Yearbook of Asian Affairs
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2013 Volume 2013 Pages 415-438

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2012年のミャンマー 加速する政治・経済改革

概況

民政移管の真価を問われる年であった2012年,テインセイン政権は政治・経済改革の推進にいっそう力を注いだ。

最大野党,国民民主連盟(NLD)の議長となったアウンサン・スーチー氏(以下,スーチー氏)も新政権の改革路線に歩み寄りをみせ,4月の議会補欠選挙を経て正式な国政参加に踏み切った。この議会補欠選挙でNLDは44議席中43議席を獲得して圧勝し,NLDは最大野党となった。スーチー氏は,約24年ぶりの外遊となったタイでの会議参加を皮切りに,ヨーロッパ,アメリカを歴訪し海外でも積極的に活動を展開した。

他方,新政権は政治改革の一環として,政治犯の大量釈放や最大少数民族武装組織カレン民族同盟(KNU)との停戦合意を実現した。その一方で,ヤカイン(ラカイン)州での仏教徒(ヤカイン族)とイスラーム教徒(ロヒンギャ)の住民衝突,カチン州での政府軍とカチン独立機構(KIO)軍との戦闘激化などの新たな難題にも直面した。

経済面では,長年の懸案であった為替レートの一本化が管理変動相場制の採用によって実現し,改正外国投資法も紆余曲折を経ながらも制定された。こうしたなかで,ミャンマーの新規投資先・市場としての期待からアメリカ,日本をはじめとして各国の経済団体,企業の来訪が急増した。

国際社会も新政権に対する評価を肯定的なものに変え,欧米諸国が中心に科してきた経済制裁も段階的に解除されていった。同時に,多国間機関,二国間の経済援助の本格的再開への地ならしも行われた。ミャンマーの国際的評価の高まりとともに,アメリカの現職大統領として初の来訪となったオバマ大統領をはじめとして,欧米,アジア各国の政府高官の来訪が相次いだ。

国内政治

スーチー氏の国政参加

2012年1月に正式にNLDの中央執行委員会議長に就任したスーチー氏は4月の議会補欠選挙への立候補も表明した。選挙に向けて精力的に国内遊説を行うとともに,3月中旬には国営テレビで初の政見放送を行い,法の支配,国内平和,憲法改正の実現などを訴えた。議会補欠選挙は,2011年の総選挙選出議員の閣僚就任による議員辞職などに伴うもので,民族代表院(上院)6議席,人民代表院(下院)37議席,地方議会2議席の45議席が争われた。17政党,157人が立候補したなかで,NLDは上院1議席を除き,スーチー氏を含む44人の候補者を立てた。投票は4月1日に行われ,NLDがシャン州で上院の1議席を落としたのみで43議席を獲得し圧勝する結果となった。ここに1990年の総選挙結果が反古にされてから22年を経て,スーチー氏の国政参加が実現し,NLDは最大野党となった。スーチー氏はこの結果を受け,「政治参加を後押しした国民の勝利だ」と演説を行った。

新たに選出された議員の初登院は当初4月23日の予定だったが,実際にはその調整が難航した。議員就任時の宣誓の文言が「憲法を護持する」であり,軍人議員枠の撤廃を含む憲法改正を選挙公約のひとつに掲げたスーチー氏はこれに難色を示し,「憲法の尊重」への変更を求めたのである。政府側は文言の修正は困難としながらも,将来的な改憲は可能としてスーチー氏に譲歩を求めた。結果,スーチー氏らの議員活動を期待した国民の支持を考えると登院拒否を長引かせるのは得策ではないとの判断から,スーチー氏は他のNLD議員とともに5月2日に初登院,宣誓を行った。スーチー氏は8月には下院の「法の支配・平和安定に関する委員会」の委員長に就任した。

24年にわたり国外へ出る機会を奪われていたスーチー氏だが,自由な政治活動が可能となったことに伴い議会閉会の間を活用しての外遊を始めた。まず5月末から6月初めにかけて世界経済フォーラム東アジア会議への出席のためタイを訪問し,ミャンマー人出稼ぎ労働者地区やタイ・ミャンマー国境近辺の難民キャンプも訪れた。その後,イギリス,フランスなどのヨーロッパ各国を歴訪し,ノルウェーでは1991年に受賞したノーベル平和賞の受賞スピーチを行った。また,9月にはアメリカを訪問し,オバマ大統領,クリントン国務長官と相次いで会談した。こうしたスーチー氏の自由な外交活動は諸外国に対し国民和解の進展を印象づけるものとなった。

