Yearbook of Asian Affairs
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2012 Volume 2012 Pages 439-464

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2011年のバングラデシュ 憲法第15次改正で再選への布石

概況

2011年,5年任期の3年目を迎えたシェイク・ハシナ首相率いるアワミ連盟(AL)主導連立政権は,第15次憲法改正を通じて,1996年以来の国会総選挙実施の枠組みであった非政党選挙管理内閣制度の廃止を決定した。この問題を中心に,主要野党であるバングラデシュ民族主義党(BNP)は,2010年には3回しか行わなかったハルタル(ゼネスト)を,2011年には少なくとも6回,全国規模で実施した。ハシナ政権に対する国民の評価は厳しさを増しており,全国の市議会選挙や国会補欠選挙の結果からも,BNPが前回の総選挙での大敗北から徐々に党勢を回復しつつあることがうかがわれた。

経済では,世界経済の回復を受けた対外部門の伸びと農業の堅調によって2010/11年度のGDP成長率は6.7%と過去最高となった。ただし,インフレ率も前年同期比で同じく最高の上昇率を記録した。

ハシナ政権は近隣外交を積極的に展開している。9月には,2010年1月のハシナ首相のインド訪問への返礼として,マンモハン・シン首相がインドの首相としては12年ぶりにバングラデシュを公式訪問した。両国ともに高い期待をもって迎えた訪問であったが,直前になって変わったインド側の事情で,二国間の中心的懸案事項である河川問題やトランジット問題の解決は,持ち越されることになった。

国内政治

ハシナ政権3年目の評価

2011年,ハシナ政権成立3年目を国民はどう評価したか,有力英字紙『デイリー・スター』が政権誕生後定期的に実施している世論調査の結果からみてみよう。2008年12月の総選挙で,300議席中230議席と圧倒的勝利を収めた当時から比べると,ALへの支持は明らかに後退し,他方,同選挙では29議席と無残な結果に終わったBNPは支持を回復している。2011年12月の段階でどの政党に投票するかという質問に対して,ALに投票すると答えた回答者は40%,BNP は37%であった。同じ質問に対する過去の結果では,ALへの支持率は40%前後で変化していないのに対して,BNPの場合2年目終了時点の22%から大幅に伸びた。これは浮動票がBNPに流れたものである。また,リーダーシップへの評価は,ハシナ首相のパフォーマンスについて,「満足・大変満足」が1年前の過半数(53%)を超えていた状況から今回は39.4%まで下落し,他方「不満足・大変不満足」回答が27%から42.1%に増えた。一方,カレダ・ジアBNP総裁への満足度はほぼ30%と変わらなかったが,不満足度が35%から30%まで低下したことが注目される。以下,首相と政権に対し厳しい評価が下された2011年の内政を回顧する。

市議会選挙,補欠選挙,ユニオン議会選挙

1月12日から18日までに実施された全国242の市議会議員および市長選挙は, 2年間のハシナ政権のパフォーマンスを踏まえ,与野党の勢力図を占う選挙として注目された。投票未了等の理由で結果が公表されなかった市を除く236の市長選挙結果を見る限りでは,BNP候補が92人,AL候補が88人当選した。これは,地方都市レベルでBNPが勢力を回復しつつあることを示す結果となった。また,ALの場合には「公認」を受けられず,しかし党の指令に従わず出馬した「反乱者」の当選が多かった(22人,BNPは11人)と伝えられている。中央と地方の間に政治的な読みや思惑にずれが存在し,それが結果的にマイナスに働いた。同様の状況は,後述するナラヨンゴンジ市長選挙の場合にもみられた。

1月27日には,AL議員の死去にともない空席となっていたハビゴンジとブラフモンバリアの2カ所の選挙区で国会議員補欠選挙と,12の市議会議員・市長選挙が実施された。補欠選挙では過去4回ALが議席を保持してきたハビゴンジ1区で,BNPが僅差で勝利した。ALの敗因は,候補者選びに失敗したためとみられている。選挙監視団体らは,補欠選挙はおおむね自由公正だったと評価している。ハビゴンジ1区の結果について,ハシナ首相は,「議席は失ったが,政権が自由公正に選挙を実施したことを示すことができたという意味で,政権および党にとっては政治的勝利だった」と述べた。市長選挙では12市のうち,ALが6人,BNPが3人を当選させた。

3月末から4月初めと,5月末から7月初めの2期に分けて,全国のユニオン(行政村)議会選挙が実施された。ALは,上述の市議会議員・市長選挙で党の公認候補を立てた結果,支持者間に内紛が生じたことを踏まえ,ユニオン議会選挙では公認を立てないことを決定した。前回2003年のユニオン議会選挙では,80人を超す死者がでたが,今回は若干の例外をのぞいて,全般的には平穏に完了した。

非政党選挙管理内閣制度に関する最高裁判決

2011年は,憲法に大きな変更が加えられた年となった。発端は,2010年2月,最高裁が憲法第5次改正について違憲判断を下したことである。憲法第5次改正は1979年,当時のジアウル・ラフマンBNP政権により,ムジブル・ラフマン大統領暗殺後,戒厳令政権(ムジブル・ラフマン暗殺の1975年8月15日以後1979年4月9日まで。ほとんどの期間はジアウル・ラフマンの戒厳令政権)による憲法を含むすべての法律改正や行動を合法化したものである。変更された条文のなかには,セキュラリズム(政教分離主義)の削除,宗教政党の活動許可など,1972年憲法にあった国家の基本原則に関わるものが含まれていた。同訴訟は,元々は戒厳令下で接収された資産の回復を目的に個人が起こしたものであったが,2005年8月に高裁が,超憲法的な手段による権力の掌握は違憲であるとの判断を下した。それに対し,BNPのコンドカル・デルワール・ホセイン幹事長が控訴していたが,最高裁は高裁判決を支持した。その最高裁判決を受けて,新たな憲法の枠組みを制定するために,2010年7月に超党派の国会議員特別委員会が設置された。なおBNPは,同委員会設置に反対し参加しなかった。特別委員会は2011年4月には素案をまとめ,政党(BNPは拒否),司法・法曹界,有識者,ジャーナリストなどとの対話の機会をもった。その時点で議論になっていたのは,イスラーム教の国教としての位置づけ,非政党選挙管理内閣制度の問題点などであったが,首相や与党の中にも,同制度廃止という提案は出ていなかった。

ところが5月10日,今度は最高裁が,非政党選挙管理内閣制度を定めた第13次憲法改正に違憲判決を下したことから,事態は大きく変わった。この裁判は2000年に出された公益訴訟であるが,2004年8月4日に高裁が合憲判決を下したあと,最高裁に控訴されていたものである。

