2023 Volume 64 Issue 3 Pages 61-74
はじめに
Ⅰ 本書の基本的な構成と内容の概要
Ⅱ 本書の特徴
Ⅲ 近代史の文脈からみた現代新疆少数民族政治エリートの系譜
おわりに
本書は,カザフスタンと新疆に焦点を当て,ソ連と中国の政治エリート集団の歴史的形成過程について検討することを通して,両地域をめぐる政治状況の特徴とその差異を,統治理念と民族政策の実態に沿いながら分析したものである。本稿では,本書の基本的な構成・内容を紹介した上で,とくに新疆ウイグル地域の歴史・文化を扱う評者の関心にしたがって,おもに新疆の部分について雑駁な見解を述べることとする。あわせて,本書においては触れられるところが少ない歴史的な観点から,中華人民共和国初期の新疆におけるウイグル族政治エリートの特徴とその背景について若干の補足的検討を試みたい。本稿における議論が新疆に限られる点,ご諒解いただければ幸いである。
本書の構成の大枠としては,前半の第Ⅰ部でソ連について扱い,後半の第Ⅱ部で中華人民共和国について扱った上で,終章においてその考察結果を統合し,新たな分析を加えて結論を提示するというものである。第Ⅰ部では,ソ連カザフ共和国の前身となるキルギス自治共和国政府が組織された1920年から,「大祖国戦争」が終結した1945年までのカザフ共和国における政治エリート集団の形成過程に関する事例研究を行うとともに,第Ⅱ部では,中華人民共和国が成立した1949年から,文化大革命が終了する1976年までの新疆の政治エリート集団の形成過程に関する事例研究を行っている。章別構成は以下の通りである。
各章の内容について簡単に紹介しよう。
序章においては,基本的な問題の所在を提示した上で,本書で取り上げる地域・時期を定めるとともに,構成と内容の概要について紹介する。
第Ⅰ部第1章においては,1920~1929年のキルギス自治共和国とカザフ自治共和国における政治エリート集団の形成過程について分析している。そこにおいては,共和国基幹民族を重視する人事・文化面での政策の下,指導部に多くの民族エリートが抜擢される一方で,体制に対して忠実でないとみなされた幹部は共和国の政治中枢から排除されたという。第2章では,1929~1937年の期間におけるカザフ自治共和国の政治エリート集団の変容過程について分析している。いわゆる集団化期のビューロー会議では,基幹民族が減少する局面があったものの,カザフ人エリートが依然として意思決定の中枢にその位置を占めていたこと,穏健化後の時期には一連の復興政策が基幹民族を多数含む政治エリート集団の手により実施されるとともに,ビューロー会議出席の基幹民族比率が上昇したことが明らかにされた。第3章においては,1937~45年の時期におけるカザフ共和国の政治エリート集団について分析している。いわゆる大テロルの時期には,民族を問わず旧来のエリートが追放され,新進エリートに入れ替えられるプロセスがみられたものの,基幹民族の比率が低下したわけではないこと,大テロルの終盤から大祖国戦争の中盤あたりまではロシア人らの「よそ者」の比重が高まる傾向があったことを論じる。その一方で,基幹民族の人民委員は一貫してロシア人より多数であるとともに,カザフ共和国という「疑似国民国家」の形成過程が1940年代には完成へと至ったと結論づける。
第Ⅱ部に入り,第4章においては,中華人民共和国成立から国家建設が進む時期に当たる1949~56年の新疆の政治エリート集団の形成過程について考察している。漢族中心の党指導部において,党と現地社会,漢族幹部と少数民族幹部をつなぐ存在として,セイフディンが台頭し,少数民族エリートが次第に政権内部に拡大したこと,その一方でカザフスタンとは異なり,新疆における少数民族起用は限定的な規模にとどまったことを指摘する。第5章においては,反右派闘争およびその後の大躍進運動の時期に当たる1957~65年における新疆ウイグル自治区指導部の民族構成の変容について分析している。反右派闘争のなかでエスノ・ナショナリズム的傾向を帯びているとみなされた指導者が排除され,生き残った少数民族エリートが,大躍進運動を通して政権内部における存在意義を拡大させたことを論述している。その反面で,自治区の党指導部における少数民族の比率は低く,紛れもなく漢族中心の体制であったことも強調している。第6章においては,1966~76年の文化大革命期における自治区指導部の変容を分析している。とくにウイグル族の民族エリートであるセイフディンが自治区党委員会の第一書記に就任した経緯を明らかにするとともに,少数民族が極めて困難な状況下にある一方で,一部の少数民族エリートが頭角を現す局面があったこと,文革期後期にはその後自治区の代表的な政治家として活動する少数民族エリートが活躍の場を拡大させたことを指摘した。
