2023 Volume 64 Issue 2 Pages 59-62
日本経済史研究において,植民地・租借地は日本への食料・原料供給地として位置づけられ,台湾からの米・粗糖移入,朝鮮からの米移入,関東州からの大豆輸入に関する論点を中心に蓄積されてきた。しかし,塩の輸移入に関する研究は相対的に少ない。1912~1917年平均で15.7%であった日本内地における食塩の植民地(租借地を含む)産品依存率は(16ページ,序表-1),1920年代平均で28%に上昇し,1930年代は20%台後半から50%台前半で変動するようになる(44ページ,図1-2)。序章「植民地と1次産品・食塩」では,植民地産品依存率の高い食塩の研究が相対的に遅れた原因のひとつとして,塩の消費用途が広範に及ぶ点が指摘され,複数用途の特徴を包括的に分析する必要性が説かれる。
本書は第Ⅰ部「内地市場と植民地塩」と第Ⅱ部「政策・専売と植民地塩」から構成されている。まずは各章の内容を紹介しよう。
第Ⅰ部冒頭の第1章「内地食塩市場の重層的構造と植民地塩」では,植民地塩依存率が相対的に低い時期である1890~1910年代の内地食塩市場が考察される。内地食塩市場の卸売価格は,高値の方からヨーロッパ塩・内地塩・アジア塩の順で形成される傾向があった。しかし,その価格差は一定ではなく,その傾向も固定的ではなかった。1910年代半ばまで食塩消費の中核は醤油・味噌醸造用,漁業用,家庭・漬物用にあり,これらの需要には基本的に内地塩が供給していた市場構造が明示される。
第2章「内地製塩業経営の拡大と資金調達」では,台湾塩移入が始まった1890年代後半においても,塩価上昇に支えられた内地製塩業の収益性は高かったことが確認される。そして,瀬戸内地域などで有望な投資先として期待された製塩業は,地方資産家による活発な設備投資に支えられ,生産規模が拡大する状況が1910年代まで続いたことが明らかにされる。
第3章「台湾塩生産の拡大と内地人事業者優遇政策」では,台湾塩田開設修復期の第1期(1899~1905年度)と第2期(1906~1918年度)の実施過程が検討され,内地向け移出量増加の前提条件が確認される。補助金支給に支えられて塩田築造が進展する過程で,塩田面積の拡大に対する寄与については,内地人事業者よりも台湾人事業者の方が大きかった。大規模内地人事業者による堤防構築が内地人事業者の収益性を圧迫した一方で,小規模台湾人事業者の経営安定化に寄与したこと,なども論じられている。
第4章「関東州塩の輸出余力発生と対中交渉」では,日露戦後に関東州が内地向け塩供給地となった過程が説明される。日露戦後の関東州では大日本塩業会社と満韓塩業会社の参入によって塩田面積が急拡大し,1909年に中国人事業者の塩田面積を上回った。塩専売制が導入されなかった関東州の製塩事業者にとって販路確保は重要であり,また,関東都督府も塩税徴収による財源確保の必要性から,中国東北部への輸出を目論んだ。1906年から始まった東三省との交渉は,関東都督府と外務省との意見不一致もあり,1908年に失敗に終わった。このタイミングで大蔵省が介入し,内地製塩地整理の前提として関東州塩の内地向け輸出が位置づけられた過程が説明されている。
第5章「植民地塩の輸移入と取引」では,1910年代末までの台湾塩・関東州塩輸移入の特別元売捌人(もとうりさばきにん)に関する詳細な説明がなされる。1908年に導入された販売人指定制度に基づき,大蔵省は1918年度まで植民地塩の輸移入に対して特別元売捌人を指定した。関東州塩輸入の特別元売捌人には大日本塩業会社などが複数指定されたのに対し,台湾塩移入の特別元売捌人には鈴木商店が支配を強めていた東洋塩業会社(1910年に台湾塩業会社に改称)が独占した。塩価下落を受けて鈴木商店はシェア支配を強め,大日本塩業会社を傘下に入れた。