バングラデシュにおける非政党選挙管理内閣制度は,エルシャド政権を退陣に追い込んだ民主化運動後に行われた1991年2月の国会選挙をひな形に,1996年の第13次憲法改正によって制度化された。この制度は,政党政権の下では自由公正な選挙が実施できなかったという過去の経緯から編み出されたものである。任期満了あるいは国会解散後,通常直近に退任した最高裁長官が首相にあたる首席顧問に就任し,閣僚に相当する顧問とともに,90日以内に総選挙を実施するという制度である。この制度の下で1996年,2001年,2008年と3回の総選挙が実施され,選挙のたびごとに与野党が交代するという結果を残してきた。すなわち,この制度が導入されて以来,2期続けて勝利したケースはないのである。

与党が,首席顧問になりうる最高裁長官の人事に政治的介入を始めたのは2001年総選挙前,AL政権期のことである。ただし当時の最高裁長官は,首席顧問就任後,選挙行政の中立性を確保し,制度に対する国民の信頼を維持した。しかし,2006年総選挙時には,BNP主導政権は事前に最高裁長官の定年を延長し,自党寄りの最高裁長官を首席顧問にしようと図るなど,より露骨な介入を行った。ところが,野党からの強い批判のために,同最高裁長官は首席顧問への就任を辞退した。次に与党寄りの大統領が首席顧問を兼任しようとして,内外からの大反発に直面した。その後成立した選挙管理内閣は,軍の後援の下で,2年間の非常事態を宣言し,政党内の民主化,汚職追放などに取り組んだ。しかし目的は達成できないまま,2008年の総選挙でハシナ総裁率いるALが圧勝したという経緯がある。3度の選挙を通じて共通していたのは,勝者はこの制度の下で自由公正な選挙が行われたと評価したのに対し,敗者は制度の欠陥を問題視したことである。

2011年5月10日の最高裁判決は,第13次憲法改正は違憲としたうえで,「国家と国民の安全」のためには,今後2回の総選挙は同制度の下で行うこととし,加えて,元最高裁長官や最高裁判事が首席顧問に選出されないよう憲法改正を国会に求めた。BNPは,翌11日に,非政党選挙管理内閣の下で次回の総選挙が実施されない限り選挙には参加しないとの立場を表明した。他方,ハシナ首相は特別委員会に対して最高裁判決を踏まえて最終報告書を作成するよう指示した。ここで新たな課題となったのが,今後2回の選挙の方法である。特別委員会内では,パキスタン型の選挙管理内閣制度(内閣の解散と同時に,首相および野党指導者と協議のうえで,大統領が選挙管理内閣の首相と閣僚を選任)も検討された。

しかしハシナ首相は,5月30日,今後2回は選挙管理内閣制度の下での総選挙を実施するという特別委員会の提案を却下した。首相は最高裁の判決の中で,選挙管理内閣制度は違憲という「判決」を尊重するとし,あと2回の選挙方法に関する最高裁の「見解」は副次的なものに過ぎないと述べた。新聞報道によれば,首相は当初,選挙管理内閣制度存続を考えていたが,BNPの頑なな対決姿勢に態度を硬化させたといわれる。

これに対して,BNPは話し合いの余地はないとして,政府がもし選挙管理内閣制度を廃止するという計画を進めるならば,より激しい運動を展開すると発表した。6月5日には,BNP,イスラーム協会(JI)の呼びかけによる12時間ハルタルが全国で実施された。BNPを中心とする4政党連合のほかの政党もこれを支持した。2008年12月の総選挙で敗北を喫して以来,4政党連合が同時的な反政府行動を実施するのはこれが初めてである。かつて非政党選挙管理内閣制度設置を推進したのはALで,当時政権の座にいたBNPは当初これに強く反対していた。それから15年を経て,立場が逆転したことになる。

全般的には,現時点で非政党選挙管理内閣制度を一切廃止してしまうのは時期尚早であるという見方が大勢を占めるなかで,バングラデシュ商工会議所連盟(FBCCI)に代表される経済界は,次期の総選挙は非政党選挙管理内閣ではなく,政党政府であっても強力な選挙管理委員会の下で実施することを支持するという声明を出した。経済界が非政党選挙管理内閣制度に反対するのは,汚職や脱税を厳しく追及し,多数の経済人を逮捕するなど厳しい対応を取った前選挙管理内閣のような暫定内閣の再現を懸念するためである。

第15次憲法改正

6月25日,選挙管理内閣制度廃止を含む第15次憲法改正法案が,国会に上程された。BNPは3月に国会に1度出席したが,それは90日以上の連続欠席により国会議員の議席が無効化されるのを防ぐためで,その後も国会ボイコットを続けていた。6月には,5日に続いて12日にも36時間ハルタルを呼び掛けた。ハシナ首相は,BNPは国会で選挙管理内閣を存続させる法案を提出すべきと述べたが,国会保有議席数に照らせば,法案成立がほぼ不可能なことは明らかだった。

6月30日,国会はBNP欠席のまま,賛成291票,反対1票(唯一の無所属議員の票)で第15次憲法改正を可決した。憲法改正のおもな要点は次のとおりである。(1)国会総選挙は政党政府の下で実施,(2)国会任期満了より90日前から任期満了までの間に総選挙実施,(3)「セキュラリズム」と「ベンガリ民族主義」(ベンガル人民族主義)の用語を復活,ただし国籍の名称は「バングラデシ」(バングラデシュ人)とする,(4)「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において/慈愛深き創造主の御名において」(Bismillahir Rahmanir Rahim)の文言と国教としてのイスラーム教の位置づけを維持,(5)軍による国家権力の掌握と憲法停止を,極刑を含む厳しい処罰に処する,(6)憲法前文やいくつかの条文(たとえば,新たに導入された全政府機関事務所には国父ムジブル・ラフマンの肖像を掲示するなど)について将来的な変更禁止,(7)選挙管理委員会の機能強化(選挙に関する紛争が生じた場合,裁判所は判決を下す前に選挙管理委員会の見解を聞かねばならない),(8)女性留保議席を現行の45議席から50議席に増加,(9)戦争犯罪裁判の位置づけ強化(1971年に軍あるいは準軍機関に属していなかった容疑者に対する訴追の合法性については,いかなる法廷においても問われない),(10)国会議員が所属政党の決定に反して投票した場合,議席を失うという条文に,党の決定に従いたくない場合には投票を棄権することができるとの条項を加えた,(11)非常事態の期間は最大120日とする,(12)環境と野生動物の保護,またトライブ,少数民族などの固有な地方文化と伝統の保護と発展に関する条文が,新たに加えられた。

法案審議の過程で,選挙実施のため与野党から成る暫定内閣の設置などの提案も出されたが,発声投票によって否決された。労働者党,民族社会主義党などALが連立を組んでいる左派系の政党は,イスラーム教の位置づけなど,いくつかの条文については反対し,当初投票棄権を考えたが,AL議員の説得で可決に回った。なお,第5次憲法改正の無効化で復活した憲法第38条は,宗教政党の結成と活動を禁じていたが,今回の第15次改正を通じてイスラーム政党の存続は保証されることになった。

