Inquiries into Philosophy
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2024 Volume 2024 Issue 51 Pages 115-131

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はじめに1

本稿は,マルティン・ハイデガー(1889–1976)の前期から中期思想における中心概念としての超越(Transzendenz)についての考察を行うものである.超越の概念は,「全体における存在者(Seiendes im Ganzen)」と共に主題になる概念であり,これまでにもさまざまに論じられてきた問題系でもある2.本稿では,超越によって可能になる志向性を手引きにし,超越がどのようなものでありうるのかということについての形式的な規定を提示する.その上で超越の具体的な内実に迫り,超越概念が,ハイデガーが後期において主題的に取り上げることになるロゴス(λόγος)概念と接続される可能性を指摘する.このような可能性は,管見の限り,従来の研究においては指摘されてこなかったものである3.これに対して本稿で提示される解釈が正当なものと見なされるならば,私たちは抽象的な「超越」という概念を一つの経験的な事柄へと,すなわち先取り的に述べるならば,言語の獲得へと引き付けて論じることができるようになるだろう.本稿は以上の事柄のための足場となる研究である.

超越についての規定は1928/29年冬学期講義『哲学入門』において次のように述べられている.超越において「乗り越えるものは現存在であり,乗り越えられるものは全体における存在者であり,それへと乗り越えがなされる先は世界である」(GA27, 240)4.この三つの契機によって超越は表現される.本稿においては,まず世界内存在に具わる志向性(Intentionalität)を確認し,志向性が公共的なものであることを明らかにする(第一節).そして志向性を可能にする超越がどのようなものであるのかを形式的に規定した後で,超越によって何がなされるのかを明らかにした上で(第二節),ハイデガーの提示するロゴスが超越と同様の役割を持つことを示唆する(第三節).既に述べたように,これによってこれまであまり論じられたことのない超越と公共性あるいは言語の獲得の結びつきが示唆されれば,本稿の目標は達成されたと見て良いだろう.

1.志向性と公共性

志向性から議論を展開しよう.志向性と超越の関係については,ハイデガーは「志向性は超越の認識根拠であり,超越は志向性の存在根拠である」(GA24, 91)と述べており,志向性から考えることで,超越という一見抽象的な問題を解明するための糸口を掴めるように思える.本節ではまず志向性の意味についての基本的な確認を行い,次いで志向性と公共性の問題を結びつけて論じようと思う.

α) 志向性の予備的考察

手始めに,現存在の存在体制である「世界内存在」と「志向性」について確認しておきたい.まず「世界内存在」について,ハイデガーは世界内存在に含まれている「in」に着目し,それを現存在ではない存在者(内世界的な存在者)に含まれている「内世界的(innerweltlich)」から区別している.彼によれば,世界内存在に含まれる「in」とは住むことや滞在することを意味し,従って「内存在(Insein)」は「…のもとに住んでいること」,「…に親しんでいること」を意味する(SZ, 54).このことから,形式的に述べれば,世界内存在とは「世界のもとに住んでいること」,「世界に親しんでいること」であると言える.

では「世界に親しんでいること」とは何を意味するのか.「世界に親しんでいること」とは,現存在が道具的な連関を内包する環境世界に精通しているということ,道具の使用に際して常にその存在者がどのように使用されるのかを了解してしまっている,あるいはそれが自分の為そうとしていることに対してどの程度役立つのかを了解してしまっていることである.一方,現存在ではない内世界的な存在者は道具の連関に精通しているわけではなく,その有用性について理解することもない.また,その存在者は互いに「接触する」ことがない,とハイデガーは述べる.彼の挙げる例を借りるならば,壁と机が物理的な距離において密接しているとしてもそこに接触はない.或るもの同士が接触するためには,その存在者の少なくとも一方が内存在を備えていなければならないのである(SZ, 56).現存在(世界内存在)と非現存在的な存在者(内世界的な存在者)の相違は,内存在の有無によって他の存在者と接触することができるかどうか,他の存在者と関わることができるかどうかという点にあると言える.

このような他の存在者へと関わる作用は,現象学において「志向性(Intentionalität)」(GA24, 80f.)と呼ばれる.志向性によって意味されていることは,「あらゆる作用が或るものへと関わること」であり,例えば知覚について言えば「知覚とは,或るものについて知覚することである」ということになる.それゆえ差し当たり,この志向性には志向(Intentio)と志向されるもの(Intentum)という二つの契機が含まれていると言える.

このとき注意すべきことは,この志向性における志向する「主観」と志向される「客観」の全ての関係を,「一つの心理的主観と一つの物理的客観という二つの事物的な存在者」(GA24, 84)の関係として捉えてはならないということである.むしろ志向性を理解するために肝要なことは,「客観への志向的関係は,客観が事物的に存在することによって,そしてそのことと共に,初めて主観が与えられるのではなく,主観はそれ自身において志向的に構造づけられている」(ibid.)ということを見て取ることである.幻覚を例に取ってみよう.或る幻覚に襲われた人がいたとして,その人が教室の中に数頭の象を見ているとする.このとき,その人以外にとっては勿論象など存在しているはずもなく,他の人々からすれば象という客観は幻覚に襲われた人の知覚にのみ与えられていることになる.しかし,その人は,たとえ幻覚の中であれ,象について知覚していたのであり,象へと関わっていたのである.これらのことから「志向的な関係は,客観が現実に事物的に存在することによって初めて成立するのではなく,[……]知覚すること(関わること)それ自身のうちにある」(GA24, 85)と言えるのである.このような関係は,常識的レベルでの想起や表現においても見出せるだろう.