終章においては,それまでの各章で加えられたカザフスタンと新疆に関する実証分析を踏まえた上で,政治エリート集団の民族構成に関するソ連と中国の間の差異について検討している。統計的な方法を通して,両地域の政治エリート集団における民族構成の変化を数量的に把握した上で,ソ連における他の連邦構成共和国,そして中国の他の少数民族自治地方における政治エリート・少数民族幹部へと分析対象を広げて数量的な考察を行い,一般化を試みる。最終的に,比較帝国論の観点から,このようなそれぞれの国家における政治エリートの民族構成をめぐる差異と民族エリートの命運が,ソ連の標榜した民族自決の原則と中国が唱道する「民族団結」の理念という両国の差異によって規定されてきたと結論づける。
なお,本書の末尾には,「重要人物略歴一覧」がソ連カザフ共和国編と中国新疆ウイグル自治区編に分かれて付されており,それぞれ63名と48名におよぶ指導者たちの略歴が掲げられている。本書の本論における議論の細部にわたる理解に資するところ大きく,すこぶる有用な補遺であるといえる。
本書の特徴として第1に指摘できることは,カザフ共和国と中国新疆ウイグル自治区に焦点を当て,各段階における政治的枠組みと政策,実際の政治的変動の経緯のなかで,ソ連では基幹民族,中国では少数民族を中心とする政治エリートの動向の詳細について実証的に明らかにした上で,数量的変化も含めてカザフスタンと新疆の状況について比較検討し,その背景について浮き彫りにするという,大変野心的な企てであること,そしてそれが全体の構成における高い構築性をともないつつ,相当に高いレベルで達成されている点にある。
しかも通常,ソ連と中国についてこのような比較検討を行う場合,それぞれ別の研究者がカザフ共和国と新疆について考究し,それを「適当に」突き合わせ,その背景について推察する,というような方法にならざるを得ないところを,本書においては,ソ連・中国それぞれに関する実証的な検討を行い,その比較結果に基づいて差異のあり方とその背景について分析するところまでを一人の研究者が遂行するという,従来の個々の研究の次元を超える,まさに驚異的な力業が如実に示されている。
第2に,史料面についてみてみると,カザフ共和国部分においてはおもに,ソ連共産党関係の文書が所蔵されるロシア国立社会政治史文書館(RGASPI)の文書史料に基づいて事実関係の内実が詳細に検討され,考察が深められているのに対し,新疆部分においては,党・政府の文書史料へのアクセスが困難であるため,『新疆日報』などの公刊資料,中国共産党の組織史資料(内部発行)などに基づき,新疆の少数民族エリートをめぐる政治状況に対するアプローチがなされている。結果として第Ⅰ部と第Ⅱ部の議論の間にはいくらかテイストの違いが感じられるものの,可能な限り史料面での不均衡を埋める努力がなされており,それは相応の程度成功していると思われる。すなわち,やむを得ざる制約を受けつつも,現状で利用しうる史料の限界を見極めた上での可能な限りの議論を実現できているといえるだろう。
第3に,このような方法・視点の適用と史料利用を通して実証的に明らかにされてきた知見に基づき,終章において提示された上記のような結論も,穏当かつ的確なものだと思われる。カザフスタンと新疆のこのような差異が,ソ連と中華人民共和国の国家の理念や基本政策の違い,すなわち連邦国家(基幹民族の共和国)と民族区域自治(自治区) という相違を背景とするということについては,印象論としてある程度見当がつく点であろう。そういう意味では予想通りの結論で,大きな驚きはないけれども,この点がエリートの人的構成の数量的な面も含めて論証されている点は大変貴重な成果といえよう。ありていにいえば,本書においては,堅実な実証性に基づく議論により導き出された結論における知見だけでなく,緻密に論証された,それぞれの国家(地域)における人的側面の政治的動態の内実に,歴史研究としての有用性と無類の「面白さ」が詰まっているのである。