改革推進に力を入れるテインセイン大統領

一方,テインセイン大統領も民主化路線を強く推し進めた。1月1日と13日の2回にわけて1988年の民主化運動時学生活動家の中心だったミンコーナイン氏などの政治犯を含む1200人以上の服役囚を釈放した。2004年以来自宅軟禁下におかれたキンニュン元首相も1月13日に解放された。また,海外在住の反政府運動家の帰国を積極的に奨励する一方で,8月末には入国禁止者のブラックリストから2000人以上を削除し,それを大統領府のホームページで公開した。この中にはスーチー氏の息子も含まれている。1964年から実施されていた出版物の事前検閲も8月に廃止し,報道の自由を拡大した。事前検閲の廃止によって民間の日刊紙発行が(2013年4月以降)可能となる。さらに,10月21日には初の公式の大統領記者会見の場を設け,2時間以上にわたり国内外のジャーナリストからの質問を受け付けるなど,情報開示を積極的に進めた。

大統領は改革路線の足元を固めるための内閣改造も段階的に行った。守旧派とされてきた軍人枠の副大統領ティンアウンミンウー氏が健康問題を理由に5月に辞表を提出したことを受けて,その後任にニャントゥン海軍司令官が8月に選出された。当初ヤンゴン知事のミンスエ氏が内定していたが,同氏の親族が外国籍であることが憲法の規定に反するために,穏健派であるニャントゥン氏が候補になったとされる。8月末には大臣11人と副大臣15人が交代する大幅な内閣改造が行われた。このうち着目すべきは以下の3点である。まず,改革派とされるアウンミン氏(鉄道相―内閣改造前,以下同じ),ソーテイン氏(工業相),フラトゥン氏(財政歳入相),ティンナインテイン氏(国家計画経済発展相)を新たに大統領府相に起用して大統領府相を6人とし,大統領が進める改革を密接にサポートする布陣を整えたことにある。第2に,守旧派とされるチョーサン氏(情報相兼文化相),ティンサン氏(ホテル・観光相兼スポーツ相)などの権限を縮小したことである。チョーサン氏は協同組合相に横滑りし,ティンサン氏はホテル・観光相の兼任が外された。第3に,民間人や女性などこれまで以上に積極的に人材起用の幅を広げたことにある。初の女性閣僚としてミャッミャッオンキン氏が入閣しただけでなく,副大臣にも4人の女性が含まれている。非軍出身者もそれまでの4人から8人に増加した。なお,この内閣改造に合わせて省庁再編も行われ,産業発展省が廃止,第一電力省と第二電力省が統合された結果,33省庁が31に減った。ただし,閣僚ポストは大統領府相の増加により36と増える結果となった。

少数民族武装組織との和平の進展と後退

2009年以来政府が少数民族武装組織に対し国軍指揮下の国境警備隊への編入を求めたことで,少数民族との関係は悪化していた。しかしながら,新政権成立後,欧米諸国の制裁解除の条件に少数民族との和平が含まれていることもあり,テインセイン大統領は和平推進に積極的に取り組んだ。交渉を円滑に進めるために,過去の交渉時のように少数民族武装組織に和平合意前の武器放棄を求めず,また最初の交渉は国内でなく国外で実施し,かつ外国人を含めたオブザーバー参加を認めた。こうした取り組みが奏功して停戦交渉が順次始まり,2011年末にシャン州軍(SSA),統一ワ州軍(UWSA),チン民族戦線(CNF)との間に和平に向けた合意文書が締結された。

2012年初にそれは大きな成果を生む。1949年以来,政権側と闘争を続けてきたミャンマー最大の少数民族武装組織であるカレン民族同盟(KNU)との本格的な和平交渉が始まったのである。カイン州のパアンで政府代表のアウンミン鉄道相(当時)が,KNU側ムトゥ・セー・ポー司令官が率いる代表団と協議し,文書による停戦合意が初めて成立した。KNUと国軍の長年にわたる戦闘はカレン族難民のタイへの流入につながってきた。ミャンマー・タイ国境の9つの難民キャンプには約15万人(うち難民認定を受けている者は約9万人)がいる。そこで政府は,カレン族難民の帰還を促すために,彼らの居住地や農地を用意する方針も示した。和平交渉の一環として,史上初となる大統領とKNU代表団の会談が首都ネーピードーで4月に行われ,この席で,大統領は違法組織リストからのKNUの削除を示唆したとされる。