憲法改正後の政局

憲法改正に対しては,さまざまな団体がさまざまな理由から抗議した。BNPのジア総裁は,自由公正,中立的で競争的な選挙実施は不可能になったとし,政治的対決は避けられないと記者会見で述べた。また,有識者からは,性急に選挙管理内閣制度廃止を決めた政府の意図を問題視する声が多かった。エスニック・マイノリティからは,「先住民族」はすべて「ベンガリ」にされ,彼らの民族的アイデンティティと権利が無視されたと強い批判があった。イスラーム団体からも,憲法前文から「アッラー」の文字が削除されたとの非難が出された。

BNPを含む4政党連合は,7月2日にあらためて同時並行的な反政府行動を展開することで合意し,7月6~7日には,現ハシナ政権誕生以来,最長となる48時間ハルタルを実施した。またBNPは,ジア総裁長男タレク・ラフマンを中心とした若手グループとの対立から離党したボドルドッザ・チョードリ元大統領(政党「バングラデシュ代替的潮流」主宰)や,オリ・アーマド(自由民主党党首)などBNP創立当時の幹部に接触し,共闘を呼び掛けた。

この間,ジア総裁や長男タレク(非常事態下の2007年3月に汚職容疑で逮捕された。2008年9月に保釈され,治療を受けるという理由で今もロンドン在住)に対し,あらたな汚職や刑事事件(2004年8月のAL集会爆弾事件)での訴追が行われた。政権は,法的手続きは政治とは独立した動きであると説明しているが,BNP側は総裁家族を狙い撃ちしたものと受け止めた。BNPの同盟政党であるJIの場合は,2010年3月に現政権が設立した独立戦争時の戦争犯罪を裁く「国際戦争犯罪法廷」に関し,最高幹部ら5人が逮捕されている。党としての大々的な活動はとりにくいが,党員,支持者らの不満や不安は高まっていたとみられる。2011年9月27日の4政党連合の集会は,現政権下では最大の参加者を動員した集会となった。ジア総裁は,選挙管理内閣制度の復活を主張し,3回のロードマーチと5県での集会開催を表明した。なお,BNPの街頭行動に対抗して選挙管理内閣制度廃止への支持を獲得するため,ALも地方キャンペーンを開始した。

ナラヨンゴンジ市長選挙

10月30日,特別市(city corporation)昇格後,初の選挙がナラヨンゴンジで実施され,ALのセリナ・ハヤット・アイビーが,女性としては初めて,特別市市長に選出された。

BNPの候補は最初から決まっていたのに対し,ALについては,ナラヨンゴンジ党支部副会長アイビーと前県支部幹事長シャミム・オスマンが,党の公認をめぐって最後まで争った。アイビーは,2003年から2011年までナラヨンゴンジ市長を2期務め,地域の問題解決に取り組んだ姿勢が有権者から高く評価されていた。他方,オスマンは,犯罪の世界との関わりが強い地元のゴッドファーザーとして知られていた。ただしハシナ首相を一貫して支援してきたということで首相の信頼が厚い人物である。公認決定にあたっては,最初どちらにも肩入れしないという決定がなされたが,その後アイビーを候補とするかわりにオスマンには県支部長と副大臣のポストを提供するといった案がハシナ首相から提示されたが後者が納得せず,決定は二転三転し,最終的にオスマンが公認候補となった。しかしアイビーは立候補を撤回せず,ALからは2人が出馬することになった。

選挙当日の未明,投票の直前になってBNP候補が立候補を取り下げた。後に判明したのは,候補者の意向を無視して党決定が下されたためであった。BNPは,AL候補を敗北させるためにアイビー支持に回るという,2010年のチタゴン市長選挙の時と同じ戦術をとったのである。結果は,アイビーが18万48票と,オスマンの7万8705票に10万以上の大差をつけて当選した。直前に立候補を取り下げたBNP候補にも7616票が投じられている。投票所では女性や若者の姿が多くみられ,投票率は約70%と,選挙への高い関心が示された。

ナラヨンゴンジ選挙は,いくつかの点で新しい展開がみられた選挙である。第1は,選挙運動の方法である。批判の応酬による泥仕合や,候補者の名前などの壁書き中心の従来のやり方から,有権者の戸口訪問やインターネット,ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を駆使した選挙運動に変わってきた。

第2に,電子投票機(EVM)の利用である。EVMはすでに2010年チタゴン市議会・市長選挙の際に, 2万5000人の有権者を対象に限定的に使用されたことがある。今回は全有権者40万人の内の14万8000人に対し,59の投票所で用いられた。ナラヨンゴンジ有権者700人に対して,ある選挙監視団が行った調査によれば,EVMに信頼感(投票がきちんとなされる)を感じた人は投票前の51%から投票後には82%まで増加したという。ただしBNPも含め,EVM 利用に対する反対意見もまだ根強い。

第3に,今回の選挙はアイビーの勝利に象徴されるように「清廉な政治」の勝利とみられたことである。市長とともに選ばれた36人の市議会議員に関しても,犯罪歴のない候補者が当選している。アイビーのこれまでの業績もさることながら,多くのマスコミが,オスマンの犯罪との関係に言及したことも,有権者の行動に影響を及ぼしたとみられる。

先述のとおり,ALは党としてアイビーでなくオスマンを公認候補としたが,地元では,ALの支持者も含め市民らがアイビーの支援団体を作るなど,選挙は圧倒的にアイビー有利に展開した。すなわち党の中央幹部には,こうした政治気運が読めていなかったということである。敗北したオスマンは,今回の選挙は「やらせ」であり,もし早くにそれに気づいていたら出馬しなかっただろうと述べた。ハシナ首相は,公認決定の見込み違いには言及せず,女性市長の選出を賞賛し,さらに非政党選挙管理内閣や軍の動員がなくても自由公正な選挙が実施できることを証明したと語った。

グラミン銀行ユヌス総裁の解任

3月2日,グラミン銀行の創設者であり,その活動によって2006年にノーベル平和賞を受賞したムハンマド・ユヌス教授の総裁解任のニュースは,世界中を駆けめぐった。1976年にユヌス教授の個人的プロジェクトとして生まれたマイクロクレジットの試みは,1983年には法律に基づき,政府が株式の一部を所有する貧しい人のための銀行となった(条例によれば25%まで政府が所有できる。しかし,グラミン銀行の情報によれば,2011年3月時点で政府所有は3.5%)。総裁解任を通告した中央銀行の書簡には, 2000年にユヌス教授が総裁に再任された時,中央銀行からの承認を得なかったという理由をあげていた。しかし,なぜ10年以上も後になって突然政府がこのような対応にでたかという点については,さまざまな憶測がなされた。

