Ajia Keizai
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
Book Reviews
Book Review: Motoki Yamaguchi, The Islamic Reformist Movement in Indonesia: the Educational Activities and the Social Integration of the Arab Community (in Japanese)
Yo Nonaka
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2020 Volume 61 Issue 2 Pages 74-77

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Ⅰ 先行研究と本書の位置づけ

前近代,東南アジア島嶼部は流動性が高く,国際色が非常に豊かな社会だったと考えられている。外来系の住民は,現地社会と自らの文化の介在者であり,地域の文化や言語を受容し,現地の人々と共存していた。しかし,19世紀以降,欧米列強の領域的支配が広まっていくに従い,こうした状況は大きく変容し,各地でナショナリズムが台頭し国民国家が次々と誕生した。このなかで,外来系住民の社会統合が問題になっていった。

本書は,20世紀初頭にオランダ領東インド(現在のインドネシア,以下「東インド」)に誕生したイスラーム改革主義団体のイルシャードを中心に,この時期のアラブ人コミュニティに着目する。彼らは民族的にはマイノリティだが,宗教的にはマジョリティのムスリムたちである。本書の記述に従えば,それ以前の現地社会とアラブ人の関係は次のようなものだ。アラブ人商人たちは,インド洋海上の交易ルートの要衝である東南アジアに非常に古くから訪れており,15世紀の「交易の時代」には,商人たちに加え,ウラマーやスーフィーも移住し,定住し,現地社会に同化し,吸収されていった。18世紀末以降,とくに19世紀半ばからは,イエメンのハドラマウト地域からの移住者(以下「ハドラミー」)が増加したが,この時期には宗主国オランダによる人種ごとの管理政策によって,アラブ人は華人などとともに「原住民」とは異なる「外来東洋人」に分類され,現地民とは異なる法や社会制度が適用されることとなり,彼らは現地社会から分断されることとなった。

ファーニバルの「複合社会」論によれば,この時期,それぞれの住民集団は共有の政治的意識をもたなかったとされている。またアンダーソンの『想像の共同体』では,インドネシアのナショナリズムは現地民(プリブミ)たちの意識向上によりもたされたとされており,ここに外来東洋人は含まれていない。また従来の研究では,東南アジアのアラブ人は移民のディアスポラ研究の枠組みで論じられてきた。前近代は彼らのハイブリッド性,クレオール性が顕著だったが,植民地支配の完成とともにそれらが失われ,アラブ人やハドラミーといった民族意識が顕在化したという主張である。本書で注目するイルシャードについては,預言者ムハンマドの子孫であるサイイドたち,つまりアラウィーとの論争と,ハドラミーのアイデンティティを形成したとされる彼らの教育活動のみに注目が集まってきた。またアラブ人コミュニティのインドネシアへの社会統合は,東インド生まれ(プラナカン)のアラブ人たちが1934年に創設したインドネシア・アラブ協会を中心に論じられてきており,同協会創設以前から役割を担ってきたイルシャードについては,ほとんど論じられていない。

先行研究のこれらの問題点を踏まえ,本書が取り組んだ課題は以下の2つである。1つ目は,イルシャードの創設者であり指導者でありながら,ハドラミーではないスールカティに着目し,同団体の「ハドラミー」や「アラブ人」の性質を相対化しながら「イスラーム改革主義」の性質と意義を明らかにすること。2つ目は,イルシャードの活動の分析により,アラブ人コミュニティがホスト社会に統合されていく過程とその要因を検証することである。

Ⅱ 本書の内容

本書の内容は以下のとおりである。第1章「イスラーム改革主義運動の源流」では,スーダン出身のスールカティのマッカ滞在中の活動と,そこでの思想形成が論じられている。

著者によれば,スールカティは中東アラブ地域のイスラーム改革運動をインドネシアにもたらした先駆者である。19世紀後半以降,巡礼者や長期滞在者の存在を通じて東インドとのつながりが深かったマッカでも,イスラーム改革運動が顕在化し,西欧型の学校制度を取り入れた近代的なマドラサの開設がみられるようになった。スールカティがマッカで師事した教師たちのなかには,こうした教育改革に関わった人物が多く含まれ,また彼自身も教師としてこの教育改革運動に関わっている。東インドとマッカの間の学問ネットワークを通じ,1911年,スールカティは東インド初のアラブ人団体ジャムイーヤト・ハイル付属の学校の教師として招聘された。

