
    四日市公害訴訟原稿側唯一の存命者である野田之一氏は「四日市市は、四日市コンビナートの誘致によって結局は損した。」と語り、四日市公害の写真や資料記録者であった故澤井余志郎氏は「公害問題は科学と数値だけでは説明しきれない。四日市公害を簡単に言うと、せんぞく・異臭魚・自然と環境破壊の3点セットであった。」と語った。四日市公害裁判を担当した裁判官の唯一の存命者である後藤一男氏は「裁判官は判決文にてものを申す。」と言いながらも「正直、四日市公害訴訟が一審で確定されるとは思えなく、あの裁判は最後までいくと思った。そのためにもしっかりした判決文を書かなければという信念があった。当時、3歳と5歳の子どもがいて、これ以上汚れた環境を残したくないといった信念があった。」と振り替えた。
    四日市公害から学ぶ「四日市学」は、2000年4月に三重大学の人文社会科学・自然科学・工学・医学を網羅する学問横断的総合環境学として構築され、その後、日本地理学会環境地理学研究グループとの連携によって積極的に展開し、現在まで9冊の「四日市学」関連の書籍を出版した。2004年4月には、三重大学教養教育において四日市公害から学ぶ「四日市学」が開講され、毎年、新入生の約1/5に当たる250名を越える学生が受講している。
    四日市公害から学ぶ「四日市学」は、人間学(生き物学)・未来学・持続可能な開発のための教育(ESD)・アジア学からなる。「四日市学」は、四日市公害を過去の負の遺産から未来へ正の資産に替えるため、地域の産官学民との連携及び国際モニタリングによる科学的評価に伴う国際環境協力のスキームの構築、グローバル環境人材を育成する専門家による認識共同体としての役割を担う。
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