Ajia Keizai
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
Book Reviews
Book Review: Dai Yamao, Measuring the Impact of Conflict in Post-war Iraq (in Japanese)
Yuichi Kubota
Author information
JOURNAL FREE ACCESS FULL-TEXT HTML

2022 Volume 63 Issue 4 Pages 93-96

Details

Ⅰ 紛争研究と本書の議論

国内武力紛争は地域社会におけるインフラを破壊し,人々の社会関係に負の影響を及ぼすというのが一般的な理解であろう。なにしろ,紛争における暴力は多くの市民の命を奪い,社会の人的資本に多大なダメージをもたらす。そうした災禍がもたらすのは,社会や人々の分断であり,多くの紛争後国家が暴力の再発に苦しむ状況を生み出す最も大きな要因と考えられている。しかしながら,近年の実証研究では,紛争がむしろ社会の凝集性を高めるとの知見も提示されている[Beber, Roessler, and Scacco 2014; Bellows and Miguel 2009; Blattman 2009; Gilligan, Pasquale, and Samii 2014]。そこでは,紛争中の暴力被害は地域住民の間の関係性を再構築し,むしろそれを強めることにもつながるというのである。結果として,紛争を経験した社会では,政治・社会参加が促進されることなどが示唆されている。

本書は,2003年の米国を中心とした有志連合による軍事侵攻後のイラクにおける市民の国家・国民意識,政治制度やアクターに対する信頼などについて実証的に検証した研究の成果である。ここで描かれるのは,紛争がもたらすのは必ずしも社会や人々の分断状況であるとは限らないという,世間一般に受け止められている紛争に関するイメージとは対照的な構図である。確かに紛争後のイラクでは政治不信の高まりがみられるものの,市民の国家に対する信頼と期待は依然として高く,彼らの国民としての意識も強く認識されている。著者の議論はこうした一見矛盾するように見えるギャップを問題の出発点とし,紛争が国家や社会にもたらす影響に関する一連の研究に新たな実証的な知見を付加するものである。

Ⅱ 紛争の社会的影響に関する実証データと分析

本書は冒頭で問題の所在や理論枠組みを示し(序章),またイラクにおける紛争の構造を概観しながら(第1章),このようなイシューに対していくつかの側面に光を当てつつ複合的にアプローチすることを試みている。それらの側面とは,すなわち,紛争を経験したイラクにおける人々の国家・非国家アクターに対する不信感とそれに反するかのような強いナショナリズムと国家が果たす役割への期待(第2章),学校教科書にみられる国民統合政策とその受容の広がり(第3章),選挙における市民の動員とスンナ派とシーア派を中心とした宗派主義の台頭・減退(第4章),イスラーム国(IS)の出現を背景とした旧バアス党勢力との和解に関する世論(第5章),紛争プロセスにおける新聞報道・記事の宗派主義的な濃淡やその変化(第6章),である。

上記のような実証分析のために用いられているのが,複数回にわたって実施された世論調査や新聞記事などのいずれも筆者らが独自に収集・整理したデータであり,これが研究の学術的重要性を高めている。加えて,こうしたデータを回帰分析や計量テキスト分析といった手法を応用して,厳密な方法論に基礎をおく議論を展開している。このような分析の結果として,紛争によって生み出された国家や国民の間の亀裂がむしろそれに抵抗する強いイラク人意識を醸成し,紛争後の文脈においては逆説的にナショナリズムが強まったことが示されている。さらに,このような国家・国民意識は紛争の状況によって変化することは理論的に想定できるものの,それを実証的に示したことも本書の貢献のひとつであると言えよう。

ここで提示された知見はイラク現代史や近年の紛争をめぐる問題のありかを理解するために有用であることは言うまでもない。また,随所で論じられているように,イラク紛争は隣国のイランを含めた中東諸国との関係性とも無縁でない。その意味で,本成果はイラクを含む中東地域の政治に関する重要なインプットと成り得るであろう。理論的な側面に注目してみれば,紛争が社会にいったい何をもたらすのかという問題は依然として紛争研究の重要な課題であり,こうした点にも大きな含意を持つものであると言える。