ここまでの志向性についての確認から,志向性が極めて主観的なものであるように思われるだろう.事実ハイデガーも「志向性とは,諸々の関わる態度として,自らを関わらせる主観の一つの構造である」(ibid.)と述べており,「志向性は自らを関わらせる主観のあり方において,この関わりの関わり性格としてある」(ibid.)と述べている.しかしハイデガーは,志向性をそのように完全に主観的なものとして理解することに対して注意を促す.それというのも,確かに志向的な関係は主観的な圏域において生じることではあるが,既に確認したように,志向性には「志向されるもの」という契機が含まれているのであり,知覚のように何らかの対象を持つ場合には,志向されるものとして主観に関係づけられる客観を想定せずにはいられないはずである.ハイデガーはこの点を考慮して「志向性は,普通の意味での客観的でも主観的でもない」(GA24, 91)と特徴づけ,それ以上の考察については一旦断念している.「私は,どのようにして内的な志向的体験が外的なものに至るのかを問うことはできないし,また問うてはならない」(GA24, 89).なぜなら,「志向的に関わる態度それ自身がそのものとして事物的な存在者へと自らを関わらせるから」(ibid.)であり,「そのうちで超越が生じているものこそが志向性」(ibid.)だからである.

ここで肝要なのは,志向性は或るものへと関わることという性格を持ち,それが単に主観的なものではなく,また客観的なものでないということ,そして,この志向性が超越に基づいているということである.超越がどのようなものなのかは後続の議論に委ねるとして,次項にて引き続き「志向されるもの」の問題を検討してみよう.

β) 志向性と公共性

上記の箇所の少し後で,ハイデガーは再び志向的関係における「志向されるもの」についての検討を始める.既に述べたように,知覚のような現実的なもの(事物的な存在者)との関わりにおいては,その現実的なものそのものが含まれていなければならないはずである(Vgl. GA24, 95).知覚において知覚されているものとその被知覚性(知覚されていること)はどのように関係するのだろうか.ハイデガーと同様に,知覚されているもの,つまり事物的な存在者の規定から確認してみよう.

ハイデガーはまず,事物的な存在者を次のように規定している.「最も広い意味での事物的な存在者は或る一定の適所性(Bewandtnis)を持っている」(GA24, 96)5.研究室にある机は,研究に必要な資料を置き,その上でコンピュータを使用して調べ物をするために十分なだけの広さを備えている.椅子はその机に合った高さに調節され,長時間座っても腰が痛くならないようにクッションが付いている.道具はこのような有用性に基づいて,道具連関の内で適切な位置を占める.私たちが事物的な存在者を見出すのは,「一つには使用物」,つまりは道具として,または「純粋な物質的な物としての窓に属している,固さ,重さ,延長といった諸規定」(ibid.)としてである.ここで述べられている事物的な存在者の規定は,内容的には『存在と時間』における内世界的な存在者の規定と同様のものであるように思われる.

この文脈において事物的な存在者についての理解を更に進めるために,「制作すること(Herstellen)」という観点を導入したい.ハイデガーは「制作すること」という現存在の行為を,現存在が他の存在者に関わる際の根源的な態度と見做す(Vgl. GA24, 152f.).つまりハイデガーにとって,「制作すること」という現存在の他の存在者との関わりは,世界内存在としての現存在が備える志向性の根源的なあり方ということになる.では,この「制作すること」という観点において,「志向されるもの」とはどのようなものなのだろうか.

こちらへと立てること(制作すること)が意味するのは,接近可能なものへのより狭いあるいはより広い範囲の内へと,こちらへと,ここへと,現のうちへともたらすことであり,それゆえ,制作されたものはそれ自体において立っており,それ自体で立っているものとして見出されるという仕方であり続ける,つまり眼前に存在している(vorliegend)のである.人間の諸々の関わる態度の最も身近な範囲において差し当たり且つ不断に眼前に存在しているもの[……]は,我々が不断に関わりを持っている使用物の全体であり,この固有な意味に従って,それら自身が相互に働き合って存在している諸物の全体,使用される道具と不断に利用される自然の所産6,つまり家や庭,森や野原,太陽,光や熱である.(GA24, 153)

この引用において,制作されるものとは「それ自体で立っているものとして見出されるという仕方であり続ける眼前に存在しているもの」である.そして結局のところ,この「眼前に存在しているもの」は道具的な存在者であると述べられている.

ハイデガーは,志向性には上で挙げた二つの契機(志向,志向されるもの)の他に「志向されるものの在り方についての理解」(GA24, 101, 159)が含まれていることを指摘しつつ,次のように述べる.

「制作しつつ関わることが自らを関わらせる存在者〔志向されるもの〕についての存在の理解は,[……]その存在者を,それ自体で解放されるべき自立的なものとして捉えている.制作しつつ関わることにおいて理解される〔存在者の〕存在は,出来上がったものがそれ自体で存在すること(Ansichsein des Fertigen)である」(GA24, 160).

制作における存在者,つまり道具が「それ自体で存在する」というのは,理解し難い事柄であるように思われる.なぜなら,「それ自体で」ということは通常,(制作者を含む)主観から独立に存在しているものを想起させるからである.

ハイデガーがこの「それ自体で存在する」ということをどのような意味で用いているのかを理解するためには,次の引用を見てみる必要があるだろう.「制作されるべきものは,[……]制作しつつ関わることに含まれている制作意図に応じて,出来上がったものとしていつでも使用にとって意のままになるようなものとして把握されている」(GA24, 161).そしてそれに続けて,「制作されるべきもの(Herzustellendes)は,[……]こちらへ立てられるもの(Her-gestelltes)として,つまりこちらの現存在の範囲のうちへと立てられるものとして考えられている.その現存在の範囲は,[……]それ自身が制作者との内的な本質連関のうちに立っている使用者の圏域でありうる」(ibid.).この二つの引用において,「それ自体で存在する」と言われる出来上がったものは「使用にとって意のままになるもの」,つまりは道具として存在し,なおかつ,そのような出来上がったものとしての道具は少なくとも二人以上の現存在が共有する公共世界のうちに立てられることとなる.

