Ajia Keizai
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
Special Feature
Researcher Interview: State of the Art (3)
Hiroki TakeuchiKazuki MinatoHiroko Naito
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2021 Volume 62 Issue 1 Pages 50-72

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はしがき

途上国研究の最前線で活躍する研究者にインタビューを行い,現在に至る研究対象との関係性,研究テーマと分析手法の選択,地域研究とディシプリン,学術界の変化などを掘り下げて紹介する特別連載「インタビューで知る研究最前線」。

第3回は,アメリカのテキサス州ダラスにあるサザンメソジスト大学(SMU)で教鞭を執る武内宏樹氏にご登場いただいた。徹底したフィールドワークとゲーム理論を組み合わせることで,中国の農村問題について幅広く研究を行ってきた一方,最近ではグローバル・バリュー・チェーンの中心地・ダラスの地の利を活かし,「貿易と安全保障」をテーマに据えるなど,武内氏の関心は狭い枠に収まらない。

今回のインタビューでは,中国政治研究を志した経緯,研究テーマの変遷,中国を研究対象にすることの難しさ,「中国脅威論」の虚実,今後の研究の方向性など,多種多様なテーマについて語っていただいた。とくに印象的だったのは,権力の中枢にいる政治家から,聞き取り調査の対象者,大学で指導している学生に至るまで,「人」に対する純粋な興味を武内氏が持ち続けてきたという点である。インタビューの最後にお話しいただいた,若手研究者へのアドバイスに強い説得力があるのもそのためだろう。

なお,このインタビューは2020年11月18日に日本とダラスをウェブ会議システムで結んで行われた。紙幅の都合上,やりとりの内容をすべて収録することはできなかったが,武内氏の知的刺激に満ちた語りを十分に感じ取っていただけるだろう。

 

 アジア経済研究所でインドの政治経済を研究しております湊一樹と申します。本日は,「特別連載インタビューで知る研究最前線」の第3回ということで,サザンメソジスト大学(SMU)政治学部で教鞭を執られている武内宏樹さんをお招きしました。

じつは,このインタビュー企画で武内さんにご登場いただくのがよいのではないかという案が出たのは2019年のことでして,そのときは武内さんが日本に一時帰国されるタイミングでお話をうかがうつもりでした。ところがその後,パンデミックの影響が深刻化したため,リモート形式でインタビューを行わざるを得なくなったという経緯があります。

また,折しもアメリカでは大統領選挙が終わったばかりですが,現職の大統領がまだ敗北を認めていないという異常な状況にあります。このようななか,ただでさえお忙しいと思いますが,今回快くインタビューをお受けいただきありがとうございます。

武内 こちらこそありがとうございます。中国政治,比較政治,国際政治経済を専門にしています。本日はどうぞよろしくお願いします。

内藤 アジア経済研究所の内藤寛子です。専門は武内さんに近い比較政治,現代中国政治です。大学の先輩でもあり,ご活躍を身近に感じてきました。本日はよろしくお願いします。

武内宏樹氏

サザンメソジスト大学(SMU)政治学部准教授。1973年生まれ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)博士課程修了。UCLA講師,スタンフォード大学講師などを経て,2014年より現職。SMUタワーセンター公共政策・国際情勢研究所サン・アンド・スター日本東アジアプログラム部長を兼務。著書に『Tax Reform in Rural China: Revenue, Resistance, and Authoritarian Rule』(ケンブリッジ大学出版会)など。専門は中国政治,比較政治,国際政治経済。

中国政治研究を志した経緯
湊一樹

『アジア経済』編集委員,アジア経済研究所地域研究センター南アジア研究グループ研究員。専門は経済開発,不平等,インド政治経済。

 まず,武内さんがそもそもなぜ中国政治を研究しようと思ったのか,とくに中国という対象をなぜ選んだのか,政治というよりも政治経済と言ったほうがいいのかもしれませんが,なぜその分野に関心をもつようになったのかお聞かせください。

武内 中国に対する興味が深まった時期は私のなかで3段階くらいありまして,最初は高校生のときです。私は慶應義塾高校に通っていたのですが,あそこはほとんどの生徒がそのまま慶應義塾大学に進学するので,入試のための授業というものがありません。ですから授業もかなり自由なところがありまして,ちょうど2年生のときだったと思うんですが,漢文の授業が「中国の古典を日本語で読む」という授業になりました。『論語』や『荘子』,『孟子』,『韓非子』に『孫子』といった中国の古典,それから司馬遷の『史記』とか,『三国志演義』,『水滸伝』なんかを読んだんですね。これが非常におもしろくて中国の文学や歴史への興味が湧いたのが最初です。

もうひとつ,私は子どものころからずっと経済発展や貧困問題に興味がありました。当時日本人に一番身近な発展途上国というと中国でしたから,中国経済がどうなっているのかということが気になっていたんです。私が小中高時代を過ごしたのは1980年代で,中国はまさに激動の時代。鄧小平氏が実権を握り,改革開放の名のもとにいろいろな実験がなされていくニュースを子どもながらに見聞きして,何だかおもしろそうだなと思っていました。

3つ目は,大学に進んでからですね。当時慶應義塾大学の法学部政治学科で教えていらした國分良成先生の影響が大きかったです。

 武内さんは経済学部のご出身ですよね。法学部と接点はあったのですか。

武内 はい,経済に興味があったので経済学部に進んだのですが,ひょんなことから1年生のときに國分先生にお目にかかる機会がありまして,中国に興味があるという話をしたらいろいろ相談に乗ってくださいました。いま思えば非常に多忙な先生をつかまえて,ずいぶんたわいない話をしたものだと思います。

いまはだいぶ変わってきたのかもしれませんが,当時は自分が所属する学部以外の授業を履修するのはとても難しかったんです。でも,お会いしてからというもの授業を聞いてみたくなって,2年生の秋学期に日吉キャンパスで演習の授業を開講されるとのことで,単位はいらないから聴講したいとお願いしたところ,その授業に混ぜてくださいました。そこで中国政治の専門書を初めて読んだんですが,中国経済を見るためには政治を知らないといけないということがよくわかりました。そして,学部を卒業するころには関心が中国政治へと移っていったというわけです。

 貧困や開発に興味をもったきっかけは何だったのでしょうか。

武内 それは親族の影響もあるかもしれません。開発コンサルタントをしている叔父がいて,発展途上国の前線で活躍してきました。子どものときからそういう話を身近に聞いてきたので興味をもったのでしょう。

もうひとつは,幼少期に住んだサウジアラビアの記憶ですね。1980年前後のサウジは,豊富なオイルマネーをインフラ整備につぎ込んで何とか経済を発展させたいという目標をもっていて,それを子どものころに目の当たりにしていました。

あの当時のサウジアラビアは希望に満ちていて,「サウジと中国のどちらが21世紀をリードするか」と聞かれたら「サウジ」と答える人の方が多かったんじゃないかと思います。そのくらい勢いがあったんです。何しろ,オイルマネーがありましたから。

発展途上国の問題というのは,経済を発展させるためにはインフラ整備が必要だけれども,その資金を確保するためには経済発展が必要だという,鶏が先か卵が先かというような話です。サウジにはオイルマネーがありましたから,それをインフラ整備に使えば経済は自ずと発展するという楽観的な見方でした。ところが結果は周知のとおりで,サウジはインフラ整備にお金を使ったけれども経済発展は思うように進みませんでした。

