Journal of Rural Problems
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Short Papers
Policies and Development Concerning Women’s Education in Occupied Japan: Case Study of Shimane Prefecture
Maho UenoYukiko Nakama
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2019 Volume 55 Issue 4 Pages 205-212

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Abstract

This study examined the policies and development concerning women’s education in occupied Japan (1945–1952), particularly Shimane Prefecture. The Ministry of Education had developed a plan to cultivate voluntary women’s groups. However, because the plan made it possible to use existing groups, it was withdrawn by the Civil Information and Education Section (CIE). CIE insisted that women’s groups should be composed entirely of volunteers. Based on the policies of the Ministry of Education and CIE, Shimane Prefecture encouraged the formation of voluntary women’s groups. However, in fact, it did so by using existing women’s associations to promote women’s education. The reasons for the responses were the connection between the Ministry of Education and Shimane Prefecture, the feudal character of rural society, and the existence of the Chugoku Civil Affairs Region. As women’s education developed in Shimane Prefecture, women gradually began acting with voluntary consciousness.

1. はじめに

「婦人会」は戦前から戦後における日本の代表的女性組織である.戦前・戦中の系統組織としては愛国婦人会,大日本連合婦人会,大日本国防婦人会の3つがあげられる.なかでも多くの一般女性によって構成されたのが大日本国防婦人会である.全戸参加を原則とする村の婦人会がそのまま分会として結成された(藤井,1985)ため,組織の性格は村の性格を反映するものとなった.名望家層の夫人が役員を務め,その意思決定の下に一般会員が活動を行うというものである.さらに,戦争の長期化は,上からの動員に応じるという組織の性格を強固にし(板垣,2001),個々の会員の主体的な言動をますます難しくした(麹谷,1985).左記3団体は1942年に大日本婦人会に統合され,1945年6月に国民義勇隊に改編される.ただし,その多くは戦後すぐに「地域婦人会」として再結成される.

終戦後,日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれた.GHQは占領方針として日本の「非軍事化」と「民主化」を掲げた.さらにGHQマッカーサー司令官は,民主化のための五大改革を幣原喜重郎首相に要求する.五大改革の一つとして取り上げられたのが女性の解放1である.その実現のために「婦人教育」が重視され,教育の場として民主的な「婦人団体」をつくることが喫緊の課題とされた.

戦後占領期における婦人教育については,教育学,女性学,歴史学等の分野においてさまざまな視点からアプローチがなされている.上村千賀子は,占領政策における女性解放の目的と方法をめぐるGHQと日本側のやり取りについて詳細な検討を行っている(上村,2007).また松尾純子は,婦人団体の民主化政策の理念と展開について,文部省とGHQの婦人団体に対する見解の比較をもとに考察している(松尾,1998).さらに,婦人教育を担った地方自治体や地方軍政部2と地域婦人団体の関係について取り上げた研究も多い.これまでに愛知県(伊藤,19811982),岐阜県(伊藤,1988),茨城県(守田・雨宮,1998),宮城県(佐藤,2002),岩手県(佐藤,2004a),山形県(佐藤,2004b),石川県(小島,2006)等を対象に研究が行われている.しかし,既存研究の中心は,県単位の婦人会組織を考察の対象にしたものである.自治体や地方軍政部の指導が地域婦人会の構成員である女性にどのような影響を及ぼしたのかについて取り上げた論考は少ない.

本稿では,既存研究の成果を手がかりに中央の婦人教育に対する方針,すなわち文部省とGHQ民間情報教育局(CIE)の方針について再度検討する.とくに婦人団体の育成方針について注目する.次に,中央の方針に対して地方自治体がどのように応じたのか,自治体がそうした対応をとった要因はどこにあったのかについて考察する.さらに,自治体の指導に地方軍政部がどのように関わっていたのかについて検討し,婦人教育が女性の意識や行動に与えた影響について考察する3.研究対象として島根県を取り上げる.島根県は「地理的・自然的立地条件・歴史的・伝承的風習のために家庭生活及び社会生活における封建性はかなり顕著」(林部,1952:p. 2)であると当時の同県教育関係者によって幾度となく指摘されている.とくに山間部においては山林の未解放のため,株小作4に代表される慣習が根強く残っていた.本稿は,そうした民主化を最も必要とする閉鎖的・封建的な性格が強い農村を有する自治体において戦後の民主化政策がどのように浸透したのか,その一端を考察するものである.

