2023 Volume 59 Issue 1 Pages 19-28
This paper will focus on water resources in the local community, and clarify how to use public wells to rebuild relationships at edge of wells from the perspective of environmental sociology. This paper presents a case study of the public well policy in Matsumoto City, Nagano Prefecture. The findings of this paper are as follows: (1) to create public wells with multifaceted functions that involve various local residents, rather than a single function such as fetching water or wells for preventing disasters; (2) to focus on the meaning that local residents attach to public wells as a place for the local community, rather than the value of water as a resource. Then, local residents will have ownership consciousness of public wells as their commons. The concept of public wells is as a resource for all people. This may seem like a good concept, but the flip side is that it belongs to no one. Public wells that are not managed by local residents and is not their commons is value-neutral and likely to be unattractive for all people. Public wells as commons for local residents have the potential to rebuild relationships among people.
本稿は,地域資源の発掘と持続的利用を考える題材として,地域の水資源をとりあげる.水資源は,都市と農村における混住化の問題と複雑に絡んだ地域資源の典型であり,次にみるような現代的な政策課題を抱えているからだ.
地域にある湧き水や井戸,溜池といった身近な水資源に対して,「防災」と「観光」に関する政策的な期待が高まりつつある.それらは,本来,地域の人びとの生産と生活を支えるローカル・コモンズであるのだが,水を「公共財」として考える傾向が高まり,地域の洗い場が観光客に開放されたり,農村地域の溜池が広く一般市民に開放されるようになっている(秋津,2007;池上,1996).すなわち,地域の水資源はローカル・コモンズからリージョナル・コモンズへと質的に変化しつつあるのだ.
本稿は,これらの現象を読み解く手がかりとして,「公共水場」という新しい政策用語を用いて考えてみたい.「公共水場」とは,すべでの人びとが利用できる水場のことを指す.ヨーロッパ諸国では公共広場に泉がある光景がよく知られているが,我が国でも行政が公共水場の整備に力を入れるようになっている.
国内の現場の動向を探ると,「公共水場」には2種類のパターンがある.
ひとつは,行政によって整備されるケースである.この場合は水場の所有権は行政にあり,駅前広場や公園などの公共空間に設置されることが一般的である.もうひとつは,個人宅にある私有井戸や地域の共同井戸を「公」に開いていくケースである.これは前者と違って,行政に所有権がなく,所有権を持つ住民の協力のもとで誰もが自由に利用できるようにするものである.
このようにみれば,「公共水場」というものは,水場の所有権を行政が保持しているかどうかにかかわらず,水場の利用と管理の実態を捉えていく必要があるだろう.
では,なぜいま行政が「公共水場」整備に力を入れるのだろうか.その契機となっているのが「防災」と「観光」への政策的関心である.
(2) 防災への関心繰り返される大規模災害の教訓から,災害直後の生活用水の確保という課題に対して,国や地方自治体は災害時の避難所や防災拠点となる公共施設に井戸を整備しはじめている.これは「公共井戸」と呼ばれている.
さらに多くの自治体では,公共井戸に加えて,個人宅にある私有井戸や地域の共同井戸を「災害時協力井戸」として登録する制度が広がっている.たとえば,東京都新宿区や京都市などでは,地域別防災マップやホームページ上に災害時協力井戸の場所を記載し,可視化することで広く周知を図っている.これらの井戸は,災害時に利用するため,所有者の日常的な管理は欠かせないものである.
しかしながら,この制度には思わぬ落とし穴があった.行政は,住民が井戸を「公」に開く際には,水質検査を代行したり,管理を肩代わりすることがある.所有者の検査費用や日常的な管理労働の負担軽減と災害時に安心して利用するための配慮によるものだ.これは政策的対応として評価されるものだろう.
けれども,住民はなぜか次第に井戸を利用しなくなったり,管理意識が低下するのか,管理を行政に委ねてしまうようなのだ.その結果,いざというときに水がでなかったり,故障していることに気づかないことも起こりはじめている.なぜこのようなことが起こってしまうのだろうか.この疑問は次にふれる観光の現場でも浮かびあがっている.