政治経済学で「石油の呪縛」(oil curse)といいますが,天然資源に恵まれているとそれに依存してしまい,工業化の阻害要因になってしまうんです。工業化が進まないと経済も発展しません。いまでは社会科学の共通認識になっていますが,それを子どものときに現地でこの目で見たというのは大きかったと思います。

 まず中国に関心があって,つぎに貧困や開発という側面から経済に関心が絞られ,さらに大学に進まれてから中国の政治を知っておくことの重要性に気づかれた,ということですね。大学を卒業したあとの進路については,とくに迷うことなく大学院に進み,研究者になるというおつもりだったのでしょうか。

武内 まずアメリカの大学で勉強してみたいという気持ちがありました。その一方で中国に興味があったので,「アメリカに行って中国を勉強する」という組み合わせになったわけです。

研究と教育の両方に関心があり,大学の教員になりたかったので大学院に行くことに迷いはなかったんですが,何を専門にするかということでは少し悩みました。学部は経済学部でしたから経済学の博士課程に進むという選択肢もありましたが,そのころは抽象的な経済理論に物足りなさを感じていて,経済学がつまらないと思っていたんですね。アメリカの博士課程は比較的短いといわれる経済学でも6年くらいかかりますし,これからまた経済学で6年は長いな…と。それで,中国を勉強するにはどのような道があるかを調べるうちに,アジア研究の修士のプログラムがあることがわかりました。修士課程は2年のプログラムですから,そこで改めて何を勉強するか考えてみるのもいいと思ったわけです。幸運にも,当時中国研究の最先端だったカリフォルニア大学バークレー校から入学許可をいただいて,進学することができました。

バークレーで勉強するうちに,もっと中国のことを勉強したいと思うようになりました。修士のつぎとなると博士課程なんですけれども,地域研究の博士課程というのはほとんどないんですね。ほとんどないというのは,卒業したときのマーケットがないという意味です。教員採用の現場ではやはり伝統的なディシプリンである政治学や経済学,社会学,人類学,歴史学といった枠組みが一般的です。

それでバークレーの先生に,もともと学部時代の専攻が経済学なので,経済学の博士課程に行くのがいいのだろうかと相談しました。そうしたら,経済学者は地域研究に関心がないので,中国研究を深めたいのであれば経済学は向いていないというアドバイスでした。中国に直接向き合った論文を書けるようになるのは学者としての評価が確立した後,10年くらいしてからになるのではないかという厳しい見立てでした。つまるところ,中国研究をやるんだったら政治学がよいと勧められて,UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の政治学の博士課程に進んだんです。結果として,学士(慶應義塾大学経済学部)と修士(バークレーのアジア研究)と博士(UCLAの政治学)で,大学とディシプリンがすべて異なるということになったんですが,社会科学と地域研究を幅広く勉強できたのはよかったと思います。

内藤 中国政治を専攻するのにアメリカに渡るというルートを不思議に思う方もいるでしょう。アメリカに行きたいという思いがとりわけ強かったのでしょうか。たとえば香港やシンガポールにある中国研究に強い大学も比較対象に入っていたのでしょうか。

武内 アメリカの大学に行きたいという気持ちが先にありましたね。イギリスやオーストラリアといった他の英語圏のプログラムも調べてみましたが,やはりアメリカの大学がおしなべて教育の質が一番高いんですよ。香港やシンガポールの大学と比べてもそうです。だからアメリカに行きたかったんです。

中国を研究したいのになぜ中国へ行かないんだという質問はよく聞かれるんですが(笑),それは「木を見て森を見ず」の逆を行くと言いますか,森を見るために最初から森に入っていくことはないのかなという思いがありました。アメリカにおける中国研究の蓄積は非常に大きいということを聞いていましたし,それはアメリカに渡ってから自分でも実感しました。國分先生は,ミシガン大学とハーバード大学に客員研究員として滞在したときの経験から,アメリカから中国を見るのは絶対に必要なんだということをおっしゃっていましたが,私もそのとおりだと思います。

さらに言えば,日本の大学は先生も学生もほとんど日本人ですけれども,アメリカでは世界中から人が集まってくるので,違う背景をもった人たちが切磋琢磨することになります。アメリカの大学の質が高いのは,世界中から人が集まっているからです。

 中国に対する関心を突き詰めていきたいという理想がありながらも,それまで専攻していた経済学ではなく政治学に進んだというところに,現実的な選択も垣間見えておもしろいですね。結果としては経済学がいまの研究につながっているところも興味深いです。

武内 高校時代に『史記』や『三国志演義』を読んで中国に興味をもってからいまに至るまで,一貫して社会のなかでの人間行動に関心があるんです。政治学というのは究極的にはパワーの研究だと思っているんですが,人間が2人以上いると好むと好まざるとにかかわらずパワーの関係ができてしまいます。それを見ていくおもしろさというのは,ずっと変わりません。経済学も本来は人間行動の話ですから,私のなかでは全部つながっているんです。

研究テーマと研究手法

 これまでの研究テーマ,そこで使われた研究手法についてお聞かせください。それらを選んだ理由についても合わせてお願いします。

武内 もともと経済発展と貧困問題が興味の対象だったので,博士論文のテーマは中国の農村問題を選びました。中国の政治経済問題で何が一番大事かというとやはり農村問題ですからね。

ただ当時の私は,博士課程に進むときに提出した志望理由書(Statement of Purpose)に国際政治をやりたいと書いていたくらいで,中国の国際関係にも関心がありました。また,国立台湾大学で3カ月間中国語を勉強したこともあり,中国と台湾の関係,すなわち「両岸関係」にも興味がありました。

博士論文の指導教授には,「農村問題」と「両岸関係」のどちらがいいと思うか聞いてみましたら,「両岸関係」だと,博士論文を書き上げたときに台湾海峡で何か起こったら全部書き直しになってしまう恐れがあるよ,というようなことを言われました(笑)。それに比べると,農村問題は一朝一夕に解決できる問題ではないので,腰を据えて取り組むにはいいテーマだろうと考えて,そちらを選んだんです。

 農村でのフィールドワークを重視されていますね。

武内 私は日本でも農村で育ったわけではないので,農村そのものについて知らないことが多かったわけです。だから中国の農村をこの目で見てみたい,現地で人と話をしてみたいと思いました。もともと人間行動に関心があったので,現地を見て人としゃべって一体何が起こっているのかを探っていく,その作業自体におもしろさを感じました。

研究者というのはそういうものだと思っていたのですが,そういう人ばかりではないというのが段々わかってきました。人と話すのが苦痛だという研究者もかなりいるんですね(笑)。私の場合はフィールドワークそのものが楽しいので,研究のためにフィールドワークをするというよりは,むしろフィールドワークをしたいから研究をするという感じです。

それから,内藤さんはよくご存じだと思いますが,中国で本音を話してくれる人は限られてきますよね。そうしたなかで地方政府の人は,中央政府の政策に対する愚痴をよくしゃべってくれました。自慢話は話半分に聞いた方がいいですが,愚痴には本音が出るものです。ですから,農村問題ならフィールドワークが比較的やりやすかったということもありました。

 やはり,中央政府の人に話を聞くのは難しいことなんですか。

武内 中南海(中央政府)へ行ってインタビューするというのは,地方政府よりはるかに難しいです。

 フィールドに行ったときというのは実際,どのくらい問題や関心が固まっていたのですか。先ほど,フィールドに行くこと自体が楽しいとおっしゃっていましたが,固めてから行ったのか,行ってから固まってきたのか,どちらでしょうか。

