2017 Volume 55 Pages 47-61
TICAD VIをめぐっては、ビジネスや中国との競争など国益に関心が集まったが、本旨のアフリカ開発についてはどのような議論が重ねられ、今後どう対応していくべきだろうか。日本の対アフリカ支援とTICADの議論は、両者の状況や世界の情勢に応じて変化してきた。1993年の第1回から10年後の第3回までの前半期には、アフリカ経済の低迷を受けて、アジアの経験の強調、貧困削減の重視などが掲げられた。また、日本の援助理念の到達点である人間の安全保障の観点からアフリカが抱える深刻な課題が取り上げられ、それを果たせない国家のあり方が問題にされた。他方、2008年の第4回以降はアフリカの高度成長とそれにより強まったアフリカ諸国の立場を反映し、これらの問題への注目度は低下し、経済成長や民間投資の促進が関心の的となった。しかし、依然として人間の安全保障とそのための国家の改革は開発の基盤である。中国との競争に走るよりも、戦略的棲み分けを模索すべきであり、工業化など、長期の視点から、アフリカの開発に資する支援に注力すべきである。
去る2016年8月末の第6回アフリカ開発会議(TICAD VI、於:ケニア・ナイロビ)は初めてアフリカで開催された。それにもかかわらず、主要なマスコミや経済界はじめ日本国内の大きな関心を集めた。マスコミの報道で焦点が当てられたのは主に2つのことだったと思われる。一つは、日本の経済的パートナーとしてのアフリカの可能性であり1、もう一つは経済関係で先行する「中国との対抗」の必要性である2。どちらの点も、アフリカ開発というより日本自体の利害を色濃く反映しており、日本政府関係者がTICAD VIに置いた外交上の意義もこの2点にあったと思われる3。他方で、TICAD VIの本旨であるアフリカ開発の現状と課題についての議論を伝える報道は限られていた。ここで指摘しておくべきは、日本の自国利益追求の場というTICADのあり方は1993年の初回から強く打ち出されていたわけではないということである。TICADは回を重ねる中でその性格を変えてきた。
他方で、問題になるのは、TICADでの議論やそれに対応した日本の支援が、TICADの本旨であるアフリカ開発の現状と課題を考慮したとき、それに資するものなのか、ということであろう。とりわけ、TICAD VIのあり方を見るとき、日本の利益追求と開発支援とは両立し得るものなのか、両立させるとしたら何をすべきかが、問題となるだろう。
本稿では、長期のグローバルな視点から、アフリカ開発をめぐる状況、及び日本とアフリカの関係の推移との関わりのなかでTICADの性格がどのように変化してきたのかを、各回のTICADの決議の内容をたどることを通じて考えることにしたい。そして、その変化を踏まえ、TICAD VIで出された「ナイロビ宣言」に反映されたアフリカ開発の現状と課題をどのように理解すればよいのか、また日本とアフリカのどのような関係が双方にとって現実的であり、望ましいのかを、特にアフリカの経済的パートナーとしての可能性、また中国との対抗という観点を再検討しながら、考えることにしたい。
独立から間もない1960年代、アフリカの国々の大半は平均所得水準ではアジアの国々よりも豊かであった[World Bank 2005, 274]。だが、その当時から分かっていたことは、植民地分割の落とし子であるアフリカ諸国は、国民の一体性が乏しく、国内市場システムの統合性を欠き、国家行政機構の歴史が浅く、教育や保健のシステムが未発達で人材は不足しており、外貨の収入源が主に植民地時代に導入された少数の一次産品に限られる(モノエクスポート)など、多くの国家建設の課題をかかえていたということである。
独立当初世界経済の好景気のために、アフリカ諸国の経済は比較的順調に成長し、これらの問題は表面化しなかった。それが暗転したのは、石油危機をきっかけとする1970年代の先進国経済の低成長時代への移行による。この低成長は、消費財需要の冷え込みと同時に、日本など先進国による省資源・省エネ技術の開発に帰結し、もっぱら先進国の一次産品への需要に外貨収入・歳入を依存していたアフリカ諸国の経済に重い負の影響を与えた。アフリカ諸国は軒並み人口増加率以下の低成長となり、国民の平均所得が低下した。
そして、1980年代には東アジア諸国が輸出志向の工業化・産業の多様化に成功するかたわら、アフリカ諸国はモノエクスポート依存から脱却できないままだった。それは、停滞産業から成長産業への資源の移転を担う市場システムと行政機構の未発達、産業を担う人材の育成=教育・保健などの国家建設の課題が克服されずにいたことによる。背景には、多くの国で専横と腐敗にまみれた為政者がこれらの課題を克服する強い意思を欠いていたことがある。
先進援助諸国は、冷戦と東西援助競争の下でこのような為政者の支配を不問に付していた。他方、同諸国は国際通貨基金(IMF)・世界銀行(世銀)を先頭にして、財政と国際収支の安定、政府の規制の削減・撤廃、対外自由化、民営化などを骨子とする構造調整政策の受け入れを条件として借款を含む大量の援助を供与し、停滞するアフリカ諸国の経済を支えようとした。日本もアメリカからの貿易黒字還流、負担分担の強い要請もあって、援助全額を増やすと同時に世銀・IMF等と歩調を合わせてアフリカ支援を拡大していったのである。