(3) 観光への関心国や地方自治体による「名水」の公的選定により,「アクアツーリズム」という新しい観光実践が各地で展開されている.
名水のある地域では,環境省による名水百選などの公的選定を受けると,地域の湧水施設を「公」に公開・開放することになる.しかし,現場では観光客の「まなざし」によって,地元の人びとが水場を利用しなくなったり,観光の是非をめぐって地域は葛藤を抱え込でしまうのである(野田,2013,2014).そこで行政は,住民の生活への配慮と観光客が気兼ねなく利用できるように,公共水場を整備することが増えてきた.これは地元住民の生活と観光を時間的・空間的に分離させることで地域の葛藤を回避する手法とされる(橋本,1999).
ところが,観光用につくられた公共水場なのに観光客は一向に利用せず,閑散としていることが少なくないのである.観光客向けの水場はモニュメントのようで味気なく,どこにでもあるありふれた景観になることで観光地の俗化も懸念され,地域の魅力を失いつつある.
たしかに公共水場を整備することは,一見すると観光客にとって便利で好都合にみえるのだが,観光客の満足を得ることはできないようだ.観光スポットや人びとの憩いの場になるように整備された公共水場であるにもかかわらず,なぜ人びとは利用せず,むしろ地域の魅力を失うことになってしまうのだろうか.ここまで述べてくると,防災と観光という異なるテーマを扱いながらも,共通した政策課題がみえてこよう.
すなわち,防災・観光をめぐる地域の水への政策的期待を受けて,行政は地域の水場を「公=すべての人びとのもの」として位置づけようとしているのである.しかしながら,どういうわけか,すべての人びとに望ましいように整備された公共水場が,結果的に誰もが利用したいと思えるものにはなっていないのである.
そこで本稿は,なぜこのような矛盾が生じてしまうのか,その理由を考えていくことにしたい.そのうえで,どうすれば,すべての人びとが利用しやすく,居心地のよい「公共水場」をつくりあげることができるのかを明らかにしていく.
ここでは,先に述べた「防災」と「観光」の2つの期待が込められた政策として,長野県松本市の公共井戸整備事業をとりあげる.松本市は公共水場整備のトップランナーとして知られているからである.
松本市では中心市街地に段階的に20ヶ所もの公共井戸を整備してきた.その中心は,松本市建設部都市政策課(現在は都市計画課)による「水めぐりの井戸整備事業」である.2006~2009年度に10ヶ所の公共井戸が整備された.それ以外には「街なみ環境整備事業」と「水と緑の空間整備事業」で4ヶ所,松本駅お城口整備事業,松本城整備や文化財整備によって6ヶ所の井戸が整備されている.
さらに「水めぐりの井戸整備事業」には,中心市街地の道路沿いにある既存の個人所有の井戸を「公」にも利用可能にする場合,費用の一部を補助(補助金は事業費の2/3 上限30万円)する井戸修景補助事業があり,11ヶ所の私有井戸が改修されている(2010~2014年度).このように,松本市は行政独自で水場を整備し,かつ私有井戸を公共水場にする取り組みを行っているのである.
公共井戸は,①市民の水汲み場や憩いの場,②災害時の生活用水,③観光資源の3つの役割がある.
公共井戸は誰でも利用できる一方で,管理は基本的には役所内の管理部局が担うが,地元町会と協定を結んで,日常的な管理を住民に任せている井戸もある.
松本市では基本構想2030,第11次基本計画のなかで水場の整備を地域再生につなげる方針を示している.そこでは,「河川や井戸など,市民に身近な水辺を活かした憩いと安らぎの空間の創出が求められています」と現状と課題を示したうえで,「中心市街地において身近で貴重な自然環境である女鳥羽川,薄川などの河川や井戸などを,まちの賑わい創出に繋げ,水辺を活かしたまちづくりに取り組みます」と宣言している.
地域空間において水場は「井戸端会議」という言葉が示すように,人びとの社交場であった.抽象的な言葉が並んでいるが,松本市は,いわゆる「井戸端」の再生を目指しているのである.
けれども,20ヶ所ある公共井戸の利用実態を探ってみると,人びとの社交場のように,にぎやかな井戸とひと気のない井戸に二分されているようである.