さて,新疆に関する部分における本研究の独自性についても言及しておこう。直近の十数年間のうちに,人類学者や歴史学者の手によって,新疆地域とウイグルの近現代史に関する体系的な研究が陸続と出版されてきた。それは,1990年代以降,新疆でいくらか可能となった実地調査や,新疆現地社会および旧ソ連領中央アジア,ロシアなどで得られた新規史料の利用に基づき,研究の進展が一連の成果を得たことによるところが大きい。1980, 90年代を軸に民族政策の実態に即しつつ,ウイグル族と中国政府の間の関係性の文脈のなかでウイグル族社会における文化動態を明らかにしたボヴィンドンの研究[Bovingdon 2010],イスラーム聖者信仰・墓廟参詣の世界がウイグル社会の近現代の様相とウイグル族の意識のあり方をいかに規定しているのかを解明しようと試みたサムの研究[Thum 2014]など,民族意識・民族文化やイスラームの側面から現代史に系統的にアプローチする研究が,そのなかでとくに顕著な存在である。また,文学・芸術方面においても,代表的なウイグル族作家の活動と現代新疆における政治的枠組・政策との関連性について,作品分析を通して総合的に論じたスウェイツの研究[Thwaites 2011],現代新疆における古典民族音楽(=12ムカム)の諸相について扱ったハリスの研究[Harris 2008]など,個々のテーマ性に応じた研究も見出すことができる。さらに近代史については,エスノ・ナショナリズムの形成と展開について,ウイグル族の手による言説の分析に基づいて思想と活動の両面からアプローチしたクリメシュの著作[Klimeš 2015],ウイグル民族意識の成立と展開のプロセスについておもにソヴィエト領におけるウイグル社会の歴史的状況から考察したブローフィーの著作[Brophy 2016]など,具体的な政治的状況に応じて形成され,深化し,変容してきたウイグル民族意識とそれに根ざした政治的活動に関する体系的な研究も出されている。
これらの研究においては,政治と文化の関係,ウイグル民族意識の形成と変容,現代における民族文化の動態などに焦点が当てられ,国家との関係性の文脈においてウイグル族の意識と活動の内実が深く考究されてきたといえる。しかし,中華人民共和国成立から1970年代までの政治的変動と,そのなかでの少数民族(おもにウイグル族)政治エリートをめぐる状況の変容を精緻に鮮明化するような方向性の研究は現れていない。すなわち,本書のアプローチは,視点と対象において,近年の先行研究と一線を画する独自性を備えているといえるだろう(注1)。
他方,本書の新疆部分において気になった点についても指摘しておこう。本書では,中華人民共和国期の1950年代~70年代の政治的変動にしたがって,少数民族政治エリートの具体的な動向に分析が加えられている。しかしそれは,彼らの出自や中華人民共和国成立前の歴史的状況における経歴と活動の具体的様相を十分に踏まえつつなされているとは言い難いように思われる。すなわち,中華人民共和国期の状況に関する議論を,それ以前の新疆における政治状況や新疆の地域的特徴との連関において提示する志向性は,いささか限定的な印象を受ける。
そこで以下では,新疆ウイグルの歴史・文化を扱う評者の個人的な関心に基づきつつ,本書においてはやや希薄と感じられる視角から,現代新疆におけるウイグル族政治エリートたちの指導者としての特徴について検討することを通じて,本書の内容に若干の補足を行いたい。