解任に至った一連の動きの始まりは,2010年11月にノルウェーのテレビ局がグラミン銀行の「不正行為」についてユヌス教授を批判する番組を放映したことである。1996年にノルウェーの援助資金1億ドルが,グラミン銀行グループ内の別の組織に移されていたというものであった。この報道に触発されてノルウェー政府は改めて調査を行い,2010年12月には不正はなかったと結論づけた。他方,「マイクロファイナンスを行っている者は,貧困撲滅の美名の陰で貧者の血を吸っている」などと厳しい表現で,徹底的な調査を行うと表明したハシナ首相の下での追及は,2011年4月末に出された政府の調査報告がグラミン銀行の「無罪」を証明したにもかかわらず,別の理由から総裁解任という決定を引き出した。政府のこの措置については,内外から批判が噴出した。海外では,クリントン米国務長官をはじめとする政府高官や,著名な政治家や開発関係者の名を連ねて2011年2月に設立された「グラミンの友」(Friends of Grameen)と称するボランタリー組織(代表:メアリー・ロビンソン元アイルランド大統領)らが,尊厳をもってユヌス教授を扱うよう,再三政府に要求した。

ユヌス教授解任事件の真相は,ハシナ首相による「政治的復讐」であったとの見方は,3月5日,「ハシナ首相顧問」の肩書で,ハシナ首相の長男サジーブ・ワジェド・ジョイが「グラミンの友」などの関係者に送ったEメールの書きぶりで,余計に強調されることになった。同メールは「違法行為」「犯罪」といった用語を用いつつ,「グラミン銀行はユヌスでなく政府が設立したもの」,「グラミン銀行は30年間活動しているが,バングラデシュは今なお世界の最貧国のひとつにとどまっている」などと記していた。ユヌス教授は,2007年の非常事態下に選挙管理内閣の後押しで,ALやBNPに代わる政党結成を試みようとしたことがある。それに対してハシナ総裁は当時,ユヌス教授を「高利貸し」と呼んで非難した。ALが政権に復帰して以来,政権のグラミン銀行への風当たりはさらに強くなっていた模様である。国際社会からの非難をみつつ,BNPはユヌス教授擁護の立場をとり,対してALが反ユヌス・キャンペーンを展開するなど一層政治問題化した。

3月3日,ユヌス教授は中央銀行の解任通告の合法性について高裁に訴状を提出した。それに対して,高裁は3月8日,60歳の定年に達した1999年以来,総裁のポストにいるのは違法であり,中央銀行による解任は合法であるとの判断を下した。さらに5月5日,最高裁は高裁判決の見直しを求めるユヌス教授の訴えを退けた。5月12日,ユヌス教授は辞任し,副総裁が総裁代行を務めることになった。ユヌス教授は,同僚と830万人のメンバーにあてた書簡のなかで,貧者が所有する銀行の構造が変えられ,政府の直接的,間接的支配が及ぶこと,それによって政治が銀行内に頭をもたげてくることへの懸念を記している。ハシナ首相について,ユヌス教授自身はBBCとのインタビューのなかで,もしグラミン銀行について十分な情報をハシナ首相が持っていたら,自分を批判することはなかったであろう,と語った。

事件のきっかけは,ノルウェーのテレビという外生的なものであったが,ユヌス総裁への対応と,選挙管理内閣制度の即時廃止という2つの政治決定は,ほぼ同じ時期に進行していた。そこに,前選挙管理内閣とその時期に対してハシナ首相がもつ強い批判を共通項として読み取ることは不可能ではない。

経済

好調なマクロ経済

2011年上半期の状況をみると,2010/11年度(7~6月)のGDP成長率は6.7%で,過去2年間の5.7%,6.1%を上回る成長を記録した。これは年度当初の見通しを達成したことになるばかりか,現行の基準年に依拠した統計が得られる1990/91年度以降では最高の水準である。

成長の原動力となったのは,対外部門の伸びである。経済危機後の世界貿易の回復を背景に,輸出入とも前年度4~5%台の低成長から,2010/11年度にはともに40%を上回る増加を示した。輸出では,主力の布帛縫製品(前年度比40%),ニット(同46%)とともに,原料ジュート(同82%),ジュート製品(同28%)など,これまで伸び悩んでいた品目の輸出も伸びている。一方2010年7月から2011年4月までの輸入は,前年度比41%増となったが,うち8割は工業生産のための必需品であり投資意欲の旺盛さを示している。他方,海外出稼ぎ送金に関しては,世界的な景気後退と中東,北アフリカ地域での政情不安が負の影響を及ぼした。とはいえ同会計年度10カ月の実績は,2009/10年度の前年度比増加率13%からは下落したものの,前年度比約5%とプラス成長を確保した。

部門別にみると,対外部門の好況と製造業部門への投資拡大に牽引され,工業(GDP寄与率30.4%)が8.5%(2009/10年度6.5%)ともっとも高い伸びを記録した。とくに,製造業は9.5%(同6.5%)ときわめて好調であった。他方,サービス部門(GDP寄与率49.7%)は,ほぼ前年度並みの6.6%(2009/10年度6.5%),農業部門(GDP寄与率19.9%)もまた前年度の5.2%には及ばないものの5%と順調な増産を記録した。

インフレは引き続き国民を直撃する深刻な問題である。2010/11年度の消費者物価上昇率は過去2年の上昇率(6.7%,7.3%)をさらに上回る8.8%に達した。前年同月比でみると,2011年9月には11.97%を記録した。これは同一の基準年に基づく統計が得られる1996/97年度以降で最高の水準である。全般的なインフレ高進の主要因は,前年度末の8.5%から2010/11年度末には11.3%まで上昇した食料インフレ率である。非食料インフレ率は,5.5%から4.2%に低下した。世界的な食料,非食料価格の上昇傾向がこの背景にある。国内のコメ生産はアウス(雨季前期作),アモン(雨季後期作)ともに豊作(各前年度比4.9%,23.5%増)であったが,近隣インドと国際市場での価格高が,国内のコメ価格をも押し上げた。

政府は,2011/12年度のGDP成長率目標を7%に設定している。縫製品の価格競争力を背景にした中国からバングラデシュへの調達シフト,電力への大規模投資,インフラ開発の加速化,歳入拡大,適切な金融・与信政策が,目標達成への原動力であると中央銀行の年次報告書は述べている。一方,懸念材料としては原油,食料価格の高騰による継続的なインフレ圧力,輸入需要の増加による貿易赤字の拡大と外貨準備への圧力,出稼ぎ送金の減少,非生産的部門への与信増加圧力などが指摘されている。

ポッダ多目的橋プロジェクト不正疑惑

ポッダ川(Padma:ガンジス川)に架ける全長6.15キロメートルのポッダ橋建設は,首都とバングラデシュの南西部を結ぶバングラデシュ最長の橋として,ハシナ政権の目玉プロジェクトのひとつである。橋の完成によって南西部とダカの移動時間は半分に短縮されることになり,南西部の経済発展の可能性を大きく拓くものと期待されている。総工費は約30億ドルで,そのうち12億ドルは世界銀行(世銀)からソフトローンとして供与されることが,2月に世銀理事会で承認された。その他にはアジア開発銀行(ADB),国際協力機構(JICA),イスラーム開発銀行(IDB)が共同出資者として名を連ねている。現ハシナ政権の任期中にメイン・ブリッジを完成させることを目標に,2011年8月の着工が予定されていた。