2. 婦人教育政策の方針

(1) 文部省社会教育局の復活

1945年9月15日,文部省は「新日本建設の教育方針」を公表した.その内容は,国家主義的な思想および教育施策の排除,文化国家平和国家の建設を目途としたものであった.具体的な施策としては,「教科書・教職員・学徒・科学教育・社会教育・青少年団体・宗教・体育に関する諸問題」および文部省の機構改革が掲げられた(文部省,1954:p. 488).「社会教育」を担当する部局として1945年10月15日に設置されたのが社会教育局であった.社会教育局は,戦前に文部省内に設置されていたが,戦中の高度国防国家体制の下,1942年に教化局,翌1943年に教学局に改組された(文部省,1954:p. 411).戦後の機構改革により,教学局は廃止され,社会教育局が復活することになったのである.初代局長には,元朝日新聞社の関口泰が就任した5.社会教育局は「公民教育,勤労者教育,婦人教育等成人教育其ノ他社会教育ニ関スル事項」等の事務を所掌することとされた(文部省,1959:pp. 3–4).婦人教育は社会教育局の下で実施されていくのである.

(2) 婦人教育政策の方針

社会教育局発足後,婦人教育実施のための指示が地方自治体に対して次々と発せられた.1945年11月28日には,社会教育局長から各地方長官宛に「婦人教養施設ノ育成強化ニ関スル件」が出される.「婦人教養施設」とは「自主的教養訓練機関」のことである(文部省社会教育局,1945:p. 1).このように,文部省はGHQの民主化政策を受け,当初から「自主」性を意識して団体育成を図ろうとしていたことがわかる.同年12月4日には,「婦人教育刷新振興協議会」の実施を自治体側に要請した.その内容は,「1府県100名から200名を対象に,「政治教育の必要」「婦人の教養組織の結成」等について啓発指導」をするというものであった(文部省,1959:p. 104).

1946年4月10日,戦後初の衆議院議員選挙が実施され,憲政史上初めて婦人参政権が行使された.そうした機運を背景に,同年4月23日には文部省の主催で「第1回婦人教育研究会」が開催された6.「当時中央にあってもっとも第一線に活躍する婦人有識者27名」に参加,協力を求めたものである.研究主題は,「今次選挙を省みて,婦人の公民教育運動の検討」,「婦人団体の育成方策」であった.第2回の研究会は同年5月21日に開催され,「婦人団体に関する問題」,「婦人教育を振興するための具体的な方策」について協議が重ねられた(文部省,1959:p. 104).とくに婦人団体の育成に関しては,社会教育局が作成した「婦人団体のつくり方育て方(案)」が検討された.草案は「一,婦人団体をつくる趣旨」,「二,婦人団体のつくり方」,「三,婦人団体の育て方」の三部構成となっている.婦人団体は日本女性が「民主国家の成員」となるために必要であり,その結成は「みんなの希望が盛り上り,協力によつて団体が生れる」のが「一番正しく望ましい形」であるとされた(文部省社会教育局,1946:p. 3).しかし,社会教育局の草案に対しGHQ民間情報教育局(CIE)情報課7のエセル・ウィード8が難色を示す.その理由は,草案に旧来の上意下達的な婦人会の復活が懸念される内容が含まれていたためであった.以下は,草案の「二,婦人団体のつくり方」における「既設の婦人団体がある場合」の記述である(文部省社会教育局,1946:p. 6).

土地に組織があつて,それを母体として内容を充実させて行けるのは是非さうします.もし一部の人達の主義主張による小さい集まりだから他に設ける必要があると云ふのならば勿論別個に作つてよいうでせう.但しこの場合は対立は排し,個人としてどの団体に所属しても公ママにみんなの団体として一緒に進んで行けるやうにすべきです.