第2章「イスラーム改革運動の始まり」では,東インドのアラブ人コミュニティの覚醒の動きとイスラーム改革運動の関係,イルシャード結成の過程や同団体内でのスールカティの立ち位置について論じられている。アラブ人コミュニティは,中東アラブの改革主義運動の影響を受け,近代的なイスラーム団体やマドラサを創設するとともに,指導的立場にあったアラウィーたちの権威を問題視する運動を起こした。とくに問題となったのが,社会の最上位に位置するアラウィーの娘たちであるシャリーファがアラウィーの男性としか結婚できないとする婚姻規制と,一般のムスリムがアラウィーに会ったときに,その手に口づけをするという慣習であり,これがきっかけとなってイルシャードの「学校」と「協会」が誕生した。しかしながら,イルシャードは当初から2つの矛盾を抱えていた。1つは「学校」と「協会」の方向性の違いである。「学校」は,改革主義者が強調する平等主義の理念を踏襲していた一方,協会は「ハドラミー」,「反アラウィー」の性質が顕著だった。2つ目は,イジュティハードの実践か,伝統的法学派の重視かの違いである。スールカティが改革主義者の主張に沿って,スンナ派四法学派の個々の権威や既存のウラマーたちの見解への盲従を否定して,クルアーンとスンナをはじめとする法源に立ち返り,自らが解釈し結論を出すイジュティハードの実践を唱えたのに対し,イルシャード全体としては,四法学派の1つでハドラミーが伝統的に従ってきたシャーフィイー学派への強いこだわりがあった。

第3章「インドネシア・ナショナリズムの形成」では,まず,20世紀初頭から1920年代後半にかけての東インドの公教育およびイスラーム運動と,そこでのアラブ人コミュニティの活動が描かれる。後半では,これらを踏まえ,スールカティの教育に関する言説と,イルシャードの教育活動について詳しく論じられている。アラブ人コミュニティの教育活動はオランダ植民地政庁がもたらした公教育と完全に分離していたわけではなく,1920年代には彼らの間でもエリート初等教育に対する関心が高まり,オランダ語原住民学校などへの入学者は徐々に増加していった。また,東インド・イスラーム会議の中でアラブ人たちは,中東とのネットワーク,アラビア語能力,経済力を生かして存在感を発揮し,プリブミとの再接近の動きがみられるようになった。スールカティが主導する教育活動も公教育制度への対応が進み,平等主義に基づき,アラブ人のみならずプリブミのムスリムの受け入れも進んだ。

第4章「アラウィー・イルシャード論争の収束」では,アラウィー・イルシャード論争に関し,中東アラブの著名なイスラーム改革主義者のラシード・リダーとシャキーブ・アルスラーンによる仲裁の試みを取り上げ,これに対するアラウィー,イルシャーディー双方の対応を検討し,その収束の過程が論じられている。リダー,アルスラーンとも,アラウィーたちの預言者の子孫としての系譜の妥当性は認めている一方で,改革主義の主張に沿って,全ての信徒の平等性も強調した。イルシャーディーは,彼らの仲裁を拒んでスールカティの辞任を招いた一方,アラウィーたちも平等主義を受け入れるようになり,論争は下火になっていった。

第5章「ハドラマウトか,インドネシアか」では,アラウィー・イルシャーディー論争が収束した1930年代後半,アラブ人コミュニティ内の主要な対立軸となった帰属意識に着目し,イルシャードが活動の方向性を決定していく過程が明らかにされる。本章でのイルシャードの教育活動の分析に基づけば,たしかにこの時期にはハドラマウトに学校を開設したり,エジプトに留学生を派遣したりする「ハドラマウト志向」がみられる一方,スールカティは教育活動をインドネシア内に限定し,アラブ人も東インドの「進歩」に適応する必要性を唱え,プリブミのムスリムとの協力関係を重視する「現地志向」の立場を明確にした。インドネシア・アラブ協会がアラブ人性を保持せずにプリブミのムスリム社会との完全なる同化を目指したのに対し,イルシャードには,アラブ人性の保持と「現地志向」の意識が共存していたのである。

第6章「独立後のインドネシア社会への統合」では,日本軍政期から独立革命期を経て1950年代までのアラブ人コミュニティが置かれた社会的状況と,1950年代にイルシャードがホスト社会に統合されていく過程を明らかにした。アラブ人コミュニティは現地社会の「進歩」についていく必要がある,という考えのもと,この時期のイルシャードは改革派イスラーム政党マシュミ党に接近し,協力関係を構築すると共に,宗教学校と一般学校の二元的教育制度が確立していくなかで,一般学校における教育活動に注力していくことを選択した。著者によれば,現在のイルシャードは1950年代までに確立した「現地志向」を維持し「アラブ人」や「ハドラミー」の性質を公には否定しながら,教育を中心とした社会活動に引き続き取り組んでいる。彼らがアラブ人としてのアイデンティティを完全に失ったわけではないが,自分自身を「アラブ人」だと名乗る人の数は減少している。1950年代を境にイルシャードはホスト社会に適応し統合されたというべきだと,著者は論じている。

終章では,これまでの議論を整理しながら,本書の冒頭で掲げた2つの課題に対する結論が述べられている。1つ目の課題は,イルシャード内の「イスラーム改革主義」の性質がもつ意義を明らかにすることだったが,この性質は同団体の結成に不可欠な役割を果たし,活動に大きな拘束力をもっていた。また指導者スールカティの思想的特徴は,改革主義が重視したイスラームの平等主義の強調にあった。2つ目の課題は,同団体の活動の分析を通じ,アラブ人コミュニティがホスト社会に統合されていく動きの要因及び過程を明らかにすることだったが,これには,イルシャードのもつ「イスラーム改革主義」という性質,とくにスールカティがもたらした平等主義は大きな役割を果たした。また,彼らが大多数のプリブミと同様ムスリムだということも,決定的に重要な要素だった。