武内 両方ですね。大学院時代の先生がよくおっしゃっていたのは,フィールドワークに行くのは釣りに行くようなものだということです。どこに魚がいそうかという目星をつけて行かなければいけないけど,目当ての魚よりもっと大きな魚が釣れそうになったらそっちを追えということです。「生焼け」(half-baked)の状態で行くのが大事で,当初の目算に凝り固まってしまうと,もっとおもしろいことが起こったときに対応できません。反対に何の問題意識ももたずに行くと何も得られない。だから「生焼け」が一番いいんです。

もちろん先行研究を読んでから行くわけですが,私が中国の農村を回った2000年代前半に読んだ文献はだいたい90年代のフィールドワークをもとに書かれたもので,最大のトピックは農民の財政負担をめぐる抗議運動でした。それが一番おもしろいということで,博士論文審査委員会(dissertation committee)に提出する研究計画書(prospectus)には農村の抗議運動をテーマにすると書きました。

中国本土でのフィールドワークを始める前に,農村研究の資料がそろっている香港中文大学の中国研究服務中心(University Service Centre for Chinese Studies)に3カ月滞在しました。そこで,中国の政治参加・社会運動の研究で第一人者である李連江(Lianjiang Li)先生(香港中文大学教授)にフィールドワークの相談をしたところ,まず「中国本土に行って抗議運動に興味があるなんて言っては絶対ダメだ」という答えが返ってきました。

内藤 それはそうでしょうね。

武内 代わりに,「地域の経済発展に対する地方政府の役割」をテーマにして研究計画書を書き直したらいいと言われました。地方政府の役人から本音を聞き出すには,インタビューするときに「皆さんは地域の経済にどんな貢献をされているんですか」とポジティブに聞いたほうがいいというアドバイスでした。

内藤 研究をしていくうえでの方向性について,試行錯誤した経験談をもう少しご紹介いただけませんか。

内藤寛子

アジア経済研究所地域研究センター東アジア研究グループ研究員。専門は現代中国政治,比較政治学。

武内 私の場合,フィールドワークそのものに興味があったので,それを社会科学のスタイルに合わせる苦労が多かったです。普通は,まず仮説を考えて,それを検証するためにはどういう資料が必要で,その資料を取るためにはどういう調査をしなければならないかという順番で研究の方向性を組み立てなさいと教わるでしょう。私のように,まずフィールドワークでインタビューに応じてくれる人に話を聞いて,それに基づいて仮説を考えるという手順で進めるのは邪道だと思われています。研究計画書の審査(defense)のときにも,先生方から懸念の声が上がりました。でも,何が本当に必要な情報かなんて,行ってみないとわからないじゃないですか。

行ってからわかることもあるし,行ってから「何がわからないかがわかる」ということもある。そこで質問項目の調整が必要になったり,戻ってきてからじゃあこれをどうまとめていこうかと苦労したりすることはありました。そういう葛藤はこれからも続いていくと思います。

若手の研究者に対するアドバイスという意味では,フィールドワークに行く前にあまり難しく考えないほうがいいですね。何とかなりますよ。ただ,そう思えるためにはやはり自分のやっていることが楽しくないといけません。楽しいことをやっていれば,たとえうまくいかなくても意義があるわけですから。

研究者って,大学のような所属先があっても個人事業主であるべきだと思うんです。だったら,自分の好きなことをやったらいい。そしたら最終的になんとなく形になってくるんです。たとえば,博士論文がのちに本になったとき,ストーリーとしてはあたかも仮説をまず考えて検証しているように見えるんですが,じつはフィールドワークをしてから仮説を後付けすることもあるんですよね。ストーリーがおもしろければ,それでいいじゃないですか。

内藤 現場に入るときに仮説をガチガチに固めない,「生焼け」の状態で行ったほうがよいということは私も共感しますが,武内さんのご経験のなかで,フィールドに入ったら論文で書かれていた世界とこんなに違ったというような,ギャップを感じた体験はありますか。

武内 ギャップというよりは,ああこういうことか,と腑に落ちることはよくあります。フィールドワークをすると,頭に入っていたことが肌感覚に変わるんです。先行研究で読んでいたことが実感としてわかるというんでしょうか。

たとえば,中国に何十万とある村の様相を理解するのに,すべての村に行って調べることは不可能です。しかし,フィールドワークでいくつかの村がどうなっているのかということを肌感覚で理解すれば,ほかの人が書いた別の村の様子を報告した文献に接したときに,それが自分の感覚としてわかるようになります。フィールドワークを経験的証拠(empirical evidence)として使うのに批判的な人は3つや4つの事例で何がわかるんだと言うんですが,3つか4つについて精通していれば,ほかの事例に接したときに理解度がまったく違うんです。中国の研究者は1つか2つの事例を詳細に分析することが多いですから,フィールドワークをしてから中国語文献がよくわかるようになりました。

それから,大規模データを使って計量分析を行う「ラージNの研究」(large-N study)の文献を読むときも,方法論としては対極にあるフィールドワークに基づく「事例研究」(case study)は役に立ちます。ラージNの研究でひとつひとつのデータポイントについて精通することは不可能ですが,いくつかの事例に精通していると,ラージNの研究で導き出された一般化された結論が血となり肉となるというか,一を聞いて十を知るというようなことが,フィールドワークをしているとできるようになります。

 現場に行った経験がなければ,それを読んでも何も感じずにそのままスルーしてしまうということですね。

武内 そうですね。あとは,中国の農村問題ってやはり経済問題なんですよ。経済問題ですから,いろんなレベルで数字も出てくるわけです。その出てきた数字がどんな意味をもっているのかというのは,フィールドワークで現場を知っていれば肌感覚で解釈できるというのはありますね。

村党支部書記へのインタビュー(江西省,2005年)

 武内さんの著作のなかには,100人を超えるインタビュー対象者のリストが出てきます。あれは,どこの村に行って誰に聞くというのがすべて決まっていたわけではなく,スノーボール・サンプリングとよく言われるように,人を紹介してもらってだんだん広がっていった結果なんですか。

武内 そうですね。話が聞ける人に聞いていった結果です。じつは,中国に行く前に予定していた大きなアテが外れてしまいまして,一時は途方にくれてしまいました。そんな折,本土に行く前に訪問研究員として3カ月滞在した香港中文大学で,運良く中国農村の地方政府に関する大きなシンポジウムに参加させてもらったのですが,会合には地方政府の幹部が何人も来ていました。開明的な人でないとそういう会合には参加しません。そこで,「1年間農村を見て回りたいので訪問させてくれないか」と片っ端からお願いしてみたんです。そしたら,幸運なことに何人かの方がフィールドワークを受け入れてくださいました。

その後は,まさにスノーボール・サンプリングというか,インタビューした人が別の人を紹介してくれたりしました。中国語には「グワンシー(関係:guanxi)」という言葉があるんですが,これは日本語で言う「関係」以上の意味があって,「ネットワーク」と「コネクション」が合わさったような言葉です。人の紹介でお会いした方がまた別の人を紹介してくださるという,グワンシーの恩恵が大きかったですね。

社会科学のリサーチ・デザインの教科書には,仮説の検証ができるように事例を選びなさいと書いてあるでしょう。因果関係を検証できるように「自然実験」(natural experiment)になるようなかたちで,相違点と類似点を見極めながらフィールドワークの場所を選びなさいということです。でも,中国でのフィールドワークではそういうことは無理なんです。行けるところに行って,話を聞ける人に聞いてということを繰り返して,それを踏まえて何が言えるかということを考えるしかないんですよ。