一方で,政府との関係が悪化した少数民族組織もある。カチン独立機構(KIO)の武装組織(KIA)と国軍の戦闘は2011年6月に17年にわたる停戦協定を国軍が破棄した後に,激化した。戦闘の直接的なきっかけはカチン州内にあるダム建設地から国軍,KIAの双方が撤退を拒否したこととされているが,むしろカチン州内の資源の支配権をめぐる対立ともとらえられている。戦闘の激化に伴い,8万人近くの難民や国内避難民が中国国境近くや中国雲南省に避難する事態となった。大統領は事態の収拾を図るべく2011年11月,2012年1月,12月の3度にわたり停戦命令を出したが,国軍の攻撃は続き年末にはKIOの本拠地ライザの空爆まで行われた。

ロヒンギャ問題の発生

ヤカイン州で5月末に仏教徒のヤカイン族の少女がイスラーム教徒のロヒンギャの集団に暴行のうえ殺害される事件が発生した。この事件をきっかけに双方の報復合戦が激化し,6月10日には同地域に非常事態宣言が出された。しかし,事態は収束せず,8月中旬までにヤカイン族,ロヒンギャ合わせて87人が死亡し,ロヒンギャを中心に約6万人が家屋を失った。さらに,10月末にも衝突が再燃し少なくとも67人の死者が出たとされる。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が用意したキャンプ地にはその時点で7万5000人が避難していたが,10月末の衝突後さらに2万5000人が流入したといわれる。

国連推計ではロヒンギャはミャンマー側に約80万人,バングラデシュ側に約30万人居住する。彼らはミャンマーの正式な市民権を持たず,移動や教育などのさまざまな制約に直面している。仏教徒が多数派を占めるミャンマー人は彼らを不法移民として認識し「ベンガリ」と呼ぶ。一方,バングラデシュ政府もロヒンギャを自国民と認めていない。1970年代後半と1990年代前半にロヒンギャがミャンマー国内での迫害を恐れバングラデシュに大量に難民として流入したが,バングラデシュ政府は流入が続くのを嫌い1992年以降難民ステータスの付与を停止した。今回の事件発生後もバングラデシュ政府は基本的にロヒンギャの受け入れを拒否するだけでなく,同国内でのさまざまな人道支援実施にも難色を示した。

テインセイン政権も従来の政府の立場を踏襲した。UNHCRとの会談でテインセイン大統領は,ロヒンギャは不法移民であり第三国での居住が望ましいと表明したが,この提案はUNHCRに拒否された。一方,イスラームの57の地域・国が加盟するイスラーム協力機構(OIC)はミャンマー政府のロヒンギャに対する対応を強く非難し,OIC調査団受け入れをミャンマー政府に求めた。それをミャンマー政府が拒否したところ,8月中旬のOIC首脳会議でロヒンギャ問題の国連総会への提起が決定された。こうした国際的な批判の高まりを受けて,ミャンマー政府は8月中旬に住民衝突の実態調査を目的とする委員会を設置した。

ミャンマー一般国民の反ロヒンギャ感情は根強い。UNHCRや国連人権特使がロヒンギャの人権ばかりを重視し,ヤカイン族側の被害を軽視しているとして市民や僧侶による抗議デモが起きたほどである。スーチー氏もこうした国民感情を背景にしてか,ロヒンギャ問題に関する踏み込んだ発言は少ない。11月のBBCのインタビューのなかでは,「問題の根源を見ずして,(自分の)道徳的指導力を行使していずれかの側を支持することはしない」と発言するにとどまっており,スーチー氏のこうした姿勢に対しては国外から批判も出ている。

大統領は,国際社会の関心の高さや国内の安定を重視し,事態の収拾を図るため,11月中旬にヤカイン族,ロヒンギャの双方の代表者と会い,同時に潘基文国連事務総長に対しロヒンギャへの市民権,移動の自由や労働許可の付与を検討する旨を記した書簡を送付した。

経済

経済成長目標と見込み

テインセイン政権は改革2年目の目標として経済改革を本格的な軌道に乗せることを掲げた。2012年6月19日の演説でテインセイン大統領が示した2011/12年度(4月~翌3月)から2015/16年度までの具体的な経済成長目標は以下のとおりである。(1)国民総生産(GDP)成長率目標を年平均7.7%とする,(2)工業部門のシェアを26.0%から32.1%に,農業部門を36.4%から29.2%に,サービス部門を37.6%から38.7%にする,(3)1人当たりGDPを2010/11年度比1.7倍にするというものである。同演説のなかでは,(1)アグロインダストリーも含めた工業化の推進による雇用創出,(2)各地域,州の貧困率に応じた,(課税,外国支援,予算配賦による)財源の確保,(3)各地域,州の社会経済指標の改善(1人当たり所得,教育,保健,生活水準) による人民中心の発展(People-centered development)の実現,(4)質の高い,正確な統計整備を取り組むべき重要な経済政策としてあげた。軍政下では生産量などの目標設定が先行し,国民ひとりひとりの生活水準が省みられることがほぼ皆無であったことを考えると大きな政策姿勢の変化である。