このことと合わせて示唆しておきたいことは,この制作という現存在の志向的態度には現存在が関わる存在者に対する「放免性格(Entlassungscharakter)」と「解放性格(Freigabecharakter)」(GA24, 160)が潜んでいると言われている点である.これらの性格が意味するのは,制作されたもの(道具)はそれが出来上がったときには制作の連関から放免されること,そしてその道具が今度は使用の連関の中へと組み込まれていくことである.この制作から使用への連関の移行は,日常的な場面においては目立たず,むしろ後者の連関のみが認知されることも少なくない.出来上がったものは「もはや制作連関に束縛されていないだけでなく,[……]初めからこのような連関から放免されるべきものとして理解されている」(ibid.)のである.

以上の考察から私たちは,「志向されるもの」がどのようなものなのかということと,前節で確認した「志向性は,普通の意味での客観的でも主観的でもない」(GA24, 91)というハイデガーの主張が意味するということについて一つの解釈を与えることができる.まず「志向性が主観的でも客観的でもないこと」について,ハイデガーが第一に注意を促していたのは,志向的関係において一つの主観と一つの客観の関係として考えてはならないということであった.つまり,志向性における「或るものへと関わること」は主観の側の作用であると考えられたのである.そして第二に,とはいえ,ある種の志向性(例えば知覚)は実際に対象を持っており,志向的経験が与えられている以上,客観の側を捨象することは難しいだろうということが指摘された.

これに対して私たちは今,ハイデガーの議論に従って,「志向されるもの」とは,一つの主観としての現存在から独立に,公共世界において措定されたものであるということができる7.それというのは,「制作」という観点において,「志向されるもの(制作されるもの)」は常に道具として意のままになるものであり,そのことは制作されるものが「制作」の観点と同時に「使用」の観点からも志向されているということを意味する.つまり,制作されたものの背景には,それに関連する公共的な「製品世界(Werkwelt)」が潜んでいるのである8.たとえ,靴職人が一人で黙々と靴を作っているとしても,その制作された靴は他者を想定して作られた靴であり,公共世界のうちで遭遇した存在者であるはずである9.志向的関係において「志向されるもの」は既に公共世界において分節され,措定されており,その意味で孤立した主観に対する外部から規定されているのである.このことを踏まえれば,「志向性は,普通の意味での客観的でも主観的でもない」というハイデガーの主張は,志向性において「志向されるもの」は単に客観的なものではなく,かつ一主観を越え出た公共世界において措定されるという意味で主観的なものでもない,という意味で理解できるだろう.

本節において私たちが獲得した解釈は,超越の問題へとどのように接続されるのだろうか.私たちは最終的に超越と公共性との接地点を言語としてのロゴスのうちに見るのであるが,差し当たって次節において本論文における中心概念である「超越」の内実について検討しよう.

2.超越とは何か

α) 超越はどのようなものであり得るのか

『存在と時間』の文脈においては,超越は,世界の内部で出会われるすべての存在者に先立って世界が存在するという意味で,世界が現存在にとって既に開示されているという事態を指す術語として登場している(Vgl. SZ, 366).そして従来の超越問題に代えてハイデガーが提示する超越問題,すなわち「何が世界のうちで存在者と出会うことを可能にしているのか」(SZ, 365)という問題は,「世界の脱自的–地平的に基づけられた超越へと遡ることによって」(ibid.)解答されるとされる.「世界10の超越」というのは若干馴染みのない表現ではあるが,この現象がどのようなものなのかを明確にすることが肝要であるように思われる.次の引用を見てみよう.

[……]世界は或る「主観的なもの」である.世界が主観的なものである,ということは,現存在という存在者が世界内存在という仕方で存在する限り,世界は現存在に属しているということである.世界は「主観」がいわばその内側から「外へと投射する」或るものである.[……]現存在それ自身は,そのものとして既に投射されている(projektieren).現存在が実存する限り,現存在の存在と共に世界は現存在に対して先–投されている(vor-werfen).実存することがとりわけ意味するのは,自らに対して世界を先立って−投げることであり,しかもそれは,この先投の被投性と共に,すなわち現存在の事実的実存とともに,その都度既に事物的な存在者もまた発見されている,という仕方においてなのである.(GA24, 239)

この「先投」についての主張が超越に結びつく主張であることは確かであるように思われる(GA26, 247).ハイデガーは,世界がどのように世界内存在に属しているのかをあえて伝統的な概念図式で説明している.そしてその説明によれば,世界とは「主観」によって投射されるようなものであり,しかもそのときには同時に現存在の存在も投射されている.しかしまた,その投射されるということは既になされていることであり,「先立って」投げられているということから,投射が「主観」に対して,そして更に現存在に対してアプリオリになされていることが示唆されていると言える.