 誰かに聞いて,その人に紹介してもらうということが中国では重要なんですか。

武内 中国の場合は,ものすごく重要ですね。

 いきなり行っても,なかなかアクセスできないわけですね。

武内 何より危ないですよ,いきなり行くと。会ってくれないのはもちろんのこと,政治問題,経済問題,とくに地方政府の財政危機というのは厳密に言えば国家機密に触れますから,外国人がそんなことを聞いて回ったらどういう結果を招くかわかりません。拘束されるかもしれません。

その一方で,地方政府のトップである党委(党委員会)書記の権力は絶対ですから,「党委書記のお客さん」ということになれば警察もヤクザのような人も皆協力してくれます。地方政府のトップに香港でのシンポジウムでめぐり会えたのは幸運でした。

 論文にも書かれていましたが,地方政府では法律に違反するようなことが日常的に行われているのですよね。

武内 法律に従っていたら地方政府が回らないという状況なんです。役人の汚職というと,悪い人が悪辣なことをやっていると思われるでしょう。文献を読んでいるとそういう事例ももちろんあります。でも,補助金の流用をしないと給料も払えないという現実もあるんです。それがわかっているから,それでも回る仕組みをみんなでつくっていました。たとえば帳簿なんかは3つあったりして,本当のことが書いてある帳簿と,オフィシャルな帳簿,それから監査のために上級政府に見せる帳簿の3つです。上級政府とも癒着しているわけですが,その上級政府にも本当のものは見せていない。それをわかったうえでオフィシャルな帳簿を読むとわかってくることもあります。

 武内さんの論文を読んで,地方政府は上からは圧力をかけられ,下からは突き上げられで,かわいそうな中間管理職みたいだなと思いました。

武内 まさにそう。だから地方政府の人と話すとき,「お気の毒ですね…」というふうにもっていくわけです。そうすると向こうも愚痴交じりに本当のことをしゃべってくれる。自慢話より愚痴の方が有益な情報を提供してくれますね。

研究成果の出版・発信

 研究のアウトプットの面ではどうでしょうか。たとえば,『Tax Reform in Rural China: Revenue, Resistance, and Authoritarian Rule』[Takeuchi 2014]などは出版までにどういう経緯がありましたか。

武内 その本に関して言えば,フィールドワークで得た知見を,ゲーム理論を使って論理構成したんです。当時,中国政治について書かれた本で,ゲーム理論を使ったものはありませんでした。博士論文の主査をしていただいたリチャード・バウム(Richard Baum)先生(故人)からは「俺はゲーム理論のことはわからないから,それなしでも論理構成がわかるように説明しろ」と言われました。その一方で,副査のキャシー・ボーン(Kathy Bawn)先生(UCLA教授)からは,学部時代に学んだ経済学の手法を使うことを強く勧められました。スタンフォード大学で経済学の博士号を取られた方で,ゲーム理論の政治学への応用がご専門です。学部時代に経済学に対して失望の念を抱いていたので,最初はあまり乗り気ではなかったのですが,ゲーム理論というレンズで中国の地方政府のドラマを分析してみると新たな発見があり,経済学のおもしろさを再発見しました。

2人のまったく違うタイプの先生のご指導のおかげで,私の博士論文は中国農村の地方政治をゲーム理論の手法で分析するというユニークなものになりました。それを大幅に加筆修正した草稿をケンブリッジ大学出版会に提出したのですが,2人の査読者から対照的な評価をいただきました。ご両人とも高く評価してくださったんですが,一方の査読者からは「フィールドワークがすばらしいんだからゲーム理論はいらない」というコメントが来ました。もう一方の査読者はゲーム理論にも精通するメラニー・マニオン(Melanie Manion)先生(デューク大学教授)だったのですが,「中国政治の分析に初めてゲーム理論を使った画期的な本だ」という評価をいただきました。2人の査読者にまったく反対のことを言われてしまったのですが,出版社の編集者に査読への回答を提出するときには,マニオン先生の評価を引用して,「ゲーム理論はいらない」という主張に反論しました。このあたりはやっぱり多少の苦労がありましたね。

内藤 最近,私も初めて編著書を出させていただいたところなのですが[Naito and Macikenaite 2020],さらに単著となると少し怖いところがあります。

武内 単著は研究者としての土台,アイデンティティになっていくものですから,単著を出すことを目標にしたほうがいいですよ。

地域研究と社会科学

 地域研究と社会科学の関係性については,どうお考えですか。日本とアメリカとの違いも含めてお聞かせください。

武内 地域研究と社会科学という話はあまり難しく考えなくていいと思います。「問題」(issue)を設定して,それに対して「論理的説明」(logical explanation)を加え,それを「経験的証拠」(empirical evidence)でサポートするというのが社会科学です。経験的証拠を社会科学では「データ」(data),地域研究では「資料」(source)とよぶ傾向があるという違いはありますが,研究の手順は地域研究でも変わりません。

一方,日本とアメリカの中国研究の違いというのはあります。ひとつは日本の中国研究者の地理的なアドバンテージですね。日本から中国は近いので,あまり費用をかけずに中国に調査に出かけることができます。フィールドワークをするには日本の研究者の方が圧倒的に優位な立場にいるので,大いに生かすといいでしょう。

実際,アメリカの研究者がびっくりするようなこともありました。2012年にSMUタワーセンターで慶應の現代中国研究センターと共催のワークショップを実施したとき,日本の参加者がほんの2カ月前に中国で行ったインタビューを資料として使っていたんですね。これをアメリカの参加者が見つけて,「アメリカでは絶対にありえない」と言っていました。アメリカの研究者はいったん中国に行ったら1年くらいは行きっぱなしですからね。日本の研究者のように年に何度も日本と中国を往復して資料を取っていくというようなことはなかなかできません。

もうひとつは「内政」と「外交」のバランスでしょうか。日本の中国研究者は内政から入って外交をやるという人が非常に多くて,中国研究者が自然に国際政治学者になってしまう傾向があります。これがアメリカの場合,中国研究者は内政をやっている人が圧倒的に多い。一方,中国の国際関係を論じる人のなかには,中国専門家ではない人,中国語がまったくできない人がかなりの数います。アメリカの対中外交を論じている人たちには,なおさらそういう傾向があります。ただ,中国の外交は内政の延長線上にあるので,「インサイド・アウト」に中国政治を見る日本の中国研究の特徴は長所だと私は思っています。

それから,日本でもアメリカでも,最近は中国の専門家でない人が中国を論じるようになっています。とくにアメリカでは,アメリカに力で対抗できるのは中国だけだという論調が目立ってきていますが,そういう発言をするのは往々にして中国を長い目で見てこなかった人たちです。日本で「アメリカの中国専門家」というときにワシントンのシンクタンクの人の発言が引用されたりしますが,そういう人たちはアメリカの中国研究者の間では傍流に属するということは頭に入れておいたほうがいいかなと思います。アメリカの場合,中国語ができる中国専門家で外交をやっている人というのは少ないんです。

あとは,アメリカで「中国政治」研究というとき,やはり「中国」よりも「政治学」(political science)が先に来るのかなというイメージはありますね。地域研究というのは政治学の理論をテストする場だと思っている人が結構います。私のなかでは,まず「中国研究」があって,中国のおもしろい事象について問題設定をして,それを論理的に説明するために政治学の理論を使うという順番です。ところがアメリカの研究者の場合は,まず政治学の理論に基づいて問題設定をして,それに中国政治の事象が経験的証拠としてどう活用できるかという順番で考えているようなのです。

