2017 Volume 55 Pages 62-73
本稿の目的は、近年モザンビークで発生している野党第一党モザンビーク民族抵抗(RENAMO)の武装勢力と国軍・警察の衝突のメカニズムを明らかにすることである。考察の際の着目点は、当事者であるRENAMOの除隊兵士の処遇の変化と、RENAMOの弱体化の関係である。モザンビークでは1992年に内戦を国際社会の仲介によって終結させ、紛争当事者を政党として複数政党制を導入して以来、モザンビーク解放戦線(FRELIMO)が政権与党を担っている。しかし、FRELIMOは選挙において必ずしも圧倒的な勝利を収めてきたわけではない。だからこそFRELIMOは一方で支持基盤を固めるために自らの陣営の退役軍人・除隊兵士を厚遇し、他方でRENAMOの弱体化を図り、結果的にRENAMO側の除隊兵士は排除されてきた。近年のRENAMOの再武装化は、紛争当事者の処遇に格差をつけた当然の結果であり、それを国軍・警察が鎮圧する構図となっている。
モザンビークでは紛争を終結させた1992年の包括的和平合意(以下、和平合意)以降、紛争が再発することなく、2000年代には7%に達する高い経済成長率を記録してきた。しかし、2011年末に除隊兵士の社会的統合に関する法律が施行されたのを機に、その情勢は急激に悪化している[Vines et al. 2015, 26]。旧来の除隊兵士に関する法律は、解放闘争時代(1962~1975年)の退役軍人・除隊兵士を軍人恩給および社会保障サービスの優遇の対象とする一方で、内戦時代(1976~1992年)については傷痍軍人のみを対象としていた。これに対して2011年の法律は、内戦時代の退役軍人・除隊兵士も軍人恩給および社会保障サービスの優遇の対象として定めている。一見すると対象を拡大して改善されたように見えるが、同法の対象からは非正規兵を多く含む野党第一党のモザンビーク民族抵抗(Resistência Nacional Moçambicana: RENAMO)側の除隊兵士が排除されていた。その結果、同法の施行後間もない2012年3月、RENAMOナンプラ州支部に集結したRENAMO側の除隊兵士と警察の間で銃撃戦に至るという反発を招いた。さらに同年10月、党首のデュラカマ(Afonso Dhlakama)は中部ソファラ州の内戦時代の軍事基地を再建して活動拠点とし、以来、北中部を中心にRENAMO武装勢力による襲撃や国軍との衝突が散発的に繰り返されている。RENAMOと国軍の軍事力の差を考慮すれば内戦時のような全面的な紛争に悪化することは今のところ考えにくく、実際に2016年12月末から2017年4月末までは両者の間で停戦が合意されているものの、事態が完全に沈静化したとはいえないのが現状である(2017年3月現在)。
モザンビークでは、紛争の当事者であった現与党モザンビーク解放戦線(Frente de Libertação de Moçambique: FRELIMO)とRENAMO双方の側に除隊兵士がいる。しかし、前述のとおり傷痍軍人を例外として、内戦時代の除隊兵士は紛争直後に動員解除給付金を受けていた数年間を除けば、軍人恩給等の給付の対象ではなかったわけである。その状況に鑑みれば、2011年以前もFRELIMO・RENAMOの別を問わず除隊兵士から反発があっても不思議ではないが、2011年以降にRENAMO側からのみ反発が起こった。つまり、その反応の有無は、何らかの手段によってFRELIMO側の除隊兵士の不満を解消する措置が執られてきたのに対して、RENAMO側の除隊兵士については同様の措置が執られてこなかったことを示唆している。
そこで本稿では、近年のモザンビークにおいて政治暴力が発生するメカニズムを、除隊兵士の処遇に着目し、次の2つの問いについて考察することで明らかにする。第一の問いは、FRELIMOおよびRENAMOはどのような手段で自らの陣営の除隊兵士の不満を解消してきたのかということである。これを明らかにするため、第1節では除隊兵士の処遇の変遷を確認する。紛争の再発防止と社会の安定化という観点からすれば、紛争当事者の処遇に差をつけることは、当然ながら紛争再発の誘因になりかねない。第二の問いは、それにもかかわらず2011年の法律に具体化された除隊兵士に対する処遇の差がどのように生まれたのかということである。この観点から、第2節では除隊兵士の処遇の変化と過去の選挙結果を照らし合わせ、政策決定に対するRENAMOの影響力の盛衰との関係を検討する。さらに、これらの考察を踏まえ、第3節では2012年以降長引く事態に対するFRELIMO政権の対応の意図を探る。