本書においては,現代新疆の主要な少数民族政治エリートたちの出自や「解放」前のキャリアの特徴などがまとまった形で論及され,それらが中華民国期の歴史的変動の文脈との関連性において系統的な分析の対象となっている,というわけではない。そこでまず,やや恣意的な選択になるものの,本書で言及されている主要なテュルク系の少数民族エリート(とくにウイグル族)をとり上げ,彼らの出身地・経歴などを整理し,それらを一覧化して提示してみよう。とくに,中華民国期の1944年に,イリ,タルバガタイ,アルタイの新疆北部3地域で発生し,展開したムスリム反乱(現代中国での呼称にしたがって,以下「三区革命」と呼称する)は,「共和国」政体の成立を宣言したことからも,ウイグル族などテュルク系ムスリムの人々のエスノ・ナショナリズムの発現としてとらえられる特徴を備えていた。他方,この反乱は,ソ連の強い影響下にあったといわれる。中華人民共和国成立後の新疆における少数民族政治エリートの動向と境遇について扱う場合,彼らがとくにこのような中華人民共和国成立直前の歴史的経緯とどのような関係にあったかという問題は,避けて通れないと思われる。
表1において,二重線で分かたれている上の部分は,少数民族政治エリートのいわば第一世代に当たる人々である。これら主要な幹部についていえば,ブルハン(包爾漢)を除く全員が「三区革命」参加者であった(注2)。セイフディンをはじめとする「三区革命」の指導者の一部が中華人民共和国成立後の新疆の新政府に参加したことは,熊倉の研究[熊倉 2017]においても指摘されている。また,その大半がソ連での勉学経験のある人物であったことがわかる。
(出所)各指導者の「現代新疆での主要地位」については,本熊倉著作の[重要人物略歴一覧(中国新疆ウイグル自治区編)]などを参照した。
(注)(1)ロシア帝国領から新疆に進出した商人たちによりウルムチに設立された主要な8つの商社(洋行)のうちのひとつ。ウズベク人のハンババ一族による[通宝 1979, 159-160]。
(2)現カザフスタン共和国東南部, 中国新疆との国境から西方20kmあまりの位置にある都市。イリ地域から移住した人々により形成されたウイグル族居住地として知られる。
(3)セイフディンの回想録にはタシュケント留学の際の経緯について詳細に述べられている[Seypidin 1990a, 424-456]。
(4)「三区革命」の軍隊である民族軍の政治部主任などを歴任。アルタイ方面への軍事行動にも参加した[曹達諾夫 1989, 29-34]。
前述のような「三区革命」の性格の一面を考慮すれば,どのような事情から,中華人民共和国の新疆において少なくともその初期の少数民族政治エリートの大半が,エスノ・ナショナリズムに基づく「分離主義」を顕在化させた政治運動の一端を担っていたと推察される指導者たちによって構成されざるを得なかったのか,という問題が生じる。
熊倉はその論文のなかで,セイフディンを中心とする「三区革命」の指導者たちが,中華人民共和国成立後の新疆で要職に就いた理由について,中華人民共和国成立後の政治プロセスに関する検討をもとに,以下の3点を掲げている。第1に,セイフディンと毛沢東が良好な関係にあったこと,第2に,「三区革命」がソ連の強い影響下にあったことを背景として,その後の親密な中ソ関係のなかで彼らが両国の橋渡し役を期待されたこと,第3に,とくにセイフディンが少数民族のエリートとして,漢族との「民族団結」にとって必須の存在とされたこと,である[熊倉2017, 8-13]。いずれも的確な指摘と考えられる。本稿では,これらの点に加え,中華人民共和国成立前の事情を踏まえて,付随的な理由として推測される点について以下に挙げておきたい。
そもそも,中華人民共和国成立以前の段階において,新疆のウイグル族社会と中国内地との間の人的交流は希薄であり,当然ながら中国共産党との接触も皆無に近い状況にあった。新疆で清朝の統治が開始された18世紀半ば以降,「解放」直後の段階においてさえ,テュルク系言語を使用し,おもにイスラームを信仰するウイグル族は,人口面で新疆の大半を占め,基本的にその言語文化的特徴を維持してきた(注3)。新疆に在住する漢族がとくに南新疆において希少であったという条件下,ウイグル族の間で漢語を中心的に使う人は皆無に近く,第二言語として多少なりとも漢語を使用できる人も僅少であった。漢族との社会生活上の関わりや,中国内地とウイグル族社会との人的な交流は,清朝時代から中華民国期を通じてかなり限定されていた。実際,近代的な文化や思想などは,おもに中央アジアやロシア領ボルガ・ウラル地域,トルコなど,とくにテュルク系言語が用いられていた西方のムスリム諸地域との間の交流をチャンネルとして受容されてきたといっても過言ではない。