社会教育局は,既に「土地に組織」がある場合は,それを利用した方が良いとしている.無理をして新しい組織をつくった場合,組織間に「対立」が生じる可能性が高く,既存組織を利用する等「それぞれの土地の実情や地域の特徴に応じ」た方法を採った方が団体の育成が円滑に進むと考えたのである(文部省社会教育局,1946:p. 15).しかし,ウィードは社会教育局の考えに対して否定的であった.婦人団体はあくまでも「動員型の婦人団体ではなく,志を同じくする人たちが,自主的に集まってつくるという,アメリカ型の婦人団体が望ましい」(西,1985:p. 75)と考えていたためであった.結局,第3回の研究会ではウィードの意見が採用され,社会教育局の「婦人団体のつくり方育て方」は廃案となり,婦人団体育成方針の作成はCIEの手に移ることになる.

1946年8月27日,CIE編集による『団体の民主化とは』が発行される.発行の目的は,「団体を結成し運営するに際しての民主的手続や慣習に関する模範を一般に提示する」ことにあった.同資料には,「団体結成の目的」をはじめ団体の運営方法等が15章にわたって記述されている.さらに,冒頭には「民主的団体の特性」を表す「原則」が以下のように示されている(聯合軍総司令部民間情報教育部,1946:pp. 1–2).

一,役員は会員によつて選挙される.

二,役員は会員に対し責任を負ふ.

三,会員は団体の行事に積極的に参加する.

四,団体の当面する一切の問題を会員の間で十分にかつ自由に討議する.

五,多数決の方式を採用すると同時に少数の者も十分に見解を表明出来る規定を設ける.

「民主的団体」の「原則」として選挙による役員選出,議決は多数決方式をとること等が掲げられており,民主主義を重んじた内容となっている.『団体の民主化とは』は,全国の教育委員会や団体に配布され,団体民主化の教本として広く使用されることになる(上村,2007:p. 199).

1947年3月31日に「教育基本法」が公布され,社会教育は国や地方公共団体が奨励しなければならないとされた.さらに1949年6月10日には「社会教育法」が公布され,社会教育は学校教育法に基づき,主として青少年及び成人に対して実施される組織的な教育活動であると定義された.また「社会教育関係団体」は,公の支配に属さない団体であり,その主目的は社会教育に関する事業を行うことにあるとされた.婦人団体等の「社会教育関係団体」と国や地方自治体との関係が法律によって裏付けられたことにより,各地で婦人教育が活発に行われていくことになるのである.

3. 島根県における婦人教育政策の方針と展開

(1) 婦人教育政策の方針

戦後,島根県において婦人教育を担当したのは教育部社会教育課であった.しかし,島根県で婦人教育が盛んに行われるようになるのは,教育基本法によって教育委員会が設置され,その後社会教育法が公布・施行されて以降のことである.

島根県教育委員会は,県から独立した行政組織として1947年11月1日に発足する.教育委員会には事務局が置かれ,初代教育長となったのは蒲生芳郎であった.事務局には,学事課,指導課等の課が設置され,そのうち「公民教育青少年教育及婦人教育に関すること」等,社会教育に関する業務を担当したのが文化課である(須田,1948:p. 1).同課で婦人教育を担当したのは生田方子9であった.

島根県教育委員会は,社会教育の方針について『教育月報』誌上で次のように述べている(島根県教育委員会,1949:p. 5).

社会教育の方針としては県民に自由平等,博愛の精神を徹底し,自由自律の精神を振起して郷土再建の意慾を高揚すると共に芸術文化の振興を図り成人教育の重視と,青少年団体や婦人団体の民主的な発展を期さんとし,これがため政治教育の重視や生活の科学化や組織的,体系的な教育活動に重点を置いて努力して来たのである.

このように教育委員会は「自由平等」,「自由自律の精神」を重視していることがわかる.さらに婦人団体等の育成方針については,「民主的な発展」を目標として掲げている.さらに,文化課の生田方子は「民主的婦人会の特徴」について次のように述べている(生田,1951:p. 5).