地域研究というのは通常「比較政治学」(comparative politics)に分類されます。比較政治学でラージNの研究をしている人は,世界全体としてどういうパターンがあるか,たとえば権威主義国のケースを100ぐらい取り上げて,その権威主義体制が続いたか崩壊したか,権威主義体制を長続きさせるのはどういう要因かを説明しようとします。そのときに,その100ぐらいのケースにおしなべて適用できるようなパターンを見出すわけですね。ただ,それで導き出されたパターンが中国には当てはまらないということが往々にしてあるわけです。「中国は違う」ということになってしまう。

もちろんそうやって導き出されたパターンがまったく中国研究に役立たないかというとそんなことはなくて,たとえば「政党政治を確立した権威主義体制は長続きする」というラージNの研究の知見はまさに中国に当てはまります。毛沢東個人のカリスマと軍の支持に頼った毛沢東体制は,共産党の一党支配を崩壊の瀬戸際に追い込みました。鄧小平氏が重視したのは一党支配の制度化です。中国政治の歴史的事象と社会科学の理論的知見の双方を踏まえることで理解が深まるんです。

ですから,社会科学と地域研究の対話,事例研究とラージNの研究のキャッチボールというのはすごく大事で,その間を粘り強く行き来する議論が必要だなと思っています。自戒を込めて言いますと,中国研究をしている人がラージNの研究に触れて「中国には当てはまらないよね」と言っているばかりでは学問の進歩はありません。

 これは個人的な関心なのですが,環球時報の英語版でGlobal Timesという新聞がありますよね。インドの外交を研究している人が参考にしているのをよく見かけるのですが,アメリカで中国の外交研究をしている人のなかにもそういう人はいるのでしょうか。確かに中国社会の一部の声は代弁しているのでしょうが,あれはかなりナショナリスティックなメディアだと思うのですが。

武内 Global Timesは中国語が読めない人には重宝されるんでしょうね。中国共産党の機関紙である人民日報の系列の新聞なので普通の新聞ではありませんが,党の新聞なわけですから情報そのものは有益ではあります。つまり,あそこに載っている記事はすべて政府の意向を反映しているということですね。

 日本の新聞でも環球時報がこんなことを言っていると引用している記事を見ることがあります。どういう立ち位置のメディアなのかをわからずに,こうした記事を読む人もいるのではないでしょうか。

武内 メディアというのは背景も踏まえて見聞きしないとだめでしょう。アメリカのNew York Timesなんかもバランスの取れたリベラル紙と言われますが,こと日本に関する情報源は朝日新聞だったりするので,それが日本の真ん中の論調だと思われるのはどうかと思いますよね。ただ中国のメディアについては,政府が直接コントロールしているので,それを踏まえたうえで政府の意図を推測してみる意味はあります。

中国を研究対象にすることの難しさ

 中国を研究対象にすることの難しさというのは,どんなところにありますか。

武内 いまはとくに難しいです。習近平体制になってから,みんなしゃべってくれなくなりました。とくに外国人には口が重くなっていて,中国を研究対象にしてフィールドワークをするというのはだんだん難しくなってきていると思います。私がフィールドワークをしたのは胡錦濤政権のときですが,書かなければ何を言っても捕まらないというような不文律が当時はあったんですね。愚痴まじりにすごく有益な話をしてくれるので,それを組み合わせることで真実を導くという研究の手法が通用しました。でも,いまは本当のことを話してくれないし,政府の公式発表を読めばわかるような当たり障りのないことばかりです。

ただ,私自身の興味・関心はだんだん内政から外交に移ってきていて,いまは国内政治が国際関係にどう影響するかという問題を見ています。ですから,国内政治の政策決定過程をブラックボックスにして,こういう政策が出てくるということは国内政治でこういうことが起こっているのだろうと推測していくわけですね。これは社会科学の手法ですが,ブラックボックスの中身を推測するには地域研究の知見が必要です。

研究がとくに難しくなっているのは,これから博士論文を書いていくような若い人たちでしょう。中国政治に関する有益(informative)なデータや資料が手に入りにくくなっています。統計学にGIGO(garbage in, garbage out)という概念がありますが,インプットの質が落ちるとアウトプットの質も落ちるんです。アメリカで出版される中国政治の論文もだんだんつまらなくなってきているように思います。

でも,これは非常にもったいないことです。というのは,習近平政権が始まる2013年くらいまでの時期というのは,若手の中国研究者が高度な社会科学の方法論を身につけて,中国研究が洗練されてきていました。現地でのインタビューや文献資料の収集がそれまでどおりできれば,中国研究が政治学全体のなかでもかなり重要な位置を占めていくだろうと期待されていました。それが習近平体制になってから締め付けが強まって,インタビューをしても誰も意味のあることをしゃべらなくなってしまったし,資料にもなかなかアクセスできない,そういうことで中国研究のクオリティが落ちてきているのかなという気がします。

内藤 中国でのフィールドワークがものすごく難しくなってきているというのは私も肌で感じています。とくにアジア系の顔をしていない西洋の方だとさらにその難しさは増していると思います。

その一方で,中国国内にももちろん中国研究者はいらっしゃって,彼らの研究成果のクオリティは高まってきているように私は感じています。そうしたときに,たとえば中国人の学生がアメリカに出て中国研究をしようとした場合の調査のしやすさ,しにくさということに変化は出てきているのでしょうか。また,彼らが学位を取得して中国に戻ったとき,彼らを取り巻く環境というのはどうなっていると思われますか。

武内 中国人研究者の場合,インプットへのアクセスはあっても,中国にいるとアウトプットは制限されますよね。

2013年ぐらいまではまだ書けることも多かったし,中国人がアメリカの大学院に大勢来るようになって中国研究のレベルがすごく上がりました。たとえば,コロンビア大学で博士号を取った陳曦(Xi Chen)さん(香港中文大学准教授)が農村の抗議行動について書いた『Social Protest and Contentious Authoritarianism in China』[Chen 2011]なんかはすごくいい本です。文中では「H県」と伏せられていますが,中国語で「上訪」(shangfang)とか「信訪」(xinfang)とよばれる請願(petition)に関する資料を出身地である湖南省で集めていました。それを社会科学の手法で分析して,博士論文を書き,本を出版したわけです。良質なインプットから良質なアウトプットが生まれたよい例だと思います。ところが,いまは中国人であってもフィールドワークが難しくなっていて,当たり障りのない資料しかアクセスできないので,アメリカに来ている中国人大学院生の問題設定もおもしろくなくなってきました。中国研究の未来は危機にあると思っています。

村民へのインタビュー(江西省,2005年)
農作業に参加(河北省,2005年)

 データの入手がしにくいというお話ですが,取ることができたデータの信頼性についてはどうお考えですか。

武内 以前は,フィールドワークをすればデータの信頼性もある程度把握できました。いまは,そもそも信頼できるデータが少ないので,一度入手したものをかなり使い回しているというのが実情でしょう。限られたデータや資料から言えることは限られるので,なかなか意味のある大きな話ができないんです。政治学で大きな話というのはパワーをめぐる話で,中央・地方政府関係のようにセンシティブな問題に関わってくるわけです。だから,なかなかおもしろい問題に踏み込んでいけないんです。

私が2014年に出版した『Tax Reform in Rural China』では,請願から行政訴訟(administrative litigation),村民委員会選挙(village election),街頭でのデモまでひっくるめて分析対象にしました。ところが,これから博士論文を書こうという人たちはそのうちのひとつを対象にするのが精一杯のようです。「政治参加」という大きな話ができないので,中国政治におけるパワーの問題につながっていかないんです。