FRELIMO・RENAMOともに紛争当事者であった過去に由来し、重要な支持層として退役軍人・除隊兵士団体を抱えている。1992年の紛争終結直後には、再発を抑制するために武装解除とともに除隊兵士の社会統合が喫緊の課題として取り組まれた。当時、政府は国軍(8533人)とRENAMO軍(3662人)を統合してモザンビーク国防軍(Forças Armadas de Defesa de Moçambique: FADM)を新設し、副参謀長官にRENAMOの前最高司令官を据え、軍事部門での権力分有を目指した。残る9万2000人(国軍側7万1000人、RENAMO側2万1000人)が動員解除されて間もなく、国軍の除隊兵士からなる団体を母体とし、そこにRENAMO除隊兵士を包摂する形で1994年12月にモザンビーク除隊兵士団体(Associação Moçambicana dos Desmobilizados da Guerra: AMODEG)とモザンビーク傷痍軍人・準軍人団体(Associação de Deficientes Militares e Paramilitares de Moçambique: ADEMIMO)が設立された。しかし、国軍関係者は都市部出身者が多く相対的に就学歴が高いために設立当初から組織運営の中枢を占めたのに対して、RENAMO側除隊兵士は農村部出身者が多く就学歴が低いために周辺化され、のちに別団体を組織した。
1994年の第1回国政選挙直前に行われた動員解除では、18カ月間の給付金、農業用具、種子、3カ月分の食糧で構成されるキットが支給された。その後も政府はAMODEGによる活発な請願を受け、1995年から1996年の半ばにかけて、つまり動員解除後の給付期間が満了するタイミングで追加的に18カ月の給付金を支給している。しかし、追加給付金を受けたのちの1997年3月の調査でも除隊兵士の就業率はわずか14%にすぎず、生計基盤を整えるという点で社会統合は極めて不十分だった[Schafer 1998; McMullin 2006]。
そこで政府は1999年に退役軍人省(Ministério dos Antigos Combatentes)を設立した。設立当初の対象は解放闘争(1964~1974年)の退役軍人、つまりはFRELIMO側の功労者にすぎなかったが、和平合意10周年であると同時にFRELIMO結成50周年でもあった2002年には退役軍人の地位を定めた法律を制定し、解放闘争時代に10年以上軍に所属した退役軍人のみならず、この機に国軍およびRENAMO双方の傷痍軍人を対象に含めた軍人恩給の支給を開始した。しかし、その認定は政治的に行われ、RENAMOの除隊兵士が排除されていたことが指摘されている[Alusala and Dye 2010]。
さらに動員解除に伴う給付金の支払期間終了後に採られた政策をみると、退役軍人や除隊兵士を明示的に対象とする政策の他にも、名目上は地方分権や村落開発を目的とした村落行政の能力強化を謳いながら、実態は退役軍人や除隊兵士を対象に経済的資源を配分しているものが多数ある。例えば、2000年に地方行政組織の末端機関として新たに「共同体権威」を定めた布告では、伝統的権威と並んで社会主義時代以来のFRELIMOの機関員である事務局長(secretário)や、しばしば国軍の退役軍人や除隊兵士が務める地区の代表者「コミュニティ・リーダー」を一括りに「共同体権威」として国家が承認している。その結果、RENAMO支部で銃撃戦が発生したナンプラ州都ナンプラ市では、2014年国政選挙での各政党の得票率はRENAMO48%、FRELIMO38%、モザンビーク民主運動(Movimento Democrático de Moçambique: MDM)14%とRENAMOが優勢であるにもかかわらず、同市内の「コミュニティ・リーダー」326人の9割はFRELIMO側の退役軍人か除隊兵士である[Verdade, 1 de Outubro de 2014]1。そして「コミュニティ・リーダー」を含む「共同体権威」は2003年に村落行政機関「共同体諮問評議会」の構成メンバーとして位置づけられ、2005年からは給与・制服が支給され、国章を使用することが認められた。つまり、FRELIMO政権は自らの陣営の退役軍人・除隊兵士に従来の一時的な給付金ではなく、定期的に給与が支払われる職を用意したのである。