清朝が中華民国にかわった際,清朝の新疆省は中華民国の新疆省に移行し,その後楊増新,金樹仁,盛世才という漢人の省政府支配者が,中央政府からはかなり自律的に新疆を統治することとなった。このようななか,ウイグル族社会においては,1910年代に,それまでの伝統的なイスラーム教育にかわる近代的な新方式教育の普及を軸とする改革運動が開始された。それは,19世紀末頃からの社会変化に応じて台頭してきた資本家層や新しいタイプの知識人層の主導下に,社会の近代化を目指して推進されたものである。その際,オスマン朝から到来した教師らによりカシュガル地域での新方式の教育活動が推進されたこと[Hamada 1990],またトルファン地域での新方式教育の活動において,カザンから招聘されたタタール人教師が重要な役割を担ったこと[新免 1990]からもうかがわれるように,この運動は,トルコやロシア領ムスリム地域との深いつながりに軸足を置いていた。省政府の弾圧により頓挫した後,1930年代のムスリム反乱(1931~34年)のなかで,この改革運動との人的な連関性の下にウイグル族などテュルク系の人々の分離主義的な民族運動が発動され,1933年にカシュガルで「共和国」政体の樹立が宣言されたことは,周知の通りである。要するに,1930年代の段階で,西方イスラーム地域との間の移動と交流に基づく,新疆ムスリム社会の特有な知的空間に根ざす近代化への志向性を背景として,分離主義が顕在化する条件が整っていたといえるだろう。その一方で,ウイグル族社会の中国内地との関係性は希薄であり,ましてや中国共産党の影響は皆無に近かった。
たしかに上記のムスリム反乱の最中に新疆省政府の権力を掌握し,反乱の鎮圧を経て1944年まで政権を維持した盛世才の時代には,一時的な親ソ連政策の下,中国共産党人の陳譚秋や林基路,毛沢民(=毛沢東の弟)らが新疆に受け入れられ,教育・財政などの分野で活動するなかで,ウイグル族知識人らとも若干の接触が生じたとされる(注4)。しかし,国民政府に接近した盛世才の変節により,その活動は1939~42年という至って短期間にとどまった。前述のような人的交流とそれに基づく知的環境のあり方を背景として,中華民国期全般を通してウイグル族社会に中国共産党の勢力は浸透しておらず,中国共産党員は事実上皆無であった。国共内戦で優位に立った中国共産党が中国西北部に進出し,国民党の新疆省政府(主席:ブルハン)が中国共産党の新中国への合流を決定し,人民解放軍の進駐を受け入れたことを通して新疆が「和平解放」に至った(注5)のは,まさにこのような条件下においてであった。
他方,1944年のムスリム反乱勃発後,1949年段階に至るまで省政府から事実上自立した領域を維持していた前述の「三区革命」側は,おそらくはソ連政府の指示により,中国共産党側に与することを決定し,「新中国」に合流することとなった。新疆の「解放」直後の段階において,中国共産党側が少数民族幹部の供給源をウイグル族社会に求めた際,旧来のムスリム社会において有力であった既存のイスラーム指導者層や,国民党側で活動していたウイグル族指導者たち(注6)が可能な限り除外されざるを得ない局面において,その選択肢は限定されており,ソ連の強い影響下に推進された「三区革命」の指導者たちに白羽の矢が立てられたということであろう。