構造調整は端的に言えば、アフリカ諸国の経済を市場の機能と民間経済主体の活躍によって浮揚させようという理念に基づいている。前提条件さえ整っていれば、構造調整は有効かもしれない。しかし、既に触れたようにそもそも国家建設で立ち遅れ、市場と民間部門が未発達なアフリカ諸国はその条件を欠いていた。そのため、あとで見るように、構造調整は十分な成果を挙げることができなかったのである。けれども、IMF・世銀はその点を十分考慮せずに構造調整の受入を迫り、条件に沿えない国への支援を停止・削減した。
1990年代に入って、冷戦終焉に伴う「民主化」の波が世界を覆い、アフリカでも一党制の解体が進んだ。他方で、開発援助の戦略的な意義は劇的に低下した。打ち続く食糧危機や内戦による人びとの苦難、保健・教育の劣悪さは援助諸国の問題関心ではあったが、多額の援助の投入にもかかわらず、アフリカ諸国の政府がそれらの問題を解決できず、経済が停滞を続けることは欧米の援助諸国に広く「援助疲れ」を生んだ。低成長時代の帰結である先進国の財政のひっ迫がそれを助長した。欧米社会のアフリカにおける援助の効果を見る目が厳しくなるのにつれて、構造調整の政策条件と同様にアフリカ諸国に民主化や人権尊重など政治的条件を求めることが一般的となり、その求めに抵抗する国に対しては、援助が抑制された。
他方で1990年代には世界最大のアメリカ経済が一定の回復を見せ、先進国経済は限定的にせよ回復を見せた。しかし、上に述べたようなアフリカ諸国の苦境は解決されないままだった。経済回復の処方箋としての構造調整の限界は、もはや明らかだった。正にこうしたときに、1993年、日本がTICAD主催を開始したのである。
第1回から第6回に至るTICADの歴史は、第3回(2003年)までの前半と第4回(2008年)以降の後半とに、大きく分けることができるだろう。その前半は、アフリカ経済が低迷し、貧困や不安定が最大の問題として語られた時期であり、また後半は、2003年から突然のように始まったアフリカの成長に世界の注目が集まった時期である。そうした変化に応じてTICADでの議論と性格も変遷を遂げてきた。以下、TICADの前半と後半に分けて、その背景にあるグローバル経済、日本とアフリカの関係の変容、そしてTICADでのアフリカ開発をめぐる議論の連続と不連続について概観していくことにしたい。
1970年代以降の低成長期を、先進諸国の中で最も無難に乗り切り、80年代後半からのバブル経済で絶頂を迎えた日本は、90年代には、ほぼ毎年世界最大の援助供与国であった。冷戦が終焉し、アメリカが援助への関心を大きく低下させるなか、日本は比較的自由に自らの援助政策を決められるようになった。アフリカへの援助は全体の一割程度だったが、ケニアなどいくつかの国で日本は首位のドナーとなった。歴史的、社会的、経済的に関係が希薄で、直接の戦略的な利害も持たない日本が、アフリカ開発を掲げる大規模な会議TICADを開催したことは、タイミングの良さも手伝って、国際社会の注目を集めた。日本の利害や戦略的関心が希薄なこともあり、前半期の3回のTICADは、かなり純粋にアフリカの開発課題と支援方針を語る場であったように思われる。
1993年のTICAD Iで議決された「アフリカ開発に関する東京宣言」には、アフリカの自助努力、貧困の解消、教育・保健の重視、インフラの整備、アフリカの域内協力・統合の推進に加えて、民間セクターの活動の促進など、その後のTICADで繰り返し確認されることになる事柄の多くが謳われた[外務省 1993a]。外務省のまとめによれば、TICAD Iではアフリカ側がその社会的・経済的危機に関して「自らの欠陥と責任」を認め、援助の供与は民主化やグッドガバナンスへの努力にかかっていることが参加者の間で合意された[外務省 1993b]。こうしたことには、東西援助競争の終焉により、アフリカ諸国の立場が弱まり、先進援助諸国、特に欧米から政治経済上の改革を厳しく求められたことが影響している。ただ、実際に日本が民主化・ガバナンスに関して、欧米と同様にアフリカの改革の進捗と援助供与とを結び付ける選別的なアプローチをとったとは言えない。例えば、1990年代、ダニエル・モイ政権下のケニアに対して欧米が人権侵害や腐敗を理由に援助を抑制したのとは異なり、日本は最大ドナーとして多面的な支援を維持した。
他方で、「東京宣言」には欧米やIMF・世銀流の、目に見える政治経済改革の成果を性急に求めるアプローチへの批判とも受け取れる主張が含まれていた。「東京宣言」は民主化や民間部門の発展に向けて必要とされるアフリカの政治・経済改革を詳細に述べ、構造調整も含めて改革にはアフリカ諸国自身の「ビジョン」、「価値」、個々の事情が尊重されるべきであり、その過程が長期にわたる困難で複雑なものとなると指摘している[外務省 1993a]。その指摘は、独立後約30年を経過してもアフリカの国家建設が達成には程遠い状況にあることを真摯に認識したものでもある。同時にアフリカの価値の尊重は、前年の1992年に初めて定められた「政府開発援助(ODA)大綱」で掲げられた「自助努力支援」の理念の反映とも解釈できよう[外務省経済協力編 1992]。