さらに上記の「共同体諮問評議会」には中央政府から配分された経済的資源を分配する権限が付与されている。同評議会は、翌2006年から地方開発を目的とするマイクロ・クレジットのための予算として郡レベルで地方行政機関に支給が開始された「郡開発基金(Fundo de Desenvolvimento Distrital: FDD)」の対象案件の採択決定機関となっている。その結果、対象となる案件が著しくFRELIMO関係者に偏っているとの批判がある[Orre e Forquilha 2012]。こうした実態を反映して、「共同体権威」となった「コミュニティ・リーダー」に対する野党支持者の目は厳しい。RENAMOもその地位の廃止を求めているだけでなく、2012年以降に発生している襲撃ではしばしば「コミュニティ・リーダー」が標的となっている[Diário de Zambézia, 19 de Abril de 2016; Portal de Angola, 21 de Março de 2015]。
さて、再び除隊兵士を明示的な対象とした政策に戻れば、和平合意15周年を控えた2007年前後から軍人恩給をめぐる議論が再燃している。政府は2008年末に省庁横断委員会を設けて「元除隊兵士および傷痍軍人の社会統合のための戦略(Estratégia para Reintegração Social dos Ex-Militares Desmobilizados e Portadores de Deficiência)」を策定し、除隊兵士に対して既存のFDDによるマイクロ・クレジットを優先的に分配し、職業訓練の機会を提供するほか、ADEMIMOを介して家族も含めた社会保障、医療サービスおよび医薬品補助を行う方針を示した[Verdade, 2 de Julho de 2009]。退役軍人や除隊兵士に対する公的補助の内容は、主に社会保障と社会統合に分けられている。内戦中の激戦地の1つであるソファラ州政府ホームページによれば、公的補助の内容は解放闘争の退役軍人の認定と登録と恩給給付、退役軍人の親族に対する葬儀費用の補助、退役軍人および除隊兵士に対する医療費の補助、生活保護認定と食糧援助、退役軍人およびその子に対する普通中等教育の学費免除、退役軍人の子に対する専門学校の学費免除および高等教育における一部奨学金・教育大学総学費奨学金、除隊兵士に対する公立学校の学費免除、退役軍人に対する制服の支給などである。
「元除隊兵士および傷痍軍人の社会統合のための戦略」と並行して、国民議会では除隊兵士も含めた兵士の地位に関する法案が議論された。兵士の地位に関する法律(Lei nº 16/2011, de 10 de Agosto: Estatuto do Combatente)が2011年5月にRENAMOによる反対44票に対して賛成175(内169票がFRELIMOおよびMDM)で採択され、続いて兵士の地位に関する細則(Decreto nº 68/2011, de 30 de Dezembro: Regulamento do Estatuto do Combatente)が施行された。これらに基づき、政府は解放闘争の退役軍人のみならず内戦時の兵士も軍人恩給および社会保障サービスの優遇の対象に含め、新たに予算を確保した[Verdade, 19 de Maio de 2011]。対象の拡大にもかかわらずRENAMOが反対した理由は、自らの支持層である除隊兵士の多くが非正規兵や民兵であり、同法の対象に含まれていない点にある。RENAMOは元々反政府ゲリラであったという性格に起因して、もとより軍事動員の体系的な記録を保持してはいない。そのためにRENAMOの武装勢力に農村から直接動員された人々が動員の証拠となるものを提示するのは極めて困難である。実際のところ、紛争直後には国軍側だけでも15万人の非正規兵が郡・州の管轄下にあると言われたが、その実態は農村部に散り散りになっており、RENAMO側に至っては見積もりすらない[オールデン 1997]。
