2019 Volume 55 Issue 4 Pages 221-222
本書は1970年代に活躍した守田志郎の農法論を軸として著者自身が長年研究してきた「大和農法」と近世農書に基づきながら「日本農法」の原理と歴史的展開,並びに今後の展望を指し示そうとするものである.「第Ⅰ部 二一世紀の日本農法を考える」,「第Ⅱ部 江戸農書に見る日本農法」,「第Ⅲ部 農業史研究つれづれ」の3部構成となっている.本書を一読しての感想は,刺激的で面白いが難解なところがある,というものであった.再読,再再読してもその感想は変わらなかった.
刺激的で面白い要因の一つとして,自由で大胆な理論(=体系)の提示ということがある.小さな話ではなく,大きな話が展開されているのである.
第Ⅰ部で,著者は約3,000年にわたる日本農業の歴史を概観し,日本の農法を大きく三つの段階に分けている.「天然農法」,「人工農法」,「天工農法」の三つである.
天然農法は稲作が伝来した約3,000年前に始まる.肥培管理などが少しはやられるが,基本的には自然の循環(「まわし」)に依存した段階である.その後,徐々に人間の手により人工的に自然が変えられるようになり,14世紀頃に農法革命が起こって人工農法へと転換する.人工農法はいくつかの指標によって,第1段階(14世紀頃~),第2段階(16世紀末~),第3段階(19世紀半ば~),第4段階(20世紀前半~),第5段階(20世紀後半~)の五つに分けられる.近世農書が誕生し展開する第2段階で「まわし(循環)」・「ならし(平準)」・「合わせ(和合)」の三つの原理による「日本農法」が形成される.しかし,1960年代からの高度経済成長,1980年代からのグローバル化によってこの三つの原理は歪められ,まわさず(効率)・ならさず(競争)・合わさず(対立)の人工農法の第5段階(=脱・日本農法)へと劇的に変質させられる.こうして日本農業の今(=現状)があるが,これからの21世紀には天然と人工がより高いレベルで融合した新しい「天工農法」を創出していく必要があるとしている.
壮大な日本農業史(=日本農法史)の提示である.体系化を可能にした要因として,持って生まれた資質とともに,膨大な読書量,奈良盆地での長年にわたるフィールドワーク,「日本農書全集」の編集経験等をあげることができよう.
著者が提示した体系に対して,意見を述べ,議論を展開する必要がある.しかし残念ながら,小さな話だけを得意(?)としてきた評者には,この大きな話を批評する力量はない.大きな話を得意とする研究者の評価を待つことにしたい.
本書を難解にしている要因の一つとして,著者が守田志郎に拘り過ぎている,ということをあげることができよう.守田は農業史の研究者であるとともに「思想家」でもある(p. 13).そしてどうやら著者は思想家としての守田により魅かれているらしい.
著者の文章は,元来簡潔で,論理的である.ところが,守田に言及すると突然抽象的で難解な文章になってしまう.例えば,次のようである.
守田が農法論において問題にしたかったのは,農業とはそもそも根源的に何なのか,その理念なのであった.しかし,当時の議論において,農業の歴史や現状,地域の比較農法は語られても,守田が問いかけた土との取り組みの暮らし(生産=生活)における,人のあり方の理念(生命=「いのち」)が問題にされることはなかった.まさに「すれちがい」がおきていたのである.守田の言う農法とは,工業にみられる対象化した「概念としての技術」ではなく,生産=生活=生命=「いのち」を一体化させて循環させるものであった.(pp. 13~14)
守田に言及すると,守田の文章を引用すると,著者の文章は理解するのが難しくなってしまうのである.
本書を特徴づけるものとして独特な用語(概念)の頻出ということがある.それが本書を魅力的にもし,あるいは理解するのを難しくもしている.以下にそれらを列挙してみる.
心土,心土不二,まわし,ならし,合わせ,在地,外来,在地農法,風土技法,養育技術,狭義の農法,広義の農法,主客合一,主客二分,天然農法,人工農法,天工農法,農藝,農術,農事,天道,天,etc.
一般的な言葉もあれば,著者の造語もある.一般的な言葉であっても独特な意味が付与されており,注意深く読まないと読者は混乱に陥ることになる.
上記のうちとくに重要な概念が「まわし」「ならし」「合わせ」の三つである.著者は近世農書が誕生し展開する「人工農法」の第2段階で「まわし」「ならし」「合わせ」の三つの原理による「日本農法」が形成され,1960年頃まで続くとしている.
日本農法と称するからには「まわし」「ならし」「合わせ」の三つの原理が日本のどこでも貫徹していなければならないはずである.ところが次のように言うのである.
日本農法という場合,私が長年研究してきた奈良県の大和農法と江戸農書からイメージしている.西南暖地の農業であり,東北寒地の場合は違う面のあることを予めお断りしておく(p. 104).
西南暖地にだけあてはまる農法を「日本農法」と称してよいのであろうか.
第Ⅱ部の第一章(「東海地域の農書を読む」)では,東海地域の四つの農書のなかに「まわし」と「合わせ」を原理とする農法を見ようと試みている.
『百姓伝記』(1681~3):「水田・畑ともに「まわし」という表現は見られない」.(p. 138)
『農業家訓記』(1731):「水田・畑とも「まわし」という表現はまだ見られない」.(p. 140)
『農業時の栞』(1785):「「まわし」という表現はやはり使われていない」.(p. 141)
『農稼録』(1859):「手まわし」は使われているが,「「作りまわし」という表現は見られない」.(p. 143)
これが各農書の考察の結果である.ところが最後(「小括」)に「「まわし」と「合わせ」という日本農法の原理は変わらない」と結論付けるのである.首肯しかねるところである.
第Ⅲ部には書評が収録されている.いずれも著者の温かい人柄がにじみ出た書評になっている.批判を主とするのではなく,あくまでもその本が持つ良さに注目しようとしている.拙著(『日本における近代農学の成立と伝統農法』農山漁村文化協会)もその恩恵を受けた一冊である.
また第Ⅲ部では著者が40年の長きにわたり主宰してきた関西農業史研究会への言及がある.当研究会は自由参加で,月1回開催されている.著者(徳永)は若手研究者や在野の研究者に発表の場を与え,その中の優れた研究を本にするために仲介の労を取ってきた.これはかつて飯沼二郎先生が私たちにしてくれた行為と全く同じである.徳永は,機会に恵まれない他者(=隣人)に手を差しのべようとした飯沼二郎先生の精神(=良心)を受け継いでいる.