ここで差し当たり,ハイデガーが伝統的な概念図式を用いて超越について説明している点に注目すべきだろう.周知の通り,『存在と時間』においては,孤立した主観と主観から独立した客観という図式に陥ることを防止するために,「主観」(と同時に客観)という語彙は意図的に避けられ,その代わりに採用されたのが「現存在(Dasein)」であり,その体制としての「世界内存在」であった.しかし先の引用において超越は,たとえここでの主観を伝統的な意味における「主観」として短絡的に捉えてはならないという留保がついているとはいえ,伝統的な概念図式によって,つまり或る「主観」が自らの外側に向かって世界を投射するという構図によって説明されていた.このことから私たちが考慮すべきことは,超越という現象は世界内存在のように現存在が常に既にそれであるような静態的な体制ではなく,否が応にも伝統的な構図において思考しなければならないような動態的な運動,すなわち人間的現存在が世界内存在になる運動を表現しようとしたものであるということである11

この超越の動態的な性格を踏まえて私たちが指摘したいことは,ハイデガーが,少なくとも『存在と時間』の周辺時期においては考えていたであろうような,現存在にとって存在する世界としての道具連関が「閉じた」連関12であるとする考え方が誤りであるということである(GA20, 253)13.このことは,私たちの日常的な学習体験からも明らかである.例えば新たな言語を学ぶ際に,私たちは母国語と習得言語の対応あるいは相違を通じてその言語を習得する.その言語の文法構造や表現方法に習熟していく過程において,私たちは逆説的に母国語についても学んでいるはずである.母国語は,他言語を理解するための基盤として一見強固な「閉じた」連関であるようにも思われるが,しかし,その連関は常に新たな連関と共に捉え直される余地を残したものなのである.事実,ハイデガーがこのような事態を考慮している節もある.

ただ理解するもののみが[……]環境世界を発見することができる.確かに,われわれは道具の使用とその内部での手順を教えてもらうことができるし,そのようにして獲得された理解に基づいて,いわば思考の中で,これらの物との現事実的な交渉を追遂行できるようになる.しかし,道具を道具として発見する,道具との特殊な交渉を意のままにできるほどにわれわれが慣れ親しんでいるのは,われわれによく知られている存在者の極めてわずかな諸領域においてだけである.われわれが接近可能な内世界的な存在者のそのつどの全範囲は,われわれにとって一様に根源的に適切に接近可能であるわけではない.多くのことをわれわれは,ただ単に知っているに過ぎないのであり,諸々に精通しているわけではないのである.それらの事象は,われわれに確かに存在者として出会われているはいるが,慣れ親しんでいないという仕方で出会われるのである.多くの存在者は,既に発見されているものでも,慣れ親しんでいないこと(Unvertrautlichkeit)という性格を持っている.この性格は,存在者にとって,それが差し当たりわれわれにどのように出会われているのかということを,積極的に際立たせているのである14.(GA24, 431f.)

私たちは,世界のうちで出会う全ての存在者を根源的に了解している(実践的に使用できる)わけではない.そのような存在者の範囲は限られたものであり,そのつどの経験においてその範囲が徐々に広がっていくと考えるのが一般的だろう15

このような超越と世界(道具連関)の動態的(可変的)な性格は,1928/29年冬学期講義『哲学入門』において強調されている.ハイデガーは,超越を一つの比喩において「遊び(Spiel)」として記述する.この「遊び」の特徴は,次のようにまとめられる.

1. 何らかの機械的な順序ではなく,或る自由な,常に規則に結合した生起である.

2. 遊ぶことにおける決定的なことは,その場に自らを見出すこと(Sich-dabei-befinden)である.

3. 遊ぶことにおいて諸規則が初めて形成される.その遊びは,後に規則体系として切り離すことができる.

4. 遊びの規則は,遊ぶことを通して変転しやすい.つまり,遊ぶことは自分自身でその都度ごとに空間を創設するが,その空間の内部で遊びは自らを形成すると同時に作り変えることができる.

これら四つの特徴が「遊び」の特徴である.3と4の特徴において述べられているように,遊ぶこととしての超越は規則を形成すること,つまり新たな道具の連関を形成することであり,またその規則は遊びを通じて変化することがあり得る(GA27, 312).つまり,超越は道具連関としての世界を創設するとともに,超越し続けることによってその世界を再構築する運動なのである.

以上のことに基づいて,私たちは,超越とはどのようなものであり得るのかということについて二つの観点を提示することができる.まず一つに,超越とは世界内存在としての現存在がどのように世界を獲得しうるのかについての記述を与えようとする表現である.そのような超越は,確かに内実は世界内存在と同一のものを意味するが,世界内存在のように所与のものとして思考されてはならず,一つの運動として思考されなければならない.そして二つ目に,その超越の運動は,道具連関としての世界の変転あるいは更新として明らかにされた.このことによって判明するのは,ハイデガーが世界と述べる際に,その世界をどのようなものとして考えるのかということであり,つまり世界はその都度の現存在のあり方によって,『存在と時間』での表現を借りれば「現存在の目的(Worumwillen)」(SZ, 84)に応じて,その都度の現存在に対して現れるものなのである.「超越としての[……]世界内存在は,常に世界形成」(GA27, 314)的なのである.

β) 超越における世界形成

以上を踏まえて,超越の内実に迫っていきたい.冒頭でも述べたように,超越の形式的な規定は,「乗り越えるものは現存在であり,乗り越えられるものは全体における存在者であり,それへと乗り越えがなされる先は世界である」(GA27, 240)という三つの契機で表現されている.とりわけ,私たちがここで注目するのは三つ目の契機である「世界」である.それというのは,1928年夏学期講義『論理学の形而上学的始元諸根拠』(以下『ライプニッツ』講義)において,「内世界的な存在者に関係し(zu),かつその傍にある全ての存在に先行して,そして〔そのような〕存在に対して,世界の付与(Geben von Welt)がある」(GA26, 195)と述べられているからである.この「世界の付与」は,先の引用において「ある「主観」がその外側へと世界を投射する」(GA24, 239)と言われていたことと合致し,また直前の「世界形成」とも符合する.超越の内実を明らかにするためには,「世界の付与」や「世界形成」がいかなる意味を持つのかが明らかにされねばならないだろう.