これらの法律について、当事者でありRENAMO支持者である除隊兵士らも否定的な評価を下している。除隊兵士団体の中でも近年選挙の度に支持政党が注目される除隊兵士フォーラム(Fórum dos Desmobilizados de Guerra: FDG)は、立法化に際して500人余りを動員して内閣府前でデモを行った。そして、RENAMO側の除隊兵士が政府側の除隊兵士同様に新法に含まれること、除隊兵士に対する恩給の月額最低600メティカル(2011年のレートでおよそ18USドル)を1万2500 メティカル(同370USドル、最低賃金の4倍相当)とすること、除隊兵士のみならず民兵およびその寡婦や遺児を含めた家族を対象とすること、さらには政府が除隊兵士のプラットフォーム機関を設置するよう要求した[DW, 26 de Outubro de 2011]。また、内戦終結直後に元国軍兵士と同等に武装解除され、給付金を受け取った経験のあるRENAMOの除隊兵士らは、兵士の地位に関する法律の成立直前も武装解除時と同等の待遇を期待する一方で、不満の根拠としてFDDの運用を挙げている[Schafer 2013; Wiegink 2015]。
冒頭で挙げた第一の問いに戻るならば、紛争終結直後の武装解除の時期から、FRELIMOはほぼ絶え間なく直接的・間接的に自らの陣営の退役軍人・除隊兵士を厚遇すべく策を施してきたのに対してRENAMO側の除隊兵士はその対象から排除されてきた。そうした状況を決定的なものとしたのが、2011年の兵士の地位に関する法律であった。
FRELIMO・RENAMO双方にとって一大支持層である退役軍人・除隊兵士の要求に応えうるか否かは各政党の支持に直結する。しかし、前節で述べたとおり、FRELIMOがこの支持層の要求の受け皿となって数々の政策を打ち出してきたのに対して、RENAMO側の除隊兵士はそれらの政策からことごとく排除されている。そこで、本節では、政策決定に対するRENAMOの影響力の盛衰と前節で確認した除隊兵士の処遇の変化との関係を、過去の選挙結果を順に追いながら検討する。
出所:IESE: Instituto de Estudos Sociais e Económicos, Cartografia Eleitoral.(http://www.iese.ac.mz/cartografia-eleitoral/#/)
注:モザンビーク民主運動(Movimento Democrático de Moçambique: MDM)。国民議会における議席数は250議席である。なお、1999年および2004年選挙では民主連合(União Democrática: UD)がRENAMO-UDとして野党連合を結成したが、それ以降の選挙では連合を解消した。
まず、1994年の第1回国政選挙では、大統領選挙でこそFRELIMO候補のシサノ(Joaquim Chissano)が53.6%の票を得て得票率33.9%のRENAMO候補デュラカマを大きく引き離した。しかし、図に示すとおり、国民議会選挙では250議席のうちFRELIMOが129議席(得票率44.8%)を獲得したのに対して、大方の予想に反してRENAMOが112議席(同38.2%)を獲得した。野党の合計議席数がFREILMOの議席数を上回ることは辛うじて防がれたが、野党の合計得票率は55.2%に達しており、FRELIMOに危機感を抱かせるには十分であった。さらに、1999年の第2回国政選挙の大統領選では2期目に入るFRELIMO現職候補のシサノが52.3%の票を獲得したのに対してデュラカマが47.7%を獲得し、前回20ポイント近くあった両者の差は4.6ポイントにまで縮んだ[MPPB, 24 January 2000]。