1,会の目的がはつきりして具体的であること

2,目的に賛同する人達だけが会員になること

3,全会員が平等に参加する機会が与えられること

4,会の運営は会員全体ですべきであつて役員だけの意志で動いてはいけないこと

5,会員は積極的に会の運営に参加し義務を遂行すること

6,会員の興味や仕事を中心とした小さな研究グループが基本になること

7,総会は出来るだけしばしば催して常に全会員の意志で運営してゆくこと

生田が掲げる「民主的婦人会の特徴」には,CIE編纂の『団体の民主化とは』の冒頭に示されている「民主的団体の特性」と同様の内容が散見される.例えば,5は「三,会員は団体の行事に積極的に参加する」とほぼ一致する.また7は,「四,団体の当面する一切の問題を会員の間で十分にかつ自由に討議する」という内容と類似していることがわかる.このように,島根県は「自主的教養訓練機関」の設置を目指した文部省と民主的な婦人団体の育成を目標に掲げたCIEの方針を受容したのである.

(2) 婦人教育政策の展開

島根県の婦人会は日露戦争前後に各地で結成されたことに端を発する(島根県,1967a:p. 812).部落,市町村単位の婦人会を基盤として系統組織がつくられ,愛国婦人会,大日本連合婦人会,大日本国防婦人会の傘下に入った.戦前・戦中の婦人会の幹部は名望家層の女性が務めた.一例を挙げると「大日本国防婦人会吉田村分会」の名誉分会長は,島根県を代表する大山林地主の夫人が就任している(愛郷会,1938:p. 28).

戦後,島根県においても地域婦人会が次々と結成された.文部省の調査によると,1946年10月時点で97の町村婦人会が結成されている(CIE,1946:pp. 166–174).こうした既設婦人会の幹部等を対象として頻繁に行われたのが「婦人指導者講習会」である.例えば,1949年7月14日から16日にかけて安濃郡大田町で「県下婦人指導者養成講習会」が開催されている.講習会には「各島郡市婦人代表として婦人会活動女子青年団活動の第一線において活躍して」いる人々をはじめ百数十名が参加した.講習会開催の経緯について文化課は次のように説明している(島根県文化課,1949a:p. 22).

戦後民主的婦人会活動が提唱され漸次その方向に活動を展開しているが尚仔細に反省検討してみると,その団体の在り方,会議の持ち方,役員並びに会員の任務と責任,討論の方法等に於いて充分でないところが多いように思われる.この点を考慮してかねて県下の婦人指導者養成講習会を計画中のところ,今回民事部の厚意により特に中国民事部のグローママ女史が来県されこれ等の問題につき熱心に指導をされたわけである.

文化課は,戦後の婦人会の「団体の在り方」,運営方法等が不十分だと考えていた.そうした折に中国地方民事部10から婦人教育担当のマーガレット・グロース11が来県し,婦人会の幹部らに民主的婦人会の在り方について指導を行ったのである.また1950年9月19日に松江市で開催された講習会では,グロースが参加者50余名と共にグループディスカッションの実演や組織すべき団体の種類等について講演を行うなど「教育的娯楽講習会」を実施している(島根新聞社,1950:p. 2).このようにグロースは度々島根県を訪れ,文化課の職員らと民主的婦人団体育成のための指導を行ったのである.

(3) 対応の要因

島根県は,文部省およびCIEの方針に従い,社会教育全般において自主性を重視し,民主的な婦人団体を育成するという方針を受け入れた.その要因としては考えられるのは,初代教育長を務めた蒲生芳郎と文部省とのつながりである.蒲生は1914年に島根県出雲市今市町に生れ,1940年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し,文部省に入省している(秦,1981:p. 635).1948年には郷里の島根県で初代教育長に就任し,1951年に文部省に戻っている(山陰中央新報社,1997:p. 187).その後,社会教育課長(五十嵐,1954:p. 258),社会教育局長(蒲生,1965:p. 7)等を歴任している.こうした経歴から,島根県教育長時代も文部省とのつながりが強く12,同省やCIEの方針を受容したのではないかと考えられる.

