2024 Volume 62 Pages 1-14
本論は、ナイジェリア政治に対して失望する若者について描くことを目的とする。具体的には警察部隊のひとつである対強盗特殊部隊による、市民に対する暴力への抗議運動(End SARS)と、2023年の大統領選挙における、ピーター・オビ候補支持者(Obidient)による運動に関わる2人の若者の経験を検討する。彼らは、End SARS運動やObidient 運動を通して、多くの若者が国家に対する構造的な変化を求めたり期待したりする最中で、それが適うはずがないと考えていた。既存の研究はこれらの運動について、若者による民族・宗教・地域に必ずしも捉われない市民的価値を共有した政治的活動の現れとして肯定的に評価している。しかし本稿は事例検討を踏まえ、機能不全となった国家の構造は変わることはなく、また腐敗権力が作動する暴力と混乱に満ちた日常を生きざるを得ないために、ナイジェリア政治に失望する若者の存在を明らかにする。
2020年代に入り、ナイジェリア国内外のメディアは若者を対象とした記事を多く発信している。第1節で詳述するが、近年のメディアが注目する若者とは、主に都市部に居住し、ソーシャルメディアを使いこなす、おおよそ34歳以下の人々を指している。メディアが若者に注目する契機となったのは、2020年10月から始まった、警察部隊のひとつ対強盗特殊部隊(Special Anti-Robbery Squad: SARS)による市民に対する暴力への抗議運動(End SARS)である。この運動は若者がソーシャルメディアを駆使し、地域や民族の違いを超え全国規模で展開され、結果としてSARSの解散を実現した。さらに2023年2月の大統領選挙では多数の若者が、ピーター・オビ(Peter Obi、南東部出身、イボ人)候補を熱烈に支持する運動(Obidient movement)1を展開した。運動の成果もあり、ほとんど無名の政党から立候補したオビ候補が二大政党に対して善戦した。
結果だけ見れば、いずれの運動も一定の成果を上げているように思われる。そのため、例えばEnd SARS運動に関する論考では、「明日のリーダー」たる若者が、ソーシャルメディアを駆使して社会変革を引き起こしたと評価している[Bamidele 2021]。また選挙に関する論考では、若者の主体的な行動が顕著にみられたことをあげ、「大統領に当選するかどうかに関係なく、ピーター・オビはナイジェリア政治の流れを良い方向に変えた」[Obadare 2023a]のであり、それは「ナイジェリアの民主主義にとって勝利である」[Aboh and Okoi 2023]と評価している。
しかし運動に積極的に参加する若者に着目するだけでは、今日のナイジェリア政治と若者が抱える課題を十分に説明できないのではないか。例えばEnd SARS運動の渦中で不当に逮捕された人々の一部は未だ釈放されず、政府は補償を行っていない。大統領選挙は「新たな政治意識を生み出した」[Aboh and Okoi 2023]と評される一方で、投票率は1999年の民主化後の選挙の中で最低の27%であった。2023年5月に就任したボラ・ティヌブ(Bola Tinubu、南西部出身、ヨルバ人)大統領は物価上昇率が20%を超える中で、長年の懸案である政府の燃料補助金をいち早く撤廃し、ガソリン価格を3倍に高騰させ、国民に「痛み」に耐えるよう呼び掛けた[Oyero 2023]。
こうした背景を踏まえ本稿では、ナイジェリア政治に対する若者への期待を描く最近の楽観的ともとれる議論とは逆に、ナイジェリア政治に対して失望する若者を描くことで、ナイジェリアにおける若者と政治をめぐるこれまでとは異なる視座を提示する。主な分析の対象は、End SARS運動やObidient 運動を通して、多くの若者が国家に対する構造的な変化を求めたり期待したりする最中で、それが適うはずがないと考える2人の若者である。分析は、ソーシャルメディア上の情報とメディア報道、また2011年以降筆者が調査を行ってきた、ナイジェリア南西部の都市ラゴス(Lagos)で、主に2023年2~3月に約3週間行ったフィールドワークの成果に基づく。
以下、第1節において、本稿が対象とする2020年代のナイジェリアにおける若者の特徴について検討する。次に具体的な分析として、第2節ではEnd SARS運動について、第3節では大統領選挙におけるObidient運動についてそれぞれ議論する。