1999年の大統領選の僅差に危機感を強めたFRELIMOは、同選挙後から2004年の第3回選挙までの間に除隊兵士の支持を獲得するため、前節で言及したとおり、退役軍人省の設立(1999年)、退役軍人と傷痍軍人を対象とした軍人恩給の支給開始(2002年)、そして「共同体権威」の法的承認(2000年)と「共同体諮問評議会」への権限の付与(2003年)といった複数の政策を実施した。一方、対抗するRENAMOは1999年の国政選挙直後から党の分裂への対処に追われた。1992年の和平合意交渉でRENAMO代表を務め、デュラカマの後継者と目されていたドミンゴス(Rauld Domingos)がFRELIMOと分権化に関わる交渉を持ったことを理由にRENAMO議員団長をはじめとする要職から罷免され、2000年9月には党から除名されたのである[Carbone 2005]。ドミンゴスの除名は、彼が率いていたRENAMO内の議会派と党内の権力を掌握しようとしたデュラカマとの間に軋轢を生じさせた。こうしたRENAMOの分裂は2004年の国政選挙に大きく影響し、前回の大統領選でシサノにわずか4.6ポイントにまでに肉迫したデュラカマの得票率は31.8%と前回から16ポイント近く下がった。対するFRELIMOは和平合意以来2期を務めたシサノに代わってゲブザ(Armando Guebuza)を擁立し、63.9%の票を獲得した。国民議会選挙でもFRELIMOが62.2%の得票で160議席を獲得した。これに対して、RENAMOは民主連合(União Democrática: UD)と選挙協力を結んだものの得票率は29.8%と前回から10ポイント下げ、議席数を90(前回比27減)にまで減らした。
さらにRENAMOの退潮は続いた。2009年10月の第4回国政選挙に際しては、2008年の地方選でRENAMOから立候補してベイラ市長に再選したシマンゴ(Daviz Shimango)が2009年3月にRENAMOから独立し、MDMを結成した。一方、デュラカマは国政選挙に向けて5月に首都マプトからRENAMOの支持基盤であると同時に250議席からなる国民議会のうち47議席が配分された最大の票田であるナンプラ州都に拠点を移転した。
退潮著しいRENAMOに対して、FRELIMOは2004年の第3回国政選挙以降も支持基盤の強化のために「共同体権威」に給与を支払う法律を施行(2005年)し、「共同体諮問評議会」に中央からの予算FDDの配分権限を与え(2006年)、元除隊兵士らに優先的にFDDを給付することを明言した(2009年6月)[Verdade, 2de Junho de 2009]。こうした施策は明らかに同年10月の第4回国政選挙での支持獲得を狙ったものであった。
その結果、2009年の第4回国政選挙では大統領選でゲブザが75.0%(前回比11.1ポイント増)、デュラカマが16.4%(同15.4ポイント減)、初出馬となるシマンゴが8.6%を獲得した。そして国民議会選挙ではFRELIMOが191議席(得票率74.7%、前回比12.5ポイント増)、RENAMOが前回より39議席減らして51議席(同じくそれぞれ17.7%、12ポイント減)、MDMが8議席を獲得した。なお、2009年の選挙ではFRELIMOおよびRENAMOを除いて国家選挙管理委員会(Comissão Nacional de Eleições: CNE)による候補者の関係書類の発行が遅れ、MDMにいたっては候補リストの大部分がCNEによって拒否され、10州のうち4州でしか候補者を立てることができなかった。このため、CNE内で二大政党の合意があったことが指摘されている[Manning 2010; 舩田クラーセン 2013]。つまり、この時点で、RENAMOの選挙戦略はFRELIMOへの対抗ではなく、対抗野党MDMの伸張を妨害することにあった。
そして2011年の除隊兵士の社会統合に関する法律に関する議論は、まさに2009年の選挙でRENAMOが大敗し、2010年にゲブザ政権が樹立された直後から始まった。2011年11月に兵士の地位に関する法律が施行された翌12月からRENAMOナンプラ支部事務所の周辺には除隊兵士数百名が終結していた[AIM, 15 March 2012]。12月には当時のゲブザ大統領がデュラカマとナンプラで会見したが、翌年1月のRENAMOの集会では、デュラカマは党員と除隊兵士900人以上の参加者の面前で参加者からFRELIMOに買収されていると非難されている[O País, 16 de Janeiro de 2012]。さらにその1ヵ月半後の3月初頭にRENAMOのナンプラ支部事務所の外で武装した除隊兵士と警察の間で銃撃戦が発生し、死傷者が出た。