なお,アジア開発銀行が8月に発表したミャンマー経済の展望に関する報告書では,経済改革が順調に進めば今後年率7~8%の成長が可能であり,2030年までに1人当たり GDPが2000~3000ドルに達するとしている。

外国為替改革

ミャンマー中央銀行は4月1日から管理変動相場制を導入した。これにより形骸化していた公定為替レート(1977年以来SDRにペッグされ,1ドル=5~6チャットで推移)や政府公認レート(1ドル=450チャット)が廃止され,為替レート一本化が大きく前進することとなった。ディーラー・ライセンスを取得した民間銀行11行と国営銀行3行がオークションを実施し,その結果と為替市場の需給などを勘案して中央銀行が参考レートを決定し毎日発表する。なお,民間銀行の両替レートは,中央銀行の参考レートの±0.8%の幅に収めることとなっている。最初のオークションが実施された4月2日の参考レートは1ドル=818チャットで,それまでの市場レートに近い水準となっている。同制度の導入によって,輸入時の関税,商業税の関税計算の際に用いられるレートも参考レートが適用されることとなった。ただし,輸出獲得外貨とチャット間のレート,外貨兌換券(FEC)とチャットのレートは残されているが,FECは2013年7月には廃止が予定されている。多重為替レートの問題は長年外資誘致や貿易の大きな障害となっていただけに,為替の一本化が持つ意義は大きい。一方で,これまで公定レートの恩恵に預かってきた国営企業のなかには,今後大幅な赤字が表面化し厳しい経営を余儀なくされる企業が出てくるだろう。

改正外国投資法の制定

多重為替レートの問題とならんで,外資誘致のネックのひとつとなってきたのが1988年制定の外国投資法である。外国投資法の内容そのものというよりも運用が不透明だった点が問題とされてきたが,このうち早急な是正が求められていた点,すなわち外国企業による民有地の利用の許可,外国企業の持ち込み外貨の扱いと送金規制の緩和に関しては2011年中に大統領令で改善されていた。これらの点の法制化を含め,当初の予定では1月から5月初めまでの第3会期中には議会承認,大統領署名をもって改正外国投資法が発効する予定だった。しかし,実際には第4会期まで審議がずれこみ,9月7日にようやく下院案を大統領案に沿って修正した上院案が可決された。しかし,テインセイン大統領はこの内容をまだ不十分として署名せず,9月25日に議会に差し戻した。第5会期に入り,大統領の指摘事項を加味してさらなる審議・修正が加えられ,11月2日に大統領が署名し,正式に改正外国投資法が成立した。

外国投資法の改正に当初の想定よりも長い時間を要した背景には,急激な外資流入による国内企業の淘汰を危惧した保守派議員と,国内企業保護の性格が強すぎれば外資に敬遠されると考える改革推進派議員の間の意見対立があった。

議論のひとつの争点は外資の最低資本金と出資比率であった。旧法の運用では製造業50万ドル,サービス業30万ドルが最低資本金であったが,8月の段階の案では500万ドルと大幅に引き上げられた。また,外資の出資比率は35%以上から99%まで認めるが,11の制限分野(たとえば,中小企業が主体である製造業,サービス業,農業,畜産業,漁業など)に関しては50%以下とした。500万ドルは外資にとっても高額であり企業規模が限定されてくる。同時に,上記の制限分野に関してはミャンマー企業も50%の出資が必要だが,それが可能な企業はごく限られ,多数を占める中小企業には恩恵はほとんどない。こうした懸念から,9月に議会を通過した案からは最低資本金500万ドルという文言は削除され,最低資本金の制限はなくなった。それでもなお,大統領は同案が国内企業保護の性格が依然強いとして,外資にとってより魅力的な法律にすべきと議会に差し戻したのである。その結果,11月の新法では,出資比率の規定がすべて削除されたうえ,11の制限分野に関しては別途細則で定める形となった。

外資にとっての新法のメリットは,国有地および民有地の利用期間が最長70年になったこと(2011年の大統領令では60年と規定),進出後の法人税免税期間が3年から5年に延長されたこと,利潤の海外送金が認められることなどがあげられる。その一方で,旧法よりも厳しくなった点もある。旧法には雇用義務に関する規定はなかったが,新法では非熟練労働者はミャンマー人に限定され,熟練労働者に関しても2年ごとに25%,50%,75%の雇用義務を課している。また,外国人とミャンマー人の給与差別の禁止も定められている。加えて,旧法では100%外資が認められていたのに対し,新法ではミャンマー投資委員会(Myanmar Investment Commission)が認める分野のみ可能という形に後退している。

