2021 Volume 62 Issue 4 Pages 106-112
近年,帝国史と呼ばれるアプローチによって,植民地社会がどのような社会構造にあったのか,日本人コミュニティーの構成,起源,近代的セクターとしての鉄道・銀行・貿易・繊維等の機械工業と結びついた生活基盤のあり方,そして現地社会有力者と日本人関係者の交際のあり方などが明らかとなりつつある。他方で,帝国解体後の引揚や,引揚者が全国的な規模で行った日本政府への在外財産請求運動にも光があてられ,日本人にとっての戦争のみならず植民地の記憶がいかに喪失され,被害者記憶の一部へと組み込まれたのかについても焦点が当たっている。
本書は,植民地朝鮮から引揚げて戦後日本で「朝鮮縁故者」と呼ばれた人々に焦点を当て,彼らが戦前の朝鮮時代をどのように回顧し,また,具体的な在外財産の数字とその財産が有していた政治的性格を意味付けながら,日韓交渉に彼らがいかなる影響を与えたのかに焦点を当てる。そのことで,戦後日韓関係史を植民地支配の歴史と連続させようとした研究である。社会史的な観点も取り込みながら,国際関係史的な歴史理解に挑戦しようとした業績ともいうことができる。また,本書は引揚そのものの歴史という今日流行しているテーマの先にあるもの,すなわち引揚者をめぐる「記憶と価値の政治」ともいうべき現象に,実証研究の面から,これ以上望めない程の社会的資料調査の手法をもって,期間を極めて短く限定することで迫ろうとした業績ということもできよう。
引揚者は敗戦時の呼称であるが,彼らが「朝鮮縁故者」として日韓関係に大きな影響を及ぼし,その基本認識を形作ったという点が,この本の大きな中心的主張である。
さらに,政治に影響を与えた朝鮮縁故者は3種類に区分されている。第1は,朝鮮総督府の元官僚である。戦後は国会議員になったり,個人と法人をつなぐハブ的な存在となった人々とされる。第2は,『京城日報』の言論出身者で,朝鮮縁故者をまとめる会報の発行を通じて,引揚者の認識を日本社会に広く普及させようとした人物たちである。第3は京城帝国大学の学識経験者,知識人で,外務省や大蔵省の調査活動にあたって理論的な枠組みを提供した人物たちであった(5ページ)。
引揚者を朝鮮縁故者と再定義して,植民地を起源としながら戦後の日韓交渉へと連なる政治集団として位置付け,占領期と戦後を連続する視野を提示し,資料をはめ込んだことこそ,目立たないが,本書の最大の知見ともいえる。こうした官民にまたがる朝鮮縁故者は,朝鮮からの民間人引揚者集団が出した数字に意味を与え,さらにその数字を一般的な国民感情と結びつけ,外交交渉へと反映させた集団として位置づけられている。
かつて朝鮮でビジネスをしていた民間人経営者は「朝鮮事業者会」を組織して(1945年11月),在外私有財産の基礎となる数字を,政府と協力しながら在外財産調査会(翌年9月に政府機関として設置)において算出した(7ページ)。それは植民地が帝国的「搾取」の舞台ではなかったとする「感情」を具体的な数字として表現したものであり,その数字の意味と論理を提供したのが,縁故者中の知識人であった。縁故者は帝国的国家を支えた人的なネットワークであり,戦後日本社会の上層・中層・下層にまたがった特殊集団でもあったということができる。階層横断的という意味で,縁故者にまず共有された集合的な感情や記憶の混じる社会への分析を踏まえた政治過程・外交史分析が,本書では展開されていく。在外日本人財産として算出された数字に,どのように感情や意味が付されて,いかに日韓交渉に用いられたのかという問題が全編を貫いている。