Ⅲ 本書の評価と課題

先行研究に照らして,本書の論旨は明快である。従来の研究では,20世紀初頭のアラブ人コミュニティの「進歩の時代」に対する「覚醒」は「ハドラミーの覚醒」という限定された枠組みで論じられ,またコミュニティを二分したアラウィー・イルシャード論争についても,コミュニティ内の主導権争いという極めて限定された文脈の中で論じられてきた。また,オランダ植民地政庁による公教育制度の拡充によって,プリブミの間でインドネシア・ナショナリズムが形成された一方で,アラブ人コミュニティの教育活動は,この教育制度から分離し「アラブ人」,「ハドラミー」としてのアイデンティティが確立したと論じられてきた。これに対し本書では,アラブ人コミュニティの新しい時代への「覚醒」が超地域的な,イスラーム改革主義運動と密接に連動していたことを示し(第2章),また,中東アラブ地域の改革主義者たちの言動が,アラウィー・イルシャード論争の収束に大きな影響をもたらしたことを論じた(第4章)。一方で,アラブ人コミュニティが東インドの公教育制度から完全に分離していたわけでなく,彼らの間でもエリート初等教育に対する関心が高まって,オランダ語原住民学校への入学者が増加したり,イルシャードの学校でもプリブミのムスリムの受け入れが進んだりしたことが指摘され(第3章),イルシャードはアラブ人性の保持とともに「現地志向」の意識が共存していたことも示されている(第5章)。まとめていえば,本書の分析を通じ,彼らはイスラーム改革主義運動とのつながりを保持しながら,またその影響を十分に受けつつ,ホスト社会に同化していったことが示された。そこでは,彼らがホスト社会のマジョリティと同じイスラームを信仰していたことは大きな意味をもった。つまり東インドの国民国家形成期の統合には,これまで指摘されてきた「人種」や「民族」といった枠を超え,イスラームが一定の機能を果たしていたのである。アンダーソンの『想像の共同体』やファーニバルの「複合社会」論に挑戦する大変に興味深い指摘である。

一方でもう少し詳しく論じて欲しい箇所もあった。本書では,アラブ人コミュニティのなかでも,これまであまり注目されてこなかったイルシャードに焦点を当てることで,さまざまな新しい視点を得ることが可能になった。しかしながら,イルシャードについての分析・考察の結果をアラブ人コミュニティ全体に関する議論にそのまま転用してよいのかは,やや疑問である。本書が指摘するとおり,19世紀末にはトトックではなくプラナカンがアラブ人コミュニティの大多数を占めるようになっていた(7ページ)のであれば,イルシャードの分析だけでアラブ人コミュニティ全体を捉えることができたのか。また,1950年代までにホスト社会に同化・統合したのはあくまでもイルシャードとそれに関わる人々だったのか,それともアラブ人コミュニティ全体と捉えて良いのかもあまりはっきりしない。各時代におけるアラブ人コミュニティ内のイルシャードの立ち位置について,もう少し詳しい記述があるとなおよかったのではないか。

また,アラブ人コミュニティのアイデンティティとしてたびたび言及される「ハドラマウト」と「アラブ」について「現地志向」あるいは「インドネシア」との対比のなかで両者が同一のものとして,また並列で使われていることにやや違和感を覚えた。前者は,ハドラミーたちの出身地であり,限定されたイエメンの一地域である一方,後者は前者を包含する大きな領域であり,イスラームの発祥かつ中心である。その規模とともに,イスラームまたイスラーム教徒にとっての意義も大きく異なる。ハドラミーが,両者のアイデンティティを持ち合わせていたとしても,時代と状況により,どちらが表出するか,どちらを強調するかは異なっていただろうし,プリブミにとっては前者は限定された“後発”の地域である一方,後者は羨望の対象にすらなる。イスラームやムスリムにとっての「アラブ」の意味を考慮したうえで「ハドラマウト」と「アラブ」,また「ハドラミー」性と「アラブ人」性の違いについても丁寧に論じられるべきではなかっただろうか。

著者はインドネシアの近現代史,とくにアラブとの関わりを専門にしながら,インドネシア語,オランダ語,アラビア語の文献を読み,研究に用いることのできる貴重な若手研究者である。現代インドネシアのムスリム社会に関心をもつ評者は,専門とする時期は違えど,国を超えたイスラームの広がりに関心をもつという点で著者と共通点があると感じており,これまでにも研究会や現地調査の際に著者の研究にたびたび触れ,いつも新しい視点を学ばせてもらっている。著者自身も論じているとおり,本書の成果を踏まえ,オランダ植民地期末期のイスラーム運動に関し,今後さらなる研究成果が発表されることを期待したいと思う。

 
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