(2) 公共水場の誘引力の差ここで2種類の公共井戸を紹介しよう.図1はJR松本駅前の広場にあるデザイン性に優れた「深志の湧水」である.図2は,地域の暮らしに溶け込んだ「鯛萬の井戸」だ.水場の利用者はどちらを魅力的に感じるだろうか.

深志の湧水(筆者撮影)

鯛萬の井戸(筆者撮影)
「深志の湧水」では,駅前という市内屈指の人通りの多い公共空間にあるにもかかわらず,井戸を利用する人はほとんどいない.それに対して,「鯛萬の井戸」では地元住民や観光客のにぎやかな利用がみられる.
地元住民や観光客にとって利用したくなるような魅力のある公共水場とはどのようなものなのだろうか.その理由を探るため,市内の公共井戸のうち,にぎやかな利用がみられる「源智の井戸」,「槻井泉神社の湧水」,「鯛萬の井戸」に注目することにしたい.
これらの井戸には共通点がある.地元住民の日常的な管理が存在していることだ.地元の管理者は毎週のように定期的に井戸や水槽を掃除する.
先に述べたように公共井戸は,基本的には行政が所有権を持っており,ポンプのメンテナンスや改修など大掛かりな管理を担うが,日常的な管理は率先して住民が行っている.
先にみた駅前の「深志の湧水」は地元住民の日常的な管理はみられず,市から指定管理を受けた業者が清掃を行っている.だとするならば,誘引力のある井戸の差異には,なんらかのかたちで地元住民がかかわっていると考えられそうである.
しかしながら,もっとも利用者の多い「源智の井戸」に張り付いて聞きとり調査をしてみると,たんなる水汲み場として人が殺到しているだけで,松本市が目指すような憩いや安らぎの空間とは程遠く,居心地のよさの感じにくい公共空間となっていたのである.
一方,「槻井泉神社の湧水」,「鯛萬の井戸」では,地元住民も観光客も居心地のよさを誇りに思っているほどに,憩いと安らぎの空間として機能していることがみえてきた.
そこで次節では,居心地のよさを感じにくい「源智の井戸」,居心地のよさを感じられる「槻井泉神社の湧水」,「鯛萬の井戸」を掘り下げて,なぜ違いが生じるのか,その理由を考えていこう.
その際に注意すべきことは,所有権の有無にかかわらず,人びとの利用や管理の実態から公共水場の性格を捉えていくことにある.これらの把握は,水場の機能や人びとの水場に対する意味づけの分析につながると考えるからである.
松本市を代表する公共水場として知られる「源智の井戸」は,市内の中心部にある(図3).地元町会である宮村町一丁目町会には83世帯,166人が暮らしている(2022年3月1日時点).

源智の井戸(筆者撮影)
源智の井戸の歴史は古く,松本城下町が形成される以前より人びとの飲用水として利用されてきたといわれている.井戸の所有者は,中世以来この地に居を構えてきた河辺氏と伝えられ,天保年間に小笠原貞慶の家臣であった河辺与三郎佐衛門源智に由来して「源智の井戸」と呼ばれるようになった.
1834年に発行された「善光寺道名所図会」にも記載があり,当時からよく知られた名所であった.
このような歴史的価値が評価され,1967年には松本市特別史跡として文化財指定を受けた.さらに地下水位が低下すると,「井戸を復元し後世に残したい」という請願運動が起こり,1989年に松本市によって地下50mの再掘削と改修が行われた.再掘削後は毎分約200リットルの湧出量を誇る.
それでは,利用実態からみていこう.私たちの研究室で井戸の利用実態を調査したところ,日中の12時間で209人もの利用があった1.
井戸の利用形態は「飲用・手洗い」,「水汲み」,「見学」の3種類である.利用者の大半は水汲みを行い,約3割が県外の観光客による見学,約2割が直接の飲用や手洗いであった.水汲み利用者の属性をみると,7割が市内の利用者で,地元町内の利用者はわずか1割程度である.
「源智の井戸」は,市内の人びとに利用される水汲み場に特化した公共水場といえるだろう.