アフリカ諸国における若者層の人口割合は他地域と比べ高く、ナイジェリアも例外ではない。ナイジェリアの人口はアフリカ最大の約2億1854万人であり、このうち15~34歳は約7270万人で、人口の約33%を占める(2022年推定)[UN DESA 2022]。本節はこうしたナイジェリアの若者の特徴を概説するが、彼ら全体を一般化して議論することは困難である。そのためここでは、多くのメディアが取り上げる若者の特徴や、彼らが抱える困難の一端を示すこととなる。
ナイジェリアは1999年に民主化を果たしており、したがって上述した15~34歳の人々は民主化直前または民主化後に生まれ育った世代である。Obadare[2023b]によれば、1999年以前、大半の時期を軍事政権が握った時期に成人であった、より年配の世代は、民主的な選挙後に軍部が政権に復帰するのを目の当たりにした経験があるからこそ、比較的保守的である。それに対して民主的な政権が「当たり前」の時代を生きる若者世代は、政府が福祉の改善全般に失敗していることに苛立つ「過激な」存在であると指摘する。
そうした「過激な」若者が抱える問題は多様だが、国内外のメディアが最も頻繁に指摘するのは、現金をより必要とする都市部で居住する若者の経済的苦境である[Macaulay 2022]。国家統計局による2022年の発表によると、ナイジェリア全体の失業率は2018年に21.8%であったが、2020年には33.3%で、若者(15~24歳)に限れば53.4%に達している[NBS 2022, 7-8]。また物価も上昇しており、上昇率は2020年6月に12.5%であったが[NBS 2020, 5]、2023年6月には22.8%となった。これは2009年11月以降最も高い数値である[NBS 2023, 7]。
さらに仮に仕事があったとしても、都市部のビジネス環境は悪化している。例えばナイジェリアでは電力供給の不足が積年の課題とされるが、2023年9月14日には、発電所からの電力供給量は一時0となった2。2023年6月には上述したように政府の燃料補助金が撤廃され、ガソリン価格が一夜にして3倍となった。これに伴い軽油を使用する発電機のコストが増大したほか、交通費もかさみ、人々は移動を控えたり、職場で寝泊まりをするようになったりした。このように仕事や金銭的余裕があったとしても、仕事や日常生活に支障をきたす環境下にある。
こうした経済的苦境や日常生活の困難、そしてそれに何ら有効な対策をとれない政府への不満と失望がゆえに、2020年代に入り、多くの若者が欧米諸国等のアフリカ大陸外に積極的に移住している[Macaulay 2022]3。これは「逃げる」「移住する」という意味を持つスラングである「ジャパ(japa)」現象と呼ばれ、ソーシャルメディアで大きな話題となっている[Dayo 2022]。
若者は政治参加をめぐる問題も抱えていると指摘される。例えばForeign Policy紙の記事は「アバヤ(agbaya)」、すなわち悪い高齢者や年齢に見合わない振舞いをする高齢者といった意味を持つスラングが、ナイジェリアの政治家を指す語としてソーシャルメディアで話題となっている点に着目している[Gbadamosi 2021]。同記事によれば、政治家に対して「アバヤ」という語が向けられるのは「暴力と経済的不安定さを経験してきたナイジェリアの若者世代の失望を反映」している。人口の70%以上が35歳以下であるにもかかわらず、若者が政治家になるハードルは極めて高く、そのため政治家の大半は高齢者である。彼らは若者の置かれた生活環境を理解せず、経済対策や治安維持に失敗し続け、自分たちの利益のみを追求していると、同記事の著者は批判する。
若者が抱える不満や失望はソーシャルメディア上で盛んに議論される。上述したジャパ現象やアバヤもソーシャルメディア上で話題となった。若者のソーシャルメディア利用者は年々増加しており、後述する様々な運動を活性化する場となっている。We Are Social and Meltwater[2023]によれば、インターネット利用者は増加傾向にあり、2023年1月時点では全人口の55.4%にあたる約1億2250万人で、そのうちソーシャルメディア利用者数は3160万人(25.8%)である。利用者が多いサービスはWhatsApp(94.9%)、Facebook(88.8%)、Facebook Messenger(69.9%)、Instagram(69.4%)、Twitter(61.2%)であった4。ソーシャルメディア利用者を年齢別の割合でみた場合、13~17歳は3.4%、18~24歳は28.2%、25~34歳は34.3%、35~44歳は17.5%、45~54歳は7.0%と続く。18~24歳と25~34歳を合わせると62.5%となり、若者の利用率が圧倒的に高い。これらのデータや筆者のフィールド調査での経験に基づけば、若者はスマートフォンを利用して多様なソーシャルメディアを駆使した情報共有や議論を日常的に行っていることがわかる。これが民族・地域・宗教の違いを超えた若者のつながりを生む背景のひとつにあるといえる。