経済特区開発

テインセイン政権は外資誘致の環境整備のために経済特区の整備も急いでいる。タニンダーイー地域のダウェイ経済特区は当初タイ企業(イタリアン・タイ・デベロップメント)が開発に合意していたが,資金不足や住民の反対などもあり開発は進んでいなかった。こうした状況を踏まえ,ミャンマー,タイ両政府は9月に同プロジェクトの推進のための共同委員会設置に合意した。また,12月にタイを訪問したテインセイン大統領はインラック・タイ首相と現地を訪問し,2013年2月までに計画の詳細を詰めることに合意する一方,同経済特区の開発に日本の協力を得たいことを表明した。それを受けて日本政府はダウェイ経済特区計画の再検証を実施することとした。

一方,日本政府が当初より力を入れているのはヤンゴン近郊に位置するティラワ経済特区である。4月の野田首相(当時)とテインセイン大統領との首脳会談を皮切りに交渉が進められ,12月21日に正式にミャンマー政府と日本政府の間で同経済特区開発に関する覚書が締結された。両国の民間企業を中心に共同事業体を設立し,政府開発援助も活用しながら,港湾,道路,電力,商業施設などの総合的な整備を行うというものである。2015年までを第1フェーズとし,全敷地2400ヘクタールのうちの一部稼動を目指している。

新農地法の制定

ミャンマーの農地政策は社会主義期以来2012年まで,1953年の農地国有化法,1963年小作法,そして農民の権利保護法という3種の法律に基づいてきた。農家には所有権はなく耕作権のみが認められ,耕作権の小作,売買,担保の設定などは禁止されていた。しかし,法的枠組みと実態の乖離の拡大や,農業投資促進の必要性から2012年3月末に新たに2つの農地関連法――「農地法」「空閑地・遊休地・処女地管理法」――が制定された。

新「農地法」は,農家に所有権ではなく使用権を認める点では変わらないが,その権利を示す土地使用証書が発行され,同権利の売却,質入,貸与,交換,寄付,相続が可能となっている。これまでも実際には耕作権の売却は非合法ながらも観察されたが,今後は合法的に土地を担保に融資を受けることが可能となる点が大きく変化した点である。「空閑地・遊休地・処女地管理法」は,基本的には企業などによる大規模な農業開発を意図するもので,現地資本との合弁という形で外資も農地利用が可能となる。ただし,既述の改正外国投資法では農業分野は制限分野と指定され,結果的に外資の出資比率制限などの詳細は細則で定められることとなったため不透明な部分も残った。しかしながら,農地関連法が50年ぶりに見直されたことは,農業部門に大きな変化をもたらすことは間違いない。

労働争議などの住民による抗議活動の頻発

2月にヤンゴン市フラインターヤー工業団地内の台湾資本の製靴工場で発生した女工による賃上げを求めるストライキを契機に,ヤンゴン市内の工場を中心に年央までストライキが頻発した。3月に2011年労働組合法が発効,労働争議調停法も制定されたことに加え,かつての学生民主化活動家(88年学生グループ)や労働問題活動家らの支援がストライキ頻発の背景にあるとされる。また,4月に公務員に対し一律月3万チャットの特別手当支給が開始されたことも,民間工場での賃上げ要求の高まりにつながったといわれる。正確なストライキ発生件数は不明だが,5月,6月の2カ月でヤンゴン市内の少なくとも90工場でストライキが発生した。労働省の調停が入るなどして,結果的に経営側が賃金の引き上げに応じるケースが大半であった。

また,土地争議も起きた。たとえば,7月にはヤンゴン近郊の土地1万エーカーが16の民間会社に不当に収用されたとする訴えが当局に退けられたことから,ミンガラドン郡の200人の農民が4日間にわたり抗議活動を行った。同月にはダゴンセイッカン郡の農民も同様のデモ行進を行っている。従来住民は企業や軍などによる理不尽な土地収用に対し声を上げることはできなかったが,抗議活動が合法化されたこともあってこうした動きは他地域でも報告されるようになった。土地収用問題に対する各地の住民の不満の高まりを受けて,7月の連邦議会では土地問題が4日間にわたり議論され,新たな特別委員会の設置と土地収用問題の実態調査の実施が決定された。