もうひとつ「東京宣言」で強く打ち出されたのは「アジアの経験」の共有であり、アジア諸国とアフリカ諸国との南南協力の推進であった。それは、東南アジア諸国を舞台にその開発経験をアフリカ諸国に伝えるアジア・アフリカ・フォーラムの開催として具体化された。同じ1993年には『東アジアの奇跡』が世界銀行から刊行され、かつてアフリカ諸国の大半より所得水準の低かった東アジアの国々の高度成長が注目を浴びていた。それを援助や投資を通じて主導した東アジアのリーダーたる日本の自負と自信を「アジアの経験」共有の提唱のなかに見て取ることができよう。
1998年の第2回(TICAD II)で議決された「東京行動計画」では、主題としてアフリカの「貧困削減」と「世界経済への統合」が掲げられた[外務省 1998]。これらは冷戦後の世界経済のグローバル化のなかで取り残され、貧困に苦しむアフリカの周縁化を防止する、という当時の先進援助諸国の共通の問題意識を反映したものである。特に欧米諸国は、膨大な借款を含む援助にもかかわらず、低成長を続け、債務負担に苦しむようになったアフリカに対してインフラなど経済の開発を優先して支援することには懐疑的であった。むしろ同諸国は、アフリカで政府の基本的役割である教育・保健などの社会開発(あるいは人間開発)の支援に関心を集中させた5。「東京行動計画」では、TICAD Iの「東京宣言」で打ち出されていた多くの開発課題が「社会開発」「経済開発」「開発の基盤」の3領域に整理され、さらに詳細に触れられている。「社会開発」が最初におかれているのは、上記のような欧米諸国間の合意に日本も足並みをそろえたものと言える。「経済開発」では、重い債務負担への対処に多くの紙幅が割かれた。翌年、最後まで債務の減免に否定的だった日本が歩み寄ったことで、主要先進国首脳会議(G8)は、本格的な重債務貧困国向け債務の救済で合意することになる。また「開発の基盤」の中ではグッドガバナンスの達成とともに、1990年代におけるアフリカでの紛争の頻発に鑑み、紛争の予防と紛争後の開発が重視されるようになった。
TICAD IIでは、アジア・アフリカ間の協力は唱えられたが、TICAD Iで強調されたアジアの経験の主張はトーンダウンした。それは、前年に発生したアジア金融危機やバブル崩壊後長期化しつつあった日本のデフレのため、日本・東アジアの成功に陰りが見えたことの帰結であろう。
2003年の第3回(TICAD III)では、「TICAD10周年宣言」が決議され、「未来への羅針盤」として、「リーダーシップと国民参加」、「平和とガバナンス」、「人間の安全保障」、「アフリカの独自性、多様性、アイデンティティーの尊重」が掲げられた[外務省 2003b]。人間の安全保障は、TICAD IIIと同じ年に改定された新しい「政府開発援助大綱」で日本の援助が実現すべき理念的目標として初めて示されたものである[外務省2004]。「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」を柱とする人間の安全保障は、途上国の人びとが直面する複層的な問題への深い理解に立つもので、日本が開発理念形成の長い道程において到達した優れた理念と言ってよい6。そしてアフリカこそは、人間の安全保障の観点から最も困難をかかえた地域であった。その要因の多くは、「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」を人びとに保障すべき国家の機能が不十分であることに帰せられる。
TICAD IIIで日本政府は、支援の重点分野として「人間中心の開発」「経済成長を通じた貧困削減」「開発の基盤(平和の定着・ガバナンス)」の3つの柱を提示した。これは、TICAD IIの「東京行動計画」の基本的枠組みを踏襲したものと言えるだろう。「人間中心の開発」は、2000年の国連特別総会で打ち出されたミレニアム開発目標(MDGs)と、人間の安全保障、中でも「欠乏からの自由」の理念を強く反映したものである。アフリカはMDGsで重視された教育や保健において、最も支援を必要としているという認識がその根底にあった。他方で、貧困削減の回路として「経済成長」が強調されているのは、経済開発を重視した日本なりのアプローチを打ち出したものと言えるだろう。日本は教育・保健の重視では主流の援助諸国に足並みを揃えつつも、農業やインフラ整備など主にアジアへの援助を通じて自国が培ってきた得意分野である経済開発の支援の経験をアフリカで生かすべく、この点に引き続き懐疑的であった欧米とは一線を画し、主張したものと考えられる。また「平和の定着」は人間の安全保障のもう一つの基本理念である「恐怖からの自由」を実現することと位置付けられた。
TICAD IIIでは、前二回と同様に、アジア・アフリカ間の協力が唱えられる一方で、前年に発足したアフリカ連合(AU)が採択した「新しいアフリカ開発のためのパートナーシップ(NEPAD)」を重視し、アフリカ諸国相互の経済統合・協力を後押しすることが盛り込まれた。NEPADはTICAD Iで尊重が強調されていたアフリカ自身の開発ビジョンが、アフリカ全体の合意として具現化されたものと言ってよい。そして、アフリカ諸国の独自性、多様性、アイデンティティーの尊重はNEPADの精神にも沿うものとされた。
