Journal of Rural Problems
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Research Article
Educational and Medical Expenditure of Agricultural Households under the Reconstruction Period from the Showa Depression
Motoi KusadokoroTakeshi MaruMasanori Takashima
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2016 Volume 52 Issue 3 Pages 97-104

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1. はじめに

現在の途上国において,人的資本の重要性は広く認められており,供給面の改善が試みられている.しかし,所得階層間の人的資本の格差や経済ショックによる人的資本の蓄積の中断といった問題が,多くの途上国で観察される.これらの問題に対し効果的な支援策を策定するためには,人的資本投資に対する世帯レベルの需要についての理解,特に,資産効果の有無やその大きさを知ることが重要であり,実証研究による積極的な議論が行われている(Cogneau and Jedwab, 2012; Dasgupta and Ajwad, 2011; Glewwe and Jacoby, 2004; Grimm, 2011; Thomas et al., 2004).

日本はアジア諸国の中でいち早く経済発展を遂げたが,戦前期の経済発展の初期段階から,政府は農村部も含め教育・医療の普及に努めてきた.Godo and Hayami(2002)は,日本と米国の労働人口の平均被教育年数を推計し,戦前期の日本は米国に対しキャッチアップを続けていたことを示している.

しかし,戦前期の日本において人的資本の蓄積が順調に進んだわけではない.1930年の昭和恐慌と金解禁による急激なデフレは,農家経済に深刻な影響を与えた.農家出身の中学校,高等女学校入学者数の減少や人的資本に関連した支出の減少が起こり,その停滞傾向は恐慌後の回復期においても続いた.

本稿は,開発経済学のアプローチを参考に,1931年から1941年にかけて収集された農林省『農家経済調査』のミクロデータを用いて,農家の人的資本に関連する支出に対する資産効果を推定する.この分析を通して,1930年代の人的資本投資の停滞について世帯レベルの実証結果から考察する.また,現在,日本の教育・医療の発展・普及の経験を,現在の途上国の参考にしようとする試みが行われている(国際協力機構,2004,2005).本稿は,人的資本に関する実証研究の中に日本の歴史的経験を蓄積していく試みの一つでもある.

2. 教育・医療の普及と昭和恐慌の影響

(1) 戦前期の教育・医療の普及

明治政府発足後の1872年に公布された「学制」により,日本の近代的教育制度が開始される1.学制は,8年間の義務教育を目指すなど,野心的な計画であったが,当時の教育事情や経済・人的資源を考慮しておらず,期待した成果は得られなかった.1880年の「教育令」により小学校の最低就学期間が3年間に縮小され,政府は師範学校の設立など教育を供給するための人的資源の確保に努めた.

1890年代に入り,「教育ニ関スル勅語」や「実業学校令」が交付されるなど,富国強兵に教育制度が組み込まれ,政府は地方間格差や男女間格差の是正をはかった.1900年に小学校の授業料が無料化され,中学校,高等女学校,実業学校など,中等学校の整備が急速に進められた.1908年に小学校の年限は6年間になり,戦前期の教育制度の基礎が確立された.小学校の就学率は順調に上昇し,1907年に男女とも95%を超えた.ただし,入学・卒業者比率で見ると,義務教育における男女間格差が解消されたのは1920年代後半に入ってからであった.

1874年に公布された「医制」により,中央集権的な制度のもとで,近代的医療の導入が試みられた2.死亡率や乳児死亡率の統計によると,1920年代中頃まで,都市・農村間の医療・衛生面の格差は小さかった.しかし,1922年の「健康保険法」など都市部の労働者を対象とした保険制度が導入され,さらに,医療施設の開設が都市部に集中するようになり,医療格差が拡大した.さらに,昭和恐慌による農村の疲弊を受け,農村部で地域を単位とした医療組合が各地で設立された.医療の改善に向けた地域の試みは,戦時体制下の国による,健康な国民への要求とともに,1938年の「国民健康保険法」の制定につながり,農家も対象に入れた保険制度が成立した.