管理面はやや複雑である.文化財であるため松本市が管理する一方で,日常的な管理は宮村町一丁目町会の有志で結成された「源智の井戸を守る会(以下,守る会)」によって行われている.
守る会は,再掘削後に結成され,当初は早朝から掃除が続けられていたが,会員の高齢化に伴い現在は70~90代の高齢男性5名が月に2回,1時間半ほど水槽内の掃除や周囲のゴミ拾いなどを行っている.井戸から流れ出す水路掃除は,近隣に寮のある松商学園高等学校の学生や高砂商店街の有志が引き受けているが,これらはあくまで補助的な管理とされる.利用実態に比べると,脆弱な管理体制であることは明らかであるが,守る会の懸念は,担い手が減少していること以上に,この水場の性格にある.
この水場は市の文化財として,行政も地元住民も誇りを持っていたはずなのに,それに価値を感じている利用者はほとんどいない.湧きだす水を無料で汲むだけの利用者が増え続け,水場の機能が水汲み場に特化していくことに危機感を持っているのだ.その懸念通りに,利用者はたしかに多いのだが,現場には緊張感のある空気が流れている.利用者のほとんどは,互いに顔を合わせても挨拶や談笑する光景がみられず,ときには競い合って水を汲むような場面もある.利用者は無言で淡々と水を汲み,それを終えたら,さっと帰っていくのだ.
松本市が目指す「井戸端」再生には程遠い状況のようにみえる.利用者がみなそそくさと水場を去っていくのも,居心地のよさが感じられないからであろう.それでは,人びとの社交場になっている水場にはどのような工夫があるのかをみていこう.
(2) 槻井泉神社の湧水「槻井泉神社の湧水」のある清水西町会には155世帯,228人が暮らしている(2022年3月1日時点).
水汲みに来る人の大半は地元町会の住民で,「源智の井戸」のように観光地化されておらず,地域に溶け込んでいることが特徴である.このことがむしろ遠方から訪れる人を惹きつけているようだ.利用者は決まって居心地のよさを誇らしく語ってくれる.
「槻井泉神社の湧水」と御神木の欅は,1967年に文化財指定(松本市特別史跡および特別天然記念物)されている.これらは,法律上は個人所有であるが,文化財でもあるため,市の文化財課が管理を行う.しかし,地元住民の意識のうえでは町会の共有資源であるという.
「槻井泉神社の湧水」は厳密にいえば,水汲み場と地元で「大井戸」と呼ばれる2種類の水場がある(図4,図5).地元町会では古くから「大井戸」を大切にして,日常的な管理を行ってきた.毎朝欠かさず落ち葉掃除をするという91歳の男性によれば,毎日掃除しなければ,訪れる観光客に「恥ずかしい」という思いだと語ってくれた.

槻井泉神社の湧水(筆者撮影)

大井戸(筆者撮影)
法律上の所有権がなくとも,市の文化財であっても,地元住民にとっては,「町会の大井戸」であるという自覚と責任を持って管理されているように感じられる.
水場の利用者は,ほぼ必ず神様に手を合わせる.住民同士で立ち話をしていたり,ある青年はコップを片手にふらりと立ち寄り,ベンチに座って読書をしたり,それぞれがこの場を楽しんでいる.この空間にとって水場はあくまで居心地のよさをかたちづくる要素のひとつでしかないようだ.
この居心地のよさを紐解くうえで欠かせないのは,地元町会である清水西町会の存在である.大井戸や湧水の定期的な掃除はコロナ禍以前には町会の長寿会(老人会)や町会役員が担ってきたが,現在は有志による掃除に切り替えている.
驚くことに,この町会では,町会内に文化部があり,「区民だより(町会の広報紙)」を1962年より現在まで61年も欠かさず発行している.
「区民だより」を参照すると,御神木である欅があり,水神が祀られ,湧水があって,公民館が併設するこの空間一帯が地域のシンボル的な場所であり,人びとの精神的な拠り所であり続けていることがよく理解できる.