実際,多くの先行研究で明らかにされているように,「三区革命」はソ連の強い影響下において遂行され,指導者のなかにもソ連への留学経験者やソ連領出身者などが多数含まれていた。そのことは,前掲の表における,元「三区革命」参加者で中華人民共和国成立後に新疆の政治舞台で活動した指導者の教育歴からも如実にうかがわれる。彼らのなかには,ソ連の当局による働きかけによりソ連側の工作者となって新疆で活動する者も含まれていたと推測される(注7)。コミュニズムに対する知識・理解,ソ連への親近性の程度において,これらの指導者のなかに相応のばらつきがみられたと推測されるものの,「三区革命」は事実上ソ連の控制下に置かれていたと考えられる(注8)。とくに王柯が指摘するように,「三区革命」においては,初期の段階において指導者層はイスラーム宗務者やソ連と関わりのある知識人など,多様な人的要素を含み込むものであったのに対し,その後アリハン・トラらのイスラーム指導者たちが排除され,アフメトジャンなどソ連との関わりの深い指導者たちを基軸とする体制に移行したとされる[王柯 1995]。このことは,「三区」指導者たちが「解放」後初期の中ソ「蜜月」段階において,中国の政治エリートとして登用されていく(注9)ことを容易にした。ただし,後述のように,ソ連との親近性をもって「三区革命」後期に活動を主導した指導者たちにエスノ・ナショナリズム的傾向が希薄であったと判断できるわけでは必ずしもないであろう。
そういう点からとくに留意すべきは,「三区革命」が最終的に中華人民共和国に合流することを決定した際,「三区革命」が毛沢東により「中国人民の民主革命運動の一部」とみなされたことである。この点は「三区革命」が中国共産党勢力の側に引き入れられる際に,毛沢東が「三区革命」最高指導者アフメトジャンに送った書簡の文面のなかで明記されており(注10),その後の現代中国における歴史叙述において,「三区革命」に対する「中国革命の一部」という評価が公式化される機縁となった。「解放」当時の新疆在住民族のなかで漢族の人口はウイグル族人口の10分の1程度にしかすぎず,ウイグル族のなかで中国共産党の影響力が至って希薄であった条件下において,新疆の中華人民共和国への編入を正当化するための根拠は,当時の新疆省政府が主席ブルハンの下で共産党勢力を受け入れたこととともに,ウイグル族など少数民族の政治勢力である「三区革命」側が中華人民共和国への合流を「主体的」に決断し,そして毛沢東が「三区革命」を「中国革命」の一部とみなしたことによって強化されているといっても過言ではない。このような事情から,分離主義の顕在化という側面をいわば等閑視する形で,表立った不具合なく「三区革命」関係者を「解放」後に政治エリートとして登用できたといえるだろう。換言すれば,毛沢東の言説は中国共産党が新疆を円滑に統合化するための正当性を確保する方便として,「三区革命」に対する評価を巧妙に「調整」したということかもしれない。
3. ソ連との関わり前述のように,前掲の表における少数民族エリートたちの特徴として,その大部分が「三区革命」参加者であっただけでなく,ソ連での教育履歴をもつ人物であった点も挙げることができる。関連してとくに留意すべきは,「三区革命」に際してのソ連の新疆に対する関与が,このときに特有な一過性のものではなく,留学を含む,それ以前からの政治・経済・文化の各方面における歴史的な関係性によって裏打ちされていたことである。この点について,実証的な検証ではないものの,若干の補足的説明を加えておこう。
まず1920年代以降の経済的関係を背景とした密接な交流が,ソ連領のカザフスタンなどとの間で展開していた。また,1933~44年に新疆省の政権を担当した盛世才の時代に,国民党勢力が新疆に入るまでの期間,1930年代の大規模なムスリム反乱を鎮圧する過程で新疆省政府がソ連の力を借りたことを背景として,ソ連は省政府に対して大きな政治的影響力を行使した。その条件下,ソ連からさまざまなレベルにおよぶ働きかけが展開された。教育・文化面では,新疆からソ連への留学事業の按配,ソ連領中央アジアにおけるウイグル語定期刊行物の発行と新疆への搬出などの事業が挙げられる。ソ連政府側と新疆省政府との間における取り決めにより,1934~36年の3年間,年ごとに約100人ずつ,タシュケントの中央アジア大学(現:ウズベキスタン国立大学)への留学が進められたという[Abduraxman 2004b,3; 寺山 2015,249-250]。「三区革命」指導者にはソ連留学者が多数含まれていた。