そしてソーシャルメディアを活用した政治的な運動は、2010年代以降活発である。例えば2012年1月に石油補助金を廃止したことに抗議したOccupy Nigeria運動や、2014年にイスラーム過激派テロ組織ボコハラムによる女子生徒誘拐事件をめぐる抗議Bring Back Our Girlsキャンペーン、そして本稿が検討するEnd SARS運動やObidient運動などがあげられる。これらの運動はソーシャルメディアを通して全国・全世界に拡散され、抗議デモや集会が開かれていた。
1992年に組織されたSARSは、治安機関の中でも最も凄まじい暴行、拷問、強姦、殺人等を、特に若者を標的として行った部隊として知られている。政府主導によるSARSを含めた警察改革の必要性は長く議論されているが、遅々として進んでいなかった5。End SARS運動はそうした中で2020年10月初旬からナイジェリア南部で始まった。運動の契機となったのは、SARS隊員が路上で若いミュージシャンを殺害し、車を奪い逃走する事件を撮影した動画がソーシャルメディア上に掲載され、それが多くの人々の怒りと悲しみとともに急速に拡散されたことであった。End SARS運動はすぐに全土へと拡大したほか、抗議集会やラリーの様子はライブストリーミング(live streaming)を通じて全世界に配信された。大規模な抗議自体は10月末頃に沈静化したが、その後もソーシャルメディア上では#EndSARSや#EndPoliceBrutalityといったキーワードが飛び交った。抗議期間中は多くの逮捕者や犠牲者が出た。なかでも国内外のメディアが取り上げた事件は、10月20日、ナイジェリア軍がラゴス州レッキ(Lekki)地区の料金所で抗議をしていた人々に対して銃撃を行い、少なくとも12人が亡くなったものであった。
命がけとなったこの抗議により、SARSの解散が実現した。しかしEnd SARS運動以前、あるいは抗議期間中において若者を中心とした多くの人々6が治安機関により十分な法的根拠なく逮捕され、あるいは適切な司法プロセスを経ることなく長期間拘留されてきた。このとき彼らが抱えている困難は、治安機関の暴力による身体的被害に限らない。すなわち暴力を行使された個々人への医学的問題に還元されない困難である「社会的苦しみ(Social Suffering)」、例えば多額の保釈金や弁護士費用等を工面したことによる経済的貧困、身体に刻まれた拷問の傷跡やトラウマ、失業、家族や友人との関係の崩壊などもまた重大である[クラインマン・ダス・ロック 2011, i]。こうした人々にとって、SARSが解散することが問題の「解決」であるとは到底言えない。この点を具体的に議論するために、実際に警察による暴力を受けた人物であるAさん(30代・男性・タイル職人)の例を示す。AさんはEnd SARS運動の主張には賛同したが、積極的に参加することはなく、日々の仕事にただ勤しんでいた。筆者は2022年以降、警察による暴力被害について調査を行うため、弁護士や被害者への聞き取り調査を行ってきた。ここで示すのは、筆者が2023年2月にラゴス州で行ったインタビューで聞き取った内容の一部を整理したものである。
2020年10月、Aさんはレッキ料金所近くにいた。その頃はEnd SARS運動が行われ、多くの人々が料金所に集まり、通りは混乱していた。Aさんはタイル工事に使用する自前の機材と、商店で買った牛乳を持って、抗議に参加しているたくさんの人々が集う料金所の横を歩いていた。これからバイクに乗って、機械を職場に運ぶつもりだった。
警察官がAさんを引き留め、手に持っている牛乳は盗んだものだなと言った。Aさんは自分で購入したと主張したが、聞き入れられず、無理やり警察車両に乗せられ、警察署に連行された。持ち物はすべて没収され、何度も殴られた。そこでは一切の食事がなく、1週間拘留された。ラゴスで暮らす妻と幼い2人の子ども、職場にも連絡を取ることは許されなかった。