「槻井泉神社の湧水」の改修は,町会にとって長年の懸案事項であったようだ.大井戸の水が冬になると枯れることが続いていたからである.1990年から2004年にかけて,市に要望書を提出するなど調整と改修を続けていたことが「区民だより」で逐一報告されている.この「井戸端」が人びとにとっていかに大切なのかを訴え続けているかのようである.
「槻井泉神社の湧水」の居心地のよさとは,地元町会による歴史的な働きかけの積み重ねのうえに形成されたものといえるだろう.
(3) 鯛萬の井戸「鯛萬の井戸」のある下横田町会には210世帯,357人が暮らしている(2022年3月1日時点).この井戸も人びとの社交場になっている.コロナ禍以前には,住民同士はもちろん,地元住民と観光客が語らう光景がよくみられた.
この井戸は,2003年に「街なみ環境整備事業」によって公園とともに整備され,地元町会と協定を結んで日常的な管理は町会に任せているという.ただ,実際には町会として管理を担うことはなかった.
井戸が整備され,協定を結んだ当初は,町会として持ち回りで掃除をすることにしたが,それは続かなかった.それでは無責任ではないかと,井戸の隣に実家のある男性が毎週土曜朝4時半から一人で掃除を続けることになった.このことは町内でもほとんど認識されていなかった.その5年後に掃除する姿を知った町会の男性が加わり,さらに6年後に掃除をする2人の姿をみた別の町会の男性が管理に加わっている.
この水場の居心地のよさを支えるのは3人の管理者の掃除に対する規範意識にある.管理者によれば,井戸掃除とは,「水を守ること以上に人を守ること」だと話してくれた.言うまでもなく湧き水は飲み水であるから,藻が生えないように水槽内を衛生的に保つ必要があるが,藻を放置していると水槽の周りも滑りやすくなる.水を汲む際に足を滑らせれば事故にもつながりかねない.万が一のことがあれば,市と協定を結んでいる町会の責任も問われることになる.毎週の井戸掃除とは一時の善意や義務感で続けられるようなものではないのだ.
見逃せないことは,町会の有志に加え,別の町会の住民も加わっているが,それでも意識のうえでは地元の「町会の井戸」と認識されていることだ.
調査も終盤に差し掛かった頃,親子連れが水遊びに訪れていた.すると,小さな子どもが水槽の端に登りはじめた.石板には水がかかっていて足を滑らせないかと,思わずヒヤリとした.その瞬間に管理者と顔を見合わせると,「滑らないように掃除していますから」と自信を持って微笑む姿があった.
そのときに大切なことを教わったように感じた.井戸掃除とは,「人の命を預かっていること」と同義であるということなのだ.そして,このような認識を持っていなければ憩いの場の掃除は成り立たないということなのであろう.
井戸掃除というと,ただ労働力として人員を補充すれば事足りるのではないかと考えがちだが,それでは不十分であるのだ.憩い場として水場を維持するのは容易いことではない.けれども,子どもたちが安心して遊ぶことができ,誰もが居心地よく過ごすことのできる「鯛萬の井戸」を支えているのは,井戸掃除を担う管理者の規範意識にあるといえるだろう.
「槻井泉神社の湧水」と「鯛萬の井戸」は,市の管理下にありながら,人びとの意識のうえではあくまで「町会の井戸」なのであり,人びとの憩いの場になるように掃除を含めたさまざまな働きかけの結果として,すべての人びとにとって居心地のよい空間となっているのである.
(4) 公共水場の居心地のよさの正体ここまで3つの公共水場をとりあげて居心地のよさに違いが生じる理由を水場の利用と管理の実態に注目して考えてきた.
それぞれの水場の利用実態からみえてきたのは,水場の機能や性格である.
「源智の井戸」は,現在は水汲み場という単一の機能に特化した水場となっている.それに対して,「槻井泉神社の湧水」と「鯛萬の井戸」では,水汲みという機能に限らず,参拝ができ,近所の人との語らいの場となり,読書を楽しみ,子どもの遊び場であったり,人びとの社交場になっていた.いわば多機能型の水場といえる.すなわち,ひとつ目の差異は,水場の機能性の違いにある.特定の機能だけを備えるだけでは,人びとがかかわり,つながるような空間にはなりくにいといえるだろう.