そうなると,政治学と対話をするにしても,政治学の理論がどの程度当てはまるかという皮相な議論に終始してしまう。政治学の理論というのはおおむね欧米諸国の政治をベースにしているので,それが中国政治の現実と違うのは当たり前の話です。

たとえば,選挙の理論を中国の村民委員会選挙に当てはめても「違うね」で終わってしまっては何の意味もありません。どうすれば論理的に説明できるのか。理論というのはそのための手段であるはずです。政治学の理論を使うのが自己目的化して,かゆいところにますます手が届かなくなっているところがいまの中国研究にはあるような気がします。

「中国脅威論」について

 現在,「中国脅威論」のようなものが世界各地で勢いを増しています。日本でも,今回の大統領選挙でトランプ大統領を熱烈に応援するだけでなく,「組織的な不正によって選挙が盗まれた」と一緒になって陰謀論を唱えるメッセージがSNSなどで多数見受けられ,おそらくその背景には,中国に対する脅威や嫌悪感といったものがあるのではないかと強く感じました。このような非常に素朴な中国脅威論に対して,中国研究のこれまでの蓄積を踏まえるとどういうことが言えるのでしょうか。

武内 いまは日本でもアメリカでも,いろんなレベルで中国を知らない人が中国を語るようになっていて,それがおしなべてネガティブなんですね。中国脅威論というのは中国専門家でない人が言っているということを抑えておくべきだと思います。とくにアメリカでは,トランプ政権には中国専門家がいなかったのでひどいことになってしまいました。ただバイデン政権になっても,中国に対する強硬姿勢というのは超党派の合意ができてしまっているので,基本的には変わらないと思います。

ワシントンにいる政府高官や政治家は中国研究者と交わらない傾向があるので,対中政策に中国研究の知見が反映されないきらいがあります。中国専門家でない人たちは中国の内政にあまり注意を払わないので,中国の指導者というのはいつも対米関係のことを考えていると思い込んでいるんですね。ところが中国政治を知っている人に言わせると,習近平氏にとって一番大事なことというのは国内政治の安定なんです。アメリカの大統領が何を言っても習近平氏が政権を追われることはありません。でも,農民や労働者,少数民族の不満が高じて暴動が起こったり,香港の問題が収拾できなくなったりしたら,政権の安定そのものに関わります。つまり,習近平氏は頻発する国内問題にモグラ叩きのように対応しなければならないんですけれども,それがおそらく中国を専門にしていない人はわかっていない。習近平氏が「中華民族の偉大なる復興」などと大それたことを言うのを聞くと,中国は世界支配を目論んでいるのではないかというような妄想を膨らませてしまうんです。

習近平氏が大言壮語を吐くのは,結局のところ中国が権威主義体制だからです。選挙で選ばれたわけではないので,常に権力闘争をやっていないと寝首を掻かれてしまう。そのためには,成果を誇示して,「自分は偉大な指導者」だと言い続けなければいけない。一帯一路なんかにしてもそうです。中国脅威論を唱える人たちは,一帯一路は世界支配を目論む第一歩だと言うわけですが,習近平氏が2013年に最初に一帯一路を打ち出したときは,胡錦濤政権時代に進められた各地の投資プロジェクトを並べて見せて,それを自分の成果だと主張することで権力闘争に勝とうとしたわけです。中国外交は「インサイド・アウト」なんですよ。

でもアメリカで中国の内政に気を配らない人は,習近平氏の権威付けに資するように書かれたGlobal Timesの記事なんかを読んで,中国が世界支配を目論んでいる,最終的にはアメリカと全面戦争になる,などと思ってしまう。権力闘争のコンテクストではアメリカに対して弱腰というのは致命的ですから,おのずとアメリカに対する物言いは厳しくなります。売り言葉に買い言葉というのは国内向けなんです。

 武内さんは「コレクティブ・ディシジョン・メイキング」(集合的意思決定)という言葉を使っておられますが,中国国内にも国際協調改革派から対外強硬保守派までいろんな派閥があるなかで,権力闘争を勝ち抜いていくためにできるだけ多くの人が納得するスローガンを打ち出したのが一帯一路なんだと,誰も反対しそうにないスローガンは政治的に有効だという話をされていました。中国脅威論を唱える人たちというのは,そうした現実の複雑さを理解していないということですね。

武内 そうです。外から中国を見ていると,中国はサイズも大きいですから,GDPにしても全部足し合わせるとすごく大きな数字になって,それが統一された意図をもって動いているというふうに考えてしまう。もしもそのかたまりが対外強硬的な意図をもてばアメリカに挑戦してくるだろう,最終的には戦争は不可避じゃないか,という妄想みたいなものが広がるわけです。

 では,中国の国内を見たときに,さまざまな利害の対立を覆い隠すために権力者が四苦八苦している場面というのは,どういうところによく現れるのでしょうか。

武内 ひとつはやはり地方政府との関係ですね。国内政治で問題が次々に出てくるので,習近平氏はそれに逐一対応しなければなりません。先ほど申し上げたモグラ叩きです。地方政府にどうやって中央の言うことを聞かせるかというのは,中国歴代王朝の永遠の課題でした。地方のリーダーが無能だと治まらないし,有能だと中央に歯向かう可能性がある,そのバランスをどう取るかというのが頭の痛い問題として横たわっているわけです。

あとは社会との関係で,農民と労働者と少数民族がいわゆる不満分子なんですが,そういう人たちが暴動を起こさない程度に満足させておくというのが大事になってきます。そして潰せるときには潰す,というスタンスですね。つまり,国内の安定というのが習近平氏にとっては一番の心配の種なんです。前任の胡錦濤氏やその前の江沢民氏は任期が決まっていました。でも,習近平氏はその任期も取っ払ってしまったので,ずっと権力の座に座っていないといけない。これまでだいぶ敵もつくってきましたから,これは大変だと思います。

そしていま,一番深刻なのは香港です。香港は党中央の権力闘争,中央・地方関係,国家・社会関係という一党支配の根本問題すべてに関わってくるんですね。香港問題というのは習近平氏のライバルにとっては格好の攻撃材料です。香港も治められないのにどうやって中国を治められるんだというわけです。展開によっては,何かの拍子に堰を切ったように習近平氏を追い落としにくることもなきにしもあらずで,夜もおちおち寝られないのではないでしょうか。

 それでも,素朴な中国脅威論を唱える人たちにとっては,習近平氏が任期を廃止したりして権限をどんどん握っていく様子はその裏付けのように見えてしまうのではないでしょうか。

武内 任期を廃止したことは習近平氏にとってはギャンブルだったと思いますよ。そうやって政権掌握力を強めているつもりなんでしょうが,手で砂を握るようなもので,握り方が弱すぎても強すぎても砂はこぼれてしまいます。繊細な手加減をモグラ叩きに求められているわけで,先のことまで考えている余裕はないんじゃないですか。

 比較権威主義(comparative authoritarianism)の観点から言うと,党が強いことが重要だとおっしゃいましたが,いまの中国は明らかにそれに反していますよね。習近平氏個人の力が強くなる一方,党の力が相対的に弱くなっているという点を指摘されていますが,それは中国を不安定にする要因になってくるのでしょうか。

武内 なると思いますよ。自分の権力基盤を強化するために制度的な権力基盤を掘り崩しているわけです。でも,現実には習近平氏個人の権力基盤というのは党という制度の権力基盤の上に乗っているわけなので,自己矛盾が生じています。それでもやらざるを得ない状況だと,習近平氏が判断したんでしょう。