同年12月に裁判が始まったが、判決は遅々として出されない。彼は刑務所に移された。刑務所では刑務官に度々お金を求められた。支払えない場合、罰として暴行された。狭い監房の中に多数の人が寝泊まりしていた。体は常に痒く、飲食はままならず、トイレの水を飲んだ。Aさんは弁護士を雇う必要があった。幸運にも刑務所内に同じ出身地の人がおり、携帯電話を借り、叔父に連絡を取るなどして、Aさんとその叔父が多額の借金をして弁護士を雇った。そのために彼は、出身村にあった自分の土地を売ったりもした。弁護士を2度雇ったが、いずれも大金が弁護士に支払われただけで、彼が釈放されることはなかった。2021年3月、Aさんは妻と電話で話した。彼は妻に、釈放される見込みがないため、自分の村に子どもと帰るように促した。妻と子はそれにしたがい自分の村に帰った。
逮捕されて1年が経った頃、彼は刑務所内の人物からスマートフォンを借りることができた。そこでFacebookのアカウントを作成し、自分の置かれた境遇を訴えた。Facebookの中で、彼はある人権活動家の弁護士を見つけ、メッセージを送った。この活動家は、プロボノ活動としてEnd SARS運動において非合法に逮捕された人々の救済に取り組んでいた。彼はAさんからFacebook Messengerで詳細を聞いた上で、必要な手続きを行った。そして2021年12月、逮捕から1年3か月を経て、Aさんは釈放された。警察からの謝罪や政府による補償等は、現在に至るまで一切ない。逮捕時に押収された所持品が返されることはなかった。
釈放後、自分のタイル加工の機材を失った彼の給与は激減した。地元に帰郷したが、友人の多くはAさんを犯罪者扱いし、近づこうとしなかった。妻と子に会うために、妻の実家を訪れたところ、その姿はなかった。妻の母親に問うと、彼女らは帰郷後1か月ほどで突如いなくなっており、連絡はもう取れないと言われた。それ以上のことは何も聞かされなかった。
Aさんが抱える苦しみは多岐にわたる。現在にまで続く傷の痛み、精神的な苦悩、警察に奪われた所持品、自身とその親戚が失った大金、多額の借金、容易には帰れない故郷、犯罪者というスティグマ、妻と子の喪失などである。SARSをめぐっては警察による物理的な暴力が問題にされがちだが、それは苦しみの始まりに過ぎない。そしてこの苦しみは、当人の社会関係や経済状況により変わり得る。つまり、例えば警察に連行されようとしている時点で、同じコミュニティの人々が協力して警察官を制止することができるかどうか、警察署に連行されたときに、有力な弁護士や警察官僚の知人がいて彼らに連絡を取ることができるか、多額の保釈金をその場ですぐに支払う資金があるかどうかなどによっても、その後の苦しみの期間や度合いが変わる。Aさんの場合、日中は学校に通い、夜間は仕事をするほどに貧しい家庭で生まれ育ち、また出身地がラゴスではなく知人が少ないため、社会関係は貧しかった。つまり彼は「ずっと前から、そうした人生をたどる「おそれ」があった」のである[ファーマー 2012, 81]。
2023年8月、筆者は再度Aさんと会った。彼は依然として、警察はもちろん「あらゆる人々とかかわること」を恐れ、政府に対しては何も期待しないと述べた。かつていた友人の多くは、Aさんを無視するか挨拶をする以上のことはしなくなった。しかし彼は仕事をしなければ生きていくことができなかった。タイル加工の機材を失いながらも、辛うじて工事現場での仕事の情報が入ればそこに出向き、日雇いの仕事をこなしたが、収入のほとんどは交通費に消えた。政府による福祉サービスを全く期待できないばかりか、当人に極度の苦しみを与える政府に対して彼が期待することはなく、彼は自分だけでなんとかやっていかなければならなかった。
(2) 若者の要求「はじめに」で述べた通り、End SARSに関する論考の多くは、Aさんのような社会的苦しみを負う若者の存在を十分に考慮していない。他方で多くの若者は、Aさんの経験が例外的な出来事ではなく、いつそれに巻き込まれてもおかしくないことを知っていると考えられる。なぜなら特に都市部では、警察による暴力の被害者があまりにも多く、ほとんど誰もが何らかの暴力を受けたか、受けた人を知っているからである7[Kabir 2023]。ナイジェリア国内にある多数のメディアもまた、刑務所から釈放された人々にインタビューを行い、彼らの苦しみを発信している。