次に管理の実態を振り返ってみよう.「源智の井戸」と「槻井泉神社の湧水」では,地元町会を母体として日常的な管理が続けられてきた.その一方で,「鯛萬の井戸」では,地元町会の関与は弱く,3名の有志による管理に支えられていた.その共通点は,法的な所有権はなくとも,管理を担う人びとや町会組織が「所有意識」を持って対象に働き続けていることであった.「源智の井戸」では,その意識がないわけではないが,水汲み場に特化するなかで弱まってきたようであった.すなわち,2つ目の差異は,地元住民の水場に対する所有意識の濃淡にあるといえるだろう.
では,地元住民が水場に対して所有意識を持つことでどのような効果があるのだろうか.
地元住民が水場に対して所有意識を持つことの政策的な意味を考えてみよう.
それは,所有意識を持って公共水場に掃除という働きかけを続けると,その行為の積み重ねの結果として,管理者である地元住民や町会組織にある種の権利を生じさせるということだ.
ここでいう権利とは,法的な権利ではない.繰り返しになるが,管理者は所有権を持っているわけではない.しかし,それでもある種の権利としか呼べないような能力を持っていると考えられる.
説明しよう.「所有」というものは,2種類にわけることができる.まずひとつは,法的な所有権のことである.その本質を端的に述べれば,「契約関係」にあるといえる.土地の所有権のように,法的な契約を結ぶことで私たちは,所有する権利を保持していることを法的に示すことができるようになる.私たちの頭に真っ先に浮かぶ所有のあり方はこの法的な権利のことを指しているであろう.
その一方で,私たちのありふれた生活のなかには,法的な所有権とは異なる所有のあり方が存在している.この所有のあり方は「社会関係」にポイントをおいたものだ.あるモノを所有しているかどうかは,法的な契約の有無ではなく,その人がモノへどのような働きかけを行っているかどうかで私たちは判断している,というものである.
ここで例をあげよう.大学の教室や食堂,会議室を思い浮かべてみよう.教室や会議室でいつも同じ席に座ったりすることはないだろうか.そして,その席に別の人が座っていると,戸惑ってしまうことはないだろうか.逆に,ここはあの人が座る席だと認識されていることはないだろうか.
大学での授業の際には,少教室でも大教室でも学生の多くは不思議といつもと同じ席に座ることがある.教室はあくまで自由席なのに,である.
にもかかわらず,いつも同じ席に座るといつの間にかその人の指定席のように周囲も認識していることがある.法的な所有権は持っていないのに,その席に絶えず座るという座席への働きかけを通して,あたかもその座席の所有権を持っているかのように本人も周囲の人たちも感じてしまうのである.
すなわち,所有とは,モノへの働きかけであると同時に,周囲の人びとへの働きかけでもあるのだ(藤村,1996).
したがって,地元住民が「町会の井戸」という気持ちを持って日常的に井戸を管理すると,周囲の住民も観光客も,それらの管理者の人たちがなんらかの権利をもっているように認識するようになる.
ここでいう権利とは次のようなものを指す.松本市の公共井戸は原則的に行政に法的な所有権があるため,井戸の改修や処分する権利は行政にある.しかし,だからといって行政が独断で井戸の改修や取り壊しを決めることは現実的にはありえない.日常的な管理を担う町会や管理者の意向を無視できないからだ.つまり,「所有意識」を持って井戸を管理し続ける行為の積み重ねが,法的な所有権を相対化させることにもなっているのである.その意味で,管理者である地元住民はやはりある種の権利を持っているといえるのである.そして,この権利は周囲の人たちから認められてはじめて,生成される権利と言い換えることもできる.
このような権利を「法的権利」との違いを明確にするため,ここでは「社会的権利」と呼んでおきたい.環境社会学や地域社会学ではこれを「共同占有権」と呼び,その政策的有効性を見出してきた2(鳥越,1997).