Ⅲ 課題と展望

1.紛争暴力の偏在性

一方で,本書で展開される議論については,より一層の精緻化や今後の発展が望まれる点がいくつかある。第1に,紛争の暴力は一国内において均一的に見られるわけではなく,しばしば地理的に偏在している。また,それらの地域における暴力被害は個人の間で大きな差異があることがある。たとえば,イラクでは2000年代半ば以降にシーア派が主導する政府側とそこからパージされた旧体制勢力,またそれぞれを支持する宗派組織が入り乱れる形で内戦が激化した。著者も指摘しているように,イラク西部はこの内戦の主戦場となり,「なかば無法地帯と化した」(32ページ)。こうした状況に対処するため,中央政府は米軍との協力のもと,地域の部族に資金や武器を提供し,「覚醒評議会」と称される自警団の組織化を促すことで治安の回復を図った。このような紛争中の暴力や自警団のような地域社会における住民組織の形成は,市民の生活や社会意識に大きな影響を及ぼすことは想像に難くないであろう。紛争に巻き込まれることで,市民は日常的な生産活動を妨げられ,彼らの社会関係も大きく変容してしまう。つまり,市民の政治社会意識は,性別,年齢,教育レベル,宗派性といった個人属性のほかにも紛争中の経験が作用していることがうかがえよう。もちろん,世論調査の分析ではこの点を考慮しており,「県別の死者数」を地域における紛争の強度を測る指標として用いることで,地域における紛争の激しさと市民の意識との関係を検証している。

しかしながら,上で述べたように,個々人が受ける紛争中の暴力被害は往々にして一様ではない。たとえば,同じ宗派に属する個人でも職業や居住地区の違いによって被害の多寡が異なることも考えられる。さらに,そうした個人が紛争中の暴力やその他のイベントをどのように評価し記憶しているかも重要である。世論調査での回答はインタビューを受ける側の主観的な意見や価値判断を反映するものであるが,それは個人の経験に依拠する部分も大きい。紛争中の暴力被害をどの程度大きなものと考えるか,また否定的(あるいは肯定的)な経験であると評価しているかは千差万別であろう。こうしたことから,市民の政治社会意識に対する紛争のインパクトを測る上では,構造レベルにおける紛争の動態に加えて,その個人の経験や意識のレベルにおける多様性を考えることが肝要であると思われる。

2.ミクロレベルとマクロレベルの架橋

第2に,ミクロレベルにおける市民意識とマクロレベルでの政治状況・変化はどのようにつながっているのであろうか。イラクにおける政治不信,強いナショナリズム,人々の国家への期待に関する世論調査の結果を示した第2章では,公的な機関への信頼や投票率の低下がみられ,宗教指導者や部族長といった非国家アクターに対する信頼も低い状態にあることが示されている。ここで重要なのは,いくつかの項目に対するクルド人などの回答を除いて,こうした傾向はイラク社会全体に観察できることであり,そこに宗派・民族集団ごとに顕著な違いはないということである。イラク国民主義や国民統合政策などに対する意識については,ISをめぐる紛争が行われていた時期から世論調査によるデータ収集が行われているものの,時系列的に大きな変化も認められない。つまり,市民の意識のレベルに注目すると,イラク国家の枠組みを維持しその役割に期待を寄せる意見が有力であり,宗派や民族集団ごとの違いを強調し対立を煽るような世論は影を潜めている。ここからさらに踏み込めば,近年のイラク政治の争点を宗派・民族集団の相違の観点から(ミクロレベルで)分析することには,それほど意味がないとの示唆を得ることもできるかもしれない。