(2) 昭和恐慌の影響

1930年に発生した昭和恐慌は,日本全体を不況に巻き込んだが,農産物価格の急激な下落により,農村部は特に深刻な影響を受けた.

1は,農林省『農家経済調査』による,昭和恐慌の前後における農家経済,教育・医療費の推移をまとめている.1931年に農家経済調査は第二期から第三期調査へと移行した.第二期調査にあたる1926–30年については,統計書である農林省農務局(1926–1930)に添付されている個票資料を,第三期調査にあたる1931–40年については,農家経済調査の個票である集計カードを16県から抽出し使用した3.所得や支出については,一橋大学経済研究所(2009)の農産物物価指数により実質化した.

表1. 昭和恐慌前後の農家の所得,家計費,教育費,医療費の推移(期間平均)
観測数1) 経営面積
(町)2)
農家所得
(円)2)
家計費
(円)2)
教育費
(円)2)
医療費
(円)2)
1926–30 892 1.81 1,046 984 35.7 46.6
1931–35 462 1.33 (73.7) 866 (82.8) 765 (77.7) 24.2 (67.9) 38.4 (82.4)
1936–40 463 1.37 (103.1) 1,002 (115.8) 744 (97.2) 25.1 (103.7) 37.9 (98.7)

資料:農林省『農家経済調査』個票データ.1926年から1930年は農林省農務局(1926–1930)の巻末に記載されている個票データを使用した.1931年から1940年は,『農家経済調査』の原票である集計カードのデータを使用した.

1)6歳から24歳の世帯員がいる世帯のみを集計の対象としている.

2)括弧内の数値は,当該期間の前期間に対する比率を示している.

平均経営面積が1926–30年の1.8町から1931–35年に1.3町に大きく減少している.これは,昭和恐慌の影響ではなく,調査の移行により対象農家が大幅に変更されたためである.農家所得,家計費ともに,恐慌後の1931–35年に減少しているが,減少率は家計費で高くなっている.教育費は30%強減少しており,家計費以上に減少している.医療費の減少率は農家所得とほぼ同じである.調査農家の変更のため,これらの減少を昭和恐慌の影響とすることはできない.ただし,教育費は家計費以上に減少していた.また,1936–40年になると,農家所得は明確に回復傾向を示すが,家計費,教育費,医療費は回復傾向を示さない.家計費とともに,人的資本に関連した支出も1930年代を通して停滞していた.

農家の教育投資の停滞は,他の統計資料からも確認される.表2は1920から30年代にかけての中学校,高等女学校の入学者数の推移を示している.両中等学校ともに,恐慌後に入学者数の伸び率が停滞するが,特に,農業就業者を父兄にもつ子供の入学者数が大きく減少している.1930年代後半に入学者数は再び上昇傾向に転ずるが,農業出身の入学者数の伸び率は低い.農林業の男性就業者数が1930年代後半に減少するが,農家戸数の減少率はわずかであり,農業出身の子供の数が他産業に比べ大幅に減少したとは考えにくい.1930年代に,実業学校をはじめとして中等教育の多様化が進んだため,中学校及び高等女学校の入学者数から中等学校全体の進学状況について推測することはできない.しかし,昭和恐慌後,高等教育へ進むための必須コースである,中学校及び高等女学校への農家子弟の進学が,他産業に比べ停滞したといえよう.