だからこそEnd SARS運動は、SARSを解散させることだけを「解決」とはみなさず、治安機関による暴力が二度と起こらないような構造的問題への対応と、収監されている無実の人々の釈放を求めた。ソーシャルメディア上で拡散された、End SARS運動における5つの要求がそれである。すなわち被害者の救済に関する要求として(1)逮捕された抗議参加者全員の即時釈放、(2)警察の暴力により死亡した全ての犠牲者への補償、また警察改革に関する要求として(3)警察の不正行為の調査と訴追を監督する独立機関の設置、(4)解散したSARSの隊員を再配備する前に心理評価を行うこと、(5)警察官の給与を増額し十分な報酬を与えることを掲げている[Tayo 2020]。これらの要求はEnd SARS運動が始まって数日後の同年10月11日、ナイジェリア警察がSARSの解散を決定した直後に発表された8。そして要求の特に(3)~(5)は、なぜ警察による暴力がいつまでも続くのかをめぐる運動側の認識を示しているともいえる。例えば(5)の警察官への報酬をめぐる問題、つまり給与が極めて低い上に、その未払いも頻発していることは、警察官が一般市民に対して金銭を頻繁に要求する理由を端的に表している。
こうした要求に対して政府はどのように対応したのか。End SARSのその後を追跡するメディアやNGOが唯一評価しているのは、上述したレッキ料金所での事件について、ラゴス州の仲裁裁判所が設置した独立司法委員会が、同事件を「虐殺(massacre)」と認めたことだけであった9。
End SARS運動が沈静化した後も、人々はSARSが復活しないかを監視した。2023年7月、本稿執筆時点においても、ソーシャルメディアでは警察による暴力を撮影した新たな動画が投稿されていた。動画内では、警察の取り締まりにより手錠をかけられた男性が路上で寝そべっている。警察官が彼を車で轢く。周囲の人々が必死で車を止めようとし、車に向かって叫び、頭を抱え目の前の状況を嘆いている[Imukudo 2023]。SARS解散後もこうした問題が頻発するのは、植民地期の性格を引き継ぐポストコロニアル国家としてのナイジェリアにおいて、国家が構造的に機能不全に陥り、同時に腐敗権力が有効に機能してしまうがゆえである[湖中 2019, 253]。そして上述したEnd SARS運動の5つの要求にもあるように、若者が問題としたのは、SARSの解散のみならず、国家権力による暴力が彼らの生に及ぼす社会的な苦しみである。具体的には、Aさんのような経験が彼らにとって例外的な出来事ではなく、誰もがいつ、どこで、どのように遭遇するか分からないという予測不可能性と、それが頻繁に眼前で起こっているという日常性であると言える。彼らが構造的な問題の改善としての警察改革と、暴力に絡め取られた人々を救うよう、その釈放と補償を求めたのは、これらのことを問題としたためであった。そしてそれは全く解決されていない。Aさんのような経験をしている若者の多くは、まさにこうしたナイジェリア政治の変わらなさと社会的苦しみがゆえに、ナイジェリアの政治に失望していると考えられる。
End SARS運動から2年余りを経た2023年2月、大統領選挙が行われた。結果は与党である全進歩会議(All Progressive Party: APC)の候補者であるティヌブ候補が得票率36.6%を獲得し勝利した。これに最大野党である人民民主党(Peoples Democratic Party: PDP)のアティク・アブバカル候補が得票率29.1%、労働党(Labour Party: LP)のピーター・オビ候補が得票率25.4%と続いた10。オビ候補は当初PDPの大統領候補となることを目指していた。しかし党の候補者選びにおける不正を理由に、アブバカルがPDPの大統領候補者に選出される直前にPDPを離党し、全国的な基盤もないLPの大統領候補者となった。このオビ候補が若者の絶大な支持を集めた。
なぜオビ候補は若者から支持を得られたのか。本稿との関連でまず指摘すべきは、End SARS運動の支持者の多くがオビ候補を支持した点である[Orjinmo 2023]。確かにオビ候補は治安機関の問題への対応を明確に表明している。またソーシャルメディア上では、(他の候補者と比べ)彼のわかりやすいプレゼンテーション能力と政策指針が明確に示される点が高く評価されていた11。ほかにもソーシャルメディア上では、彼の「些細な」行動を撮った動画が称賛された。例えばオビ候補が空港で飛行機に乗る際、自分で荷物を持ち、他の乗客とともに列に並ぶものである12。ソーシャルメディアはオビ候補の支持拡大をめぐる重要な舞台となっていた。