しかし,その一方で文化課は既設の婦人会幹部に対する指導を重点的に行っている.すなわち,CIEに否定された社会教育課の草案にある「既設の婦人団体」がある場合,「それを母体として内容を充実」させるという方法と類似する.実際の指導においてこうした方法を採ったのは,当時の島根県には封建的な慣習が根強く残っていたことがあげられる.有志の団体を育成したとしても,社会教育局が懸念したように既存団体との間に対立が生じることが想定された.文化課は,その点を考慮して運営方法等を指導することにより,既存婦人会を民主的な性格に変えるという現実的な対応を採ったのではないかと考えられる.このような文化課の対応を中国地方民事部が容認した理由はどこにあったのであろうか.その理由として,中国地方民事部の島根県の実態に対する理解が考えられる.地方民事部には,管轄する地方の実態に合わせて対処する裁量権が与えられていた(上村,2007:p. 223).そのために,旧来の慣習が色濃く残る島根県の農村において新たに民主的婦人会をつくることは困難であると判断したのではないかと思われる.教員経験を持つグロースは,教育には十分な時間や柔軟な対応を要するということを理解し,現実的な対応策として既存婦人会の幹部に対する指導を容認したのではないかと考える13

(4) 婦人教育指導の影響

文化課や中国地方民事部・グロースの指導は婦人会や女性にどのような影響を与えたのであろうか.文化課の生田方子は,県下の婦人会の変化について次のように指摘している(生田,1949:p. 13).

一般的にはまだ役員依存の会が多く,会員自身が積極的に参加するような民主的運営にまでは至つていないと思われるけれども漸次事業計画など会員の意見によつて行われるところが多くなり,今までの何もかも上からの命令によつて動いていた戦時中の婦人会とは全然異つてきている.

生田は「まだ役員依存の会」が多いとしながらも,「会員の意見によつて」「事業計画」がたてられることも多くなってきていると指摘する.さらに,「婦人会として畜産を研究しているもの」14,「演劇を研究して資金ねん出をはかつているもの」15等「単なる教養団体」だけでなく,はっきりした「一つの具体的な目的に賛同する人達」が出来ていることについても触れている(生田,1949:p. 13).

農村部の女性達には,具体的にどのような変化がみられたのであろうか.大原郡佐世村婦人会の塔村勝千代16は,講習会参加後の自身の意識の変化について以下のように述べている(塔村,1951:p. 4).

一昨年グローママ女史の講習開設以来,婦人団体について関心が急に高まつてきたことは,まことに喜ばしい現象とおもいます.私も又村の婦人会の一役員として,形式的画一的なあり方から如何に抜け出すべきかを考えていた矢先でしたので,「民主々義の技術」「興味中心グループの結成」等によつて具体的な方針をつかみ,関係婦人会に対する新しい情熱をかきたてられて帰つてまいりました.

戦後再結成された地域婦人会に対し,塔村は「形式的画一的」であると感じ,そこから「如何に抜け出すべきか」と考えていた.ちょうど同じ頃に婦人指導者講習会が開催され,参加した塔村は新しい民主的な婦人会の運営に関するグロースらの話に触発され,自分たちの婦人会を変えようという意欲を持つに至る.しかし,地元の「農村婦人の実態は,無自覚であり,自主性に乏しく,因襲にとらわれ」ているという厳しい現実を突きつけられる.塔村は地元婦人会を変えようと尽力するが,周囲から「そんなことは難かしすぎる」,「会合が多すぎる」という批判を受けることになった.そうした困難な状況にも負けず,塔村は講習会で教わった内容を実践するために月に1回程度の会合を開き,近隣の町で行われる婦人会の講習には出来るだけ多くの出席をすすめるようにした.そうした地道な努力が実を結び,婦人会の運営・活動に少しずつ変化がみられるようになる.「役員の選出には今まで程に「顔」が物を言わなくなり,集会は定時励行が厳守され」だしたのである.さらに,「生活改善を協議題とした討議会」の開催や「日常生活の改善を目指した委員会」が結成された.塔村らは「興味中心グループの結成は望ましいが,今の段階では成立し難い」ため,「集り易く」「活動し易い部落婦人会に重点」を置いて活動を行っていった(塔村,1951:p. 4–5).集会等の定時励行や生活改善は,戦中の国民精神総動員運動,翼賛運動等においても取り上げられた項目である.しかし,戦後の活動は内容こそ類似するものの,上から押し付けられたものではなく,あくまでも婦人会側の要求に基づくものであった.