第3回までのTICADで一貫して強調されたのは、アフリカの貧困、紛争、周縁化などの軽減であり、それに教育や保健を中心とした人間開発とガバナンス改革によって対応することであった7。そのために日本の協力の中心に置かれたのは、世界最大規模だった政府開発援助である。また、アフリカ側の主体性の尊重を特に強調しつつ、各国で民間重視の経済の実現及び民主化を目指してアフリカ側が改革を進めることも繰り返し確認された。
2008年に横浜で開かれた第4回(TICAD IV)からTICADのあり方は大きな転換を遂げた。その転換の背景にはアフリカ諸国が、TICAD III開催の2003年前後から高度成長を開始したことがある。中国をはじめとする新興国経済の目覚ましい成長による石油等の鉱物資源やその他の一次産品の国際価格の高騰、またとりわけ中国による一次産品のアフリカからの輸入の拡大によって輸出収入が急増したことが、その高度成長の一因である8。総じて目覚ましい発展を遂げてきた東アジア諸国のなかでも中国は抜きんでて急速な成長を開始した。それを支えたのは、工業化と工業製品の輸出であり、また中国国内の大量消費の広がりであった。デフレに苦しむ日本を抜き世界第2位の規模を誇るに至った中国経済の膨張は、先進国と途上国に二極化していた世界経済のあり方を根本的に変えるものであった。
中国はアフリカなど途上諸国を含む世界中に、軽工業品をはじめとする輸出品を溢れさせた。それによって得られた巨額の外貨収入は、中国が膨大な資金をアフリカや近隣のアジアの途上諸国に政府間支援として提供することを可能にした。2000年以降、中国は多数のアフリカの国々の代表を招へいして中国アフリカ協力フォーラム(FOCAC)を3年ごとに北京とアフリカの国々とで交互に開催するようになった。こうした中国による支援の拡大は、深刻な財政赤字のために援助額を抑制し、もはや最大の援助国でもなく、東アジアにおける突出したリーダーとは呼べなくなった日本の姿と好対照をなしていたと言ってもよい。
他方でアメリカは、2001年の同時多発テロ以降、途上国世界との関係のあり方を再編しはじめ、政府開発援助を急増させて再び最大の援助国となった。日本等の側面的支援を受けつつ、「テロとのたたかい」が展開された。同時にアメリカは資源、特に原油の調達先を中東からアフリカへと多様化させ、アフリカ経済の成長をより加速させた。
こうしてTICAD IVの開かれた2008年には、アフリカは二重の意味で日本や先進諸国の注目を集めるようになっていた。一つは、にわかに価値の高まった資源・一次産品を豊富に抱える大陸として、もう一つは、新興援助国、とりわけ中国の影響力が急速に拡大する地域としてである。アフリカは、先進援助諸国による債務救済でその重荷から解放され、また外貨収入の急増と中国はじめ新興援助国からの支援の拡大によって、先進諸国からの援助への依存度を減らした。それは、アフリカ諸国の先進諸国に対する立場を強めることになった。さらに、増大する外貨収入は輸入を増加させ、アフリカ諸国に空前の消費ブームを生み出した。消費需要の多くは中国からの輸入品に向けられ、アフリカ-中国間の貿易は急拡大した9。
このような状況下で、TICAD IVは「元気なアフリカを目指して―希望と機会の大陸」と謳い、第1のアジェンダとして「成長の加速化」を掲げた。次いで「MDGs達成及び平和の定着・グッドガバナンスを含む人間の安全保障の確立」、そして「環境・気候変動問題への対処」が開発アジェンダとして挙げられた。TICAD IIIと比べて、貧困削減や開発の基盤の構築としてのガバナンス改革や紛争解決の位置付けが相対的に下がったことは否めない。代わりに強調されたのは、「成長の加速化」、すなわち経済開発であった。また、環境問題の重視は、温暖化の波及が強い関心事項になったことの反映であろう。
TICAD IVで議決された「横浜宣言」は、「急速な変化」によって自らの「運命を決定する自信と能力」をアフリカが高めつつあると述べている[外務省 2008]。これは自らの「欠陥」に打ちひしがれていたTICAD I当時とは大きく異なり、アフリカ諸国がその外交的立場を強めていたことと表裏をなしている。また、ガバナンス改革については援助側の要求によるのでなく、NEPADで掲げられたアフリカ諸国の相互検証を重視することとした。
さらに、「横浜宣言」は「成長の加速化」の中身として、産業開発を加速して、一次産品依存からの脱却とアフリカ内での付加価値の増大を目指すことを掲げた。その具体的な回路として人材の育成、インフラ、農業・農村開発、貿易・投資・観光の振興を挙げている。
さらに「横浜宣言」は国連安全保障理事会の改革に言及した。多数のアフリカ諸国から安保理常任理事国入りへの支持を獲得することは、日本がTICAD等を通じてアフリカ諸国との外交関係を強化するための真の意図として指摘されてきたことである[Sato 2010, 17; 20-21]。安保理改革への言及は、それが前面に押し出されてきたものだと解釈できる。
