2019 Volume 57 Pages 1-12
2011年に南スーダンは分離独立を果たしたが、そのわずか2年後、サルバ・キール大統領率いるSPLM/Aと、リアク・マシャール前副大統領率いるSPLM/A-IOとの戦闘が勃発した。この際、和平調停の役割を担ったのがIGADだった。和平協議は和平合意文書へのキールらの署名という形で結実したが、1年を待たずに両軍による戦闘行為が勃発し、合意文書は死文化した。
本稿では、合意文書の締結を巡り周辺国に生じた力学を整理し、合意締結後南スーダンで勃発した武力衝突に対する国際的要因を検証することを通じて、紛争解決に対する地域機構加盟国の関与のあり方を考察する。
南スーダン共和国の紛争解決に対して、最も粘り強く関与を続けてきたのは政府間開発機構(Inter-Governmental Authority on Development: IGAD)である。IGADは、ジブチ、エチオピア、ケニア、ソマリア、スーダン、ウガンダ、エリトリア、南スーダンの8カ国を加盟国とする地域機構であり、1986年1の創立以来、アフリカの角地域などで恒常的に発生する干魃・飢餓、難民、内戦といった問題に取り組んできた。
2011年に南スーダンがアフリカ最長と呼ばれた内戦の末に分離独立を果たし、新国家として誕生してからわずか2年後、サルバ・キール(Salva Kiir)大統領率いるスーダン人民解放運動/スーダン人民解放軍(Sudan People’s Liberation Movement/ Sudan People’s Liberation Army: SPLM/A)2と、リアク・マシャール(Riek Machar)前副大統領率いるスーダン人民解放運動/スーダン人民解放軍・野党派(SPLM/A-in-Opposition: SPLM/A-IO)との戦闘が勃発した。この際、和平調停の役割を担ったのもまたIGADであった。IGADは、戦闘勃発直後から和平協議を開催し、繰り返される停戦合意違反に挫けることなく、継続的に紛争解決へと介入し、部分的合意を積み重ねていった[村橋 2014]。そして、13カ月に渡る和平協議の成果物として、それらの部分的合意を編纂した和平合意文書「南スーダンにおける紛争解決合意」(Agreement on the Resolution of the Conflict in the Republic of South Sudan: ARCSS)を策定した。しかし、ARCSS署名から1年を待たずに首都ジュバで両軍による戦闘行為が勃発し、戦闘は国内各地へ拡大したことから、ARCSSは履行不可能な状態に行き詰まり、事実上死文化した。
この戦闘行為が、直接的には、南スーダンの国家統治の問題、とくに治安部門の規律不徹底、軍部のプロフェッショナリズムの欠落といった国内事情に大きく依拠することは疑う余地もない[de Waal 2016]。他方、これら国内的要因の存在は、国際的要因の不在を意味するものではない。武力衝突が和平合意履行期間中に勃発していることに鑑みれば、合意を主導し、締結へと導いたIGADの関与の仕方がどのようなものであったかについて検証が必要となることは明らかであるが、未だそれが十分なされたとは言いがたい状況にある。
IGADの和平調停機能に焦点を当てた先行研究は、欧米諸国や国際連合が現地の地域的パートナーと連携して行う平和活動を論じるなかで、スーダンやソマリア内戦に対するIGADの和平調停に言及している。そして、その多くは、IGADが仲介者として一定の役割を果たしたことを認めつつも、加盟諸国間の協調の欠如や利害対立が和平の達成を妨げたとして、IGADに否定的な評価を与えている3[Healy 2011; Khadiagala 2007; El-Affendi 2001]。
独立後の南スーダンにおいても、例えばJohnson[2016, 272-280]は、地域的和平の調停者でありながら妨害者でもあるというIGADの両義的な側面を指摘している。しかしながら、IGADによる和平調停の機能不全に対する理解をさらに深めるには、その両側面を踏まえた上で、紛争当事国の和平を阻害しうる加盟諸国からの具体的な関与が、どのようにして実際的な政策決定に作用したのか、そして、それに関連してどのような現実が作り出されたかといったプロセスを跡付ける作業もまた必要とされる。