ちなみに,数字に感情を付した縁故者団体として大きな役割を果たしたと考えられているのが,民間人引揚者の日本国内定住を支援した,「朝鮮引揚同胞世話会」(会長,穂積真六郎)であった。大蔵省がまとめた調査書『日本人の海外活動に関する歴史的調査』のなかで,日本による植民活動は「帝国主義的発展史」や「民族の侵略史」の1コマではなく,単純な「経済行為」を踏み越える「商取引であり,文化活動であった」ことが強調されているように,縁故者は政治,経済,文化を横断するネットワークを有していた。彼らによる「正義」をにじませる「記憶」化のプロセスを,裾野を広げた外交史として著者は描いている。そうしたプロセスの分析対象となる当時の朝鮮縁故者たちの認識は,「凝集された植民地認識」の結晶体であり,1953年の久保田発言の底流に存在した「対韓国外交の原型」にほかならないと位置付けられている。
全体の構成に沿って,おおよその内容を著者の言葉や分析に従ってまとめてみたい。
序章では「『在韓日本財産の数字』から請求権問題への連続性」が論じられる。在韓日本財産をめぐる日韓の外交交渉は,強制連行された労務者の未払賃金や在日韓国系財団などの韓国側の請求権と合わせて,日韓交渉に関する資料開示請求が2004年に認められるまで,研究上の空白となっていた。それを解く鍵は,いわゆる「逆請求権」と韓国側から呼ばれた権利にあるとされる。日本人朝鮮縁故者の個人(官僚・学者・言論人)や法人(朝鮮事業者会)のネットワークと日本政府との協力によって,在韓日本財産に関する数値の算出は行われ,その財産の性格とその意味も集約されていった。数値化によって,朝鮮における日本人所有財産が「個人財産」「法人財産」「国有財産」という3つのカテゴリーに分類され,旧外地における在外財産の総計も朝鮮20パーセント,台湾10パーセント,満州37パーセント,中国本土25パーセント,樺太・南洋・欧米8パーセントと算出された(7ページ)。
その作業に注目して日本側の「対韓国認識の原型」やその形成過程を浮き彫りにするという方法論が提示され,まず法的権利の根拠とそれを支える認識を解明するため,在外財産調査会を舞台に,外務省と大蔵省が朝鮮縁故者と共に行った在外財産に関する議論が分析される。その分析を通じて,日本の国民感情が植民地時代の認識を温存したままであったこと,さらにそうした認識が日韓交渉の制約となったという既存の研究枠組みが改めて示される。
第1章「一九四五年の敗戦――朝鮮縁故者の定着志向から引揚げへ」では,交渉の背後の主体である引揚者団体の形成過程が論じられる。朝鮮縁故者は終戦後にも朝鮮での生活を続けようと試みていたが,最後は未練を残しながら引揚げを選択せざるを得なかった。1945年8月18日に設立された「京城日本人世話会」は,解散の予定されていた総督府に代わり朝鮮人民間人組織と連携し在留邦人財産の保護を行う計画を有していた。しかし,呂運享などの朝鮮の民族主義指導者は財産保護の前提となる治安維持協力を拒否した。京城日本人世話会は朝鮮に留まりながら「新生朝鮮」に協力して生きる在朝日本人となることを奨励するが,民族主義の高揚を受けて米軍政が総督府を解体して日本人引揚命令を出す状況においては,そのアメリカの命令に応ぜざるを得なかった。しかし,早期の帰還を果たしたことで,戦後日本の復興を左右した経済復興計画の策定や,それを左右する賠償方針,在外財産の処理方針に影響を及ぼすことができた。
第2章では,「引揚げ後の朝鮮縁故者(個人)――朝鮮引揚同胞世話会と鈴木武雄の没収財産への対応」が論じられる。旧総督府東京事務所(のちに朝鮮関係残務整理事務所に改称)と,朝鮮引揚同胞世話会の2つが中心となって,在外財産返還請求に向けた準備が行われた。日本経済再建という課題が強く意識される状況のなかで,朝鮮に残された在外私有財産への引揚日本人の権利についての法的性格が,京城帝国大学教官でのちに東京大学社会科学研究所の教官となる鈴木武雄や,東京商科大学を出て東京産業大学に勤める佐々生信夫等によって最初に提起された。