4月28日,バングラデシュ政府と世銀の間で借款契約が調印された(JICAとは5月18日,IDBとは5月24日,ADBとは6月6日に調印)。調印のため来訪した世銀の専務理事は,汚職を絶対に許さないと強く主張した。また,世銀の駐在代表は6月,大手英字紙に寄稿した「いかにポッダ橋は建設されるか」と題する文章のなかで,大規模なインフラと弱いガバナンス環境を結ぶポッダ橋は,高リスク,高リターンプロジェクトであり,汚職を防ぐために政府,他の出資者と共同で,厳しい措置を導入したと記した。世銀の駐在代表による高圧的とも感じられるこの記事には,国内の識者からの反発もあった。

9月初旬,注意深く進められていたはずのプロジェクトに関する不正疑惑が公になった。当初,国内の報道ではコンサルタントの仕事に関する入札過程に不正があったとして,カナダの警察当局が同国の「SNC-Lavalin Group Inc.」という企業を捜査していると伝えられた。バングラデシュのサイード・アブル・ホセイン運輸相は,これは世銀の問題であって,バングラデシュ政府は疑惑のある企業を排除するだけだと語っていた。ところが,世銀の調査結果で徐々に明らかになったところでは,不正は当の運輸相自身が関わっているとのことであった。

9月21日,世銀はワシントンで開催された世銀とIMFの年次総会に出席したムヒト蔵相に対し,バングラデシュ政府が入札過程における不正に対する対応を取らない限り,世銀はポッダ橋への資金供与を停止する旨を書簡で伝えた。世銀の調査内容が公になったのは10月15日のことである。報道によれば,ホセイン運輸相と彼の家族企業であるSAHCOが,ポッダ橋のメイン・ブリッジの契約に入札する資格を取得する際に,同相の支援の報酬としてSAHCOへのコミッションを強要し,従わない場合には報復すると脅迫したという。運輸相は,この報道を事実無根であると一蹴した。なお,この問題発生を理由に,11月に予定されていた援助国・機関が一堂に会するバングラデシュ開発フォーラムは翌年に延期されることになった。

その後バングラデシュ政府は,汚職問題解決について政府の立場を表明した書簡を世銀に送ったと伝えられるが,中身は明らかにされていない。しかし,報道を見る限り,政府の対応は,ようやく12月になってホセイン運輸相を情報・通信技術相に異動させたことだけに留まり,世銀が求める汚職に対する姿勢とは相当の隔たりがあった。ハシナ首相を中心とした政府の関心は,むしろ任期中にこの巨大プロジェクトを実現するという政治的効果にある。そのため,10月末,政府はPPP(官民パートナーシップ)方式を含むさまざまな方法で,第2ポッダ橋の建設を同時並行的に進めることを決定した。

運輸相の交替で,政府側は世銀との交渉が再開したと表明しているが,2011年中には解決に向けた進展はなかった。

対外関係

インド首相来訪の前段階

前年2010年1月のハシナ首相のインド訪問は,バングラデシュ・インド関係史上において画期的な意味をもった。ALとインド国民会議派という相互親和的な政権の間で,経済および反テロ対策の2つの分野で全面的な協力関係を築くことが確認されたためである。具体的には,1990年代半ば以来二国間交渉における焦点となっていたトランジット(互いの領土を通過して物資輸送を行うこと)問題が解決に転じたことが重要である。トランジット問題は安全保障上の脅威や国家主権の侵害,インド製品による市場席巻の懸念などさまざまな理由が付され,対印関係改善の難しさを象徴するイシューとなっていた。ところがハシナ首相のインド訪問で,バングラデシュ側はインド,とくにインド北東地域諸州の要求であったチタゴン港とモングラ港の使用を認め,他方インドもバングラデシュに対し,ブータン,ネパールとの通商におけるトランジットを認めることに原則合意した。その時に出された共同声明は,貿易拡大,国境画定,鉄道敷設,河川水配分,トランジット,電力協力など,両国間の懸案を網羅し解決への意志を記したものであった。2011年は,それらの案件を現実化していく年になることが,マンモハン・シン首相のバングラデシュ訪問とあわせて期待されていた。

インド側も対バ関係改善をいかに重視していたかは,シャルマ商工相,アンサリ副大統領,クリシュナ外相,ソニア・ガンディー国民会議派総裁,チダムバラム内務相と大物政治家,閣僚が相次いでバングラデシュを訪問し,2011年9月のシン首相の来訪までに多角的な問題解決の詰めにあたっていたことからもうかがえる。ただし,シン首相来訪までの段取りがすべてスムーズだったというわけではない。6月29日,インド主要5紙編集長との意見交換のなかで,シン首相が「バングラデシュの人口の最低25%がJIの支持者であり,彼らは非常に反インド的で,多くの場合ISI(パキスタン三軍統合情報局)の手先である」と発言したと報じられ,JIはもとより,シン首相のバングラデシュに対する理解不足と信頼の欠如を示すものとして驚きと怒りが広がった。しかし,バングラデシュ政府は,正式な謝罪要求を出さなかった。事を大きくしてシン首相の来訪に象徴されるバ印関係改善の機運に水を差すことを避けたと考えられる。インド側はバングラデシュ政府の態度に安堵したと伝えられ,その直後にシン首相来訪の日程が発表された。

今回のシン首相来訪の最大の焦点は,インド側にとってはチタゴン,モングラ両港の使用を認めるトランジット協定,バングラデシュにとってはティスタ川水配分協定の締結だった。後者については,1996年,当時のハシナ政権とインドの統一戦線政権の間で30年間の協定が締結されたガンジス川水配分協定に次ぐものとして20年来交渉が続いてきた。インド・シッキム州から西ベンガル州を通り,バングラデシュ北西部に流れ込むティスタ川の水量は,乾季のバングラデシュでは5分の1まで減少し大きな被害を及ぼすからである。ハシナ首相訪印を契機として,ようやく15年間有効の暫定的な協定を結ぶことで合意し,シン印首相来訪の際に,正式な調印をすることになったものである。

インドにトランジットを認めることについては,先述のとおりすでに原則合意されていたものの,実際に進めるにあたっては,ハシナ政権は国内の反発を考慮して,あくまで慎重な対応をとった。第1には,インドだけでなく,ネパール,ブータンもその枠組みに加わること(7月16日,ネパールがモロッコから輸入した肥料の輸送に関して,バングラデシュは初めてチタゴン港の利用を許可した),さらにミャンマー,タイ,中国に対してもトランジット利用を認め,バングラデシュを経済ハブ化するという戦略を強調したことである。第2は,シン首相来訪の際に調印されるのは枠組協定であり,実際の運行に至るまでにはさらに細かな協議を重ねる必要があること,また鉄道や水路によるトランジットが先で,道路によるトランジットはインフラ改善が前提であると説明したことである。第3に,現政権がやっているのは,1965年の第2次印パ戦争で中断し,1974年のムジブル・ラフマン=インディラ・ガンディー合意で復活するはずだった古いトランジット協定を更新し,そのオペレーションの様式について話し合っているに過ぎないと強調したことである。