表2. 中学校,高等女学校入学者数の推移
中学校入学者数 高等女学校入学者 男性就業者数 農家戸数
全入学者 農業出身1) 全入学者 農業出身1) 全産業 農林業
A.期間平均(1,000人,1,000戸)
1921–25 66.8 19.4 62.1 14.7 17,515 7,648 5,535
1926–30 78.3 20.8 82.0 18.5 18,567 7,648 5,581
1931–35 75.3 15.3 88.7 15.2 19,726 7,869 5,629
1936–38 85.1 15.6 106.6 16.6 20,205 7,400 5,566
B.前期間からの年平均変化率(%)2)
1921–25
1926–30 3.23 1.47 5.73 4.76 1.17 0.00 0.17
1931–35 –0.77 –5.94 1.58 –3.83 1.22 0.57 0.17
1936–38 3.11 0.44 4.70 2.12 0.60 –1.52 –0.28

資料:入学者数は菊池(2003, pp. 397–404).就業者数及び農家戸数は一橋大学経済研究所(2009)

1)入学者のうち,農業就業者を父兄にもつ学生数.

2)各期間平均を中間年の値として仮定したときの,当該期間と前期間の中間年との間の年平均変化率を示している.

3. 資産効果の検証

(1) 分析枠組み

本節では,農林省第三期農家経済調査(1931–41年)の個票パネルデータを用いて,教育,医療支出に対する資産効果の推定を行う.既存研究では,世帯の経済水準(多くは家計費)が人的資本投資に与える影響を直接計測する手法と,不況や干ばつなど,なんらかのショックが人的資本の蓄積や投資に与える影響を計測する手法が用いられている.前者は資産効果の大きさを推定できるメリットをもつが,観測誤差や同時性など経済水準の内生性に注意する必要がある.後者は外生的なショックを説明変数とするため,内生性を厳密に考慮する必要はない.しかし,ショックの影響が資産効果によるものか,他の要因によるものかを区別することが難しい.

本稿は,簿記による比較的精度の高い家計費のデータが得られるため,前者の手法,すなわち,資産効果を直接推定するアプローチを採用する.子供の就学に対する資産効果を推定したGlewwe and Jacoby(2004)にならい,実質の教育費,医療費それぞれについて以下の回帰式を計測する.

  

lncijt=β1lnxijt+β2lnwijt+α'hijt +di+dj+dt+μijt (1)

ここで,iは世帯,jは世帯が属する県,tは調査年を表す.また,cは年間教育費もしくは医療費,xは経済水準の代理変数である年間家計費,wは男性農業賃金,hは家族構成を表す変数ベクトル,diは世帯の固定効果,djは県の固定効果,dtは年効果である.家族構成を表す変数は,0–5歳,6–11歳,12–16歳,17–24歳,25–59歳の年代別,性別世帯員数,60歳以上の世帯員数である.ただし,教育費を分析対象としていることから,表1と同様,6歳から24歳の世帯員がいる世帯を計測の対象とする.

(1)式を,プールデータモデル,固定効果モデル,一階の差分モデルによって計測する.ただし,プールデータモデルに世帯固定効果は含まれず,また,固定効果及び差分モデルでは,県の固定効果は世帯固定効果に吸収される.

(1)式の家計費には内生性が疑われる.例えば,医療費は,世帯員が病気になると医療費が増加し,家計費も増加するという逆の因果関係が生じる可能性がある.この問題に対し,操作変数法を用いて対処する.プールデータ及び固定効果モデルでは,操作変数に,経営面積,建物,農機具,動物,植物,現金,現物の各資産の期首評価額(以上全て対数),水田率,借地率,4–6月総降水量,1–3月日照率を用いる.差分モデルでは,経営面積及び前年度の農家経済余剰の不足を示すダミー変数を用いる.

(2) 計測結果

3に教育費,表4に医療費についての(1)式の計測結果をまとめている.プールデータモデルのOLSによる計測では,家計費の係数は教育,医療費ともに有意に正であり,その大きさも同じ程度である.操作変数法を用いると,係数の大きさに差は生じるものの,ともに有意に正である.ただし,過剰識別検定は,操作変数の内生性を示唆しており,世帯固定効果の影響がうかがえる.