当時の朝鮮引揚者は「帝国主義的侵略の走狗」や「資本主義的搾取の傀儡」として在日朝鮮人のみならず日本人左翼からも白眼視されていたが,この2人の問題提起は,一般の引揚者の感情を論理としてまとめていく作業となり,世話会会長であった穂積真六郎を中心に,朝鮮支配が搾取を目的としたものではなく,むしろ日本人の血と汗によって民族の協和を目指したものであるとする論理が作り上げられた。同時に私有資産の数値化作業も進められ,1947年3月,在朝鮮日本人「個人財産」が総額257億7115万円と発表された。また,同時期1947年3月の選挙では引揚者議員も誕生し,穂積会長を筆頭として参議院で11人,衆議院で10人が当選するなど,引揚者の政治的影響力も強められた。
他方で,政府側において外務省調査局特別調査委員会や外地経済懇談会が発足されると,東京大学経済学部の大内兵衛,佐々生信夫と鈴木武雄による論争が展開された。佐々生が欧米の植民地支配との共通性を強調して搾取の一般的存在を認めたのに対して鈴木は朝鮮統治は必ずしも帝国主義的搾取ではなかったことに拘った。その焦点は欧米の植民地支配同様の搾取があったのか否かという点であった。
第3章では「引揚げ後の朝鮮縁故者(法人)――朝鮮事業者会の没収財産への対応」が論じられる。朝鮮事業者会と政府が協力して,在外財産調査会が設置され(1946年9月)両者が協力する形で,1948年に大蔵省から『日本人の海外活動に関する歴史的調査』が出版された。このなかでは植民地における搾取が否定され,「正常な経済活動の成果」として蓄積されたのが日本人の海外資産であるとする認識が,日本政府にも共有されていった。引揚者が求める在外財産の国内補償要求に日本政府は応じなかったが,政府は講和条約を控えて資料と情報を求めており,引揚者はそれに協力する形で,その感情的論理を政府の政策に盛り込んで行った。その結果,朝鮮での事業者は軍国主義に利用された被害者であり,その私有財産は平和的活動によって築かれたもので補償されるべしとする「確固たる信念」が,「政府の植民地認識」および朝鮮縁故者の認識と一体となって形成されていった。またGHQの民間財産管理局は日本政府の主張を受け入れるようになり,この焦点は本土在住日本人一般の世論とされていった。
第4章「日韓交渉における請求権問題の顕在化」,および第5章「日韓交渉における請求権問題の深刻化」は,日韓交渉における請求権問題に日本側の国民感情と化した認識が及ぼした影響を中心に,在日韓国系資産や未払い賃金からなる韓国側請求権と,日本側の在韓日本資産の一括相殺,すなわち「実質的相互放棄」をめぐる請求権問題の顕在化と深刻化の過程を取り上げている。そもそも韓国側は連合国全体の賠償方針を受けて,対日賠償要求の論理として,「日本を懲罰するための報復の付加」ではなく「犠牲と回復のための公正な権利の理性的要求に基づく」(119ページ)範囲での請求権を要求していたに過ぎず,また「併合不当論」を根拠としていたわけでもなかった。そうした韓国側請求権の中心をなしたのが,米軍占領時代に発令された軍政令33号によって,日本人から接収された朝鮮に本社のある会社の「在日韓国系財産」であった(日本窒素肥料(株)[日窒]の水俣工場等が定義次第で該当すると思われるが詳細は不明)。その接収による韓国への帰属,および朝鮮人労働者への未払い賃金の返還,そして郵便貯金・公務員恩給の清算が,その8項目からなる請求の主軸をなしていた。
つまり,朝鮮の経済が「日本の発展に従属せしめられ」「産業発展は不健全にして独立し得ない」ような植民統治下で,「搾取」を前提に在韓日本資産は作られたものとみなされ,アメリカの軍政下にそれは一方的に没収されたと韓国側はみなしていた(125ページ)。しかし,日本側は国内補償を避けるためにも在韓日本人私有財産の返還を形式上は求めざるをえなかった。