上記のような点こそが,本書の重要な発見のひとつであることは間違いない。しかしながら,それではこのような市民の政治社会意識は,(とくに2010年代に入ってからの)宗派対立や旧バアス党勢力をめぐる紛争を,どのように説明し得るであろうか。もちろん,紛争の発生や激化の背景には政治エリートによる扇動が存在していることが往々にしてあり,対立状態の維持自体がそうしたエリートの自己利益となっている場合もある。イラクにおいても,ISの台頭とそれをめぐる紛争は,「確かに政治エリートのレベルでの対立を激化させた」(167ページ)のである。一方で,社会集団間の紛争が起き,それが継続するためには一定程度の市民の支持と動員も不可欠であることは間違いがない。そうした市民は兵士として戦闘に従事するだけでなく,物資の運搬や情報の提供などさまざまな形で紛争に関与することがある。武装勢力と一般市民の力関係の非対称性から,後者が不本意ながらも紛争活動に関わることも多いが,紛争当事者にとっては支持基盤がまったくない状態では自らの活動を継続する手立てが限られてくる。もし,彼らがこうした状況を的確にとらえることができるのであれば,武力紛争を引き起こすことは必ずしも合理的であるとは言えないであろう。しかし,著者自身が述べているように,イラクにおいて社会集団間の紛争が存在してきたことは疑いの余地がないことであり,市民の意識と政治状況のギャップは新たな研究上のパズルを提示していると考えることもできる。

3.「社会の回復力」をめぐる議論の外部妥当性

第3に,紛争は国民統合を促すような意識をいかなる条件下で生み出すことができるのであろうか。実証分析では,社会を分断させてしまうような紛争が逆説的にイラク人意識を強くさせ,学校教科書に埋め込まれたような国民統合政策の受容の素地を作ったことが示されている。ここでは,「高強度の紛争を収束させる要因/メカニズム」(207ページ)の存在が人々の国民としての意識を高めたとされる。とくに,イラクにおける紛争は,国家や国民の枠組みを再強化するような「社会の回復力」を生み出し,これが国民の統合につながったのである。こうした地域社会が発揮するレジリエンスは紛争後の復興や平和構築などにおいても重要であると考えられている[Baumgardner-Zuzik et al. 2020; De Coning 2018]。

それでは,紛争後社会が回復力を発揮して人々の国家・国民意識を強めることができたのは,イラク人が経験した紛争の特徴によるものなのであろうか。それとも彼らが持つ固有の歴史や地域性,規範意識,あるいはエリートによる政治過程に起因するのであろうか。さらに言えば,そもそも社会的な回復力の素地がまったく存在しない地域では武力紛争は単に人々の分断を進めてしまうだけなのであろうか。本書は,イラクにおける紛争とその後の政治過程を解明することを第一義的に目指した研究の成果であり,ここで紛争が国家や社会にもたらす一般的な影響に関する議論が欠如していることを指摘するのはフェアではないかもしれない。しかしながら,上で述べたような問いに対する答えは,他の紛争事例への目配りとそれらの間の比較で明らかになってくるものである。ここで提示された発見が学術的かつ政策的に重要な意味を持つからこそ,これが有する外部妥当性を注意深く検討することが不可欠になってくるものと考える。

Ⅳ 本書が指し示す紛争の実証研究の今後

上述のとおり,本研究はイラクにおける紛争が社会や人々にもたらした影響について,種々のデータをもとに実証的に検討している。ここから得られた発見は,イラクや中東政治に関する最新の知見を提示しているだけでなく,近年の紛争研究に対しても重要な貢献となっている。こうした議論が,はたして異なるデータを用いた分析でも追認されるのか,また他の紛争事例についても適用が可能であるのかなどについての実証研究を地道に重ねていくのがわれわれにとっての喫緊の課題であろう。

文献リスト
 
© 2022 Institute of Developing Economies, Japan External Trade Organization
feedback
Top