2013年のTICAD Vでは、議決された「横浜宣言2013」が「躍動のアフリカと手を携えて」と謳ったことに現れているように[外務省 2013]、アフリカ開発の将来への楽観に包まれる中で開かれた。2008年の世界金融危機をもこえて続いてきたアフリカの高度成長は、デフレからの出口を探し求める日本の民間セクターの広く注目するところとなっていた。前年の2012年には外務大臣と経団連副会長を共同座長とするTICAD V推進官民連絡協議会が設けられた。TICAD VはTICADの中で最も経済界の関心を集めたと言ってよい。
経済界の関心の高まりと共鳴するように、TICAD Vのアフリカ側の代表からは、「援助よりも投資を」という声が多く聞かれた。その背後には、民間部門を経済成長の原動力に位置づけるべきとの認識と先進国の援助に伴う政治経済改革の「押し付け」の苦い記憶があったであろう。投資の優先度を高めることは、援助の増額が財政上難しい日本政府にも歓迎された。
「横浜宣言2013」は「強固で持続可能な経済」、「包摂的で強靭な社会」、「平和と安定」を主要な課題として掲げた。そして、(1)アフリカ自身の取組の尊重と支援、(2)女性と若者の権利確立・雇用教育機会の拡大、(3)人間の安全保障の促進を基本原則としている。また、上記の3課題を達成するための重点分野とされたのが、①民間セクター主導の成長の促進、②物的・人的・知的なインフラ整備、③農業振興、④防災・気候変動対応・天然資源と生物多様性管理など環境対策、⑤初等教育と全ての人への保健サービスの供与、⑥平和と安定及びグッドガバナンスの定着の6つである。この重点分野の順序には、社会開発やガバナンスに比べての経済開発の重視というTICAD IVで強まった傾向がより明確に表れている。
「横浜宣言2013」でもう一つ特徴的だったのは、TICADというプロセスが、「開放的で包摂的な国際フォーラム」であると強調された点である。この開放性、包摂性の中身として、TICADが一貫して南南協力を提唱してきたこと、またアフリカ連合委員会(AUC)や世銀等の国際機関を共催者として国際社会との連携の下で行われていることが具体的に指摘されている。これは、中国のFOCACがもっぱらアフリカ各国との二者間関係によって立つものであることとの違いを強調したものと解釈できるだろう。また、次回(第6回)のTICADはアフリカで3年後に開かれることとされたが、これもFOCACがアフリカと中国での開催を3年ごとに交互に行っていることを意識したものであろう。そして「横浜宣言2013」は再び国連安保理の改革の必要性に触れた。
「横浜宣言2013」では、5年前のTICAD IVの「横浜宣言」で指摘された一次産品の依存への懸念などアフリカの経済成長がはらむ問題点への言及は影を潜めている。ただ、主要課題として挙げられている3つのことは、アフリカの高度成長の傍らに、脆弱性、排除性、暴力・対立、そして政治社会的不安定性などの深刻な問題が依然として横たわっていることを間接的に意味していた。同宣言策定に関わった関係者は、アフリカの高度成長が女性や若者を含む多数の人びとを包摂できる広い基盤に立っておらず、不平等が拡大していること、保健や教育のサービスの普及が未だ不十分であること、犯罪が蔓延し、テロや紛争が生じ、あるいはくすぶっていることを認識していたと考えられる。
現に、経済成長のかたわらでアフリカが対処できないできた問題はTICAD VIに至る3年の間にあらわになっていった。会議終了3か月後の2013年9月に起きたナイロビでの67人の生命を奪うショッピングモール襲撃事件、同年12月の独立間もない南スーダンでの内戦勃発、2014年4月のナイジェリアでのボコ・ハラムによる240人の女子生徒拉致事件など紛争・テロが相次いだ。同年にはリベリア、シエラレオネ、ギニアでエボラ出血熱の突発的拡大が発生し、少なくとも一部の国々の保健システムの極端な脆弱さが露呈した。
何よりも注目すべきことは、2015年から、アフリカの高度成長が急速に鈍化したことである。IMFによれば、2015年のサハラ以南のアフリカのGDPの成長率は前年の5.1%から3.4%に低下し、さらに2016年には人口増加率を下回る1.4%に下落すると推計・予測されている[IMF 2016]。こうした急激な成長の鈍化の要因は、直接的には国際的な一次産品価格の急落であり、いまやアフリカ最大の輸出先となった中国の景気減速である。さらに掘り下げれば、そのことはアフリカの経済が全体として、如何に偏って一次産品輸出に依存し、中国をはじめとする国際経済の変動に対して脆弱なのかを示すものだと言ってよい。
TICAD VIで議決された「ナイロビ宣言」[外務省 2016]は、「アフリカの持続可能な開発アジェンダ促進・繁栄のためのTICADパートナーシップ」と題した。このテーマは前年に国連総会で決議された「持続可能な開発目標(SDGs)」に沿ったものであると同時に、正に「元気」で「躍動」するかに見えた21世紀以降のアフリカの開発のあり方が、持続可能なものとなり得るのかが深刻に問われていることを反映していると言ってよい。