世界形成の内実が立ち入って論究されることになるのは,1929/30年冬学期『形而上学の根本諸概念』講義においてである.そこでは,世界形成の三つの契機として,「1. 拘束性を自らに差し出すこと(Sichentgegenhalten von Verbindlichkeit),2. 全体形成(Ergänzen),3. 存在者の存在の露呈(Enthüllung des Seins des Seiendes)」(GA29/30, 506)が挙げられている.ハイデガーがそうしているように,ここでも言明との関係から三者の内容に迫っていく.

「拘束性を自らに差し出すこと」は,或るものに対して,あるいは元来存在しているものへと開かれていること(Offensein)を意味する(Vgl. GA29/30, 496).つまり,言明することにおいて(そしてまたあらゆる行為に際して)現存在は何らかの存在者のもとに常に存在していなければならないのであり,そのような状況に拘束されるように自らを差し出すことを常に既に行なってしまっているのである.「拘束性を或る他のものへと委ねるという可能性があるところにおいてのみ,拘束するものに対する自分の態度が適切であるか不適切であるかが決定される遊動空間(Spielraum)が与えられるのである」(GA29/30, 497).こうした或る存在者のもとに拘束されていること,換言すれば,現存在の活動には絶えず他の存在者が関係づけられていることが一つ目の契機である.

続く二つ目の契機である「全体形成」は,端的に述べてしまえば,ある言明がなされる際にその言明がなされる背景となった全体的な状況16を指している.ハイデガーの例を借りるならば,教室において黒板が後ろの方にあるとき,私たちは「この黒板は不便な場所に立っている」と言う.これは私たちが黒板は授業中に板書をするために必要で,そのためには教員がいる講壇の近くにあると便利であるということを知っていることから判断される.つまり,「どんな個別的な言明に際しても[……]われわれは常に既に全体において開顕的(offenbar)である何らかの存在者から語り出している」(GA29/30, 501)のである.このようにある特定の行為をなす際に前提されている全体論的な指示連関の保持が,ここでは「全体形成」と呼ばれている.そしてそれに付随して,三つ目の「存在者の存在の露呈」が,すなわちその全体論的な布置から見た一つの存在者が「しかじかである」,「…がある」という様にして明らかになることが可能になるとされる.

しかし最終的には,これら世界形成の三つの契機は,それらの統一的な性格としての「企投(Entwurf)」において統一されることとなる.「上述の生起の根本構造としての企投が世界形成の根本構造なのである」(GA29/30, 527).それではここで言われている「企投」とはどのようなものなのだろうか.

企投の連れ去りは,可能なものの内への解き放ち(Entheben)という性格を持つ.[……]企投がそこへと向けて解き放つそれ————可能にしつつある可能なもの————は,企投しているものを落ち着かせるのではなく,企投における企図を,可能である現実的なものの方へと強制するのである.換言すると,企投は拘束する————可能的なものでも現実的なものでもなく,可能にすることへと,つまり企投された可能性にとって可能である現実的なものが自らの現実化のために可能性に対して要求するものへと,拘束するのである.(GA29/30, 528)

この引用のすぐ後で,この拘束において企投が向けられる可能なものは或る全体へと制限され,あるいは拡張されることが述べられている.ここで肝要なのは,企投は「可能にすることに対して自らを開くこと」であるということである.この「可能にすることに対して自らを開くこと」は,現存在が或るものを或るものとして捉えられるようになるということなのである.というのは,可能にすることにおいて,その或るものはときにはそれに,ときにはあれに,またあるときは別様に解されうるからである(Vgl. GA29/30, 530).こうした企投を,ハイデガーは世界形成と呼ぶ.

私たちは本節において,超越並びに世界形成がどのようなものなのかについて議論を展開してきた.その結果,世界形成(超越)は,三つの契機,1. 拘束性を自らに差し出すこと,2. 全体形成,3. 存在者の存在の露呈から構成されていることが明らかになり,これらは結局のところ「可能にすることに対して自らを開くこと」としての企投に統一されることが明らかになった.繰り返しになるが,超越としての世界形成に関して重要な点は,超越において,現存在は存在者と関わりつつも,何らかの全体を,しかも諸々の存在者を包括する意味での全体と諸々の可能性を包括するという二重の意味での全体を形成し,かつその全体の連関の中で個々の存在者が措定されるという構造である.このような全体の形成とそれに基づく存在者の措定は,のちに言葉としてのロゴスのうちに読み込まれていくようになる.次節では,1931年夏学期講義『アリストテレス「形而上学」Θ巻』(以下『アリストテレス』講義)をもとに,本節において超越に帰されていた世界形成の機能がロゴスへと移行されることを確認したい.

3.制作とロゴス

本節での議論を展開する前に,これまでの議論を踏まえた上での本稿の仮説を提示しておこう.第一節で私たちは,ハイデガー的な枠組みにおいて,志向される対象とは公共世界のうちに措定された存在者のことであり,つまり私たちは何らかの存在者に出会うために可能性の条件としての公共世界を前提しなければならないということを確認した.一方,第二節において,ハイデガーが「超越」という概念で言わんとしていることは「世界内存在」における「世界」の獲得あるいは形成のことであり,かつその仕方とは,現存在が当該の文脈において或る全体を把握すると同時にそのうちに位置付けられるものとして個々の存在者を把握するというものであった.私たちの以上の解釈が正しければ,現存在が超越において獲得するないしは形成する世界とは,公共世界ではないのかということが自然と予想される.現に先の黒板の例において「黒板」や「教員」といった普通名詞が理解可能であるのは,私たちが他者との公共世界のうちに存在しているからであり,また「黒板が不便な場所に立っている」という教室と黒板の関係についても私たちが公共世界のうちに存在する限りにおいてのみ理解可能な言明であるように思われる.上記の予想が正当化される際に鍵になるのは「ロゴス(λόγος)」概念である.