ここで冒頭に挙げた第二の問い、すなわち2011年の除隊兵士に対する処遇の差がどのように生まれたのかという問いに戻ろう。党内の分裂と対抗政党の誕生によってRENAMOの議会における活動の第一義的な目的は、FRELIMOへの対抗から野党第一党の座を保つことへと変化した。この目的を果たすため、2009年の国政選挙ではCNE内でのFRELIMOとの合意のもとに対抗野党MDMの伸長を妨害し、その代わりにRENAMOが野党第一党の座に納まる限りにおいてFRELIMOの盛り返しを許した。その結果、RENAMOは野党第一党の座を保守したものの、支持者の要求を満たすために国民議会を通じて政策決定に影響力を行使するために有効な議席数を持たなかったのである。RENAMO指導部のこうした態度の変化は、支持者である除隊兵士の不満を高めることになった。
2009年の国政選挙でのRENAMOの大敗以降、2011年の除隊兵士の社会統合に関する法律の施行直後の銃撃戦に至る経緯を振り返るならば、この衝突を単にRENAMOの除隊兵士と警察の対立として理解するべきではない。そうではなく、この衝突は議会での発言力を低下させたRENAMO指導部への不満を鬱積させた除隊兵士による圧力が加わり、折り重なる緊張関係の最中で起きたものとして理解すべきだろう2。しかし、FRELIMOの反応は異なった。銃撃戦の直後、2012年の国民議会の会期最初の演説においてFRELIMO議員団長は、銃撃戦を引き起こしたRENAMOの責任と武装の非合法性を追及し、「RENAMOが本来の犯罪者の顔を見せた」と極めて強い口調で糾弾している[AIM, 15 March 2012]。議会においてFRELIMOを代表するその演説では、RENAMOの武装勢力を排除すべきであるというメッセージのみが全面にだされていた。
それに対抗するように、デュラカマは同2012年10月にRENAMOの創始者マツァンガイッサ(André Matsangaíssa)の命日に合わせて内戦時代の基地を再建した。マツァンガイッサは元FRELIMO軍司令官であったが独立直後に複数政党制を志向したことでFRELIMOの再教育キャンプに送られ、そこから脱してRENAMOの創設メンバーとなったのち内戦中に死亡した人物であり、FRELIMOの一党制に対する抵抗の象徴とされている[Igreja 2013]。デュラカマはそのメッセージを込めて再建した基地を活動の拠点とし、次の3つの要求を行った。それは第一に野党党首の地位の保障、第二にRENAMO兵の軍・警察への編入と社会統合という1992年の和平合意の未実施事項の実施であった。政治的緊張の高まりに対処するため、12月にゲブザ大統領が再度デュラカマとナンプラで会見し、それ以来、政府はRENAMOとほぼ毎週交渉を繰り返したが翌年を通じて事態の抜本的な改善には至らなかった。2013年7月の段階でデュラカマは前の2つの要求に加え、第三の要求である領域的な権力分有を可能とする暫定政府の設立と選挙法の改定を求め、同年11月に予定されていた地方選と翌2014年10月の国政選挙の実施を延期するよう要請した[Vines 2013]。
しかし、2013年の地方選が延期されることはなく、RENAMOは選挙をボイコットし、2014年の国政選挙については実施のためにFRELIMOが妥協して同年4月にRENAMOの要求を受け入れて選挙法を改定した。暫定政府の樹立については継続して検討されることを条件に、両者の間で9月5日に停戦合意が結ばれ、10月の国政選挙は国際的な選挙監視団による監視の下で実施されることになった。デュラカマは停戦合意に調印したその足で選挙遊説に向かい、自らを2012年3月のナンプラ支部での銃撃事件の被害者として位置付け、停戦合意に至る寛容さと国民統合の志向性を演出し、FRELIMOの排他性との対比を強調して支持率を上げた[Allison 2014]。大統領選の結果ニュシ(Filipe Nyusi)が得票率57%(前回比18ポイント減)を獲得したのに対してデュラカマは36.6%(同20.2ポイント増)を獲得した。また、議会選挙でもRENAMOが議席数を前回の51議席から89議席に復活させ、MDMも17議席を獲得し、FRELIMOは前回の191議席から144議席へと大幅に議席数を減らした。