名望家層の夫人が幹部を務めるという戦前来の性格を持った婦人会は,戦後になっても農村部を中心として数多く存在していた17.しかし,その一方で文化課やグロースの指導によって自身の意識を変化させ18,婦人会組織を民主的なものに変えようと努力する者も現れた.さらに,少数ではあるが共通の目的を持った有志による婦人会も結成された.婦人教育は,女性の意識や行動を徐々に変化させていったのである.

4. おわりに

文部省社会教育局は,自主性を持った婦人団体の育成を企図し,「婦人団体のつくり方育て方」を案出する.有志によって団体が結成されるのが「一番正しく望ましい形」とする一方,その内容には「既設の婦人団体」を利用しても良いとする文言が含まれていた.CIEのウィードらは草案の内容を問題視し,社会教育局の草案は廃案となる.その後,CIEの編纂による『団体の民主化とは』が発刊され,「民主的団体」の結成・運営方法が日本各地で周知された.

島根県は「自由自律の精神」の重視,婦人団体等の「民主的な発展」を婦人教育ひいては社会教育の方針として掲げた.自主性や民主的婦人団体の育成を標榜する文部省およびCIEの方針を受容した.島根県が文部省およびCIEの方針を受容したのは,初代教育長の蒲生芳郎の存在が挙げられる.蒲生は文部省の出身であり,それが中央の方針を受け入れる一因になったと考える.しかし,文化課は既設婦人会の幹部に対する指導を重点的に実施した.民主化の機運が高まっていたものの,農村部において有志による民主的な婦人会を新たにつくるのは非常に困難であった.そのために,文化課は既存婦人会の幹部に対して民主的な運営方法等を指導し,既成団体を民主的な性格に変えようとしたのである.また,CIEと比べて現場に近いグロースら中国地方民事部もそうした島根県の実情を理解し,文化課の指導を後援したのではないかと考える.

文化課や中国地方民事部のグロースは,県下で頻繁に婦人指導者講習会を開催し,婦人会幹部らに対して指導を行った.その結果,既存組織を民主的な組織に変えたいという意欲を持つ者を生み出すことになった.講習会の受講や地元婦人会における組織運営の実践を経て,女性達は自主性や自律性を体得していった.また,かつての婦人会活動は修養や上からの要請によるものが中心であったが,戦後の婦人教育によって活動内容そのものも少しずつ変化する.女性達は,自分達の生活における問題点は何か,そのためにどのような改善方法があるのかということを考え,実行に移していくのである19

戦後の島根県は,山間部を中心として封建的,閉鎖的な性格が強く残っていた.そうした地域においても婦人教育の実施により,民主主義の萌芽がみられた.島根県の事例は,戦後の婦人教育ひいては民主化政策の成果を示す証左の一つであるといえる.しかし,本稿では婦人教育が女性達にどのように浸透していったのかについて十分検討することができなかった.今後さらに多くの地方民事部や地域婦人会等の資料を収集し,その詳細を明らかにする必要があると考えている.

1  戦前・戦中の婦人会,とくに国防婦人会の活動は女性の解放,自主性を促す側面があり,それが戦後の民主化に連続しているとする研究もある(加納,1982).しかし,広瀬玲子が指摘するように,それは「あくまでも国婦活動の矛盾としてやむをえず生み出された側面」(広瀬,1985)であり,戦後の民主化政策における女性の解放や自主性とは異なると考える.

2  「軍政部」は,アメリカ第八軍の下部組織として各地方や都道府県等に置かれた組織である.その役割は,原則として日本政府が占領政策を忠実に履行しているかを監視することにあった(竹前,1983:p. 55)しかし,「軍政」という用語が日本の占領形態にそぐわないことから,1949年7月以降は「民事部」に改称された(阿部,1983:p. 23).

3  分析の際に主に用いたのは,文部省社会教育局,CIE,島根県教育庁文化課が発行した資料である.文部省社会教育局,CIE発行の資料は,国立国会図書館所蔵である.島根県教育庁文化課発行の資料は,島根県立図書館の所蔵である.