後期ハイデガーが現存在に対する言葉としてのロゴスの重要性について言及していたことは既に周知のことであるが,私たちはハイデガーの言葉に対する以上のような姿勢を,1950年代の言葉についての諸々の講演等に頼らずとも,1931年の『アリストテレス講義』のうちに見出すことができる17.しかもそれは,私たちが第一節で論じたときと同様に「制作」の場面に即して展開されているのである.

一つの事例に即して見てみよう.

壺の制作工程の全体は,粘土の適切な準備に始まり,それの湿り気の規定や轆轤の回転の調節を経て,焼き窯の監視に至るまでの全工程は,いわば,これであってあれではない,こうであってそれ以外ではない,ということによって浸透されている.制作は,それ自体において,つまり制作に本来帰属する制作の仕方の様式において,為すことと止めること,或ることを為し,その反対を止めることである.このように,制作はそれ自体において,同時に為すことと止めることであるがゆえに,それが関係づけられる対象は対立するもの(ἐναντία)なのである.(GA33, 137)

制作の場面において,然々の工程が既に決定されており,「これであってあれではない」ということが製作者にとって明らかになっているのは,制作において「制作されるもの,制作されるはずのもの」が,つまり「制作物の終了態(Be-endetheit),作品を包括する諸目的(die Enden)」が既に眼差しのうちに捉えられているからである(Vgl. GA33, 138).そしてこのことは同時に,作品の諸目的,すなわち「作品の姿が包括しまた排除するところの一切のもの〔作品の諸々の完成像や関連する諸工程の可能性〕が,あらかじめ既に,眼差しの中に捉えられている」(ibid.)ということなのである.この限りで,制作という活動は「対立するもの」に関わることである.制作はそれが目指す目的に関して,これを目指すのであってあれを目指すのではないという「対立するもの」に関わっており,諸々の工程において今為すべきことはこれであってあれではない」という「対立するもの」に関わっているのである.

そしてハイデガーは,アリストテレスと共に,制作としての「エピステーメー・ポイエーティケー(ἐπιστήμη ποιητική)」が「対立するもの」に関係することができるのは,それがロゴスに基づいているからだと主張する(Vgl. GA33, 140).ハイデガーの主張を確認してみよう.

制作に際して,制作されるはずのものは必然的にあらかじめ眺められている.[……]エルゴン〔作品〕をそのエイドス〔姿〕のうちで,このようにあらかじめ眺めながら前に立てること(vorblickendes Vor-stellen)が制作の本来的な開始なのである.この「姿」を眼差しのうちに捉えること(In-den-Blick-nehmen des Aussehens)は,それ自体において視線(Anblick)の形成であり,範型(Vorbild)の形成である.[……]範型のこの形成は,範型に帰属するものを画定することとしてのみ生じるのである.それは選別すること(Auslesen),相互に連関し合うものを選別的に収集すること(ein auslesendes Sammeln des Zusammengehörigen),すなわちレゲイン(λέγειν〔集めること・語ること〕)なのである.エイドスとは,このように拾い集められて選別されたもの,一つのレゴメノン(λεγόμενον),つまりロゴスに他ならない.(GA33, 141-142)

引用の前半部についてはもはや説明を要しないだろう.これまでに述べられてきたように,制作に際しては常にその完成像(ここではエイドス・姿)が視野に収められているのであり,完成像を保持するということは実際上の制作行為の開始に先立つ「本来的な制作の開始」なのである.そしてその完成像としての範型はそれに属するものの限定によって,つまり先に述べた「作品の諸々の完成像や関連する諸工程の可能性」の選別によって形成されるとされている.このような制作に関する諸々の可能性の限定,そして収集の結果生じるのがエイドスであり,ロゴスなのである.

しかし,このような主張は,単に制作におけるエイドスをロゴスに強引に結びつけただけのように思われるかもしれない.しかしそうではない.ハイデガーの次の言葉を見てみよう.

エイドスがまさにエイドスであるのは,ただエイドスと共に,またエイドスによって制作されるはずのものが,やがて後になってしかじかのものとして現前すべきその姿において,公言されている限りにおいてなのである.選別とは,「……として公言すること(Ansprechen als …)」,レゲインなのである.「……として公言すること」より厳密に言えば,この「として」そのものは「これとしてか,あるいは,あれとしてか」という特徴を持つ.「として」は常に何らかの仕方で或る観点から選別することなのである.(ibid.)

ハイデガー自身は詳細に展開しようとはしなかった18が,私たちは上の引用のうちに,エイドスの公共性を見出さないわけにはいかない.エイドスは,それが公言されている限りにおいて,すなわち他者と共有されている限りにおいて理解されるのであり19,その他者との共有はロゴスの能作に与っているのである.「ロゴスとは,何かについての語りであり,それを集めつつ提示すること,それをまとめつつ告知すること(kundmachen)である」.そしてさらに言えば,ロゴスは「誰かに,誰かのために語ることである」(GA33, 121f.).

以上より,私たちはハイデガーの「制作が対立するものに関わるのはロゴスに基づいているからである」という主張の意味を解釈できる.まず,エイドスはそれが公言されている限りにおいて理解可能になる.すなわち,壺のエイドスはそれが茶碗や平皿のエイドスから区別される限りにおいて,壺のエイドスとして理解されるのであり,このことは他者によってそのように公言されていることによって知り得るものなのである.そして,そのような公共的に共有されたエイドスの区別と同様に,エイドスに関わる諸可能性(先の例で言えば,諸々の工程)も公共的に共有されている限りで理解可能になるのである.本質的に「他者に関わる他者との共同の語り」(GA20, 362)であるロゴスは,その語りを通じて存在者のエイドスを公言し伝達することによって他者にそれを与えるという意味で,制作の可能性の条件とも呼び得るものである.このロゴスを「言葉(Sprache)」と訳す現代においてみれば,「「言葉」とは[……]そこにおいて世界の開顕性(Offenbarkeit)と告知(Kundschaft)とがそもそも開花し(aufbricht),そして存在するところの,場所としての言葉なのである」(GA33, 128).