デュラカマは2014年の国政選挙における得票率の回復を背景に、選挙前よりも増して強硬に前述の3つの要求を繰り返し、RENAMOが直ちに武装解除する意思はないと表明した[Savana, 7 de Novembro de 2014]。これに対して政府は、選挙直前にRENAMOと結んだ停戦合意の条件を順次検討していった。第一の野党党首の地位の保障については、2014年12月の国民議会の臨時会期で事務所・公邸およびそれらの使用人と車両の提供、本人および配偶者・子への外交旅券の発給、医療補助、国内外移動費の補助、航空機のファーストクラス使用、不逮捕特権などを含む最大野党党首法案が大統領府から提出され、可決された。第二に、除隊兵士の軍・警察への統合を随時行うほか、除隊兵士の社会統合を具体化するため、同年12月には閣僚会議で「平和と国民和解基金(Fundo de Paz e Reconciliação Nacional)」を設け、10万人を対象に1000万ドルの予算を確保して起業に対する融資として運用する方針を決定した。これに対してRENAMOは、国軍の除隊兵士を含めるべきではなく、RENAMO側の除隊兵士の寡婦や子、60万人を対象とするためには予算額が不十分であると反発した。また、翌2015年3月に同基金の執行部の過半数をFRELIMOが占めるとRENAMOは議会での承認をボイコットし、7月末の段階で8月1日から運用される基金の受け取りを拒否した。第三の領域的な権力分有に関する要求については、2015年2月初頭にデュラカマとニュシ新大統領が会談し、合意の上で2月中に国民議会にRENAMOが改めて提案書を提出したが、12月に否決された。
第一の点についてはデュラカマ自身を懐柔する意味合いもあり、速やかにRENAMO側の要求が通ったが、第二・第三の要求は依然として未解決のまま残されている。国民議会での動きと並行して、北中部の各所でRENAMOの武装組織による行政施設、FRELIMO関係者、鉄道などに対する襲撃と応戦する国軍の間での衝突が頻発し、2015年6月頃から北部テテ州で発生した国内避難民の一部が隣国マラウイへ難民として流出し、翌年3月にはその数が1万人を超えた。
RENAMOとFRELIMO政権の関係は硬直状態が続くかと思われたが、2016年の財政スキャンダルの発覚によって新たな展開が見られた。同年4月初頭までに前ゲブザ政権期(2005~2014年)にモザンビークが初めて発行した外国債を含む19億ドル近くの債務隠しが国際メディアで相次いで報じられ、モザンビークは対GDP比でアフリカ最大の債務国へと転落した。この報道の結果、欧州諸国14カ国は財政支援を停止し、IMFをはじめとする主要ドナーがこの問題の追及を開始した。これを受けて5月末にRENAMOに対してFRELIMO政権が妥協する姿勢に転じるという変化が見られた。債務に関する調査では隠し債務の一部は、ニュシ大統領が防衛大臣を務めていた当時、防衛省管轄で国が出資し、RENAMO武装勢力による襲撃にも対応している警備会社Proindicusに対して組まれたものであり、ニュシも国民議会の承認を経ずして組まれた違法な債務について承知していたはずであると指摘されている[MNRC, 17 April 2016; Verdade, 29 de Dezembro de 2016]。
5月末、FRELIMO政権はRENAMOの要求に応じて従来のRENAMOと政府との対話の場を国外から招聘した仲介者も交えた合同委員会へと再編した。同委員会は12月までに5回、地方自治の実現可能性について協議を重ねたが具体的な案を導き出すには至らず、事実上、一旦解散された。この間、RENAMOの武装勢力と国軍・警察による武力衝突は散発的に続いていたが、両者が12月末から翌2017年4月末までの停戦に合意し、継続した協議の場を設けることを検討している。
