2022 Volume 58 Issue 1 Pages 56-58
中島紀一氏は,新型コロナ禍の2020年5月に思い立ち,主に茨城大学を定年退官(2012.3)されてからの論文や著作を取りまとめ,著者にとっての集大成的な一著をものにされた.有機農業や自然農法の核となる技術論から市民社会論,思想論まで幅広い領域のポレミークなテーマを考察し,今後の農業や社会のあり方への提案をされている.
元原稿に手を入れられているものもあるとはいえ,時代がかなり大きく変化してきているここ20年間の著者の格闘の軌跡と思われる.査読の厳しい学会誌をはじめとし,研究誌に載せたものをベースにされており,昨今細かなテーマに限局しがちな学会動向の中で,骨太のテーマを真摯にかつ大胆に論じられているその努力と姿勢にまず敬意を評したい.そして世界的なコロナ禍の中でホモ・サピエンスとしての存続のレジリエンスが問われている時代にまさに大事な方向性を指し示す一著といえる.
最初に少し長いが目次と元の出典と年次を紹介しておきたい.第Ⅰ部「自然共生型農業への技術論・農法論 はしがき」,第1章「自然と共にある農業―自然共生型農生態系形成と有機農業・自然農法」(有機農業研究,2018),第2章「関係性の農業技術論へ」(書き下ろし),第3章「無施肥・自然農法の農学論」(秀明自然農法ブックレット,2017),第4章「農業技術論・覚え書き」(山崎農業研究所「耕」2019),第Ⅱ部「家族農業=小農制農業論 はしがき」,第5章「日本とアジア諸国が進むべき道は?」(「耕」2013),第6章「“農業の産業化”こそが問題だ―自給的小農の意義を見つめ直す」(農文協ブックレット,2014),第7章「家族農業と有機農業」(日本有機農業研究会小集会報告,2019),第8章「“農民”という言葉を振り返って―“農民文学”連載コラム」(農民文学,2017–2020),第9章「農本主義ふたたび―家族農業=小農制農業の思想論」(書き下ろし),第Ⅲ部「旧稿再録 はしがき」第10章「除草技術論―最近のパラコート剤問題と除草技術の構造」(消費者問題調査季報,1986),第11章「農村市民社会論―農村市民社会形成へのヴィジョンと条件」(農林業問題研究,2000),第12章「農法論の時代的構図―世紀的転形期における農法の解体・独占・再生」(農業経済研究,2000),第13章「環境農業政策論―環境保全型農業から環境創造型農業へ」(有機農業研究年報,2002)である.
触れられているテーマや切り口,一章に当てられているページ数(6~31ページ)は多岐に渡っており,重なりも必然的に多くなっている.議論したい点は多々あるが,①自然との関係と技術のあり方,②家族農業や小農制という農業に携わる組織や制度の問題,③農本主義や農村市民社会など農を巡る考え方と望ましいあり方へのプロセスについて取り上げてみたい.
まず,タイトルの「自然と共にある農業」は副題の有機農業や自然農法を指しており,それは自然共生型農生態系形成につながり,農業の持続性につながるという主張,そして,戦後の農政が主導した農薬や化学肥料に依存した『人為的技術依存の農業』ではなく『自然力依存の農業』(p. 14)こそが大事なのだという主張は全くそうだと思う.そして成熟期有機農業の技術的特質「低投入・内部循環・自然共生」(p. 18)への期待についても共感できる.「自然と共にある農業」のためにはその地域地域の自然生態系に適う品種や技術があることを,地元の自然農法の浅野さんによる取り組みの紹介から示している.
自然農法の技術論のところで注目を引くのは「無施肥」と「不耕起」である.普通に現代農業技術を習った者にとっては「何を馬鹿なことを」と言われかねない問題であるが,原生林や雑草と言われる草が,無施肥や不耕起で成り立っていること,自然に少しずつ手が加わってきた農耕の歴史からすれば,行き過ぎた現代農業を見直す手立てとしても,さまざまな自然農法論者からの学びに大きな意味があることは事実であり,事例紹介されている「明峯哲夫さんと三浦和彦さんの無施肥・自然農法論」は興味深い.
そこでは自然発酵させたぼかし,完熟堆肥,落ち葉堆肥が土壌の消耗防止や土壌生態系保全のために不可欠の技術であることが指摘されている(p. 72).また伝統的な農法が「苗半作」「土作りの継続」「落ち葉などを長期間熟成させた堆肥や腐葉土の意味」「多肥への警戒」「少肥と作物の健康」「日当たり,風通し,土壌の水分管理などの圃場の環境整備」に意を用いてきた意味を再確認することの重要性も喚起しており,歴史や伝統農法の取り組みから学ぶべきことは多い.
確かに「自然力依存の農業」が望ましい一つの大きな方向であることに異存はない.しかしながらその方向は自然への深い知識や観察と最小限の適切な関与を必要とする.私もかつて以前に農業試験場の技師であった福岡さんや漢方に通じた川口由一さんの圃場を見せてもらったことがあるが,自然への基本的な素養を持った人が取り組んでも容易な農業ではない.
「できるだけ自然に手を加えることを最小限にする農法」の難しさは,ましてやいったんある意味標準化された現代農業にハマったものが取り組むにはかなり大変な転換になろうが,その転換のプロセスについての可能性を多様に示してこそ多くの人の希望になるのではないか.アクティブに現場を回り,大局的に捉えられる著者だからこそ移行期の技術プロセスやポイントについてもぜひ詳しく聞きたいものである.