比較権威主義研究で,党という制度を確立した権威主義体制は弾力性(resilience)があって長続きするという傾向が確認されています。中国の現代史を見ても,文化大革命で体制危機に陥ったときも党を立て直すことで乗り切りました。いまはその党の基盤を掘り崩しているということなので,習近平体制というのはかなり脆弱なんじゃないかと私は思っています。

内藤 私のように中国の内政だけしか見ていない人間からすると,なぜ中国をそんなにも脅威と思うのか,権威主義はそんなに強いのだろうかという疑問を常にもっています。確かに中国共産党の一党体制はかれこれ60~70年になってきているので,そう言われてみれば強いのかもしれないとも思うのですが,どちらかというとしなやかさの方が目立ちます。

胡錦濤体制と習近平体制を比べたとき,明らかに個人に対する権力集中が高まっていると思います。胡錦濤政権は民主集中制のように政治に参加する人の裾野を広げようとした政権だったのではないかという気がしています。しかし,そのときに出てきた弊害もあります。民主集中制の「民主」の部分が強くなりすぎて,「集中」を重視したトップダウンの改革を行おうとしてもなかなか人々が動かなくなってしまいました。そこで,一党支配を持続させるためにリーダーに権力を集中させ,抜本的な政党制度の改革を行おうとしているのが習近平氏ではないかと理解しています。

単純に習近平氏個人の権力を集めることを目的にしているというよりも,一党支配をもう一度健全にするために個人の権力を高めているという理解もできるような気がしますが,いかがですか。

武内 習近平氏個人に権力を集めたら,やはり一党支配のしなやかさは失われるのではないでしょうか。党総書記の任期を2期10年に限って,体制移行を円滑に進めるというのは,権威主義体制を維持するための知恵でした。どんなに権力を集めても,習近平氏も人間ですからいつまでも権力の座にいられるわけではありません。独裁国家における政党政治の制度化というのは,権力者の寿命を超えて体制を永続させるための仕組みなんです。

ところで,日本ではバイデン政権が中国に弱腰なんじゃないかと心配している人がいるんですが,心配するところをちょっと間違えているんじゃないかと思います。権力闘争において対外強硬派が台頭してきた場合,その矛先が日本に向かうのではないかと思うんです。アメリカとはまだ国力に差があることはわかっています。そうすると,何かやるとすれば日本ということになります。戦争を仕掛けるとは思いませんが,火遊びが高じて火事になる可能性はあります。日本はちょっとそれを心配した方がいい。

中国脅威論というのは,私に言わせると中国の権威主義体制が脆弱なときに生じる話です。一党支配がそれなりにしなやかさをもっていて,国内のガバナンスに自信があるときはあまり心配しなくていい。むしろ一党支配が揺らいだときが危険なのであって,「脆弱な中国は強靭な中国よりも危ない」というのが私の見立てです。

今後の研究テーマ

 いま取り組んでいるテーマや今後の研究の方向性についてお聞かせください。

武内 いま取り組んでいるのは「貿易と安全保障」というテーマです。国際関係論で「コマーシャル・リベラリズム」とか「キャピタリスト・ピース」とよばれる,貿易が平和をもたらすという理論を見ています。具体的には,グローバル・バリュー・チェーン(GVC)とよばれる国境をまたぐ工程間分業に基づく産業内貿易が地域の安全保障を強化するという仮説を検証しようとしています。アジア太平洋地域ではGVCに基づいた国際貿易が活発に行われていて,中国経済もGVCに組み込まれています。TPP――アメリカが離脱してからはCPTPP(環太平洋パートナーシップ協定)――は,そのためのルールづくりでした。日EU・EPA(日EU経済連携協定)もそうです。NAFTA(北米自由貿易協定)に代わって発効したUSMCA(アメリカ・カナダ・メキシコ協定)もよく見ると内容はCPTPPとほとんど一緒です。

おもしろいのは,こうしたGVCを司るためのメガFTA(自由貿易協定)には,国有企業改革をはじめとする国内規制に関する条項が入っているんです。国内規制によって外資系企業と地元の国有企業が公平な競争をできないようなビジネス環境では,GVCを構成する海外直接投資を呼び込むことが難しくなるからです。

一方,中国が入っているRCEP(東アジア地域包括的経済連携)との比較で見ると,中国は国有企業改革を強制されたくないので,RCEPは国境措置,つまり関税の引き下げがメインです。発展途上国の関税は高いですから,関税を下げるというのは意義があります。とくにインドの関税が下がるのはすごく意義があったのですが,インドが離脱してしまったのはとても残念です。

 現政権が保護主義的な経済政策を推し進めてきたことを考えると,インドのRCEPへの不参加は当然の帰結だと思います。さらに,インドの保護主義的な傾向はパンデミックによる経済状況の悪化を背景に一段と強まっていて,日本企業を含む外国企業への影響が懸念されます。

武内 要はGVCに基づいた貿易のためのFTAというのは,経済改革を促す効果があるということです。経済改革と国際協調というのは車の両輪みたいなものです。改革派は平和な国際環境のもとでグローバル経済に関わっていくことが不可欠だと考え,そのためには協調的な対外政策をとる必要があるので,改革派と国際協調派は連携するわけです。一方,経済改革によって既得権益を脅かされる人たちは,対外強硬政策を主張することで改革潰しを図るわけです。

つまりGVCが広がることによって,国内の経済改革を促すようなFTAを結ぶインセンティブが生まれ,各国の国内政治において国際協調派の主張が通りやすくなる。結果として,GVCに基づいた貿易が地域の安全保障を支えるというのが論旨です。貿易が平和をもたらすという理論のミクロ的基礎を考察しています。

オンライン・インタビューに応じる武内氏

(2020年11月18日(日本時間),ダラスより)

 それはいまいらっしゃる場所がダラスだということとも密接に関連しているという理解でよろしいでしょうか。

武内 そうですね。GVCは自動車産業と機械産業でとくに発達していて,NAFTAを構成するカナダ,アメリカ,メキシコという北米3カ国では早くからGVCができていました。トヨタ自動車の北米総本社はダラスにありますが,北米に広く生産拠点をもつトヨタにとって,ダラスはその「ど真ん中」に位置するわけです。

以前は,トヨタの北米総本社はロサンゼルスの郊外にありました。アメリカで販売する車を日本から輸入していたころは,港があるロングビーチに近いところに本社を置くのが理にかなっていましたが,いまは,大雑把にいって60%がアメリカ製,15%がUSMCA加盟国のカナダやメキシコからの輸入で,日本からの輸入は25%に過ぎません。ですから,GVCの「ど真ん中」であるダラスに本社を置くほうがいいわけです。トヨタが北米総本社をロサンゼルスからダラスに移す過程を間近で見聞きしてきたのでGVCの意義に気づいたという面はあります。

 テキサスだけではなく南部の州が海外直接投資を呼び込んでいるということがその背景にありますか。

武内 そうですね。アメリカ経済を牽引しているのが南部で,その南部経済を牽引しているのがテキサス,そしてそのテキサス経済を牽引しているのがダラスです。ヒューストンはエネルギー産業への依存度が高く,外資を取り込んで経済の多様化を果たしているという点でダラスが一歩先を行っていると思います。南部でダラスと似たパターンで経済が急成長しているのはジョージア州のアトランタです。「サンベルト」(Sun Belt)とよばれる南部諸州は,外資系企業の海外直接投資を誘致して雇用を大きく増やしてきました。「ラストベルト」(Rust Belt)とよばれる中西部諸州とは対照的なんです。

