植民地支配期のベンガル農村史の研究においては, 近年, エリート農民論としての「ジョトダール論」, 「農民層分解論」, 「地帯区分論」などがはなやかに論じられてきた.しかし, そうした「理論」は必ずしも実証研究に立脚しているとは言い難く, 論争が空回りする徴候も見えてきたように思われる.本稿は, ベンガル中央部の上層農民に着目して, 彼らがどのようにして土地経営をしていたのか, 初心に返り, 出来る限り具体例に基づいて解明しようとした試みである.主要史料としては, 1860年の「藍委員会報告」が用いられる.委員会における70余名の農民の証言は, 農民が自分自身について自ら語った記録としてきわめて貴重なものである.
ここで上層農民というのは, 特権的な条件で土地を保有する農民層 (ガンティダール等), 村落首長層 (マンダル等) およびその他の富裕なライオットの三つを含めた農民層のことである.彼らの土地経営には次のような特徴が見られた.
上層農民は, 通常, 土地を下級ライオットに転貸してその大保有地を経営した.ただし, 下級ライオットの耕作条件はかなり緩やかなものであり, 北ベンガルの上層農民の下でひろく見られた刈分小作制とは, はっきり区別されなければならない.
保有地全体を転貸する者は, ガンティダールなどの一部に限られていたと考えられる.多くの者は, 大なり小なり自留地を維持し, それを耕作するための犁と耕牛を所有していた.自留地で恒常的な労働力として用いられたのは, 家族労働を別にすれば, 「サーバント」等と英語史料に現れる常雇の農業労働者である.彼らは前貸金を借り受け, 主人に従属していた.
刈分小作制がこの時代に中央ベンガルで一般的だったとは考えられない.
上層農民の間からは, 積極的な経営志向を示す者が出現していた.彼らのなかには, 金貸し, 商業, 投機にとどまらず, 伝統的な精糖業者の間に割って入るかたちで, 精糖所の経営に乗り出す者も存在した.
以上, 大局的に見れば, 19世紀後半の上層農民の間には, 地代生活者化しようとする傾向と, 商業的農業を追求し, 農村工業にも手を染めようとする傾向が併存していたと捉えることが出来る.ベンガル借地法等の植民政策の性格も, このような在地有力層の動向との関連で評価されなければならないであろう.
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