オビ候補が多くの若者から支持を得られたことについて、いくつかの論考は、候補者の出身地・民族・宗教に必ずしも偏らず、また政党ではなく立候補者個人の資質を重視して投票先を選ぶ、市民としての若者によるナイジェリア政治に期待感を示している[たとえばCDD 2023]。1999年の民主化以降に行われた選挙では、候補者の出身地・民族・宗教が常に問題となり、選挙の結果もそれに準じたものになるのが常であった。それは今般の選挙における州別の結果を見た場合もおおよそ当てはまり、例えばオビ候補は出身地域である南東部地域で高い得票率を獲得している。しかし彼はまた、出身地とは異なる複数の州でも勝利した。特に都市部である北央部に位置する連邦首都地域(首都)と、ラゴス州で勝利している点は重要である。ラゴス州はかつてティヌブ候補が州知事を務めた州でもあり、彼にとっていわば本拠地のはずだった。
他方で、「はじめに」でも述べた通り投票率は27%と、1999年の民主化後最低を記録した。これはなぜなのか。この点を検討するために、選挙には行かないと述べた大学生Bさん(男性・ヨルバ人・南西部出身)のケースを検討する。Bさんはオビ候補を支持しソーシャルメディアも頻繁に利用しているが、例えば街頭のラリーに精力的に出かけるほどに熱心ではなかった。
(2) 投票に行かない2023年2月、筆者はラゴスで40代の大学教員(男性・ヨルバ人・南西部出身)と、20代の学部生Bさんとで、来る大統領選挙に関して雑談をしていた。この大学教員は与党APCのティヌブ候補の支持者であり、彼はティヌブ候補がいかに素晴らしい人物かを延々と語っていた。同時に野党LPのオビ候補を、TwitterやInstagramなどのソーシャルメディア上でだけ有名になり、イボ人からのみ支持されていると酷評していた。彼曰く、オビ候補の支持層は新たに18歳になり選挙権を獲得した「インターネットに生きる若者」であり、この世代の若者は、ティヌブ候補がかつてラゴス州知事時代にいかに素晴らしい政治手腕を発揮したかを知らない。一方でBさんは、教員の話に頷きつつも、筆者の方をこっそり見ながら苦笑いを浮かべていた。
この議論が起こる数日前、筆者はBさんに誰を支持しているのかと密かに聞いたところ、「オビだ」と答えていた。演説を聞いても「何を言っているかわからない」ティヌブ候補は支持できず、対してオビ候補は、主張する内容が頷けるものばかりとのことであった。筆者が「でもあなたはヨルバ人で、オビはイボ人でしょ?」と聞いても、イボ人である以前に、オビは共感できる存在だと彼は言う。他方でBさんは選挙には行かないとも述べる。選挙が安全に行われるかどうかがわからないこと、また投票には南西部にある彼の地元に行かねばならず、そこでは誰が誰に投票したのかは大方ばれてしまうと彼は言った。その上でBさんは、現在の大学を早く卒業して、カナダに留学したいという夢を語った。すでに親戚がカナダにおり、また金銭的余裕もあり、現実性のある将来プランのように思えた。
ソーシャルメディア上でのオビ候補に対する若者の熱狂とは裏腹に、Bさんの語りは淡々としていた。当然、ソーシャルメディアのみならず現場でも選挙に向けて盛り上がる若者も多いが、投票率の低さにも表れているように、「冷めた」若者も少なからず存在した。Bさんのケースからその背景を3つに分けて検討する。
1点目は、社会的立場をめぐる問題である。上述の教員とBさんとは年齢が異なり、また教員と学生という違いがある。この状況でBさんがティヌブ候補の素晴らしさを語る教員に対して反論する余地はない。社会的立場の高い人物に敬意を払うヨルバ文化においては、この2人が「対等に」議論することは難しい。ましてや話題は大統領選挙であり、しかもこの教員は熱心なティヌブ候補の支持者である。そして同じヨルバ人としてティヌブ候補を支持するのは、当然のことのはずである。またBさんはティヌブ候補の演説を聞いても「何を言っているかわからない」と悪態をついたが、これは1節で言及したアバヤを想起させる。若者の話に聞く耳を持たずただ持論を展開し、若者の置かれた状況を全く理解しない年配者への失望が表されている。