「ナイロビ宣言」はAUCが前年に決議した「アジェンダ2063」[AUC 2013]10に随所で触れ、これをアフリカ諸国自身のイニシアティブとして尊重する姿勢を打ち出した。「ナイロビ宣言」は一次産品の国際価格の下落に加えて、「エボラ出血熱の流行」、「過激化、テロ、武力紛争及び気候変動」を「アフリカの直面する新たな課題」として掲げた。そして、それらの課題を踏まえて、第1に「経済多角化・産業化を通じた経済構造改革の促進」、第2に「質の高い生活のための強靱な保健システム促進」、第3に「繁栄の共有のための社会安定化促進」を開発の重点分野とした。そして、これら3つを貫く重要な理念として改めて「人間の安全保障」の理念が重要であることを確認した。
またそれぞれの重点分野達成の柱として、第1の「経済構造改革」のために質の高いインフラ、産業人材育成などを、第2の「強靭な保健システム」のためにはユニバーサル・ヘルス・カバレージ(国民すべてを包摂する保健サービス)と危機への対応の強化などを、また第3の「社会安定化」のために平和構築・テロ/暴力主義への対処、若者・女性・脆弱層の教育や保護と能力強化、環境・自然資源の保護などを強調している。
このように、TICAD VIは、アフリカ経済が全体として急減速するなかで、それまでの成長にもかかわらず積み残された課題に向き合う中で開かれた。上で掲げた3つの柱以外にも、規模の拡大に比して低い学校教育の質など他にも重要な問題が残されている。そして、近年の事態で明確になったことは、「ナイロビ宣言」ですべての問題に関わっているとされた人間の安全保障の達成のためには、何よりもアフリカの国家の役割あるいはガバナンスの強化・改善が重要だということであり、それなしには、TICAD IIIで日本が掲げた「経済成長を通じた貧困削減」は不十分なものに留まらざるを得ない、ということである。「ナイロビ宣言」は、この点を、ガバナンスが「開発の基礎的基盤である」と述べて再確認している。アフリカ諸国が如何にガバナンスの問題の議論における優先順位を下げようとしても、事態の深刻さとガバナンスの重要性がそれを許さなかったと見ることもできる。
なお、「ナイロビ宣言」はTICADが開放的、包摂的である上に、多国間の協議プロセスであること、国連安保理の改革が必要であることを改めて確認し、再び中国との違いを強調した。そして、特筆すべきことに、国際法などのルールに基づく海洋安全保障の達成が新たに盛り込まれた。これは、中国の南シナ海支配の既成事実化に対してアフリカ諸国の反対を糾合しようとした日本政府の意図を反映したものと見られる。
以上、前半期と後半期に分けてTICADの変遷を見てきた。そのことを踏まえて本論冒頭に述べた「アフリカの経済的パートナーとしての可能性」、そして「中国との対抗」という2つの日本政府やマスメディアの問題関心を対アフリカ関係の中でどのように考えるべきだろうか。
まずアフリカとの経済的関係について言えば、TICADの後半期、特にTICAD Vから日本の民間セクター、中でも経済界の関心が高まってきた。TICAD VIで寄せられた関心の厚さから、アフリカの成長減速やテロのニュースにもかかわらず、民間企業の関心が衰えることなく続いていることが分かる。それは初期のTICAD以来日本が強調してきた民間セクター主導のアフリカ開発に、日本の企業が参画する兆しとして歓迎すべきことであろう。
そもそも一般論として、各国間の関係が緊密で持続的なものとなるには、政府のみならず、民間の営利企業・非営利団体、そして個人の協力・交流が欠かせない。人間の安全保障という高邁な理念を掲げるところまで到達したTICAD前半期までの日本の公的援助の歩みは、この理念の今日のアフリカにおける重みを考えても決して無意味ではなかった。しかし、それまでのアフリカとの関係は、政府・国際協力機構等と一部のNGOや企業の活動に限られ、根の広がりを欠いたものだったと言ってよい。TICAD VIがこの意味でアフリカとの経済的パートナーシップを強める意味を持ったとすれば、それは評価すべきことである。
問題は、どのような経済的パートナーシップがアフリカと日本の双方にとって望ましいかであろう。このことを考えるためには、アフリカとの経済関係を深めてきた中国との「対抗」として問題にされていることを政府間外交と民間経済関係の2つの次元に分けて見てみることが有効であろう。
まず、アフリカ外交における中国との関係についてみると、TICAD Vに続いてTICAD VIでも国際社会等との開放的・包摂的な連携が強調されたことが、中国との差別化を主張したものであろうことは既に指摘した。さらに、TICAD VIで質の高いインフラが強調されるようになったのも、インフラを中心とした支援の「量」を誇示する中国を念頭に、日本が供与できる支援の「質」を強調したものと理解することができる。これらは日本のアフリカ外交における立ち位置の、中国に比べての優位性を主張しようとしたものだと言えるだろう。