 外国企業がアメリカで雇用を生み出し,現地経済に貢献しているという事実は,アメリカではあまり知られていないとおっしゃっていますね。

武内 アメリカで走っているトヨタ車を日本から輸入していると誤解している人が多いし,トヨタの北米総本社の従業員は日本人ばかりだろうという誤った認識もあります。実際には,契約社員を含めると6000人くらいの従業員が働いていますが,そのなかで日本人は100人ぐらいで,ほとんどは現地雇用です。日本企業はどこも同じような割合で,アメリカ人のほうが圧倒的に多いんです。多くの雇用を創出している外資系企業が,ことあるごとに政治的に槍玉に挙げられるのは腹立たしいことです。

内藤 これまで取り組まれてきた研究のメソッドが今回の研究に生かされたということはありますか。

武内 今回の研究でもフィールドワークを重視しています。とくに経済の肝であるビジネスの現場を見たかったので,トヨタの方にお願いして,日米合わせて5つの工場を見学させていただきました。製造業の現場というのはすごくおもしろくて,とくに自動車工場は一度見たら人生観が変わるんです。「現地・現物」といいますが,トヨタの「ものづくり」に対するこだわりというのは鬼気迫るものがありますね。

私のなかで,いま取り組んでいるGVCの研究というのはこれまでやってきたことの集大成のようなところがあります。GVCというのは,もともとは経済学の問題です。その安全保障上の意味を考察しているので,国際政治の問題でもあります。さらに,FTAが国内の政治バランスに影響するという話ですから,地域研究にもつながってきます。そして各国の国内政治の根幹にあるのは,オートメーションとグローバリゼーションという経済現象なんです。

若手研究者へのアドバイス

 『アジア経済』は2020年9月に,京都大学東南アジア研究所の『東南アジア研究』と共同で論文投稿セミナーをオンラインで開催しました。学術誌に論文を掲載したいという人たちのために,投稿する際に注意すべきポイントや査読プロセスなどを紹介し,草稿をもってこられた参加者には,編集委員が具体的なアドバイスをしたり,研究の相談に乗ったりしました。

論文投稿セミナーには,大学院生をはじめとする若手研究者に数多くご参加いただき,とても好意的な反応をもらいました。これからの学術研究を担う若手研究者に,武内さんからメッセージをお願いします。

武内 まず一番大事なのは,社会科学者として社会に対する好奇心を失わないでほしいということです。若手研究者はよく「自分の研究テーマに集中しろ」と言われるのですが,これをやりすぎると「専門バカ」になってしまいます。とくに若いうちは,アンテナをなるべく広く張っていろんなことに興味をもって,「教養」という問題意識の感受性を磨いてほしいと思います。

そのうえで,現場を見ること,人と話すことが大事ですね。自分と同じ分野で違う対象を扱っている人と話すのも非常に有効です。自分の研究にも刺激になるはずです。そのためには,普段からアンテナを広く張っておくのが肝要です。

それから,専門家として社会に何ができるか,そのことを立ち止まって考えてほしいです。就職とか昇進とかいろいろありますが,社会に貢献するという姿勢を忘れてはいけません。たとえば若手研究者のなかには,研究と教育を相反するものとして捉えて,論文執筆に集中するために学部の授業にいかに時間をかけないかに腐心している人も大勢います。でも,世代は必ず交代していくのですから,次の世代を担う学生を導き啓発していくというのは,我々の義務ではないでしょうか。ひょっとすると,論文を発表するよりも社会に貢献できるかもしれませんよ。

最後は,いまある常識を疑うことです。学部時代,私は鳥居泰彦先生(故人)のゼミに所属していました。鳥居先生は当時塾長を務められていて,ゼミでは人生訓のような話が多かったのですが(笑),卒業する4年生を前にして「君たちがこれから生きて行く時代は,いまとはまったく違う世界なんだ」と,強い口調でおっしゃっていたのを覚えています。世の中は変わるんです。変化のスピードはどんどん速くなって,変化への適応力が問われているんです。いま,私も学生にそんな話をしています。

今回のパンデミックで,社会の常識が大きく変わりました。アメリカの大学では,ロー・スクールに行って司法試験に受かればバラ色の未来が開けると思っている学生がかなりいます。「何でロー・スクールに行きたいか」と問い詰めてみると,要は「親の期待」なんですね。でも,そんな常識が今後も通用するでしょうか。そもそもそんな常識が存在するのでしょうか。現実には,晴れて司法試験に合格しても学費のローン返済に苦しんでいる人がたくさんいます。学生には,ランキングよりも手厚い奨学金を出してくれるところを選ぶように勧めています。ローン返済を気にしなくてもよければ,学位取得後の選択肢が広がるからです。

SMUは毎年夏に関西学院大学でSMU-in-Japan Summer International Studies Programを開講しています。関学のスクールモットーは“Mastery for Service”(奉仕のための練達)です。それはつまり,人間として何が正しいかを判断し,相手を思いやり,感謝を大切にして謙虚な気持ちで人と接するということです。社会に奉仕するという姿勢を忘れなければ,世の中が変わっても,自分は専門家として何ができるかという問いに対する答えは自ずと出てくるような気がします。そのためにも,アンテナを広く張ることが大事になってくるわけです。

 グローバル教育が一番必要なのはアメリカ人の学生だとおっしゃっていますね。

武内 そうなんです。「トランプ大統領」というのは,まさに「グローバル教育が必要なアメリカ」を体現しています。トランプ氏は「アメリカ・ファースト」という独りよがりのスローガンを掲げて,「昔はよかった」という不満をもつ人たちを扇動しました。これは“Mastery for Service”の精神とは対極にある行動です。アメリカ人は,自分たちの選択が世界中に影響を及ぼすということを全然わかっていないんです。“World Changers Shaped Here”というモットーを掲げるSMUの学生たちには,相手のことを思いやって自分に何ができるかを考え,多様性を受け入れる人になってほしいと願っています。

 武内さんは野球がお好きだとうかがったので思い出したのですが,大リーグで活躍するダルビッシュ有投手はまさにアンテナを広く張っている選手だとつい最近知りました。彼はSNSを使って積極的に情報発信する傍ら,野球好きの素人からTwitterを通じてアドバイスをもらって,自分のピッチングの参考にしているそうで,それが今シーズンの活躍につながったそうです。活躍する人というのは,アンテナを張り巡らして,固定観念から自由でいること,いろんな人から意見を聞くこと,そういうことをやっているんだなと痛感しました。

武内 社会科学者の使命というのは論文を書くことだけではありません。「どうやって社会に貢献するのか」,「どんな人間になりたいのか」と自らに問いかけながら,あらゆる方向にアンテナを張って,これぞというシグナルをキャッチしてもらいたいですね。

 そういう意味では,武内さんの現在のご活躍も多方面からのシグナルをうまく取り込んできたからだといえますね。武内さんには,サイ・ヤング賞候補にもなったダルビッシュ有投手のようにますますご活躍されることを期待して,今回のインタビューを締めくくりたいと思います。どうもありがとうございました。

文献リスト
  • Chen, Xi 2011. Social Protest and Contentious Authoritarianism in China. New York: Cambridge University Press.
  • Naito, Hiroko and Vida Macikenaite, eds. 2020. State Capacity Building in Contemporary China. Singapore: Springer.
  • Takeuchi, Hiroki 2014. Tax Reform in Rural China: Revenue, Resistance, and Authoritarian Rule, New york: Cambridge University Press.
 
© 2021 Institute of Developing Economies, Japan External Trade Organization
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