表3. 教育費の計測結果
プール 固定効果 差分
OLS 2SLS OLS 2SLS OLS 2SLS
家計費 1.362*** 1.786*** 0.329** –0.255 0.365*** –0.100
(0.109) (0.189) (0.126) (0.441) (0.110) (0.559)
0–5歳男子 –0.075* –0.087** 0.060 0.083 0.111 0.133
(0.040) (0.040) (0.098) (0.066) (0.086) (0.089)
0–5歳女子 –0.120*** –0.119*** –0.052 –0.037 –0.077 –0.061
(0.039) (0.039) (0.062) (0.056) (0.074) (0.081)
6–11歳男子 0.131*** 0.097** 0.199*** 0.211*** 0.097 0.127
(0.039) (0.041) (0.075) (0.063) (0.091) (0.102)
6–11歳女子 0.152*** 0.122** 0.182** 0.215*** –0.068 –0.058
(0.047) (0.048) (0.071) (0.073) (0.096) (0.098)
12–16歳男子 0.248*** 0.195*** 0.282*** 0.307*** 0.069 0.088
(0.049) (0.052) (0.087) (0.076) (0.111) (0.115)
12–16歳女子 0.309*** 0.269*** 0.303*** 0.338*** 0.031 0.060
(0.055) (0.056) (0.077) (0.076) (0.098) (0.111)
17–24歳男子 –0.052 –0.108* 0.070 0.128 0.062 0.116
(0.055) (0.060) (0.083) (0.081) (0.086) (0.111)
17–24歳女子 –0.206*** –0.308*** –0.048 0.025 0.050 0.113
(0.062) (0.070) (0.086) (0.091) (0.098) (0.131)
その他の世帯員変数 Yes Yes Yes Yes Yes Yes
農業賃金 Yes Yes Yes Yes Yes Yes
県ダミー Yes Yes No No No No
年ダミー Yes Yes Yes Yes Yes Yes
観測数 886 886 886 886 610 610
R2 0.43 0.41 0.12 0.09 0.08 0.05
内生性検定p値 0.01 0.07 0.39
過剰識別検定p値 0.00 0.74 0.81
弱識別検定p値 0.00 0.00 0.00
除外操作変数F値 23.82 6.04 14.25

1)各係数下の括弧内の数値はロバスト標準誤差.***,**,*はそれぞれ1%,5%,10%水準で有意であることを示す.

表4. 医療費の計測結果
プール 固定効果 差分
OLS 2SLS OLS 2SLS OLS 2SLS
家計費 1.291*** 1.220*** 1.241*** 1.677*** 1.010*** 1.947**
(0.126) (0.204) (0.204) (0.497) (0.229) (0.768)
0–5歳男子 0.006 0.008 0.183** 0.166** 0.260** 0.215*
(0.039) (0.038) (0.080) (0.075) (0.117) (0.123)
0–5歳女子 –0.027 –0.027 0.115 0.103 –0.037 –0.068
(0.047) (0.046) (0.077) (0.075) (0.111) (0.113)
6–11歳男子 0.029 0.035 0.146** 0.137* 0.146 0.084
(0.043) (0.043) (0.072) (0.075) (0.133) (0.143)
6–11歳女子 –0.038 –0.033 0.099 0.074 –0.073 –0.094
(0.054) (0.056) (0.067) (0.086) (0.126) (0.126)
12–16歳男子 –0.032 –0.023 0.071 0.053 0.178 0.139
(0.058) (0.059) (0.080) (0.084) (0.124) (0.132)
12–16歳女子 –0.139** –0.132** –0.011 –0.037 0.192 0.134
(0.056) (0.058) (0.077) (0.094) (0.122) (0.135)
17–24歳男子 0.047 0.056 0.143* 0.100 0.128 0.020
(0.058) (0.061) (0.079) (0.091) (0.124) (0.154)
17–24歳女子 –0.120* –0.103 –0.017 –0.071 0.014 –0.112
(0.066) (0.074) (0.072) (0.100) (0.116) (0.155)
その他の世帯員変数 Yes Yes Yes Yes Yes Yes
農業賃金 Yes Yes Yes Yes Yes Yes
県ダミー Yes Yes No No No No
年ダミー Yes Yes Yes Yes Yes Yes
観測数 886 886 886 886 610 610
R2 0.29 0.28 0.13 0.12 0.12 0.07
内生性検定p値 0.56 0.34 0.20
過剰識別検定p値 0.18 0.92 1.00
弱識別検定p値 0.00 0.00 0.00
除外操作変数F値 23.82 6.04 14.25