本稿では、このような視座のもと、IGAD加盟諸国の関与がどのような域内外の国家間関係の磁場から生じ、どのようにして各国の内政等と絡み合いつつ進展し、実際的な行為へと結びついたかを分析する。それを通じて、これまで未着手であった、ARCSS締結後に南スーダンで勃発した武力衝突における国際的要因の一端を明るみに出したい。
2015年8月26日、ジュバで開催されたARCSS署名式には、ハイレマリアム・デサレン(Hilemariam Desalegn)エチオピア首相、ヨウェリ・カグタ・ムセヴェニ(Yoweri Kaguta Museveni)ウガンダ大統領、及びスーダン第一副大統領らが来賓として招かれた。マシャールは同月17日にアディスアベバで署名を済ませていたため、この日、周囲の関心はキールが署名するか否かの一点に注がれた。なお、キールも17日に開かれたアディスアベバでの署名式に参加していたものの、国民の意見を聞くために猶予が必要などと述べて署名を拒否し、未締結のうちに帰国している4。そのため、ジュバでの署名式におけるキールの動向もまた予測不可能なものであるとして国内外からの関心は高まっていた。
予定から数時間遅れて会場に現れたキールは、合意文書への不満を表明し、留保事項一覧表を来場者に配布した。壇上の首脳らはキールを連れて舞台裏に下がり式典は中断された。土壇場の説得が別室で続いているようであった。締結に至るか否か見通せない状況のなか参集者は会場で待ち続けた。日没間近になり、ようやくキールは合意文書に署名し、式典は閉幕した[Sudan Tribune 2015d]。
翌月、キールは国民向け演説を行い、不本意ながらも署名に及んだ経緯を語った。のちにこの演説内容は大統領声明として現地報道機関等に配布された。この声明文を読めば、南スーダン政府が合意文書の内容に何ら納得しないまま署名に及んでいたことが誰しもわかる。特筆すべきは、ARCSSを紛争当事者間で達成された「真正な合意」(genuine agreement)にあらず、「押し付けられた取引」(imposed deal)であり、南スーダン政府の主権を著しく侵害するものと唾棄した上で、「平和ではなく恐怖の要素が、かなりの程度予測可能となる」と記した箇所である(傍点筆者)[Government of the Republic of South Sudan 2015, 2]。これは、10カ月後にジュバで生じる戦闘行為を先取りする呪詛のことばともなった。この大統領声明は、国外からの圧力が合意形成に決定的役割を果たしたことを明瞭に示しているのみならず、のちの戦闘行為とこの「押し付けられた」和平合意の間に連続性を見出す視点を提供するものである。
それでは、キールを署名に追い込んだ圧力はどのようにして生じたのか。本稿では、以下、IGAD加盟国のうち南スーダンの紛争解決に対する関与度合いの高いエチオピア、スーダン、ウガンダ各国における南スーダンとの二国間関係を整理することを通じてARCSS署名に作用した力学を考察する。
各国について述べる前に、IGADの機構面の概要を説明しておく。IGADは、首脳級会合、閣僚級理事会、大使委員会、そして執行機関としての事務局といった4要素から構成される地域機構である。首脳級会合は、政策の形成、紛争予防・管理・解決に関する指針提供などを行う最高意思決定機関である。また、事務局は4つの部局(平和・安全保障局、農業・環境局、経済協力・社会開発局、事務・経理局)を有しており、各部局は諸案件に対応するための「プログラム」5を有している[Chandler 2010; IGAD 2016, 4]。
(1) エチオピア今日のエチオピアと南スーダンとの二国間関係を理解するには、1974年、エチオピアで樹立された軍部主導型社会主義政権(通称デルグ6)期に遡る必要がある。デルグ政権は、1970年代後半から社会主義路線を放棄し親米路線に転換したスーダン政府との対立を強めていた。1983年5月、南部スーダン・上ナイル地方に駐屯していたスーダン政府軍の二個大隊が反乱を起こしたのちガンベラ地方(エチオピア)へと移動し、二個大隊は大佐であったジョン・ガラン(John Garang)を指導者に据え、エチオピア政府からの支援を得てSPLM/Aが結成された。その後も、エチオピア政府はSPLM/A兵士に武器を供給したり、ガンベラに軍事訓練施設を設置したりするなどしてSPLM/Aへの支援を続けた7[栗本1996; Young 2015, 55]。
これに対し、スーダン政府はエチオピアの反政府武装活動を支援した。ティグレ人、オロモ人らの民族解放戦線はハルツームに事務所を構えることが許され、スーダン政府から武器を供給されていたと言われている[Young 2006, 594-601]。このように、相互の反政府勢力を支援し合う二国間関係において、デルグ政権とSPLM/Aは親密な関係を醸成した。