4  「株小作」は島根県の山間部を中心として行われた地主小作慣行である.単一地主から小作人が農地の他に採草地,薪炭林,農舎,農機具,役畜,宅地,家屋等を借り受けるため,普通小作に比べ地主への隷属性が強いとされる(島根県,1967b:p. 169).

5  当時,社会教育局の職員であった横山宏は,局内には「民主的な雰囲気」があったと回想している.(西,1985:p. 94).

6  第1回の会合には,村岡花子,奥むめを,河崎なつ等,婦人問題における当時の良識的・進歩的立場を代表する指導者が出席している(国立教育研究所,1974:p. 1083–1084).

7  民間情報教育局(CIE)は,精神風土,教育,宗教などの文化的側面の非軍事化・民主化を担当した.情報課は,あらゆる公的情報メディアを通じて日本人に民主的思想および原則を普及することにより,言論・出版・集会の自由を確立させることを任務とした(竹前,1983:p. 115,123).

8  GHQは女性に関する広範囲な改革を実施する.その中で最も中心的な役割を果たしたのがエセル・ウィード陸軍中尉(1906~75年)であった.在任期間は1945~52年であり,日本の婦人問題に関する政策の立案,女性の再教育,民主化のための啓発活動を担当した(上村,2007:p. 21).

9  生田方子は1938年に奈良女子高等師範学校理科を卒業後,高等女学校,高校の教員を務めた後,1949年に島根県教育委員会事務局文化課勤務となる(生田,1961:p. 33).

10  1948年6月時点の中国地方民事部の「婦人係官」は3名であった(CIE,1948:p. 1).とくに,中国地方における婦人教育の中心を担ったのがマーガレット・グロースである(CCAR,1950:p. 1).

11  グロースの詳しい経歴については不明である.1950年9月21日に鳥取県気高郡鹿野町で開催された「秋季婦人総会」において「なが年学校の先生をして」いたと発言しており,以前は教員をしていたことがうかがえる(井口,1950:p. 1).

12  蒲生は教育長を辞するに当たり,「文部省は私の古巣であり先輩友人も多い」と述べている.(蒲生,1951:p. 2).

13  地方民事部の婦人教育担当官の中には,都道府県側の実情を考慮せず,自分の考えを強引に押し付ける者も存在した.例えば岐阜県を担当したルース・デービスは,民主化に向けての指導を強行に実施し,婦人会の内部対立を引き起こしている(伊藤,1988:p. 50).

14  飯石郡西須佐村畜産婦人会は,「畜牛の飼養並びに改良増殖及び自給飼料の改善を図り,畜産の実績向上を挙げる」ことを目的とし,それに賛同する人達によって結成された.会員は一致団結して村や他の団体と連携し,生活に直結した活動を行っている(島根県文化課,1949c:p. 8).

15  美濃郡益田町婦人会吉田支部は,「会員自身の手による教育防犯劇の作成上演」を行い,「劇の収入は全部社会事業のため」に投じている(島根県文化課,1949b:p. 16).

16  大原郡佐世村は,1951年に旧大東町等と合併して大東町となる.塔村は,1952~55年にかけて大東町婦人会の副会長を務めている(大東町誌編纂委員会,1971:p. 464)

17  既出の飯石郡吉田村婦人会の会長は,戦後も依然として大山林地主の夫人が就任している(吉田村婦人会,1949:p. 1).

18  安濃郡久手町婦人会長の有馬かつ子は,「民事部グローママ女史の指導を直ちに現在の婦人会に持つていくことはまだまだ無理」だとしつつも,「この理想に近ママくために部落中心のグループも一つの方法ですが,指導者の貧困を思う時先ず指導者の養成につとめねばならない」と述べている(有馬,1951:p. 7).

19  島根県の地域婦人会は,同県において1951年に開始される「生活改善普及事業」の受入組織となり,事業の展開に大きな役割を果たすことになる(中間・内田,2009).

引用文献
  • 愛郷会(1938)『よしだ 第一輯』,愛郷会.
  • 阿部 彰(1983)『戦後地方教育制度成立過程の研究』風間書房.
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