日本では,「農家とそれが中心となって構成する地域社会の二つの連携で成り立つ農業体制(百姓とムラの農業体制)」,その小農制農業はおよそ800年前ころから形成され,近世期に制度的にも確立し,明治以降もその体制は継続し,農地改革によって歴史的に大きく開花した(pp. 113–114).しかし,「工業と都市が圧倒的に主導する社会の近代化,そして近年のグローバル化が進むなかで,社会的な展開への道がふさがれ,行き詰まりの厳しい局面を迎えているという歴史理解も私の論の独自性だと言えると思う」(p. 114)と述べられ,「産業競争力会議」の規制改革への提言を批判されている.
政府やマスコミをあげての「儲かる農業」への宣伝が,より競争を煽り,農薬や化学肥料を多用する「人為的技術依存の農業」に向かわせ,結果として極少数の農業だけで生計が成り立つファーマー的農家と,農業だけでは自立できない,農地を守るだけの大量の兼業農家を生み出したことは誰もが認めるところであろう.見逃せないところは,この過程で多くの家族農業で家族協業が崩壊し,農に希望を持ちにくい実態に転化してしまったことであろう.
その基本となる現代家族について,著者も「現代の日本社会では「家族の危機」は家族農業の危機以上に深く進行している」(p. 133)と認めている.それでも「農村・農家家族は,…家族の幅広い存在意義が比較的見えやすく継続されている」という.問題はどこに力点を置くかである.家族農業が成り立ちにくくなっているのは,高度経済成長の中で農村でも多様な就業形態が可能となって農業部分が相対的に縮小されたことのみならず,経済的な豊かさが農家にあっても個室などのように家族個々人の自由度の拡大に繋がり,社会の風潮も行き過ぎた個の自立化,家族機能の弱化,人間関係の病の増大等々をもたらした.しかしながら,自分の意見をしっかり持ち,自己責任も取れる西洋的な自己の確立に至ったかというと,よくも悪くも場の雰囲気をよみ,忖度が働いてしまう日本人的特質はほとんど保持したままである.一概に悪いことは言えないが,その中途半端性をどのように乗り越えるかこそが課題であるように思われる.東日本と西日本で家族の共同性の保持の程度は異なるのかもしれないが,家族農業の再興の姿を描くには,それまでバッファー的な役割を果たしてきた家族や地域や同年集団などがあまり機能しなくなってしまった中で,連携や関係性の絆的部分をどのように補っていくかが極めて重要に思える.
「農本主義ふたたび」の書き下ろしの第9章はここだけ読んでも面白い力作だと思われる.著者の言う農本主義とは,「人びとの農業・農村との向き合い方,結びつき方を重視する考え方だという理解の方が大切で,そうした考え方を踏まえてこそ農の新しい時代が開かれていく可能性があるのではないか」という内容に関しては同意できる.しかし,一旦貼り付けられた過去のイメージから開放されて,時代状況を踏まえて未来を展望するには,新しい言葉,例えば農の原点に立ち返る「本来農業」として考えるのもありではないかと思うのである.かつて私たちは持続的農業はどうあるべきかの共同作業の中でこの概念に行き着いた(宇根豊・木内孝・田中進・大原興太郎ほか『本来農業宣言』コモンズ,2009)
「農村市民社会構想」という提示は確かに魅力的である.ただ市民社会の市民は元々,市民革命(ブルジョア革命)によって成立した社会とするなら,市民と言うにはせめて大きな社会や権力に対置しうる存在でありたい.
ところが日本の現実は第二次安倍政権の支配構造の中で,権力を使った不正のみならず,公文書の破棄や改ざんなど国家としてあってはならないことが平然と行われ,それに歯向かえない官僚体制が作られ,野党も効果的な策を打てないのみならず,私も含めて多くの国民はアンケートを取ればそれは良くないと認識していても,何ら効果のある行動はなし得ていないで無力感漂うのみの現状は市民社会といいうるだろうか.覚悟を持って国軍に対置しているミャンマーの国民のほうがよほど未来を考える「市民」らしいのではないか.私たちはかつて農村にも色濃くあった「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」といった行動様式をどこまで相対化できているだろうか?
著者はまた「関係性の技術論」「関係的な農法」「循環論から関係性形成論」など「関係性」という言葉を頻繁に使われている.その内容がよく理解できなかったが,私が「関係性」に関して大事だと思うのは,個人が意見を表明し,相手が全く異なる意見を持っていたとしても,迎合したり,絶交だと極端に走るのではなく,違いは違いとして認めながら「共存」できるかどうかである.「共生」は素敵な言葉ながら利害をともにしない相手を敵とみなしかねない場合がある.
市民としての自己形成に関して.スポーツ界や芸術界などに顕著に見られるようになった世界をリードするような新しい世代の動きがある.彼・彼女らは異質なものとの交わりの中で自己形成している.時代が変わっても人として大事だと思うものにこだわるのは良いとして,できれば若い人たちの次代を切り開くような考えや行動を応援する側に回りたいものである.
以上がつたない評者の感想とコメントである.誤読や理解不足にはご寛恕いただき,是非リプライをお願いしたい.