ソ連の宣伝工作については,『東方真理(Sharq Haqīqiti)』(タシュケント刊)や『新生活(Yengi Hayāt)』(アルマアタ刊)といったウイグル語雑誌がソ連領中央アジアで発行されて新疆に搬出され,「三区革命」の中心となるイリ地域を軸に知識人たちの間で広く受容された形跡がある。『東方真理』の記事内容をみてみると,ウイグルの歴史・文化に関する記事のほか,ソ連の産業・文化・教育の発展ぶり,とくに各民族の「幸福」な様子を強調する記事が多数収載された,いわばプロパガンダ雑誌としての色彩が濃い。とくに,カザフスタンやウズベキスタンのウイグル社会の恵まれた環境と進歩的な経済・文化状況を強調する記事も少なからず見出すことができる(注11)。また,ウイグル民族史・民族文化に関するユニークな解説記事が散見されること(注12)については,結果として新疆在住ウイグル族に民族としての自身の社会・文化に対する理解の促進をもたらす効果があったと思われる一方で,ソ連側がいかに民族性を理解し尊重する姿勢を示しているかを,新疆在住ウイグル族社会に印象づける意味も込められていた。
当時のイリ地域で生まれ育ったウイグル知識人からの聞き取りによれば,これらのウイグル語雑誌を通して,連邦制と基幹民族による共和国の存在,各共和国における産業の発展や高い教育水準の達成という点をはじめとして,コミュニズムそれ自体というよりもむしろ近代性の推進や民族性の尊重といった政策,文化的洗練という側面から,新疆ではソ連の「先進的」なイメージが流布していたらしい。この点からも,コミュニズムの摂取度合の濃淡に拘らず,民族意識の強い指導者たちの一部にとってもソ連は,親和性の高い存在と感得された可能性がある(注13)。ソ連の知的影響は目にみえて根深いものがあったと推測される。とくに「三区革命」の中心となったイリ地域においては,ロシア帝国,さらにその後のソ連との国境地域に位置するという環境下,両領域間の緊密な人的移動・交流を通して,特有な知的空間が形成されていたといえるだろう。
以上のように,ソ連と新疆との,とくにウイグル族社会との関係は,単にソ連政府の新疆に対する工作による部分だけでなく,ロシア帝国時代からの中央アジア-新疆間の経済的・文化的交流や,新疆からカザフスタンへの移住により形成されたウイグル族社会の存在に根差す部分を基盤としていたと考えられる。そのことは,前述の表における人物のなかに,カザフスタン領ジャルケントの出身者や,ロシア領中央アジアから新疆に移住し交易・商業活動に従事した有力一族のタシュケント出身者などが含まれていることからもうかがわれる。要するに,ソ連の新疆における存在感は,政治面のみならず,文化面も含めウイグル族社会に深く浸透していたと言わざるを得ない。少数民族エリートとソ連との関わりについては,このような新疆に特有な条件の文脈のなかでとらえる必要があるだろう。
以上のように,初期の現代新疆におけるウイグル族政治エリートたちの内実をみてみると,中華人民共和国以前におけるエスノ・ナショナリズム的な傾向やソ連との深い関係性といった背景抜きには語ることができないことがわかるだろう。そういう意味で,本書で述べられている,1950年代後半の諸問題,とくに反右派闘争期においてかなりの数の指導者たちが排除される事態へと至ったことの内情を比較的容易に看取できるだろう。すなわち,現代新疆の少数民族エリートをめぐる政治的動向の背景を理解する上で,中華人民共和国成立前を含む,より長い歴史的時間やその地域性を視野に入れて考えることが一定の有効性をもつのである。
最後に,もうひとつ指摘すべき点として,本書においては,狭義の政治面以外の分野における活動を含む,少数民族政治エリートの具体的な人物像やその特徴を踏まえた上で,当該民族社会における彼らの位置づけに関して検討することを通して,彼らにまつわる政治的動向の内実に迫ろうという視角は必ずしも顕著ではない。たとえば,本書において主要な少数民族政治エリートとして重点的に論じられているセイフディン・エズィズィについては,ウイグル族社会における有名作家として,「文人」としての姿もその人物像を形作る重要な側面を構成しているが,本書においてその点に関する言及は見出されない(注14)。このような問題意識からのアプローチについては,今後の課題となるだろう。
(中央大学文学部教授,2023年1月31日受領,2023年5月25日レフェリーの審査を経て掲載決定)