行政側もこれを権利の水準で認識していなくとも,住民の参画や関与に有効性のあることを経験的に理解している.しかし,この有効性があるのは,住民がかかわることにあるのではなく,住民のかかわりの結果として,地元住民に「社会的権利」が生じることにこそあるといえるのである.地元住民の「所有意識」やその意識が生じさせる「社会的権利」にまで理解を深めていくことがこれからの政策の良し悪しを左右させるはずであろう.
(2) 公共水場の機能性と所有意識の濃淡ここまで長野県松本市の公共水場である「鯛萬の井戸」,「源智の井戸」,「槻井泉神社の湧水」を分析してきた.駅前にある「深志の井戸」を含めて4つの公共水場を扱ったことになる.
ここまで議論したことをまとめると,図6に示すことができる.

公共水場を「井戸端」にするための関係図
松本市の公共水場において,居心地のよさに違いが生じた理由は2つあった.すなわち,水場の機能や性格と水場に対する人びとの「所有意識」の濃淡である.この2つを座標軸にすると,4つの水場をそれぞれの象限に配置することができる.
縦軸は,水場の機能面に注目し,多様な人びとのかかわりしろとなる多面的機能を備えているか,それとも,水汲み場や防災井戸のように単機能に特化したものなのかをあらわしている.前者は水の資源的価値以上に地域空間としての水場に対する人びとの意味づけに重きをおいたもので,後者は,水の資源としての価値に重きをおいたものと言い換えることができるであろう.
横軸は,水場をめぐる権利のあり方に注目し,その水場が人びとにどのような空間と認識されているのかをあらわしたものだ.右端へ向かうベクトルでは,管理者の所有意識が強く,水場の法的な所有権は意識されず,働きかける地元住民の「社会的権利」が周囲にも認められた状態を指している.一方,左端に向かうベクトルでは,管理者の所有意識が弱く,「社会的権利」が認識されにくい状況下では,その場の法的な所有権が強く意識されることになる.
松本市が目指す公共水場とは,第1象限の水場にあたるであろう.水汲み場のような特定の機能に特化することなく,地元住民の社交場,住民と観光客の語らいの場,子どもの遊び場や人びと精神的な拠り所となっており,まさに「井戸端」のような多面的機能を備えていることがわかるだろう.
これらの水場は,地元住民による日常的な管理に支えられているが,所有意識を持つと,「鯛萬の井戸」のように規範意識が芽生えることになる.それはどのような水場にしたいのか,地元住民の価値観や志向性を伴うものだ.
「鯛萬の井戸」では「人の命を預かっていること」という管理者の規範意識があるからこそ親子連れが安心できる「憩いの場」になっていたのである.水場の居心地のよさは,管理者の規範意識にあることは明らかで,行政にも周囲の利用者にも社会的権利が認められていたといえるだろう.
第2象限は,多面的機能を備えながらも,住民の関与が弱く,法的な所有権が強く意識される水場のことである.たとえば,行政が整備する親水公園はその典型である.親水公園では,湧き水が利用できたり,子どもの遊び場があったり,たしかに多様な機能がみられるが,一般的に地元住民の関与はみられず,「公」の空間として法的な所有が強く認識されることになる.
第3象限は,地元住民の関与もなく,水の資源的価値に特化した水場のことである.「深志の井戸」が該当し,モニュメント型の観光資源や各地で広くみられる行政管理型の水汲み場のことを指す.単一の機能に特化することが特徴であり,災害時協力井戸もこれに該当する.
第4象限は,管理者の「所有意識」があり,「社会的権利」が部分的に認識されていたとしても,水場の機能が水汲み場に特化していくことで,「憩いの場」とは離れてしまう水場のことである.「源智の井戸」がこれに該当する.
「源智の井戸」では,かつては地元住民の「憩いの場」になるように,ベンチを置いていたこともあったが,利用者が殺到してゴミが散乱したり,深夜まで騒がしくなることがあり,ベンチは撤去された.その結果,地元住民は用事がなければ立ち寄りにくい空間となってしまった.水の資源的価値に特化した水汲み場に変化するなかで,かれらの所有意識は弱まり,社会的権利が周囲に認識されにくい状況になってしまったのである.
このように図式化すれば,井戸端の再生へ向けた政策論としては,第1象限の「憩いの場」を目指すにはどうすればよいのかを考えていくことになろう.