シン印首相来訪の成果

こうした微妙な配慮を必要としながらも,シン首相の来訪は,二国間関係における歴史的な転換点,しかもより広い地域的な含意をもった訪問になりうるとの期待が高まった。ところが9月4日,シン首相来訪の2日前になって西ベンガル州のママタ・バネルジー首相が,ティスタ川水配分協定について,配分される水量が当初知らされていた案と異なるとして協定調印に反対し,シン首相に同行するはずであったバングラデシュ公式訪問に加わらないと述べた。これについて,当初バングラデシュのリズヴィ国際問題担当首相顧問は,インド国内の事情であって,シン首相来訪には影響しないと語っていた。しかし翌5日,インドの外務次官は,西ベンガル州の同意がない限り協定は結ばないと記者会見で説明した。結局,インド政府はティスタ川水配分協定締結を取り下げた。それに対応する形で,チタゴン港,モングラ港の利用を認める交換公文の調印も見送られた。

9月6日から7日のシン首相来訪の際に,国境,開発協力に関する枠組協定など10の覚書(MOU)と議定書が調印された(表1)。具体的に,バングラデシュが得たものは,第1に,バングラデシュのアパレル46品目に対する免税措置である。第2に,インド国内にある2つの飛び地と本土を結ぶティン・ビガ回廊の24時間使用許可である。第3に,バングラデシュ側はインドにトランジットを認めなかったが,インドは自国の領土を通じてバングラデシュがネパールやブータンと通商を行うことを認めたことである。第4に,リズヴィ首相顧問によれば,インドは初めてネパール,ブータン,それぞれにおいてインドとバングラデシュを加えた3カ国による共同水力発電プロジェクトへの協力を行うことに同意したことである。なお今回のインド首相来訪のひとつの特徴は,バングラデシュに領土を接するインド北東地域のトリプラ,アッサム,ミゾラム,メガラヤ州の各州首相が同行したことである。同州首相らはトランジットによる相互利益の可能性を強調し,バングラデシュからの投資誘致,トリプラからの電力輸出の可能性などにも言及した。

表1  インド首相来訪時に締結された覚書(MOU)ほか

(出所) 新聞報道より筆者作成。

シン首相来訪の結果はどのような影響をもたらしたのであろうか。二国間関係を新たな次元に移す好機を逃したことに,もっとも失望したのは両首相である。「公平で友好的な問題解決に向けて議論継続」,「協力して努力すれば,あらゆる挑戦や不確定さを乗り越えることができる」といった両首脳の演説は,率直な心情を表明したものであろう。インドの全国紙は,両首相の面子をつぶした西ベンガル州首相を強く批判した。インド側は,バングラデシュ国内の反対勢力からハシナ首相を守りつつ協力関係を深める必要があったのに,同州首相が邪魔したという見方が大勢を占めた。ただし,西ベンガル州のマスコミのなかには,ママタ州首相が州の利益を守ったとして評価するものもある。

他方,インド側の事情でティスタ川水配分協定やトランジット協定が締結されなかったために,BNPはこの問題を大きな政治的イシューとすることはできなかった。むしろ,ジア総裁はシン首相を表敬した際,ティスタ協定調印ができなかったことへの失望を表明すると同時に,トランジットについても,東南アジア,必要ならば中国とのコネクティビティを求めると伝えており,そこにはハシナ首相の主張と大きな差はない。事実,BNPのなかにも現在の国際関係におけるインドの地位向上を踏まえて,一律的な反印姿勢は有益でないという見方は出てきている。BNPが今回問題にしたのは,インドとの間に結んだ,あるいは結ぶはずであった協定について,ハシナ首相が国会,野党らと事前協議しなかったことだが,同じ批判は,BNP以外の有識者からも出された。

他の近隣外交

2011年は,インド以外の近隣諸国とも関係強化が図られた年であった。近隣外交の目的が電力輸入の可能性を探ること,インフラやトランジットなどハード,ソフト面でのコネクティビティ改善を通じた貿易拡大にあるというその特徴は,一連の首相外交から明らかである。ブータンからは,南アジア地域協力連合(SAARC)議長国の代表として1月にティンレイ首相,3月にはジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王が,バングラデシュ独立40周年式典の国賓として来訪した。ネパールのバッタライ首相とは,11月の第17回SAARC首脳会議の際に,ハシナ首相が面会した。4月には,スリランカからラージャパクセ大統領が来訪,さらに12月にはハシナ首相がミャンマーを訪問した。

2012年の課題

任期の折り返しを過ぎ,ハシナ政権にとっては,いよいよ次の選挙を視野に入れた政局運営が求められる。選挙管理内閣制度の廃止によって,次回の選挙は現政権の下で行われるとしても,BNPなど主要野党の参加を促すためには,2012年度中に予定されるダカを含む地方自治体選挙を自由公平に実施すること以外に,何らかの妥協も必要である。しかし,今までのところ,ハシナ政権によるBNPへの対応はジア総裁家族に対する訴追や戦犯裁判など,徹底的に追い詰める方針であるようにみえる。こうした動きが,身内のAL政治家に対しては汚職容疑などの訴追取り消しを行う甘さなどと相まって,国民のハシナ政権への失望と同時に,国会をボイコットしたまま,国民に人気のないハルタル戦術を繰り返すBNPへの消去法的な浮動票の流れを形成しつつあるようにみえる。

経済ではインフレ抑制や電力不足の解消など国民生活を圧迫する課題は,短期的な解決が困難である。対外関係においては,これまでのトランジット問題に代わり,ティスタ川水配分問題が,今後のバングラデシュとインドの関係改善の障害になりそうである。しかし,これもインドの中央および西ベンガル州の政治に絡むことであるため,ハシナ政権が操作できる問題ではない。そうなると,ハシナ政権はどこにプラスポイントを積み増ししようとするのか,たとえばポッダ橋に代表されるような大型建設プロジェクトや,2011年にようやく開始した独立時の戦犯裁判の大々的実施なのか,さらにその方法について注視していく必要があろう。それぞれの過程が,新たな与野党攻防の舞台となりうる可能性がある。

(新領域研究センター次長)