こうした互いの請求権が交差する構図をベースに,さらに,講和条約の第14条と4条の解釈のずれ,それと連動する軍政令33号によるVestという命令の性格を没収命令とみるか,財産管理令とみるかについての認識のズレも加わって,講和会議直後の予備会談から講和条約批准発行までの第1次会談,1953年秋の久保田貫一郎外務省参与発言(後述)による長期交渉停止に至る第2次・3次会談をめぐる外交交渉は展開された。
「逆請求権」と韓国側が呼んだ日本側の在韓日本人私有財産請求は,韓国政府の請求権を「ゼロ」にして国内補償を避けるという合理的な判断のもとに提出されたものであった。朝鮮縁故者の在韓資産が搾取の結実ではないという思いと日本政府の合理的判断が組み合わされて,朝鮮縁故者の主張は「国民感情」化され,それが久保田発言として表出された(14ページ)。また,講和条約の発効以後には,実質的相互放棄論が外務省に台頭したが,大蔵省の反対によって阻まれ,その実現には,終章における岸信介の登場に象徴される政治的なリーダーシップの登場が必要であった。
評者が観察するに,本書の評価点は3つである。
第1は,「日本にも国民感情がある,一方的な譲歩を迫られるような合意はできない」(本書174ページに同じ趣旨の発言がある)と久保田貫一郎外務省参与が主張した背後には,朝鮮からの引揚者の存在があり,また外務省の用意周到な準備があったことが,詳細な占領下の政治過程とともに明らかにされた点である。朝鮮引揚者が在外私有財産補償要求を日本政府に向けて行なっており,それが日韓請求権交渉における「国内制約要因」となっており[浅野 2013],強力な日本の国民感情が「没収」された財産に対して付着していたことは先行研究ですでに指摘されている。その感情問題が数字によって裏付けられていたこと,および「逆請求権」主張が搾取であったか否かをめぐる学者間の論争が存在していたことが示されたといえる。感情がいかにして民間企業の数字と学者の論理によって支えられるまでになったのか,引揚を体験し共感する学者や,引揚者団体を組み込んだ政府内政治の分析によって明らかとなったといえる。引揚者外地企業調査や在外財産調査会等での十分な資料的な厚みを伴った議論は新鮮であった。
第2は,資料の悉皆調査と丹念な読解をベースとする記述によって,戦後日本の経済復興が最大の課題となっていた国内の政治環境を意識しながら,その下で育まれた国民感情が外交に噴出するプロセスが,極めて興味深い事実と共に明らかにされた点である。たとえば,政治的民主化に続く「日本経済の民主化」と経済復興の提唱が外務省経済班から1946年7月に行われた際に,日本的な経済民主化を達成する方法としては,工業化と貿易振興によるほかはなく,アメリカのような豊かな経済基盤やソ連のような資源開発を前提としたような,政治経済の同時民主化はできないこと,日本には近隣諸国との水平的経済関係が必須であることが認識されていた(62ページ)。つまり,外務省経済班は日本単独の復活によって戦後日本が再び東アジアで「支配的地位」に立つことが許されないことを前提に,低賃金と高度な技術を組み合わせながら世界的分業体制に加わるほかに復興の道はなく,そのためには「日本帝国主義の復活を懸念する隣国の憂慮を払拭させる」ことが必要で,「工業上の対等な分業関係」と「日本国内政治の民主化」が必要と認識していたのである(63ページ)。
しかしながら,第3に,こうした帝国としての日本への反省を基調とする佐々生信夫の構想は,鈴木武雄からの反論を受け,何も反省すべきものはなかったという論調に変わったと指摘されていることも興味深い。鈴木によれば「大陸進出」は「止むを得な」いもので,「文明」の拡大という論理の下にあって搾取は本来的に存在していなかった。鈴木の影響を受けて,「朝鮮人を奴隷的に搾取しその幸福を蹂躙したという論告に対して」の「正当な擁辯」(70ページ)のための言説が,やがて外務省内に一般化したという主張も興味深い。この例にみられるように,本書が日本資料を広範に活用して外交資料とはみなされていなかった友邦文庫,桜井文庫を日韓の外務省資料と突き合わせ,鈴木武雄資料や一橋経済研究所資料とも対照させ,萌芽的に存在した反省の芽が摘まれていった過程を指摘していることは大いに評価に値する。