デルグ政権が、経済破錠による国民の反発の高まりや、冷戦構造崩壊の影響で衰退すると、1991年、連立与党であるエチオピア人民革命民主戦線(Ethiopian Peoples’ Revolutionary Democratic Front: EPRDF)が政権を奪取し、暫定政権を打ち立てた。新政権で最高指導者の座に就いたメレス・ゼナウィ(Meles Zenawi)はスーダン政府の支援を受けていたティグライ人民解放戦線(Tigray People Liberation Front: TPLF)の議長であった8。SPLM/Aにとって、「敵(スーダン政府)の味方(TPLF)」が政権の座に就いたことは災難に他ならず、エチオピア政府という最大の後ろ盾を失ったことで、SPLM/Aは著しく弱体化した。
メレス政権は、経済成長を達成するために国内外の脅威に耐えうる安定性を築くことが不可欠と認識し、ヌエル人、アニュワ人らの衝突が頻発していたガンベラ地方の安定化に着手した。エチオピア政府は、ヌエル人のカリスマ的指導者マシャールと友好関係を築き、ガンベラで多数派を形成するヌエル人に対して影響力を行使できるチャンネルを確保しようと試み、SPLM/A-IOへの武器提供などを含む支援を行った[Young 2015, 55]。この関係性はメレス没後のハイレマリアム政権にも引き継がれた9。
(2) スーダンスーダン政府は、エチオピアの他にもチャド、ウガンダといった隣接国の反政府武装勢力を支援する不安定化工作を続けてきた[Cliffe 1999; 武内2008]。しかしながら、オマル・ハサン・アフマド・アル・バシール(Omer Hassan Ahmad Al-Bashir)率いるスーダン政府は、南スーダンの情勢不安定化は自国の石油収入10の減少を招くと認識し、2011年の南スーダン独立当初は多数派の民族集団による統治が新国家に安定をもたらすとして、キール政権を好意的にみていたと言われている[Johnson 2016, 273]。実際にバシールは、マシャール側からの支援要請をはね退け、キールと軍事物資を取引するなどして政府間の信頼関係を積み重ねた。だが、この信頼関係は直ちに崩壊する。その要因にヘグリグ油田占拠事件及びキールによる反バシール政権勢力支援疑惑があげられる。
① ヘグリグ油田占拠事件2011年10月、キールが大統領就任後はじめてスーダンを訪問した際、バシールはわざわざ空港でキールを出迎えるなどして、良好な関係にあることを周囲に示した。ジョンソン国際連合南スーダン共和国ミッション(United Nations Mission in the Republic of South Sudan:UNMISS)前特別代表によれば、このとき、両者は国境付近の油田地帯を含む係争地であるアビエイ地域の帰属問題を協議したと言う[Johnson 2016, 59]。
同会談でキールは、スーダン政府に対する石油収入減少の補償及び危機的状況にあるスーダン経済支援のため、20億4000万米ドルを暫定的経済措置として提供したいとバシールに伝えたと言われている。この提案には、アビエイ地域の帰属問題における譲歩を引き出したいというキールの思惑があったとされる[Johnson 2012, 58-59]。当時、スーダン政府は南スーダン独立の影響を被り石油収入の20%を失い経済危機に直面していたものの、バシールは油田を巡る交渉では一切妥協をみせずに、このキールの提案を拒んだ。
およそ半年後の2012年4月、SPLM/Aはアビエイ地域の西に位置するヘグリグ油田を占拠した11。バシールはこれに激怒し、直ちにスーダン国軍を動員して南スーダン北部に空爆で報復した。キールは自軍の仕業ではないと油田占拠を否定した上で、スーダン軍の空爆攻撃を非難した[Johnson 2012]。同月、スーダン国民議会は、SPLM/Aを「虫けら」と嘲り、「国家の敵」と宣言し、両国間の関係は急速に冷却化した[Abdelaziz 2012]。