2点目は、秘密投票をめぐる問題である。Bさんは投票先がばれると述べた。Bさんのように、地元に帰郷して投票する必要があり、しかも「誰に投票したのか」が問われてしまう場合、1点目で指摘した通り、年配者からのプレッシャーから若者が逃れることは難しい。例えば同じヨルバ人としてティヌブ候補に投票せよと言われれば、それに従わざるを得ない。確かに秘密投票が原則であるし、法律上もそうである。しかし、投票先を皆に示さなければならないことは頻繁にある。その「模範」となる象徴的な行いを示したのが、現職のブハリ(Muhammadu Buhari)大統領であった。彼が投票のために地元の投票所に赴いた様子は、全国で生中継されていた。このときブハリ大統領は投票用紙を記入した後、その投票用紙をメディアに向けて高らかに掲げ、それを投票箱に入れることで、「私は裏切らない」というメッセージを全国に伝えた13。誰が誰に投票するかを示すということが公然と行われたのであった。Bさんは仮に選挙に行ったとしても、ティヌブ候補に投票しなければならないプレッシャーから逃れることはできないと半ば諦めている。
3点目は、治安をめぐる問題である。大統領選挙の結果が発表され、ラゴス州ではオビ候補が勝利したことがわかって以降、筆者が町を歩いていると、人通りが通常より少ないことにすぐに気づいた。そのこと自体は選挙においては毎回のことであって、選挙後の暴動が万が一起こった時のために自宅に待機する人は多い。しかしそれに加えて、とりわけイボ人が経営している商店は軒並み休業していた。彼らは自身が攻撃されることを恐れた。オビ候補に対する支持は、確かにイボ人からの支持は強かったものの、Bさんのように民族の境界を越えて人々に広く支持されたのであり、だからこそヨルバがマジョリティのラゴス州で彼は勝った。そうであるにもかかわらず、結局のところラゴス州では、民族が重要な単位となる政治的文脈から逃れることはできず、彼らはオビ候補と同じイボ人として、隠れなければならなかった。
確かにナイジェリアでは選挙のたびに制度整備が進み、また安全性も高まっている。投票所を襲撃したり、大量の投票用紙を入手してひとりで数十人分の投票を行ったりすることも、かつてに比べれば少なくなった。選挙が秘密投票で行われることも徹底されるようになった。だからこそ、誰が誰に投票するのかは、より重大な問題となる。実際に選挙当日、投票先を記した投票用紙の写真を撮って送ってくることを要求された人物もいた。家族、職場、学校、友人、地元の有力者、党員の網の目のただなかで、「本来投票すべき人」に投票しないのは、不可能では全くないが、強いプレッシャーの中での行為となる。そうした網の目が粗い都市部であれば良いが、Aさんのような立場にある若者であれば、そのハードルは高いと言える。
このように、二大政党と異なる第三の候補者が現れ、ソーシャルメディアが盛り上がろうとも、現場においては「ナイジェリア政治らしさ」ともいえる問題、つまり投票先や行動が地域・民族・宗教という属性で説明されること、投票先を秘密にすることが難しいこと、治安状況に不安があること等の問題がある。特にナイジェリアにおける地域・民族・宗教のバランスをめぐる問題は、植民地期から続く積年の政治的課題のひとつである14。「インターネットに生きる若者」によるソーシャルメディア上の選挙戦は、皮肉にも上述の教員が述べたように、現場から政治を変えることはできなかった。Bさんが投票に行かないのは、選挙における地域主義・民族主義から脱することができず、政治が変わることはないとする諦めにも似た失望がゆえであると考えられる。
さらにBさんはカナダへの移住を夢見ていた。これは1節でみたジャパ現象という言葉で説明される。ナイジェリアの主要紙のひとつVanguardは、「絶望によりナイジェリア人は移住を余儀なくされ、残る人々は恐怖により不自由となる!なんて国だ!」と題するコラムを掲載した[Fasan 2022]。記事によれば「ナイジェリア人であることは耐え難い苦難であり、非人間的な経験」であり、結果として多数の若者が「昏睡状態に陥った経済、老朽化した教育や医療制度、そしてテロや誘拐から逃れるために国外へ逃亡している」という。Bさんはこのコラムほどに悪態はついていないが、それでも彼は「ナイジェリア政治らしさ」への構造的な変化が期待できないことによる失望を感じているからこそ、カナダへの移住を望むと考えられる。
さらにこの選挙の最中においては、次項で見る通り、ナイジェリア政治の変わらなさよりもむしろ、「さらに悪化している」と考えさせられる事態が起こっていた。