また,大日本塩業会社は1917年に台湾塩業会社を合併し,鈴木商店は台湾・関東州塩輸移入命令量の99%以上を占有するに至った。しかし,海上運賃・傭船料の急騰などにより大日本塩業会社の経営は悪化していた。1919年に大蔵省専売局は輸移入取扱人の特別元売捌人指定を廃止し,鈴木商店の植民地塩輸移入支配は終焉した。このほか,1910年代末の植民地塩消費量の増加については,産地・消費地間輸送費を政府が負担する官費回送制度の対象が1917年に植民地塩にも拡大され,これに植民地塩の相対価格下落が加わり,植民地塩取引が地理的に拡大したことが論じられている。
内地塩シェアが高い中,1910年代まで植民地塩を最も多く消費したのは醤油醸造業であった。第6章「醤油醸造業の原料選択と植民地塩消費」では,1890~1910年代における大規模醤油醸造家(高梨家)の原料調達を検討し,輸移入塩の消費拡大要因を明らかにしている。当該期の醤油醸造業は醸造規模拡大によって「製品安・原料高」の状況が発生しており,高梨家はそれへの対応から高級品醤油用の内地塩と低級品醤油用の植民地塩とを併用する体制を構築した。その過程で,大規模醸造家における原料品質分析に基づく原料塩投入量の調整が必要であったこと,植民地塩輸移入の特別元売捌人との取引から,彼らと特約販売契約を締結した東京の食塩仲買との取引に変化したことが指摘されている。
第Ⅱ部冒頭の第7章「内地製塩業政策と台湾塩専売制度」では,日清・日露戦間期における内地製塩業政策と台湾塩専売制度との関係性が論じられる。台湾総督府は歳入源確保を目的に1899年に台湾塩専売制度を導入し,目的達成のためには製塩量の増加と販路確保が不可欠であり,内地向け移出拡大を図った。その一方で,内地製塩業の保護を図る農商務省は,中国塩輸入防遏(ぼうあつ)のための関税率引上げと台湾塩移入を管理しうる内地塩専売制度導入を主張した。農商務省が関税率引き上げを主張したものの大蔵省が拒絶したこと,内地塩専売制度導入を主張していたのは大蔵省ではなく農商務省であったことなど,興味深い事実が紹介されている。その後,農商務省は内地製塩コストを削減しうる煎熬(せんごう)工程改良技術の官営試験場から民間への移転を図ったが,高塩価に支えられて経営が悪化していない民間製塩事業家への技術移転は遅滞したことが説明される。
第8章「大日本塩業協会の活動と農商務省」では,日清・日露戦間期における大日本塩業協会の活動について考察される。官民協力団体である同会の実態は,輸移入防遏の必要性を訴える農商務省の製塩業向け情報伝達に終始し,製塩業界は情報の受け手にすぎなかったことが説明されている。
第9章「塩専売法施行と制度批判の高揚」では,1904~1908年の塩専売制度の設計・導入・運用過程を検討している。そもそも大蔵省の塩専売制度導入目的は歳入増加にあり,内地製塩業保護ではなかった。売渡先を官塩売捌組合に限定していた台湾塩専売制度と異なり,内地塩専売制度は流通過程に対しては放任であった。内地専売制度導入後,仕入れ規模を拡大した食塩商の行動によって卸売・小売価格が高騰し,大蔵省は価格抑制策を採らざるをえず,その抑制策は卸売価格には効力があったものの小売価格には効力がなかった。塩専売制度への批判が高まる中,大蔵省は制度存続と流通価格抑制のために官費回送制度導入と製塩地整理を計画し,内地製塩業の反発を危惧して1908年には内地製塩業を保護対象に位置づけて制度存続(改正塩専売法)を図るに至った過程が明らかにされている。