さて、日中両政府の間には、歴史問題から尖閣諸島、上述の南シナ海の問題に至るまでいくつもの外交上の争点がある。その延長上にあるのが、日本の国連安保理常任理事国入りに対する中国の反対であろう。しかし、TICAD VIに関わる議論においていくつかのアフリカ諸国は安保理改革で日本を支持することに難色を示したとされる11。そもそもこれらの日中の争点は、アフリカ諸国の開発に直接関連することではないし、同時に中国を重要なパートナーとする国々にとっては、容易に賛成できることではないだろう。TICAD VIでの日本の優位性の主張は、こうした中国との政府間外交上の対立を日本に有利に導くために有効に働いてきたとは必ずしも言えないようである。
それでは、TICAD V、TICAD VIで焦点のあたった民間ビジネスの次元における中国との関係はどのように考えるべきだろうか。まず認識されなければならないのは、中国と日本の貿易額の規模の違いである。例えば2015年の日本からサハラ以南のアフリカへの輸出は85億米ドルに過ぎないのに対して、最大の対アフリカ輸出国である中国は1,034億米ドルと日本の12倍にも及ぶ。同年の中国の全世界への輸出総額は日本の3.6倍に留まることを念頭に置くと、これは単なる外交関係の密接さや政府の努力の違いなどで説明できるものではないことがうかがえる。言い換えれば、中国の輸出品には、サハラ以南のアフリカでより大きな需要を獲得できる理由があるということである。そこで、日本と中国のサハラ以南のアフリカへの輸出品目の内訳をみると、日本の場合、その44%が車両に集中しており、また9割近くを車両を含む重化学工業製品ないし電気製品が占めている。他方、中国の場合、品目はより多岐にわたっており、最も多い電気製品でも16%で、上位10品目の中に、衣類、家具、靴、綿製品などの軽工業品が含まれている。それは、中国製品がよりアフリカの人びとの日常で用いられる消費財を供給できていることを意味していよう (UN Comtrade)。中国製品は、単に21世紀の高度成長の下で起こったアフリカの消費ブームによく応えているというだけではなく、底辺層の需要をも捉え、アフリカの各都市のスラムの路上でさえ売られている。アフリカで底辺層、すなわちBOP(Bottom of Pyramid)向けビジネスに最も成功している国は、中国に他ならないのである。
中国製品がアフリカの人びとに受け入れられる要因は、消費財の需要が質よりもまずは価格競争力で優位性のある商品に向けられていることにあるだろう。ここで、中国製品の優位性を覆すことが、日本企業の多くにとって容易でないことは明らかであろう。
アフリカにおける日中の輸出の規模と品目構成の違いは、両国が現在の世界経済の中で占める役割の相違に深く関係している。すでに軽工業品、あるいは一部の重化学工業品・電気製品で競争力を失っている日本の輸出品の多くは、生産に高度な技術を必要とする素材、部品、工作機械である。中国をはじめ東アジアの製造業は、日本からそうした技術集約的な製品を輸入することで成り立ってきた。単純化していえば、自動車や競争力を維持している電気製品などを除いて、日本の製造業の主な海外顧客は、製造業者他の生産者なのである。BOP層をも含む世界の消費者を相手にしている中国との違いは歴然としている[高橋 近刊]。
もちろん、化粧品や一部の食材、医薬品など、アフリカの特に高所得の消費者の需要を獲得できる多種類の製品があり得ることを否定はできない。しかし、日本企業が総体として、アフリカ向けの輸出において競争力を獲得するにはおそらく2つのシナリオしかない。一つは中国を含む新興諸国及びアフリカでの現地生産や新興諸国及びアフリカの企業との提携の強化を通じて価格競争力を高めることであり、もう一つはアフリカに日本の優れた素材、部品、工作機械等の顧客となる企業を育成していくこと、すなわち東アジアと同様の工業化をアフリカで実現することである。
前者は、既に一部の日本企業が南アフリカやインドで実行しつつあることである。もし個別企業の経済的利益だけを考えるなら、提携先の新興国企業から中国を排除する理由はない。今まで日本企業は、中国企業を下請けに用いるなど協業してきたし、今日もアフリカでの大規模ビジネス・プロジェクトにおける中国企業との提携構想を耳にする12。
後者は、TICAD VIでも重点分野とされたアフリカの経済構造転換を図ることに他ならない。アフリカ総体では、そのために長い時間を要するだろう。けれども、アフリカで最も工業化を遂げている南アフリカには、日本企業の顧客となっている製造業企業が日系の現地法人も含めて存在するし、その意味で実現性の全くない話ではないのである。さらに付け加えるなら、アフリカの工業化についてはFOCACにおいて中国も支援を表明している。
日本企業のビジネスをめぐって、中国との対抗関係が最も問題となるのは、アフリカ諸国の政府が関わる大型のインフラ整備案件や、資源開発であろう。これらの分野で中国が政府の強力な後押しによって案件獲得を進めてきたことは間違いのない事実である。ただ、これらの分野では決して日本と中国の競争だけが問題になるわけではない。植民地時代から蓄積した現地との組織的関係、ノウハウや利権を有する欧米、特に旧宗主国の企業もまた競争相手にもなり、また連携相手にもなり得るであろう。アフリカ開発にとって重要なことは、受注先を決定するアフリカ側の政府が、公正な手続きに則って、国民の利益になり得るような案件を推進できるかである。正にそれはガバナンスの問題であり、アフリカ各国の国家建設に関わる問題である。この点を考えても、TICADをはじめ、アフリカ開発に関わる様々な議論において、ガバナンスはやはり優先事項とされなければならないであろう。