1)各係数下括弧内の数値はロバスト標準誤差.***,**,*はそれぞれ1%,5%,10%水準で有意であることを示す.

固定効果及び差分モデルを用いると,教育費と医療費で計測結果に差が生じる.OLS推定では,プールデータモデルと比べ教育費に対する資産効果が大きく減少するが,医療費では大きな変化は見られない.操作変数法を用いると,教育費では資産効果がさらに減少し,有意性を失う.医療費では逆に,操作変数法は資産効果を上昇させる.家計費の内生性により,教育費に対する資産効果に上方バイアスが,医療費に下方バイアスが生じていると推察される.固定効果及び差分モデルでは,世帯内の変動のみが計測に用いられるため,プールデータモデルに比べ短期の資産効果が推計されると考えられる.本節の結果は,医療費には短期的な資産効果が認められるが,教育費には認められないことを示唆している.

世帯員数の影響について見ると,6–11歳,12–16歳の世帯員数は,固定効果モデルにおいて男女とも教育費に正の影響を与えている(表3).これらの変数について,男女間の係数の有意差は認められなかった.差分モデルでは,これらの変数は有意ではない.年代別世帯員数は変化の頻度が少なく,変化するときも多くの場合は1単位の変化であり,ダミー変数に近い性質を有している.差分モデルでこのような変数の効果を推定すると,変化があったときのみの影響を捉える傾向にある(Laporte and Windmeijer, 2005).教育費は子供が就学している限り,一定程度を支出し続けなければならないため,差分モデルでは就学年齢の世帯員数が有意にならなかったと考えられる.

医療費については,0–5歳の男子世帯員数が固定効果,差分モデルの両モデルにおいて正に有意であるが,同年代の女子は有意ではない(表4).この男女間の係数の差は,固定効果モデルでは有意ではなかったが,差分モデルではOLS推定,2SLS推定共に有意差が認められた.乳幼児期の男子数は医療費を増加させる働きをもつが,女子はこのような効果をもたない.

回帰分析の頑健性について検討する.家計費の内生性に関連し,家計費の代わりに,家計費から教育費と医療費を除いた額を経済水準として用いた計測を行った.OLS推定の結果は家計費を用いた計測と異なっていたが,操作変数法ではほぼ同じ計測結果が得られた.今回用いた操作変数は,経済水準の内生性を適切にコントロールしているといえよう.

また,本節では,6歳から24歳の世帯員がいる世帯を計測の対象としたが,全世帯を対象とした計測と0歳から16歳の世帯員がいる世帯を対象とした計測も合わせて行った.いずれのサンプルにおいても,本節での結論に影響を与える差は確認されなかった.全世帯を対象とした場合,教育に対する資産効果の上昇が見られたが,固定効果,差分モデルの2SLS推定において,資産効果は有意でなかった.就学適齢期の子供がいる世帯といない世帯で家計費を比較すると,前者の平均は後者に比べ有意に大きかった.就学適齢期の子供がいない世帯では教育費も小さくなる.このため,全世帯を対象とした分析では,資産効果が過剰に推定されたと考えられる.