他方,気になった点も多かった。
第1は,歴史認識に最終的な結論をもってこようとすれば,本書が主とすべきは「法人財産の数値化」よりも,むしろ法人財産の法的性格をめぐる精密な議論ではなかったか。『日本人の海外活動に関する歴史的調査』の朝鮮編が,その調査内容と執筆者陣の構成において「充実していた」と指摘されている(107ページ)。しかし,当時の執筆者の間でさえ「一体如何なる取引の結果として,これらの貸借対照表が残されたか,あるいは,これらの統計が究局(ママ)において意味するものは何か」,という議論が存在していた。さらに「各地の,各時期の,各種の企業を一貫する説明なり,主張が別になければならない〔が〕(中略)在外財産は,原則としては,多年の正常な経済活動の成果であったということだけでも,この際はっきりしておくことが是非必要ではないか。これは連合国に対する弁解という意図からではもちろんなく,我々の子孫に残す教訓であり,参考書でなければならない」(107ページ)とも指摘されていた。しかし本書ではそれは「朝鮮縁故者の植民地認識の反復」であったとあっさりと断定されて,その前提で議論が進められていく(108ページ)。
現在の政治化した状況においては,その結論自体に反論するわけではないが,そうした「植民地認識の違い」が交渉自体を行き詰まらせ,日本国民の感情的反発の対象となり,そして政治決断が要求されたという一連の流れをわかりやすく説明する必要がある。感情と法,もしくは感情と正義は,いかに結合するのかという問題が存在していることに,もう少し自覚的であってほしいと思う。その自覚のもとに,掘り下げた分析はできなかったであろうか。実は,著者自身も本書で述べているように韓国側も日本側の「最大限の政治的要求」と,韓国側の「最小限の法律的かつ精算的要求」を取引できない旨を感情的に主張していたことや(174ページ),在韓日本資産への請求権を認めることは「経済的併合」と「奴隷状態」の承認を求めることだと反発していた(144ページ)。
こうした「政治的請求権」と「法的請求権」という擁護をめぐる非難の応酬の構図については,評者がすでに論考を発表している[浅野 2015]。記憶をめぐる政治が,すでにこの時点で始まっていたわけであるが,吉田茂や李承晩をはじめ,本書に登場する交渉当事者たちが歩んできた戦前,つまり植民地時代と戦中の記憶をもう少し個別に記述し,記憶と感情の結合がどのように行われたのか,個人,集団,国民レベルを繋いだ大きな見取り図を示して欲しい。
日本側においても朝鮮統治に伴った企業活動が「搾取」であったのか「発展への貢献」であったのかについての強い感情が,記憶とともに誘起されていたことは第3章で述べられているが,第4章の記述との整合性を意識して日韓双方の記憶がいかなる法的正義概念を伴っているのか,その背後に意識された国益や国内的正統性とは何であったのかを意識すれば,本書にはより明確な結論の柱ができたことであろう。
また,こうした交渉過程自体は,既存研究が多々存在しているにもかかわらず,あたかも初出であるかのように資料を使う姿勢には疑問を投げかけずにはいられない。研究史を整理してこそ,より深みのある記述は可能となることであろう(注1)。
第2は,分析概念が甘い点である。たとえば,一般性,特殊性という概念に注目した分析が試みられているが,日本経済の「特殊性」(61ページ)についての議論と,植民地支配の「特殊性」(82ページ)と「一般性」についての議論の紹介が混在しており,両者がどのような関係にあるのかも明確ではない。