第10章「塩専売制度の改定と『転換』」では,1907年の塩専売制度改定と改定後におけるその運用過程が検討される。改正塩専売法公布後の大蔵省は販売人指定制度導入によって小売商の選別を開始した。また,大蔵省専売局は, 1908年に導入した官費回送制度の政府負担原資捻出を目的に,植民地塩輸移入拡大を前提とする内地製塩地整理に1910年より着手した。内地塩専売制度において専売収入額(=売渡価格-収納・購買価格)に上限があった内地塩とは異なり,植民地塩のそれに上限はなく,このことは官費回送制度の政府負担原資捻出を目的とする植民地塩輸移入拡大につながった。内地製塩地整理完了後,官費回送網の拡充や貯蔵体制の構築で官費回送制度は質的に向上し,専売収入額の地域間調整で1913年に売渡価格は全国一律化された。こうした一連の制度改定で塩専売事業の収支は悪化し,歳入源としての機能は1910年代後半に低下した。塩専売制度廃止論に対して大蔵省は,インフレ下における収納価格操作が売渡価格上昇を抑制していることを根拠に制度存続を図った過程が論じられる。
第11章「製塩地整理と塩専売法違反」では,1905~1919年度の塩専売法違反と監視・取締について検討される。密消費・密売買を中心とする塩専売法違反は九州で多発していたが,製塩地整理後は急減し,1910年代は瀬戸内地域を中心に軽微な違反が頻発した。製塩地整理後の新規塩田築造は生産性が高い地域に限定する方針であったため,生産性が高い瀬戸内地域での違反頻発は内地の塩田拡大を困難にし,植民地塩供給拡大の背景となったことが指摘される。
第12章「売渡価格全国一律化と超過需要の発生」では,1905~1918年度の塩専売制度下における価格変動と需給調整との関係を考察している。塩専売制度導入以降も卸売価格と需給は連動していた。しかし,1913年の売渡価格全国一律化によってその連動は途絶え,1916年度以降は売渡価格引上前の食塩商・一般消費者による「見越買」を誘発し,超過需要を発生させるに至った。また,その超過需要の発生に対して大蔵省専売局は消費者に植民地塩の代用を強要し,1910年代末に植民地塩消費が拡大したことが指摘される。この点は塩専売制度の需給調整機能を評価してきた先行研究に対する批判を込めて論じられている。
終章「帝国日本の『膨張』と植民地産1次産品」で以上の内容が総括され,先行研究と本書の見解との差異性を明確にしている。たとえば,先行研究は低廉・高品質な輸移入塩の内地塩への優位性を仮定していたことに対し,本書ではその仮定は曹達製造業用塩のみに該当し,1920年代まで食塩消費の大宗を占めた醤油・味噌醸造用,漁業用,家庭・漬物用塩において輸移入塩消費の拡大は限定的であったことが強調されている。そして,植民地塩の消費拡大は,第一次世界大戦期以前における品質的代替性向上と消費者による使用法習得といった「準備期間」が前提であり,このことは植民地向け対外投資拡大と植民地貿易結合度上昇の「準備期間」でもあったとして,1920年代以降へ視野を広げている。
本書の特徴は,分析対象時期を絞った上で当該期における生産・流通・消費・政策の各主体に対して丁寧な考察を行っている点にある。同時期における各主体の行動が相互に影響し合い,塩専売制度が有した機能の変化と共に市場が変容していく様を描く本書のストーリー展開に,評者は引き込まれていった。その分析に用いられた一次資料は数多く,その所蔵地は地理的に広範囲で,北は北海道,南は台湾にまで及ぶ。竜王会館所蔵野崎家文書,上花輪歴史館所蔵高梨本家文書,国史館台湾文献館所蔵台湾総督府檔案・台湾塩業檔案などの貴重な一次資料から,当時における各主体の認識と行動を明らかにしている。また一次資料より得られたデータから作成された数多くの図表は,著者の主張に説得力を与えている。