② 反バシール政権勢力支援に対する疑念南スーダン政府には、スーダンにおける反政府武装勢力「スーダン人民解放運動・北部」(Sudan People’s Liberation Movement- North: SPLM–N)支援の疑惑がつきまとっていた。SPLM–Nは、南スーダン独立時にSPLM/Aに合流せず、スーダン南部に留まったままスーダン政府軍との戦闘を続けている。両組織が過去に同一組織であったことなどを根拠に、バシールは、南スーダン政府によるSPLM–N支援が継続されていると繰り返し非難してきた。キールはSPLM-N支援を度々否定してきたが12、南スーダン独立時にSPLM–Nに大量の武器弾薬が提供されたとの情報の他にも、上述のヘグリグ油田占拠事件において、南スーダン国軍がSPLM–Nと軍事連携を行なった疑いがあるなど、南スーダン政府とSPLM-Nとの繋がりを指摘する声は根強い[Johnson 2012]。バシール政権の抱くキールへの疑念は、次第にSPLM/A-IOの支援へと結びつき、SPLM/A-IOの基地周辺への軍事物資投下や、資金提供などが行われるようになった[Conflict Armament Research 2015]。
(3) ウガンダウガンダは、IGAD加盟国で最もキール政権と良好な関係を貫いてきた。2013年12月、ジュバで戦闘が勃発した際、ムセヴェニはキールの要請に応えてウガンダ人民防衛軍(Uganda People’s Defence Force: UPDF)を派遣し、ジュバ国際空港の防衛などを担わせ、UPDFをその後も南スーダンに常駐させた13。キールがUPDFに首都防衛を頼ったことは、ムセヴェニとの特別な信頼関係を象徴する出来事と言える。
一方、ムセヴェニによる南スーダンへの関心は経済利益の保護が大きい。ジュバの市場を覗けば、衣服、プラスチック製品から野菜、果物といった生鮮食品まで、さまざまな生活物品がウガンダをはじめとする周辺国から大量に流入していることに驚かされる。南スーダンはウガンダ の主要輸出相手国14であり、両国の主要都市間を結ぶ幹線道路(ジュバ・ニムレ道路)は流通の大動脈となっている。しかし、南スーダン情勢が不安定化するたびに、同幹線道路は武装勢力による伏撃の温床となり、通行不能となってきた。南スーダンを往復するウガンダ人の交易人はそこで幾度となく経済的、物理的被害を被ってきた。こうした事情により、南スーダン情勢の不安定化がウガンダ経済に打撃を与えることについてはウガンダ国民にも理解されており、UPDFの南スーダン派兵は同国民の支持を得られた[Bereketeab 2017, 150]。ウガンダと南スーダン政府はこのような互恵的な交流を通じて信頼関係を醸成した。
本節では、IGADによる和平調停の中心的役割を担うエチオピア、スーダン、ウガンダと南スーダンとの関係性を整理し、時代ごとに各国が、互いの反政府勢力を含め、異なる紛争当事者の支援者となってきたことを確認した。次節では、ウガンダ政府の対南スーダン政策に注目し、ARCSS署名を巡って生じた変化について述べる。
キールの署名拒否により未締結のうちに散会した2015年8月17日のARCSS署名式会場では、ハイレマリアム・エチオピア首相とムセヴェニ・ウガンダ大統領が衝突する一幕があったと言われている。詳細は不明であるが、憤慨したムセヴェニが「私が貴殿の厄介者ならば立ち去ろう」とハイレマリアムに告げ、即座に会場から立ち去り、空港に向かったと報じられた[Sudan Tribune 2015c]。この衝突を知るものにとって、その10日後、ジュバで開催されたARCSS署名式で、エチオピア、スーダン、ウガンダが「ワン・ボイス」を形成してキールを署名に追い込んだことは、多少なりとも驚くべきことだった。それでは、親キール路線の立場を貫いてきたムセヴェニがこの署名式でキールを擁護しなかったのはなぜか。UPDFの南スーダン撤退やオバマ・アメリカ大統領との接触を見ていくことで、ウガンダの対南スーダン政策に生じた変化を考察したい。
(1) ウガンダ人民防衛軍(UPDF)の南スーダン撤退 ① 国内世論世界各地の世論がアフリカの紛争解決に影響を及ぼした例は枚挙に遑がない。とくに民主主義体制にある先進国にとっては、他国で人道危機が発生すればそれに応じて自国内で道義的関心に基づく世論が生じることがあり、危機が深刻化しないよう紛争解決に介入するといったことが起きる。他方、すでに紛争解決のために自国兵士を派遣している国家において、世論の高まりがその撤退を後押しすることも我々にとって想像に難くない。