つまり,「一般性」「特殊性」概念が資料の上で登場するのは,日本経済の二重性についての分析,および植民地統治の性格分析という,異なる2つの文脈なのであるが,資料に引きずられるままの記述に終始しているため,議論に深みが生まれていない。朝鮮統治は欧米の一般的植民地支配とは異なり,極めて日本特殊のものであったため,「搾取」的植民地ではなかったという鈴木武夫を代表とする植民地認識が存在したが,それと,日本経済一般に対する日本特殊論との関係とは何か,をより深く考察する必要があろう。確かに,鈴木の議論も日本植民地支配の特殊な性格(内地延長主義を基調とするので搾取ではない)を強調するが,それは日本経済構造の大企業と中小企業,あるいは都市と農村の二重性という別な意味での特殊性とどのような関係にあったのであろうか。この問題を考えると,前述した経済民主化の意味や,水平的地域分業体制の可能性が消滅した理由も,より説得的に示されるのではなかろうか。資料の解釈を深く掘り下げて独自の結論を導き出す糸口ともなる点なのに残念である。よくいえば禁欲的,悪くいえば,資料をなぞる表面的記述に終わっている。
こうした点は,「私有財産」という概念が資料のままになぞられ,著者の分析概念としての定義が示されていないことにも表れている。たとえば,「法人及び個人を含む私有財産」として企業財産も含んで使われている(88ページ)一方で,別の箇所では「企業全体の資産」から「個人資産」が除外された(同時に「国有財産」から「陸海軍財産」が除外)在外財産調査が行われたとする記述(105ページ)があり,先行研究があるにもかかわらず,変化の意味は何ら説明されていない。半官半民の東洋拓殖会社に代表される企業が総督府から補助金を受けて,あるいは政府保証のついた社債を発行して事業を行っていた場合の持ち株を,私有財産とみなすか否かという実務的問題が存在していたことであろう。私有財産が政治過程において異なる政治主体によって微妙に異なる定義が下されていたことに注意してこそ,請求権の「実質的相互放棄」や「一括相殺」,さらには「個人請求権」などの今日にも使われる概念に連結した分析が可能となるのではなかろうか。
第3に,本書には十分な結論が存在しないことである。資料を渉猟した分だけ,資料中心主義的,よくいえば,禁欲的なモノグラフのまま本書は終わっており,傷を応急措置で抑える絆創膏のごとく,岸信介が終章で取り上げられ,結局,政治の役割が重要であったと締め括られている。
現実の日韓関係がどのように正常化されたのか,その詳細な過程そのものではなく,著者の関心があくまでも縁故者の認識が与えた影響であるとすれば,現在までの研究を総括して,認識に象徴される感情や記憶を政治過程に位置付ける枠組みの提示は不可欠ではなかったか。そのような政治家が,なぜ力を発揮し得たのかも不明であるし,山口県出身者であることを強調した岸のレトリックひとつで,国民感情が収まったというのも,全く腑に落ちない。
つまり,国民感情というハードルを越えられない官僚主体の外交交渉を超えたのが,岸信介を中心とする親韓派の政治家であったという,ありきたりの説が終章で提示されて本書は終わるが,実証が指し示す延長に結論が導かれてはいない。本書が基軸とするのは,鈴木武雄に象徴される植民地「認識」が日韓交渉にどのような影響を与えたのかであるが,認識と記憶,法,権利,との関係を意識することとともに,1953年10月の久保田発言で分析を終えることなく,せめて1965年までの分析を行うことで,いかに認識の溝は埋められたのか,外交とは国民感情といかなる関係にあったのか,「パンドラの箱」への「封印」とされるような「1965年体制」をとらえ,外交の役割を再検証するような射程の深い結論を出して欲しかった。それでなければ,現代と過去との対話は成立しないからである。