(3) キャッシュ・クライシス選挙戦が盛り上がりを見せた2022年末から2023年3月頃、現金不足によるキャッシュ・クライシスがナイジェリア全土で問題となった。その始まりは2022年10月、エメフィエレ(Godwin Emefiele)中央銀行総裁が、高額紙幣にあたる200、500、1000ナイラ札の切り替えを発表したことである[Emefiele 2022]。エメフィエレ総裁はこの措置の理由として、市中に流通する現金が多すぎること、清潔な紙幣が不足していること、通貨の偽造リスクが極めて高まっていることをあげた[Emefiele 2022]。この時の発表では、2022年12月より新紙幣の流通を開始し、旧紙幣は2023年2月1日から無効とする予定であった。しかし2022年12月中旬頃から、人々は旧紙幣を市中銀行に預けても新紙幣を受け取ることができず、現金不足に陥り始めた。
現金不足により人々の日常生活は混乱に陥った。この「被害」に遭ったのはほとんど全国民だが、とりわけ1節で述べたような経済的苦境を経験している都市部の若者の状況は厳しかった。現金がないために食料が購入できないばかりか、病院への支払いができず、出産を控えた女性が病院で亡くなった15。人々は現金を入手するために銀行の前で列を作り、時には寝泊まりをした。「グレーマーケット」が開かれ、人々は現金を1.25~1.5倍の価格で、キャッシュレス決済や銀行口座間の送金サービスを使い購入した。こうした現金不足による日常生活上の危機的状況は、キャッシュ・クライシスと呼ばれた。
このとき重要となるのは、この紙幣切り替え措置が、政府レベルにおいては、人々の生活の危機として認識されなかった点である。例えばオシンバジョ(Oluyemi Oluleke Osinbajo)副大統領は、今般の措置はナイジェリアの選挙における票買い(Vote Buying)を防ぐために有効であると述べた16。確かに現金がないことは票買いの抑制にはつながったが、エメフィエレ総裁が述べた本来の目的とは異なり、何より人々が被っているキャッシュ・クライシスには何の配慮もなされなかった。さらに選挙戦の最中であることも相まって、この問題は専ら選挙論戦の道具のひとつとなった。例えば同措置は、エメフィエレ総裁自身がAPCの大統領候補の座を狙っていたが、認められず、その腹いせにAPCを負かすために行われたという話題17、あるいは2019年、ティヌブ候補の自宅には票買いのために巨額の現金が運び込まれていたと言われるが、同政策によりその現金が使えなくなったことに彼が不満を抱いているといった話題である18。政治家の議論は、こうした真偽は全く定かではない噂話に基づく批判の応酬が多く、キャッシュ・クライシスにより困窮する若者の声は、国内外のメディアは度々報じたにもかかわらず、届いていなかった。新紙幣への切り替えによる混乱は、政治的道具となり、人々はそれに苦しめられていた。人々にとっての通貨切り替えは日常の維持が困難となったクライシスであったが、選挙戦の最中において、それを問題として対応しようとする政治が働くことはなかった。
本稿は、ナイジェリア政治に対する若者への期待を描く最近の議論とは異なり、ナイジェリア政治に対して失望する若者を描くことで、ナイジェリアにおける若者と政治をめぐる新たな視座を提示した。そのために本稿では、2人の若者の個別具体的な経験から、彼らがなぜ、どのように失望していると考えられるのかについて、2020年代に起こった2つの出来事であるEnd SARS運動とObidient運動を中心に議論した。その結果、運動に賛同はするも積極的には参加しない若者の失望の背景には、(1)たとえソーシャルメディアを駆使しようとも、植民地期の性格を引き継ぐポストコロニアル国家としてのナイジェリアにおいて、機能不全となった国家の構造に変化を迫ることはできないこと、そして(2)腐敗権力が作動する暴力と混乱に満ちた日常を生きざるを得ないことがあることを明らかにした。大統領選挙後、ジャパ現象はさらに盛り上がりを見せ、実際に国外に移動する人の数は依然として増加傾向にある[Adetayo 2023]。若者は「ナイジェリア政治らしさ」に基づくナイジェリア政治に、ただ失望することしかできないといえる。
本稿は、科学研究費補助金若手研究(課題番号21K13173)の研究成果の一部である。また本稿第2節「#EndSARS」は、東洋学園大学研究倫理委員会の承認(No.2022-07)に基づき実施された調査研究成果の一部である。