ウガンダにおいては南スーダンの情勢悪化で多くの自国兵士が危険に晒されているとして、派兵反対を訴える世論が生じてきた[Young 2015, 54]。さらに、2015年5月には、UPDFの南スーダン派兵費用が嵩み、納税者の負担となっているとウガンダ国民議会特別委員会が指摘している[Sudan Tribune 2015b]。同委員会による算出では派兵開始以来、およそ1190億ウガンダ・シリング(約3300万米ドル15)が投入されたと言う。特別委員会は、この額がアフリカ連合ソマリア・ミッション(African Union Mission in Somalia: AMISOM)への派兵関連費を上回るとし、UPDFの南スーダン撤退をウガンダ政府に提案している[Wesonga 2015]。
② 国外からの撤退要請UPDFの南スーダン派兵は東アフリカ地域一帯の情勢を不安定化させる結果を招いた。とくに敏感に反応したのはスーダン政府である。バシール政権は、ウガンダにおける反政府武装勢力「神の抵抗軍」(Lord’s Resistance Army: LRA)を支援してきた経緯から、ムセヴェニ政権とは長らく敵対関係にあった。そのため、バシールは南スーダン国内に入ったUPDFの動向を強く警戒した。万が一、UPDFが南スーダン北部に進入し、スーダン国境に接近することがあれば、即座にスーダン軍が軍事的牽制を行う可能性があったことがのちに明らかにされた[Johnson 2016, 272-278]。このように、UPDFの南スーダン常駐は、ウガンダ・スーダン間の緊張関係を悪化させ、南スーダン域内の内戦が国際化する危険を孕んだ。アメリカ、ノルウェー16らは直ちにこの危険を察知し、ウガンダ軍の南スーダン撤退を要請した[Blair and Maasho 2014; Butagira 2014]。
こうした国内世論や国際的な要請を足がかりに、UPDF撤退のモメンタムが次第に高じていくと、翌年に五選をかけた大統領選を控えていたムセヴェニは反発することなく、2015年9月にUPDF撤退を発表した17。この撤退により南スーダン域内におけるバシール牽制の策略が潰えると、ムセヴェニにとってさらに周囲に異を唱えてまでキールを支援する意義は減少した。
(2) アメリカからの圧力2015年7月、オバマ・アメリカ大統領はアディスアベバを訪れた際、ムセヴェニ、ハイレマリアム、ウフル・ケニヤッタ(Uhuru Kenyatta)ケニア大統領及びスーダン外務大臣らと会談した。オバマは南スーダンの紛争解決に対するIGADの統率力を賞賛しつつも、ARCSSが締結されるまでは努力の継続が必要と伝え、そのための戦略を共に確認した[Eilperin 2015]。
ウガンダにとってのアメリカは、年間4億5000万米ドルを拠出する最大の援助国である[外務省2018]。これに鑑みれば、ムセヴェニ政権がオバマの意思に反してキールを擁護し、IGAD締結を遅延させることに利益を見出せないことは明らかである。8月17日、アディスアベバで開催されたARCSS署名式で、ムセヴェニがハイレマリアムと口論して途中退席し、キールも署名を拒み帰国したことは上述した。その数日後、ムセヴェニはキールに架電し、制裁が目前に迫っている旨を伝え、「エゴは捨ててARCSSに署名せよ」と助言したと言われている[Sudan Tribune 2015d]。
ARCSS締結後の経緯を本節にまとめておく。キール署名から8カ月後、国外に退避していたマシャール及びSPLM/A-IO兵士らがジュバに戻り、マシャールが第一副大統領就任を宣誓したことで、2016年4月、新たに南スーダン国民統一暫定政府(Transitional Government of National Unity: TGoNU)が樹立された。これより、ARCSSを履行するかたちで、SPLM/AとSPLM/A-IOが1つの国軍として首都防衛を担うこととなった。しかしながら、和解状況に大いに疑いのある2軍から構成された国軍が亀裂を見せるのに、時間はかからなかった。2016年7月8日、ジュバで前月から続いていたSPLM/AとSPLM/A-IO兵士の諍い18を鎮めるため、キールとマシャールは大統領府で共同演説を行った。演説がはじまるや否や、場外で待機していた大統領府警護官とマシャールの警護官との間で激しい銃撃戦がはじまり、戦火は瞬く間にジュバ市内、そして国内各地へと広まった。
マシャールは空爆を含む苛烈な攻撃を避けてジュバを脱出し、徒歩で南下し、翌月コンゴ民主共和国で発見された。その後、マシャールは移送先のハルツームから、暫定政府崩壊を一方的に宣言するとともに、キール政権に対する武装抵抗の開始を告げた。スーダンから南アフリカに移動したマシャールは、ARCSSが既に死に体であり、紛争解決のためには新たな和平協議が必要であるとメディアを通じて繰り返し主張した[Sudan Tribune 2016c]。