最後に,本節において私たちがロゴスに見出した性格を踏まえて,前節で論じられた超越概念とロゴス概念が重ね合わせられることを示唆しておきたい.本節の冒頭でも述べたように,超越概念の眼目は,世界形成における全体論的な地平の形成であり,かつその地平の形成とともに現存在が「可能にすることに対して自らを開く」,つまり現存在は諸々の可能性を可能性として受け取ることができるようになることであった.それに対して本節の考察を通して明らかになったことは,ロゴスとは他者との伝達を介した,制作における範型の形成およびそれに関連する諸工程の可能性の獲得のことであるということである.範型の形成とは,或る存在者についての範型が他の存在者についての範型から区別される限りにおいて形成されていると言えるものであり,従って,範型の形成はその背後に,超越の能作としての全体論的な地平形成が同時に起こっていると解してよいように思われる.そしてその流れで生じる「可能性を可能性として受け取ること」も,ロゴスとしての「……として公言すること」を論じた際に述べたように,「これとしてか,あれとしてか」の可能性に開かれていることとして,ロゴスの持つ性格だと言ってよい20.以上のことを勘案した上で,ハイデガーは,1931年のこの講義の時期から,超越に帰属させていた役割をロゴスに負わせようとしていたのではないかと考えられる.

終わりに

本稿を締めくくるにあたり,本稿の議論から展開しうる超越についての解釈を提示したい.第三節の最後で整理したように,ハイデガーが超越ということで言い当てようとした事柄とは,或る存在者が出会われるための先行条件としての全体論的な地平の形成のことであり,このことは同時にハイデガーがロゴスという術語によって言い当てようとしていたことでもある.超越によって現存在が向かうところの世界は,第一節で解した通り公共世界であることは疑いようのないことである.その上で本稿を通じて提示されたのは,超越そのものが本来公共的なものであるということであり,このことは超越と等置され得る範型の形成としてのロゴスが「…として公言する」という公共的な次元で遂行されると主張されていることから十分予見できることである.さらに敷衍するならば,範型の形成としてのロゴスが超越と同一の働きを行うのは,範型の形成が遂行される場としての「言葉,言語」においてであると言える.このことに基づいて,超越とは言語の獲得であると解釈できる.実際ハイデガーは,彼の後期の思索において「言葉が存在するところにのみ世界が存在する」と述べている(Vgl. GA4, 37f.).本稿での議論を更に補強し展開することが今後の課題となるだろう.しかし現時点においては,これらの概念上の連関が示唆されたことは本稿の大きな成果であると言ってよいだろう.