8月にはザガイン地域のレッパダウン銅鉱山の開発計画に対する抗議活動が始まった。同鉱山は,軍系のエコノミック・ホールディング社と中国国有企業が合弁で2010年から開発しているものである。近隣住民は中国企業の事務所を占拠し,鉱山の閉鎖,収用地(約8000エーカー)の返還,周辺の農地への廃棄物投棄の停止などを求めた。10月には2000人以上が集まった抗議集会が開催された。11月に入ると再度緊張が高まり,反対住民が道路閉鎖や鉱山敷地を占拠したため鉱山の操業が停止した。その後,マンダレー,ヤンゴン,パコック,ミンジャンなど全国各地から民主化活動家や僧侶が抗議活動に加わり始めた。こうした事態を受け,政府は反対住民に退去警告を出すとともに,夜間外出禁止令を発令し,警官数千人を投入した。しかし,住民や僧侶が6つの抗議拠点からの退去を拒否したため,当局は29日に催涙ガス,放水砲などを使った強制排除に乗り出し,僧侶や住民約80人の負傷者が出る事態となった。これはスーチー氏が事態打開のために同鉱山を訪問する数時間前のことであった。スーチー氏は強制排除の説明を政府に求める一方,開発計画を調査することなく中止させることには慎重な姿勢を示した。同じく中国案件だったカチン州のミッソン・ダム建設のケースでは,スーチー氏も加わったことで建設反対運動が国全体に拡大し,その声に応えたテインセイン大統領の決断によって2011年に計画が凍結されたが,それとは対照的な展開である。その理由として,ひとつにはこの鉱山が軍部の権益に直接関わるものであるために一定の配慮がなされたこと,また契約破棄を繰り返して対中関係をこれ以上悪化させたくないという意図があったと考えられる。

抗議者の強制排除後に大統領は開発計画続行の是非を検討する独立委員会の設置を発表した。スーチー氏を委員長,ミンコーナイン氏などの88年学生グループメンバーを含む30人の委員を任命することによって,委員会に対する国民の信頼性を高める狙いがあったと思われる。しかし,ミンコーナイン氏ら88年学生グループは,独自に調査をしたうえで抗議活動を支援するとして委員就任を辞退した。

軍政下では,5人以上の集会の禁止など国民は表立つ組織行動ができない環境が長く続いた。こうした国民の抗議活動の頻発は,平和的集会および平和的行進法の制定など法的枠組みが整備されたことに加え,国民が正当な権利の行使や不正の訴えに躊躇しなくなったことのあらわれといえよう。

対外関係

対米関係の飛躍的改善

国際社会への早期復帰を目指していた新政権にとって,対米関係の飛躍的改善は大きな成果であった。2011年末のクリントン国務長官の来訪を契機とする対米関係改善の流れを途切れさせないために,年初には制裁緩和の条件とされていた政治犯の釈放,少数民族武装組織や民主化勢力との和解が矢継ぎ早に実施された。これを受けて,アメリカ政府は2月に世界銀行,IMFなどの国際機関のミャンマーへのミッション派遣や限定的な技術支援の実施を認めた。また,4月の議会補欠選でのNLDの圧勝という結果をみて,1990年以来となる大使派遣(デレク・ミッチェル・ミャンマー担当特別代表が6月に赴任),ミャンマー高官に対するアメリカビザの発給,アメリカ合衆国国際開発庁(USAID)事務所の設置,アメリカの非政府団体による民主化,教育,保健などの活動の認可,金融・貿易制裁の部分緩和が行われた。7月にはアメリカ企業・個人による新規投資禁止措置も解除された。その直後にはゼネラル・エレクトリック社,コカ・コーラ社などアメリカ企業36社のトップがミャンマーを訪問し,新たな投資機会を探った。しかし一方で,アメリカ議会は改革のいっそうの進展を促すためのカードを保持するべく,ミャンマー製品のアメリカ輸入禁止措置の3年の延長を8月2日に決定した。

9月16日~10月4日にはスーチー氏が40年ぶりに訪米し,オバマ大統領とホワイトハウスで会談(野党党首としては異例の接遇)し,クリントン国務長官とも再度会談を行った。またアメリカ議会からはもっとも権威のある勲章「議会金メダル」を授与された。アメリカ滞在中,学生や在米ミャンマー人向け講演を精力的に行うなかで,スーチー氏は,アメリカの経済制裁が民主化に効果があったとしながらも,今後は不必要に固執する必要はないと制裁の緩和に賛意を示した。

一方,ニューヨークで開かれる国連総会出席のため,スーチー氏にやや遅れて訪米したテインセイン大統領は,9月25日にスーチー氏と会談,また国連総会での演説でもスーチー氏のアメリカの最高勲章受章を賞賛するなど民主化,国民和解の進展を印象づけた。翌26日に大統領はクリントン国務長官と会談し,その席で同長官はミャンマー製品の輸入禁止措置の緩和手続きを開始することを伝達した。同時に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との軍事関係の断絶を改めて求め,アメリカがミャンマーと北朝鮮との関係に依然として懸念を持っていることを伝えた。