このように、2011年以降の展開の中でFRELIMO政権が主体的に対応したのは、2014年の国政選挙の実施のための妥協と、野党党首の地位に関する法律の制定による懐柔のみである。それに対してRENAMOとの協議により積極的な姿勢を見せたのは、2016年4月の債務隠しの発覚後である。これは隠し債務の使途に関して調査が進み、それがRENAMO武装勢力の鎮圧にも関わる軍事部門と密接に関係していることが露呈して初めて起こされた行動である。裏返せば、隠し債務の発覚がなければ、FRELIMO政権は硬直状態の協議の再開にむけて舵を切るどころか、債務によって増強された軍備でもってRENAMOの武装勢力の鎮圧を継続した可能性が十分にある。こうしたFRELIMOの姿勢から、FRELIMOはRENAMOの武装勢力による襲撃を徹底した鎮圧と野党第一党の弱体化を図る好機と捉えていたと言えるだろう。
本稿では、近年のRENAMO武装勢力と国軍・警察との武力衝突のメカニズムを明らかにするため、除隊兵士の処遇に注目して次の二つの問いについて検討してきた。まず、それぞれの政党はどのような手段で自らの陣営の除隊兵士の不満を解消してきたのかという第一の問いに対しては、除隊兵士の処遇の変遷を辿ることで以下の点が明らかになった。FRELIMOは自らの陣営の退役軍人・除隊兵士を厚遇すべく、紛争終結直後の武装解除の時期からほぼ絶え間なく策を施してきたのに対して、RENAMO側の除隊兵士はその対象から排除されてきたということである。さらにその手法は直接的に退役軍人や除隊兵士を対象とするものに限らず、地方分権や村落開発といった異なる文脈で行われた取り組みを通じて経済的資源が配分されてきたことが確認された。
次に、除隊兵士に対する処遇の差がどのように生まれたのかという第二の問いに対して、除隊兵士の処遇の変化と過去の選挙結果を照らし合わせた結論は次のとおりである。複数政党制の導入以来、FRELIMOは必ずしも圧倒的な勝利を収めてきたわけではなく、危機感を抱えていたからこそ、国政選挙のタイミングを見計らって一大支持層である退役軍人・除隊兵士の支持を強化し、さらにRENAMOを取り込むことによって2009年の国政選挙でついに圧勝したのである。他方でRENAMOは党内の分裂と対抗野党の登場後、野党第一党としての座を保守するためにFRELIMOとの共存を図って国民議会における議席を大幅に失い、支持層である除隊兵士らの要求を関連法制度に反映させることは不可能になっていた。そのためにFRELIMOの圧勝後、2011年に成立した兵士の地位に関する法律はRENAMO側の除隊兵士を排除する内容となったのである。
当然ながら同法の施行はRENAMO側の除隊兵士の強い反発を招き、除隊兵士と党の間に生じた緊張関係は、2012年以降にRENAMOを再武装化させる党内部の圧力となっていたと考えられる。近年のモザンビークにおける政治暴力は、集権化を追求するFRELIMOとRENAMOの政治的影響力の低下が、相乗的にRENAMOと同陣営の除隊兵士との間に緊張関係をもたらした帰結であり、それを国軍・警察が鎮圧する構図となっている。本稿冒頭に示した紛争の再発防止と社会の安定化という観点に立ちかえれば、紛争当事者の処遇の差が紛争再発の誘因となることは明らかであり、FRELIMO政権の政策はそれを後押しするものであったことは特筆に値するだろう。
モザンビークでは2018年に第5回地方選挙、2019年に第6回国政選挙が予定されている。本稿で見てきたとおり、武力行使を辞さないRENAMOの姿勢は2014年の国政選挙にむけた戦略であり、支持層を再び動員して得票率・議席数ともに回復させたという点では有効であった。しかし、その後の政府との交渉内容に照らしてRENAMOが除隊兵士の要求の受け皿として機能しているのか否かを問えば、現在のところ否であり、RENAMOが第5回国政選挙に際して再動員した支持層をどの程度繋ぎ止められるかは未知数である。対するFRELIMOは前政権による債務隠しが発覚したことによって国民と国際社会の非難に晒されながらRENAMOとの妥協点を探っている。FRELIMOにとってはどの局面においても否定的要素が目立ち、次期選挙までにFRELIMO自体が分裂する可能性も否めない。現在のモザンビークは民主化以降、最大の転換点にあると言っても過言ではない。
本論考の調査は、日本学術振興会科学研究費補助金による「アフリカにおける紛争の性格変化の基層――暴力噴出メカニズムの解明に向けて」(課題番号:16KT0046、研究代表:武内進一)、「紛争後のアフリカ社会における内生的な社会統合に関する研究)」(課題番号:15KK0099、研究代表:村尾るみこ)によって実施いたしました。記して感謝いたします。