4. ディスカッション

Glewwe and Jacoby(2004)Grimm(2011)は,それぞれベトナムとブルキナファソの農家のミクロデータから,就学に対する正の資産効果を確認している.途上国を対象に集計的ショックの人的資本への影響を分析した研究では,集計的ショックが教育,健康に対し負の影響を与えることを示すものが多い(Cogneau and Jedwab, 2012; Thomas et al., 2004).一方,東欧諸国において世帯レベルの所得ショックが人的資本投資に与える影響を検証したDasguputa and Ajwad(2011)によると,医療投資はショック後に減少するものの,教育投資はその影響を免れる傾向にあった.

第二期と第三期農家経済調査を接続することができず,恐慌前後で資産効果の比較はできない.ただし,2節で検討したように,集計的ショックである昭和恐慌は,現在の途上国と同様,人的資本に関連した支出,特に教育費を減少させたと考えられる.

昭和恐慌後の回復期において,医療費は短期的な世帯レベルの経済水準の変動に応じて調整されたが,教育費はその限りではなかった.これはDasguputa and Ajwad(2011)の結果と対応している.教育を純粋な投資として捉えたとき,資産効果の存在は,同時に信用制約の存在を意味する(Glewwe and Jacoby, 2004).短期的な信用制約が恐慌後の教育費の抑制要因となっていた可能性は低く,当時の農家は,教育投資を長期的に継続することの重要性を認識していたといえる.一方,医療費の削減は,重篤な病気を除き,深刻な人的資本の減少に至らない可能性が高い.医療費は,教育費に比べ,経済水準の変化に応じて調整されやすかったと考えられる.

さらに,長期的な資産効果を検討するため,(1)式の固定効果モデルから推定された世帯固定効果( lnc-i )を被説明変数,調査初年度の世帯の状況を説明変数とした,以下の回帰分析を行う.

  

lnc-i=b1lnxij1+b2zij1+dj+dt1+uij (2)

ここで,xij1は調査初年度の家計費,zij1は調査初年度の土地所有階層(自小作,小作)を表すダミー変数ベクトル,dt1は調査初年度の年効果を表す.表5に,家計費を内生変数,調査初年度の経営面積及び労働力換算世帯員数を操作変数とした,操作変数法による計測結果をまとめている.

表5. 教育費・医療費の世帯固定効果に対する回帰分析の結果
教育費 医療費
家計費 0.250 –0.268
(0.294) (0.218)
自小作ダミー –0.279** 0.080
(0.137) (0.105)
小作ダミー –0.414*** 0.080
(0.159) (0.128)
観測数 174 174
R2 0.34 0.27
内生性検定p値 0.17 0.76
過剰識別検定p値 0.16 0.42
弱識別検定p値 0.00 0.00
除外操作変数F値 28.01 28.01

1)各推計には(2)式の説明変数は全て含まれる.紙面の制約上,総支出額以外の説明変数の係数は省略した.

2)括弧内の数値はロバスト標準誤差.***,**,*はそれぞれ1%,5%,10%水準で有意であることを示す.

世帯固定効果に対する資産効果は,教育,医療費ともに認められない.また,自作農は自小作農や小作農に対し,教育に関して有意に正の固定効果をもっているが,医療に関して階層間の差は存在しない.

当時の農家の教育投資は,経済水準よりも土地所有階層に依存していたといえる.二つの要因が考えられる.一つは,自作農はエリート層を構成しており,教育に対して投資効果以外の価値を認めていた可能性である.第二に,自作農は高度な教育を必要とする職へのアクセスをもっており,投資効果が他の階層と比べ高かった可能性である.

昭和恐慌後の回復期における医療費の停滞は,資産効果が認められたことから,総支出の停滞,つまり,恐慌後に貯蓄を優先し家計費を抑制した農家の行動に起因していたといえよう.一方,教育に関しては資産効果が認められなかった.自小作農や小作農を中心に,恐慌により減少した教育への投資を再び増加させようとするインセンティブが働いていなかったと考えられる.