重要日誌 バングラデシュ 2011年
  1月
4日 バングラデシュ(以下『バ』),サウジアラビアと二重課税防止条約調印。
9日 ダカ株式市場(DSE)総合指数,600ポイント低下。史上最大の下げ幅,翌10日,さらに660ポイント低下で記録更新。
10日 ブータンのティンレイ首相来訪。
12日 全国242の市議会・市長選挙。12日,13日,17日,18日の4日間。
16日 ハシナ首相,アラブ首長国連邦(UAE)訪問(~19日)。第4回世界未来エネルギーサミットほかに出席。
22日 ミャンマーで開催中の第13回ベンガル湾多分野技術・経済協力イニシアティブ(BIMSTEC),ダカに本部設置で合意。
23日 Bangladesh Rifles(BDR),Border Guard Bangladesh(BGB:バングラデシュ国境警備隊)と正式に名称変更。
25日 新春国会開会。バングラデシュ民族主義党(BNP)は欠席。
25日 ハシナ首相,イギリスへ出発。27日,キャメロン英首相と会談。
26日 スリランカと初の外務次官級会談。
27日 ハビゴンジとブラフモンバリアで国会補欠選挙と12カ所の市議会・市長選挙。
31日 ムンシゴンジ県Arial Beelで新空港建設反対の大規模示威行動。警官1人死亡。
  2月
2日 ハシナ首相,空港建設予定地の変更表明。
7日 BNP,ハルタル(ゼネスト)実施。
17日 国際クリケット評議会(ICC)クリケット・ワールドカップ大会開会式,バは史上初めて共催国となる(インド,スリランカが共催国)( ~4月2日)。
  3月
2日 中央銀行,書簡でグラミン銀行のユヌス総裁に解任通告。3日,ユヌス総裁,その合法性を高裁に訴え。
7日 国家女性開発政策2011年決定。財産所有,雇用などにおける男女平等を盛り込む。
8日 高裁,ユヌス総裁の訴えを退ける。
13日 ハシナ首相,東日本大震災に被災した日本に対して,医師を含むレスキュー隊派遣の準備があると在バ日本大使に表明。
13日 汚職対策委員会(ACC)の新委員として,アワミ連盟(AL)派の元官僚と裁判官が任命される。
15日 第5回人口センサス調査(~19日)。
15日 BNP,国会復帰。2010年6月以来。
16日 コンドカル・デルワール・ホセイン BNP幹事長,入院先のシンガポールで死去。
19日 ロバート・ブレイク米国務次官補来訪(~22日)。
22日 高裁,1976年のセポイの反乱に関与したアブ・タヘル大佐を死刑に処した軍事裁判および処刑はジアウル・ラフマンの指示のもと,違法に行われたとの判決を下す。2010年8月に遺族が起こした訴訟の結果。この判決に対して24日,BNPは抗議集会開催。
24日 ブータンのジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王,バングラデシュ独立40周年式典国賓として来訪(~28日)。
29日 ユニオン議会選挙,第1期(~4月3日)。第2期は,5月31日から7月5日。
29日 4人の救助隊が日本に向けて出発。
  4月
3日 モニ外相,UAE,ロシア歴訪出発。
4日 国家女性開発政策に抗議して,Islami Oikya Joteなどイスラーム政党によるハルタル。暴力事件多発。
6日 モニ外相,モスクワでロシアのラブロフ外相と会談。バ製品の輸入拡大を求める。
10日 ハシナ首相,4大学に加え全国34の公立大学の定年を60歳から65歳に延長と発表。
18日 スリランカのラージャパクセ大統領来訪(~20日)。
18日 ベトナム訪問中のアブドゥル・ラザック食糧・災害対策相,食糧安全保障とコメ取引に関する覚書締結。
23日 インドのシャルマ商工相が来訪。
24日 憲法改正国会特別委員会,主要政党,著名な司法関係者との協議開始。ジアBNP総裁はボイコット。27日,ハシナ首相出席。
25日 グラミン銀行に関する政府の調査報告書,不正はなかったとの結論発表。
28日 世銀とポッダ橋建設に対する12億㌦の借款契約に調印。
  5月
5日 最高裁,グラミン銀行ユヌス総裁の訴えを退ける。
6日 タゴール生誕150周年記念式典開幕。インドのアンサリ副大統領出席。
7日 ハシナ首相,第4回国連後発開発途上国(LDC)会議出席のためトルコへ出発(~11日)。
10日 最高裁,非政党選挙管理内閣制度を定めた第13次憲法改正に違憲判決。
11日 最高裁長官にムザンメル・ホセイン最高裁上訴部判事,任命される。任期は5月18日から2015年1月16日まで。
12日 グラミン銀行ユヌス総裁,辞任。
12日 最高裁,フォトワ(イスラーム教の布告)は宗教的事項に関しては合法だが,誰かを罰するために使用してはならないとの判断示す。
14日 ジアBNP総裁,イギリス,アメリカ訪問へ出発。15日,長男タレクに2年半ぶりに面会。
15日 ハシナ首相,スイスに出発,世界気象会議,世界保健会合出席,18日からカナダ訪問,フランスを経て27日帰国。
16日 最高裁,エルシャド政権を合法化した第7次憲法改正に違憲判決。
18日 ブータンと空港の相互利用を許可する航空運航協定に調印。
18日 ジアBNP総裁,ロンドンにてヘンリー・ベリンガム外務政務次官に面会。
22日 予算国会開会,BNPはボイコット。
26日 ジアBNP総裁,ワシントンにてロバート・ブレイク米国務次官補に面会。
26日 ニューヨークにて先住民問題に関する国連特別会議で,バングラデシュ政府の代表が,バには先住民はいないと発言。6月3日,ダカで抗議の人間の鎖デモが実施される。
29日 訪バ中のモルディブのアーメド・ナシーム外相,ハシナ首相を表敬。
30日 閣議,国家保健政策2011年を承認。
  6月
5日 BNP,イスラーム協会(JI)の呼びかけで,選挙管理内閣制度廃止に抗議して12時間ハルタル実施。
6日 ニルパマ・ラーオ印外務次官来訪。
7日 選管,政党・市民社会等と選管改革に関する対話開始。BNPは参加を拒否。
9日 2011/12年度予算案,国会に上程される。29日に国会可決。
9日 ハシナ首相,来訪中のシュワルツ米国務次官補(人口,難民,移民局担当)に対してミャンマー政府との協議のうえで国内にいるロヒンギャ難民送還のイニシアティブをとるよう要請。
12日 BNPらによる36時間ハルタル。
18日 アーメド 法務相,あるセミナーで,国内には先住民は存在しないと発言。
19日 インドのヴィジャイ・クマール・シン陸軍参謀長,バ政府の招待で来訪(~23日)。
20日 ダンカン英国際開発閣外相,ニーベル独経済協力開発相,ピエバルグズ開発担当欧州委員来訪。
20日 閣議,憲法改正特別委員会の提言に基づく憲法改正法案を承認。
23日 ジアBNP総裁の次男アラファト(海外逃亡中),マネー・ローンダリング容疑で禁固6年の実刑判決。
25日 憲法改正法案,国会に上程される。
28日 モニ外相,カザフスタン・アスタナにて開催のイスラーム諸国機構外相会議出席。
30日 第15次憲法改正,国会可決。
  7月
3日 ジア総裁長男タレクに2004年8月のAL集会爆弾投下事件への関与で起訴状。3日と14日に逮捕状出される。