いずれにせよ、民間企業のビジネスの次元では、TICADを中心とするアフリカとの関係を、マスコミが喧伝したような日中間の対抗の視点でのみ捉えるのは的確ではないし、それに基づいて今後の構想を描いていくことは適切でもない。むしろ、日中相互の優位性に応じた戦略的な棲み分け、さらには可能かつ有益な分野での提携をも排除しないことが重要ではないか。アフリカ諸国の工業化・産業構造の転換を日中両国がともに目指していることから言っても、この点はより考慮されてよいように思う。
世界の経済開発研究を牽引してきたサックスら著名な論者は、かつてこぞってアフリカにおける天然資源の豊富さによる「資源の呪い」がアフリカの低成長の原因だと指摘した(Sachs and Warner [1997]など)。本論で述べたように、1970年代に資源ブームが去ったあと、アフリカの国々がモノエクスポートを脱することができず、その経済が長く低迷した事実はそれを裏付けている。21世紀に新興国経済の膨張によって起こった資源・一次産品ブームは、アフリカのモノエクスポートの状況をより強めたようにも見える[高橋 2014]。そこで生じた、資源・一次産品の国際価格の下落と経済の急減速によって、アフリカは、1970年代と同様の重大な岐路に立っていると言ってよい。TICAD VIが提案したように多角化・産業化を通じて経済構造の転換を図ることができなければ、再び「資源の呪い」が再発することは十分に予想されるだろう。過去の教訓からくみ取れることは、経済構造の転換のためには物的・人的・知的インフラの整備を通じた市場システムの形成、人間開発を通じた経済主体の育成に加えて、政治社会の安定などさまざまな条件を整えなければならないことである。この意味で、種々挙げられてきたTICADの重点事項はどれか一つ、例えば産業化が最優先ということではなく、相互に関わって重要なのである。残念ながら、上記の条件を整備するためのアフリカと支援諸国の現在までの努力が十分であったとは言えず、だからこそ、近年のTICADでも繰り返しその整備が課題となってきたのである。
それらの条件の達成のためには、繰り返しになるが、アフリカの政府の役割こそが鍵となる。それは、たかだか半世紀余り前に始まった、アフリカの国家建設という歴史的な挑戦を今後もたゆまず続けていくことに他ならない。その挑戦は、TICAD Iの「東京宣言」が正しく指摘したように、長い時間のかかる複雑なプロセスにならざるを得ない。
TICAD VIのサイド・イベントに参加した日本の民間企業の人びとが、アフリカの魅力として口にしたのは、将来人口が最も急速に増加し、大きな市場となることであった。たしかに、国連の人口予測によれば、2060年ごろにはアフリカの人口は南アジアを抜いて世界最大となる[UNDESA/PD 2016]。そこに民間企業が期待を寄せることは理解できる。だが、人口最大の大陸が、経済の停滞、人間開発の遅れや社会・政治の不安定をかかえることは、人類社会共通の大問題にもなり得よう。言い換えれば、アフリカの経済構造を転換し、繁栄と安定をもたらすことは、日本にとっても中国にとっても大きな利益になることのはずである。この点からいってもアフリカ開発の次元で中国との対抗をことさら強調することは決して生産的なことではないことが分かる。
TICAD VIで日本政府は官民合わせて300億米ドル(約3兆円)のアフリカ支援を表明した。規模としては2015年のFOCACで示された600億米ドル(約6兆円)の支援の半分にとどまるものである。しかし、GDPの規模や年々の成長率で大きく水をあけられ、中でも輸出収入が中国の3分の1以下の日本が支援の額で中国と競い合うことは不毛であろう。むしろ、日本は、公的な援助を通じて短期的で即物的な見返りを求めることを自戒しつつ、インフラに限らず質の高い支援を進め、息長く将来にわたってアフリカの国家建設に寄り添っていくことこそが最善の道である。
国益の観点からは、このような主張は、外交の厳しい現実を知らない夢想だとのそしりをまぬかれないかもしれない。しかし、欧米が過去にとってきた自己の価値基準に合った改革を求める性急なアプローチ、あるいはその国際協力の大半がひも付きである、中国のいわば新重商主義なアプローチのどちらとも異なり、アフリカ自身の開発努力自体がより質の高いものになっていくことを粘り強く支援し、人間の安全保障を自ら担える国家の建設を支援することが、長い目で見れば、日本にとっての外交的な資産となり、独自のイニシアティブを発揮していくことにつながる、そうした考え方があってもよいのではないか。そして、不透明感を増す世界のなかで、その独自のイニシアティブを、各国が強めつつある自国本位の姿勢への歯止めとする、それはむしろ平和主義国家日本の果たすべき役割であるように思われる。