  1.    本文における引用での強調はことわりがない限りは原則的に原著者に由来する.また,引用文中のまる括弧や亀甲括弧による補足は原則的に筆者に由来する.引用箇所の訳文に関しては,原則的には邦訳に準じたが,適宜変更を加えた箇所もある.
  2.    「全体における存在者」については本稿では扱えない.それは,一つにはこの概念が非常に多義的に解釈されるからである.例えば「全体における存在者」を自然として解釈する向きがあり(例えば,有馬(1994)212頁や金成(2017a)120頁以下),それは自然の一部としての(動物的な)現存在が非自然的な(人間的)現存在になることを論じる超越の文脈に合致したものである.Vgl. GA27, 328 f.
  3.    本稿と同様のテーマを扱っている先行研究として,例えば古荘(2002)や串田(2017)の研究を挙げることができる.しかし,串田は私たちと同様に1931年の『アリストテレス』講義に引きながらも,そこでのもう一つの主題である「能力(Vermögen)」の考察に留まっており,その問題をロゴスへと接続することはしなかった(串田(2017)26頁以下).他方古荘は現存在の超越が公共世界への参入であることを論じてはいるが,彼はその際にカントやフッサールの「対象X」を援用している(古荘(2002)97-133頁参照).その点本稿での解釈は,よりハイデガーのテキストに内在的な議論を展開していると言えるだろう.
  4.    『存在と時間』からの引用に関しては,SZと略記し(Martin Heidegger, Sein und Zeit, Tübingen 1967)の頁付けで示す.また,訳文は主に,原佑/渡邊二郎訳(2012)『存在と時間』Ⅰ–Ⅲ,中公クラシックスを参考にした.その他の全集に関しては,GA: Martin Heidegger Gesamtausgabe, Frankfurt am Main.に巻数と頁数を併記し,引用箇所にて示すこととする.
  5.    1927年夏学期講義『現象学の根本諸問題』における「広義の事物的な存在者」を広い意味での道具的存在者と見做している研究はあまり存在しない.管見の限りでは,本講義における「広義の事物的な存在者」は道具連関へと回収されない自然と見做す向きが強く,このことは,ハイデガーの「現存在ではないような存在者(手前的な存在者)の存在はより豊かで複雑な構造を持っており,それゆえ物連関(道具連関)としての手前的な存在者の通常の特徴づけを越え出ている」(GA24, 249)という発言に由来しているように思われる.
  6.    『存在と時間』の周辺時期におけるハイデガーは,自然を道具連関から理解されるものとして捉えている.Vgl. SZ, 70.しかし,幾人かの論者は『存在と時間』のうちに道具連関からは見出されない自然が登場していると主張している.例えば,金成祐人(2017a)118頁を参照.
  7.    もちろん,この規定は「志向されるもの」にとっての必要条件ではあっても十分条件ではない.私たちは公共世界において措定される以前の存在者について想定することができ,そのようなあらゆる現存在から独立した存在者が存在しなければ,そもそも措定自体が起こり得ないであろうことは容易に想定される.この問題は別の機会に集中的に論じることとしたい.
  8.    これと同型の議論は1925年夏学期講義『時間概念の歴史への序説』においても展開されている.Vgl. GA20, §23 (b). また先行研究として示唆的なのは,古荘(2002)第二章第三節78頁以下である.
  9.    具体的とは言い難いが,1927/28年冬学期講義「哲学入門」講義において,「事物的な存在者が発見されてあること(Entdecktheit)の全ては,本質的に…〔他の現存在〕と分かち合われたものとして既に存在するべきである」(GA27, 127)と述べている.勿論,或る人が人類史上初の何らかの発見した場合,それが既に分かち合われていることはあり得ない.しかし,その新発見をするために働いていた理解可能性(概念的枠組み)が社会的に培われたものであるとみなすのであれば,「分かち合われていること」を解釈することはできるだろう.
  10.    ハイデガーは世界概念を大きく分けて二つに区別しており,伝統的な意味での存在者の総体,言うなれば宇宙全体のことを指す「世界」と実存的な意味での世界,すなわち現存在とその他の存在者が出会うことを可能にする活動空間,地平としての世界を区別している.『存在と時間』においてハイデガーが問題にするのは後者の意味での世界であり,世界内存在の構成要素としての世界も後者の意味での世界のことを指している.Vgl. SZ, 65.
  11.    Görland (1981)は,超越の問題は世界内存在の成立をめぐる問題であり,いわば発生論的な視点での議論であると指摘している.Vgl. Görland (1981), S. 8. また,加藤(2011)28頁及び金成(2021)73頁も参照されたい.
  12.    例えば,「時間概念の歴史への序説」においては,次のように言われている.「閉じた差し向け全体性という性格を持つそうした環境世界は,同時に特殊な馴染みを顕著な特徴とする.差し向け全体の閉鎖性はまさに馴染みのうちにその根拠を持っており,この馴染みは,この差し向け連関が既知のものであることを意味している」(GA20, 253).
  13.    「閉じた」連関という考え方が誤りだからといって,ハイデガーの理解の枠組みそのものが間違っていると主張しているわけではない点は留意されたい.たとえ世界の意味連関が「開いている」としても理解は可能である.この点についてはガダマーの「理解」概念が本質的であるように思われる.Vgl. Gadamer (1990), S. 305.
  14.    ここで述べておきたいのは,少なくとも『存在と時間』では「慣れ親しんでいること」とそれに派生する「価値中立的態度」の二元論が目立っていたのに対して,『現象学の根本諸問題』講義においては「慣れ親しんでいないこと」という理解に関するもう一つの層が提示されているということである.しかし,本講義においては,結局この「慣れ親しんでいないこと」は「慣れ親しんでいること」という世界内存在の性格に基づいていると主張されている.Vgl. GA24, 432.
  15.    私たちはここで,門脇俊介がR. ローティを援用して主張した「コンテクスト更新(recontextualization)」の二つのタイプ,つまり「あらかじめ自分が所持している文〔信念〕のいくつかに対して新しい一連の態度を取ること」と「あらかじめ態度をとっていなかった新しい真理値の担い手や文に対する態度を習得すること」とを想定している.本文で挙げた例で言えば,言語習得によって新たなコンテクストが形成される場合が後者の例であり,それによる母国語への理解の深化は前者に該当するだろう.門脇(2002)81頁参照.Cf. Rorty, R. (1991), p. 94.
  16.    とはいえ,ここで述べている「全体」はあくまで便宜的な意味での用いられていることに注意されたい.門脇(2010)が述べるように,ハイデガーにとっての「全体」としての世界はあくまで明示化し得ないものであり,しかしその「全体」が現存在に開示されていることによって存在者は出会い得るものとなるのである.門脇(2010)141頁以下参照.
  17.    ハイデガーの思想の変遷を言語論的な視点で見た場合,言語に対する評価の変化の分岐点は1929/30年冬学期講義『形而上学の根本諸概念』と1931年夏学期講義『アリストテレス「形而上学9巻1−3章」』の間にあると言える.フィガールが述べているように,後者の講義においてはロゴスの地平的な性格が認められる.Vgl. GA33, 144 f. Figal, G. (2009), p. 97 f.
  18.    ハイデガーは依然として,ロゴスの可能性を現存在の内的な能力の発露として捉えていることは否めない.この点で,この時期のハイデガーは後期思想へと完全に移行したわけではなく,まさに変遷期の中にあると言って良いように思われる.
  19.    このような他者との伝達された理念の共有という考えは,『存在と時間』以前の諸講義からハイデガーが変わらず保持している主張である.例えば1925年夏学期講義『時間概念の歴史への序説』において,言語による伝達が存在者の端的な知覚に影響を与えることを指摘していることが挙げられる.Vgl. GA20, 76.
  20.    『存在と時間』においてハイデガーは,「として」構造と語りとしてのロゴスの関係について,アリストテレスを引き合いに出しつつ次のように述べている.「あらゆるロゴスは,シュンテシス(σύνθεσις),すなわち総合であると同時に,ディアイレシス(διαίρεις),すなわち分割である」.そして,「「総合」と「分割」という形式的な構造によって,いや一層正確には両者の統一によって現象的に言い当てられるはずであったものは「或るものとしての或るもの」という現象なのである」(SZ, 159).

参考文献

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© The Japan Forum for Young Philosophers
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