「一般性」「特殊性」の議論は,実は日本経済復興の基本原則が決定されようとする時期の議論であり,「逆コース」が登場する直前の議論でもある。占領史全体を見渡す視野の広さが求められるにもかかわらず,資料を忠実にたどろうとすることに汲々とするあまり,資料にないものをみない,悪しき実証主義の陥穽にはまり込んで抜け出せない状態を物語っているように思われてやまない。
また,それに関連して,後半部分に誤りがある点も気になる。終章に,岸信介が行った引揚者への給付金が「在外財産の補償に値する措置を得た」とまでされているが(192ページ),それは明らかな誤りである。それが生活援護資金にすぎなかったことは,政府のみならず,引揚者もみとめていたし,この援護金の給付に対する不満から1967年に個人の財産喪失への給付金が行われることはかなり知られている。在外財産の補償問題は継続して審議すると政府が約束したからこそ,引揚者はこれを受け入れたのである。この給付金によって対韓請求権の撤回が「理論的に可能」になったとさえ指摘されていることも(194ページ),引揚者をめぐる国内外の政治過程を論じるに際しては,重大な基本的誤りである。個人請求権は日本人引揚者側にも残る形で1965年の国交正常化は行われ,韓国人慰安婦の個人請求権同様,それが外交保護権の停止と相手側の国内法秩序への委任を意味するものとされているという今日的な視点から,個人請求権と,「実質的相互放棄」枠組みの誕生は論じられるべきであろう(注2)。
また,1957年の生活援護金や1967年の財産喪失への特別給付金が財産補償ではなかったことが,日韓双方の個人請求権の展開とどのように関係するのか,現代の歴史問題と初期の基本認識・原型の形成はどのような関係にあるのかなど,現代に通じる観点から,そして国内の制度形成と,引揚者の持ち込んだ記憶と感情との変容過程を取り上げて,議論を立てる必要があるのではないだろうか(注3)。
たとえば以下のような資料がある。これは1954年5月にかつて朝鮮総督府政務総監を務めた田中武雄が中心となった全国引揚者団体全国連合会が開催した在外資産補償獲得期成全国大会が採択した宣言である(注4)。
在外財産補償問題の法的解決に真剣に眼を向けることこそ,「他国民に与えた損害」へも眼を向けるための回路であるとされており,日本国民一般が被害者的戦争の記憶から脱却する道であったとさえ唱えられている。
さらに,占領期の政治過程分析としても問題は多い。本書がポーレー使節団(61ページ)に触れているにもかかわらず,その基本コンセプトであった資本賠償というコンセプトに言及することなく,また,連合国全体の賠償政策と日本経済復興の展開やいわゆる逆コースの存在も全く無視して,ひたすら資料に出てくる議論のみ忠実に辿っていることも残念である。
アメリカによる東アジア地域形成,中国内戦の停止,それらのテコとなった賠償政策の展開のなかで,復興政策や認識は揺れ動いたはずである。これでは現代の日本人や現代の韓国人の国民性やモラルを前提にその起源としての「認識」をたどるアプローチ,つまりは国民性に本質的な理由を帰着して,他の可能性を論じないアプローチの延長線のようにさえ思われる。
韓国側にも存在したであろう,未帰還家族や友人への生身の人間としての感情は,いかにして反植民地的な国民感情へと進化を遂げていったのであろうか。対する日本側で,一部の引揚者の認識がなぜにして国民感情化していったのであろうか。こうした問題を,双方向的な政治過程を念頭において,日韓交渉の新聞報道や市民運動を踏まえて,日韓双方に通じる大きな見取り図を,過去の研究史を踏まえながら示すことが必要である。国民感情と歴史的記憶の結合のあり方が日韓双方で異なるなかで,日韓交渉が空転を続けてきた様相が,歴史として浮かび上がっていくような方向に,著者の本領が発揮されることを願ってやまない。