11月19日にはオバマ大統領がアメリカの現職大統領として初めてミャンマーを訪問した。この歴史的訪問の3日前に,アメリカ政府はルビーと翡翠を除くミャンマー製品の輸入禁止措置を正式に解除した。これによって2003年以来アメリカが科してきた経済制裁措置が大方解除され,両国の経済関係がほぼ正常化したことになる。オバマ大統領は実質6時間という短い滞在のなかで,テインセイン大統領,スーチー氏とそれぞれ会談するとともに,シュエダゴン・パゴダを訪問,さらにヤンゴン大学で講演を行った。オバマ大統領はミャンマー政府のこれまでの民主化努力を評価する一方,政治犯全員の釈放,少数民族との和平,法の支配の確立,北朝鮮との関係の断絶を求めた。また, USAIDを通じて2年で1億7000万ドルの援助も約束した。

こうした大きな流れのなかで,他の国々も順次制裁を解いた。たとえば,EUは4月にミャンマー政府高官の渡航禁止,政府関連企業の資産凍結の停止のほか,武器禁輸を除く一定分野での投資・貿易を1年という期限付きで認可することにした。同月にEUはヤンゴンに連絡事務所も設置している。また,9月には1997年以来停止していたミャンマーへの一般特恵関税の適用の再開をEU議会に提案し,ミャンマーとの貿易拡大推進を図ろうとしている。

本格的な経済支援,再開へ

オバマ大統領以外にも,イギリスのキャメロン首相,韓国の李明博大統領,インドのシン首相など各国元首の来訪が相次いだことが示すように,国際社会のミャンマーの民主化・改革努力への評価が高まるなかで,ミャンマーとの関係強化を望む国が増えた。そしてそれは,1988年の民主化運動弾圧以来停止していた対ミャンマー経済支援の本格的再開への動きにもつながった。

そのなかでも積極的なのが日本である。4月にミャンマー元首として28年ぶりに来日したテインセイン大統領に対し,野田首相(当時)は,新たに無償資金協力40億円の実施と円借款の25年ぶりの再開を表明した。無償資金協力は主にデルタの輪中堤防の復旧,防災用シェルター建設や少数民族への食糧支援などが対象である。円借款の再開にあたって障害となるのは総額5000億円に上る対日債務であるが,日本政府は約3000億円を民主化の進捗状況を見極めながら段階的に免除することとした。これは日本が過去行った債務放棄の規模としてはもっとも大きい。残りの1989億円はミャンマー政府が日本の金融機関から超短期の商業ローンを受けて返済し,それに対し日本が長期の円借款をプログラム・ローンとして供与することとなった。円借款は,国民生活向上への支援(少数民族,農業農村開発,防災),人材育成,経済成長に必要なインフラ整備の3分野が対象となる。インフラ整備にはティラワ経済特区関連の整備が含まれており,官民一体で経済関係強化を図りたい日本の姿勢が強く出ている。

10月には,IMF・世銀総会の東京開催にあわせ,日本政府はミャンマー支援会合を開催した。会合には26カ国と5つの国際機関が参加した。その場で,2013年1月に日本が延滞債務解消を行ったうえで,早い段階で円借款を供与することを改めて表明した。世界銀行とアジア開発銀行も同時期に延滞債務(合計約9億ドル―700億円)を処理する意向を示したが,その債務返済に充当する資金は日本の国際協力銀行(JBIC)が融資し,そのうえで,両行が融資を再開するという段取りが決定した。これに先立って両行は8月にヤンゴンに事務所を開設し,本格的な支援再開の準備を開始していた。

2013年の課題

2013年,テインセイン大統領は政権3年目に入る。最初の1年はスーチー氏との関係に象徴される国民和解に重点がおかれた。2年目は軍政下で先送りにされてきた経済課題に本格的にメスを入れ,改革推進のための内閣の布陣も整えた。3年目はこれらの改革がどこまで具体的な形としてみえてくるかという点が鍵となろう。大統領,与党連邦団結発展党(USDP)も2015年に予定される総選挙にいかに臨むかを強く意識している節があり,目にみえる成果を出すことを急いでいる。

政治面での最大の懸案事項は少数民族問題であろう。カチン州でのKIO軍と国軍との戦闘は収束の展望がなかなかみえなかったが,2013年1月の国軍側の休戦宣言後,2月に入って中国の仲介で停戦交渉が開始された。しかし,カチン側の政府に対する不信感は根強く停戦交渉は難航している。また,ヤカイン州のロヒンギャと仏教徒住民の間の緊張関係も続いているが,国内世論は圧倒的に反ロヒンギャであることもあり,問題解決の糸口はみえていない。