他方、軍事的勝利を果たしたキールは、マシャールを即刻罷免し暫定政府の鉱業大臣であったSPLM/A-IOのタバン・デン(Taban Deng)を新たに第一副大統領に任命した。これによってSPLM/A-IOはマシャール派とタバン派に分裂した。マシャール派はタバンの就任に正当性はないと批判したが、ARCSSにおいてその設置が定められた国際的停戦監視団である合同監視評価委員会(Joint Monitoring and Evaluation Commission : JMEC)委員長が、「唯一の可能な選択」(the only game in town)と発言してこの交代を支持し、他国政府や国際機関もJMECの認識に足並みを合わせ、タバンの第一副大統領就任は既成事実となった[Small Arms Survey 2016, 2]。
JMECは、戦鬪勃発後しばらくARCSSの有効性については明言を避けていたが、2016年10月になって、JMEC副委員長が、「ARCSSは傷ついたが、死んではいない」と公の場で発言し、他国政府や国際連合らも同発言を支持した[Sudan Tribune 2016c]。以降もIGADは、ハイレベル再活性化フォーラムを主導して和平協議を継続している。
アフリカの紛争における地域機構の取り組みは近年盛んになりつつある。地域機構が優位とされる点として、アフリカの紛争に対する欧米諸国や国際連合による調停が、しばしば非効果的で遅すぎるのに対し、現地事情を熟知している地域機構は地域特有の人的繋がりを活用して紛争当事者間の緊張緩和を試みることができるなど、欧米諸国などには不可能な仕方で、迅速かつ効果的な取り組みを行えることが挙げられる[Berman and Sams 2003, 65-67; Boulden 2003, 1-8]。また、AUや国際連合と協力して平和活動を行うなど、それぞれの特徴を生かして役割を分担するようなかたちが見られるようになり、こういった地域的パートナーによる紛争解決へのイニシアティブは概ね欧米諸国や国際機関からも歓迎され、平和活動パートナーシップとしての通例になりつつある[山下 2017]。
他方、本稿で焦点化したのは、エチオピア、スーダン、ウガンダらIGAD主要加盟国に主導されてきた和平協議において、加盟国からの関与が当該の紛争にネガティブな影響を与える様であった。
具体的には、親キール政権路線にあったウガンダで派兵を疑問視する国内世論が高まり、また、アメリカの意向がIGAD首脳陣に直接伝えられたことが、ムセヴェニの対南スーダン政策に修正を強いた。その結果、ムセヴェニがキール支援への関心を減じたことで、加盟国家間の力学に変化が生じ和平合意締結を「押し付け」る圧力が「ワン・ボイス」となってIGAD内で形成され、紛争当事者の合意状況に大いに疑問が残るままARCSSが署名された。その後、キールが締結直後に予言した「恐怖」が現実化していく様は、前節で述べたとおりである。
IGADに限らず、アフリカ各地の地域機構の加盟国間においては常態的に幾許かの利害関係が存在する以上、このような地域機構を通じた紛争当事国への関与に和平構築を脅かすリスクがあらかじめ内包されることは、宿命的かつ普遍的なものとも言えるだろう。
ここまで本稿はIGADの否定的側面について述べてきた。しかしながら、南スーダンの紛争にとって最も避けなければならないのは、周辺国や国際社会から放置されたまま、戦闘行為だけが延々と繰り返される事態である。その観点から言えば、IGAD加盟国がどのような思惑を抱えていたとしても、欧米諸国に比較してリソース面で困難を抱えるなかで、合意違反に挫けることなく継続的な関与を果たしてきたことは事実であり、その調停者的側面が一定の評価に値することは最後に付記しておきたい。
SPLM/AとSPLM/A-IOが互いを殲滅させるほどの武力がないため軍事的決着が見込めず、また、外部からの和平強制の試みも首都での戦闘勃発という帰結を導いた現時点で、南スーダンの和平について予測できる近未来は明るいものではない。しばらくは低強度の紛争が各地で継続していくことになるだろう。そうなれば、今後の南スーダンにとって、IGADをはじめとする外部からの和平調停の必要性は依然として高いままである。紙上の和平締結のみでは何ら用を足さないことがはっきりした今、必要とされるのは、実質的な合意形成を目指した長期的な和平調停の取り組みである。
本論考の執筆に関し、外務省在南スーダン日本国大使館在任時の経験から多くの知見、示唆を得ました。ここに記して関係者の皆様に感謝の意を表します。