第3象限にある「深志の井戸」は水場の多面的機能の充実化と住民の所有意識の濃度を高める仕掛けが必要となろう.JR松本駅周辺には住宅街がないものの,駅周辺には複数の商店街があり,飲食店店主や商店会の人びとが担い手候補になるだろう.飲食店で提供される水は,近くの水場の湧き水であることが多く,まずは「深志の井戸」の水を広く利用してもらうことからはじめるとよいだろう.やがて井戸の利用に対して感謝の気持ちを抱き,管理を申し出る店主がでてくる可能性があると考えるからである3.
第4象限の「源智の井戸」は,水汲み場という単機能特化型から地元町会や守る会の人びとがどのような水場にしたいのか,人びとの価値観や志向性をふまえつつ,かれらの暮らしを充実させる機能を盛り込んでいくことになるであろう.地元とって「源智の井戸」は,文化財として誇らしいもので,小さな祠もあって地元町会にとっての中心的な存在であった.そのような空間を取り戻すことができれば,「憩いの場」につながっていくのではないだろうか.このことは,地域空間として水汲み場以上の価値を高めることになり,利用者や観光客にも歓迎されるはずである.
本稿は,長野県松本市の公共水場をとりあげて,どうすればすべての人びとが利用しやすく,居心地のよい公共水場をつくりあげることができるのかを考えてきた.そのための道筋としては,2つのベクトルが存在することが明らかになった.
ひとつは,水汲みや防災といった単一の機能ではなく,多様な人びとのかかわりしろとなる多面的機能を帯びた水場をつくりあげることである.
もうひとつは,水の資源的価値以上に地域空間としての水場に対する人びとの意味づけに重きをおくことである.そのことが地元住民の「所有意識」を育み,「社会的権利」の生成につながっていくことを論じてきた.
冒頭に述べたように,地域の水資源に対する政策的な期待が高まっている.それは,ともすれば,「防災」と「観光」という単一の機能を公共水場に押しつけかねない側面があることもみえてきた.
本来,水場は「井戸端」と呼ばれるように,地元の人びとの社交場であり,多面的機能を備えた地域空間であった.しかし,現在の政策にみられる水場の単機能化は,担い手のかかわりしろを奪い,人びとのつながりの再生を遠ざけるものといえるだろう.
近年,地域空間を「公」・「共」・「私」と区分する発想が社会科学や行政機関のなかでみられるようになってきた.「公」とは国や地方自治体が所有・管理する空間であり,「共」は地元コミュニティなど地元住民が共同で所有(占有)したり,管理する空間を指す.この領域はコモンズとも呼ばれている.「私」は住民個人や民間企業などが私的に所有・管理する空間のことである.
このなかで政策的にはとくに「共」への関心が高まりつつある.地元コミュニティや住民の主体的な管理のもと行われているまちづくりや環境保全活動は有効性が高いことが広く認識されるようになっているからだ.
公共水場のある空間は,この三分類のなかでは「公」に属するものと考えられる.しかし,驚くことは,人びとの社交場になっていた水場では,法的な所有権を保持していなくとも,地元町会や有志の住民が「所有意識」を持って水場空間を占有し,日常的に管理することで,誰もが居心地のよい空間になっていたことである.
すなわち,「公」の空間に「共」が立ち現れることで,結果的にすべての人びとにとって憩いと安らぎの空間となっていたのである.「公」と「共」の空間が重なりあっている結果として,「憩いの場」の実現や人びとがつながる「井戸端」の再生に結びつくのではないだろうか.
公共水場のコンセプトとは,「公=すべての人びとのもの」ということである.なんとも耳あたりのよい言葉であるが,裏を返せば「誰のものでもない」ということである.ひと気のない水場は,地元住民の関与がなく,誰のものでもないから価値中立的で味気ないのである.
本稿は,地域資源の発掘と持続的利用を考える題材として地域の水資源をとりあげ,公共水場を「井戸端」にする方法を明らかにした.
本研究は,公益財団法人河川財団の河川基金および公益財団法人クリタ水・環境科学振興財団の助成を受けた研究成果の一部である.