最後に,0–5歳の男子世帯員数が有意に医療費を増加させた一方で,同年代の女子は同様の効果をもっていなかったことについて,若干の議論を行う.Sen(1992)の研究に代表されるように,南アジアの貧困世帯は女子よりも男子を選好し,乳児死亡率でも差が見られる.本稿の分析結果は,戦間期の農家世帯も男子を選好し,乳幼児期の子供の医療ケアにおいて男子を優先していた可能性を示唆する.一方で,乳幼児期の男子は女子に比べ病気にかかりやすいために,男子数のみが医療費を増加させたのかもしれない(Sen, 1992; Waldron, 1983).

総務省統計局(2012)によると,戦間期の乳児死亡率は男子が女子に比べ20%ほど高かった.戦後その差はさらに広がったが,1970年代から縮小傾向にあり,2000年代は10%強の差で推移している.ある医療水準のもとで,男女間で免疫力に差があることを示している.一方,乳幼児期の成長パターンを見ると,戦間期の農村部では,乳幼児の体重と身長の男女比はそれぞれ,1歳児で1.053と1.017,5歳児で1.041と1.015であった(内務省衛生局,1929).現代の日本における同男女比は,1歳児で1.062と1.018,5歳児で1.017と1.007である(厚生労働省,2010).現代は年齢と共に乳幼児期の男女間の体格差は縮小する傾向にあるが,戦間期の農村ではその傾向が明確ではない.戦間期の農家世帯が食事などを含め,男子の養育を優先していた可能性を否定できない.本稿において乳幼児期の男女間で医療費への影響に差が認められた背景やその子供の健康状態への影響について,今後の詳細な研究が期待される.

5. 結語

本稿は,昭和恐慌後の回復期における,農家の教育費と医療費に対する資産効果を検証した.医療費について短期の資産効果が確認されたが,教育費では,短期,長期共に資産効果が認められなかった.子供の就学状況に関する情報がなく,人的資本に直結する就学に対する経済水準の影響を検証することはできなかった.また,乳幼児期の医療ケアに男女間で差があった可能性を指摘したが,個人レベルの医療費を算出できないため,確定的な結果ではない.

農家経済調査は,子供の労働時間や食料支出について詳細な情報を提供する.経済水準や世帯構成が児童労働や食料支出に与えた影響を分析し,それらを本稿の分析結果と合わせることによって,当時の農家の人的資本投資についての包括的な理解につながっていくであろう.

謝辞

本稿は,科学研究費補助金「戦前期農家経済のダイナミックスと制度分析」(研究代表者,一橋大学,北村行伸)及び「両大戦間期農家経済のミクロデータ分析」(研究代表者,京都大学,仙田徹志)の研究成果の一部である.

1  教育の普及に関する記述は,国際協力機構(2005)を参考にしている.

2  医療の普及に関する記述は,井伊(2008)国際協力機構(2004)豊崎(2001)を参考にしている.

3  第二期調査の個票資料は京都大学によりデジタルデータ化されたものを用いている.第三期調査については,京都大学に保管されていた集計カードを一橋大学がデジタルデータ化したものを用いている.選択した16県は,秋田,福島,茨城,東京,新潟,山梨,長野,静岡,愛知,富山,大阪,島根,広島,徳島,福岡,宮崎の各府県である.

引用文献
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  • 厚生労働省(2010)『平成22年度乳幼児身体発育調査』(http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/NewList.do?tid=000001024533#)[2016年3月15日参照].
  • 国際協力機構(2004)『日本の保健医療の経験―途上国の保健医療改善を考える―』国際協力機構.
  • 国際協力機構(2005)『日本の教育経験―途上国の教育開発を考える―』東信堂.
  • 総務省統計局(2012)『日本の長期統計系列』(http://www.stat.go.jp/data/chouki/index.htm)[2016年3月22日参照].
  •  豊崎 聡子(2001)「恐慌期農村医療の展開過程:医療組合運動から国民健康保険法へ」『農業史研究』35,23–37.
  • 内務省衛生局(1929)『農村保健衛生実地調査成績』内務省衛生局.
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