6日 BNPら4政党,48時間ハルタル。
6日 インドのクリシュナ外相来訪(~8日)。
7日 インドとの投資促進保護協定,インド領内を通過して,ブータンの車両をバングラデシュまで運行することを認める協定調印。
10日 イスラーム政党12団体,30時間ハルタル実施。BNP,JIはこれを支持。
23日 バ印国境市場がオープン。クリグラム県とインド・メガラヤ州の国境に。両国商務担当大臣が出席。
24日 ソニア・ガンディー印国民会議派総裁,障害児・自閉症児童のための会議の主賓として来訪(~25日)。
26日 モニ外相,外交団に対してチタゴン丘陵地帯に住むトライブの人々は「先住民」でなく「エスニック・マイノリティ」と説明。
29日 インドのチダムバラム内務相来訪。30日,包括的な国境管理調整プラン締結。
  8月
8日 ACC,ジア総裁を権力乱用容疑で告訴。2005年,首相の地位を利用し寄付を募ったとのこと。
13日 著名な映画監督タレク・マスッドとメディアパーソナリティのミシュック・ムニエル交通事故で死去。道路行政が政治問題化。
24日 2009年BDR反乱事件の裁判開始。
24日 モニ外相ら代表団,国連大陸棚限界委員会(ニューヨーク)で,インド,ミャンマーと係争中のベンガル湾の大陸棚の領有権主張。
28日 メノン印国家安全保障顧問来訪。
31日 断食明け祭。
  9月
6日 マンモハン・シン印首相来訪(~7日)。4人の州首相を含む136人の随行団。
11日 ジア総裁長男タレクが起訴されているマネー・ローンダリング裁判開始。
17日 ハシナ首相訪米。24日に国連総会で演説。29日に帰国。
19日 最高幹部の釈放を求めて行われたJIの集会,各地で支持者と警察が衝突。
22日 BNPら,燃料価格引き上げ,株式市場詐欺,野党指導者弾圧に抗議してハルタル実施。
27日 ジアBNP総裁,ダカで開催された大集会で新たな行動計画,3回のロードマーチと5県での集会開催を発表。
  10月
3日 戦争犯罪法廷,JI指導者のデルワール・ホセイン・サイディーを起訴。
7日 AL,選挙管理内閣制度廃止への支持動員のため全国でキャンペーン展開を決定。
10日 BNP,シレットへのロードマーチ。途中6カ所でジア総裁演説集会開催。11日,シレットにて大集会。
12日 AL,ニルファマリ県での大集会でハシナ首相演説。
12日 クリントン米国務長官,モニ外相に対し,グラミン銀行のユヌス元総裁の解任への懸念,報道の自由,NGOの活動領域の保証などについて発言(ワシントン)。
17日 閣議,よりよいサービス提供のためとの理由でダカ市を2分割することを決定。
18日 BNP,チャパイナワブゴンジへのロードマーチ実施。ボグラで大集会。
20日 国会第11次会期開会。
22日 ハシナ首相,世界保健サミット2011出席のためドイツへ出発(~26日)。25日,メルケル独首相と会見。
26日 ハシナ首相,英連邦諸国首脳会議出席のためオーストラリアへ出発(~31日)。
30日 ナラヨンゴンジ特別市議会・市長選挙。市長ポストをめぐって,セリナ・ハヤット・アイビーがAL,BNP候補を抑えて当選。
  11月
1日 AL政治家でノルシンディ市長のロクマン・ホセイン射殺される。2日,事件に抗議したBangladesh Chhatra League (ALの学生組織)が急行電車を放火。ロクマンは最優秀市長として2度表彰されたことがある。
7日 犠牲祭。
9日 ハシナ首相,第17回南アジア地域協力機構(SAARC)首脳会議出席(10~11日)のためモルディブ訪問。その間シン印首相を含む各国指導者と個別に面談。
13日 潘基文国連事務総長来訪(~15日)。2008年以来2度目。
14日 ダカで第2回気候フォーラム(Climate Vulnerable Forum)開催(~15日)。
16日 ジアBNP総裁長男タレクのマネー・ローンダリング裁判でアメリカFBIエージェントが証言。2008年,当時の選挙管理内閣の要請で捜査に従事。
16日 オブライエン英国際開発相来訪。
17日 ハシナ首相,閣内外相らの報酬に課税するための法改正を閣議決定。
18日 ダカで南アジア社会フォーラム開催(~22日)。世界社会フォーラムの一部。
23日 ダカ市を2分割する法案,国会上程。
24日 1898年のハンセン病患者法,ALの議員立法に基づき廃止。
24日 シャージャハン宗教担当国務相,国会で,各地のモスク宗教指導者のうち,過激派およびJIと関係を持つものを確認すると発言。
26日 BNP,クルナへのロードマーチ実施。
28日 AL議員のスランジット・セングプタ,オバイドゥル・カデルが入閣(参考資料:閣僚名簿参照)。環境国務相も閣内相に格上げ。
28日 ドイツのクリスティアン・ヴルフ大統領,84人の随行団を率いて来訪(~30日)。
29日 国会,ダカ分割法案を可決。12月1日,大統領が署名。
29日 2004年にチタゴンで起きた過去最大の武器密輸事件裁判開始。BNP,JIの幹部ら11人が起訴された。
  12月
1日 シャハラ内務相,2001年総選挙後の全国各地で起きた暴力事件について容疑者の訴追を開始すると表明。4月24日に司法調査委員会が報告書提出。BNP,JIの閣僚,議員(当時)25人が含まれる。
4日 BNP,ダカの分割に抗議して市内でハルタル実施。
4日 運輸省から鉄道省,科学情報通信技術省から情報・通信技術省を分離創設。5日,内閣改造。
5日 ハシナ首相,ミャンマー訪問(~7日)。6日,テインセイン大統領と会見。
7日 ハシナ首相,インドネシア・バリ訪問(~9日)。同日ユドヨノ大統領と会見。8日からのバリ民主主義フォーラム会議出席。
12日 選管,規定の90日以内には2つのダカ自治体の選挙は行わないことを決定。現職の選管の任期が2012年2月に失効するため。
15日 政府,61の県評議会に行政官任命。チタゴン丘陵地帯の3県はのぞく。
18日 未明,ダカ市内で50発以上の手榴弾が爆発。BNP,JIの活動家と警察衝突。1人死亡,車両が放火される。
19日 閣議,官僚の定年延長を決定。57歳から59歳に。26日,条例として発布。
20日 AL以下14政党,戦犯裁判を阻止しようとする勢力に抵抗するため共闘決定。
22日 ラフマン大統領,次期選管委員長,委員選出について諸政党との話し合い開始。
23日 ALの長老政治家アブドゥル・ラザック死去。
26日 BNP,大統領との対話に臨むと表明。
29日 ALを含む大連合,迅速な戦犯裁判遂行を求めて大集会。
29日 BNP,4政党連合とは別にあらたな政党連合を結成すると決定。

参考資料 バングラデシュ 2011年
①  国家機構図(2011年12月末現在)
②  行政単位
③  要人名簿

主要統計 バングラデシュ 2011年
1  基礎統計
2  産業別国内総生産 (1995/96年度価格)
3  主要輸出品
4  国際収支
5  政府財政
 
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