上記の特徴と関連し,地理上広範に位置する各主体に着目する筆者の視点は,本書の視野の広さにつながっている。生産主体に関しては,台湾製塩業と関東州製塩業の比較検討を可能にし,以下のような相違点を明示している。降水量の多い台湾の塩田築造コストは相対的に高かったが,降水量が少ない関東州の塩田築造コストは相対的に低かった。台湾の内地人事業者塩田は台湾人事業者塩田よりも海側に立地したために堤防を構築しなければならず,塩田築造コストが高かったが,関東州の内地人事業者塩田は中国人塩田よりも内陸側に立地したため,海水を人力で取り込む揚水コストが高かった。以上のような地理的要因から生じる相違点のみでなく,制度導入のタイミングによって生じる相違点も描かれている。1905年の内地塩専売制度導入以後において販路を保障された内地製塩家が対外進出動機を喪失したことは,内地製塩家が進出した台湾製塩業と,内地製塩家が進出しなかった関東州製塩業との対照性につながる。また,政策主体に関しても,内地製塩地整理と植民地塩輸移入拡大との関係に示されたように,中央政府と植民地政府の認識や政策が相互に影響し合っていたことを明らかにしている。
また,価格の高低のみではなく,品質の差異に着目している点も本書の特徴である。内地塩に対して植民地塩は,相対的に廉価ではあっても質的代替性に限界があった点が繰り返し強調される。こうした筆者の視点は,「1910年代に食塩供給の量的安定化・価格低廉化と需給の質的乖離が併進した」(362ページ)という本書ならではの知見の提示につながっている。
塩専売制度下において,内地の塩田が整理され,塩田跡地が新興産業の工場用地となっていく一方で,塩田が拡大する植民地・租借地からの塩輸移入量がじわじわと拡大する状況は,内地・植民地の政策介入を前提とした帝国内「比較優位」に基づく帝国内「分業」の形成過程といえよう。この帝国内「分業」の形成過程において,帝国外からの輸入防遏をどのように位置づけるべきであろうか。換言すれば,塩専売制度がなければ,中国塩輸入圧力は顕在化したのであろうか。第7章に示されるように,内地製塩業保護を図る農商務省は,中国塩の潜在的輸入圧力と台湾塩の移入拡大に備えて並立的に対策を検討している。その後,塩専売制度下で大蔵省は,外国塩に対して恒常的な輸入を認めなかったのに対し,植民地・租借地塩に対しては上限量を定めた上で恒常的輸入を認めていた。この点に関して評者が気になったのは,青島塩の位置づけである。
1918年の植民地塩依存率は前年の20%台半ばから40%へと跳ね上がった(44ページ,図1-2)。これに関する筆者の説明は,1918年度は内地製塩量が急減したため,青島塩を含む植民地塩の輸移入命令量が引き上げられ,内地消費者に植民地産未加工原塩の使用を強制するに至った(187-188ページ,196ページ,422ページ),というものである。しかし,1918年度の青島塩輸入量は急増しているものの(46ページ,図1-3),同年度の関東州塩輸入量および台湾塩移入量は前年度より減少している(169ページ,図5-2)。このことは植民地輸移入塩を複眼的にとらえる必要性を示していよう。外国塩期と植民地塩期とがある青島塩を,帝国内「分業」の形成過程においてどのように位置づけるのかについて,検討の余地はありそうである。
以上は量的な問題であるが,本書が重視する質的な問題も今後議論が展開されるかもしれない。内地塩に対して植民地塩の質的代替性には限界があったとされる一方で,植民地産未加工原塩は内地塩と同様の白色粉末状に加工でき,鈴木商店や大蔵省専売局による加工工場の設置が,植民地塩の消費拡大につながったという指摘があるからである(422ページ)。品質差を縮小する植民地産原塩加工は,「質的な需給乖離」を緩和する作用を有していたのかどうか,緩和しえたとしても加工コストはどの程度のものだったのか,といった論点も加わり,帝国内「分業」の形成過程は今後より詳細に明らかにされるかもしれない。
既存の日本経済史研究は,植民地・租借地を食料・原料供給地と位置づけ,量的な自給率の上昇に着目する傾向があった。それに対して,同一商品の品質差にも注目した上で,内地・植民地それぞれにおける生産・流通・消費・政策の各主体に目を配った本書から得られる論点は,帝国内「比較優位」に基づく帝国内「分業」の形成過程について,より精緻に解明する役割を果たすことになるであろう。