これらの民族問題に関しては,スーチー氏の言動が控えめであり,この点は国外人権団体から批判されるだけでなく,国内の少数民族団体から失望の声も出始めている。国政に参画する政治家となり,同氏個人のカリスマ性や理念のみでは必ずしも打開できない局面が生まれてきているのかもしれない。

経済面では経済制裁の解除と本格的経済支援の開始,改正外国投資法の成立などを受けて,すでに過熱気味の同国への関心や期待はいっそう高まるであろう。しかし,そうした期待を反映し,バブル的様相を呈しはじめている土地,不動産市場が今後どう展開するのか,最大のネックであるインフラ整備がどの程度の速度で進むのかなど不安材料は尽きない。一方,改正外国投資法の成立に至るまでの紆余曲折の背景として国内の中小企業保護の強い声があったことに示されるように,外資誘致と国内産業育成のバランスの取り方に熟慮が必要となるだろう。また,多国間や二国間双方の経済支援が急拡大するとみられるが,そうした援助を効率的に活用できるか,政府内の対応・調整能力にも懸念は残る。

(地域研究センター主任研究員)

重要日誌 ミャンマー 2012年
  1月
1日 政府,服役囚600人を釈放。政治犯は国民民主連盟(NLD)党員4人を含む9人のみが釈放。
5日 イギリスのヘイグ外相,来訪。スーチー氏と会談。
5日 政府,チョースワカイン大統領府相とタニンダーイー地域のキンゾー知事の辞職承認。
9日 NLD,スーチー氏を中央執行委員会議長に選出。同氏,議会補欠選への出馬も表明。
9日 政府,ダウェイの石炭火力発電所の建設計画の取り止めを決定。
11日 ASEAN非公式外相会議,対ミャンマー制裁の解除を求めることで一致。
12日 枝野経済産業相,来訪。8年ぶりの貿易保険の再開を表明。スーチー氏とも会談。
13日 ミンコーナイン氏などの政治犯を含む,651人の服役囚に恩赦。自宅軟禁中だったキンニュン元首相も解放。
13日 政府,カレン民族同盟(KNU)と停戦合意。
13日 アメリカ政府,政治犯恩赦への見返りとして22年ぶりに大使交換を発表。
14日 自民党の安倍晋三元首相,来訪。16日にテインセイン大統領と会談。
15日 フランスのアラン・ジュペ外相,スーチー氏と会談。
18日 スーチー氏,議会補欠選の立候補届出。
19日 政府,カチン独立機構(KIO)と停戦協議。
21日 政府,カレン族帰還難民用に居住・耕作用の土地を提供する方針を決定。
23日 EU外相理事会,経済制裁の一部を緩和で合意。高官向けの渡航禁止措置を解除。
26日 第3回連邦議会,招集。
  2月
6日 アメリカ政府,国際金融機関のミャンマー支援を部分的に認める措置を決定。
12日 ドイツのディルク・ニーベル経済協力開発相,来訪。
17日 EU,ミャンマーの政府高官に対するビザ発給停止措置を解除。
22日 トゥラ・シュエマン人民代表院(下院)議長,訪中。
22日 スーチー氏,カレン民族同盟・民族解放軍和平評議会のティンマウン議長らと会談。
  3月
11日 アメリカのデレク・ミッチェル・ミャンマー特別代表・政策調整官,来訪。
14日 スーチー氏,国営テレビで初の政見放送。
21日 アメリカ政府,選挙監視員の派遣方針を発表。
21日 日本政府,16億円の無償資金供与を発表。
23日 ミャンマー選挙管理委員会,カチン州の3選挙区で補欠選を実施しないと発表。KIOとの停戦交渉難航のため。
25日 スーチー氏,体調不良のため地方遊説中止。
27日 日本政府,補欠選に外務省の南東アジア第一課長ら3人を選挙監視員として派遣。
30日 スーチー氏,選挙不正があったとして与党連邦団結発展党(USDP)を批判。
30日 農地法,空閑地・遊休地・処女地管理法,公布。
  4月
1日 連邦議会の補欠選挙実施。
1日 外国為替の管理変動相場制導入。
1日 公務員に一律月3万チャットの特別手当支給開始。
4日 ASEAN首脳会議,議会補欠選は自由で公正だったと議長声明で評価。
4日 アメリカ政府,経済制裁を部分緩和。
7日 テインセイン大統領,KNU代表団と会談。また,KNUはスーチー氏とも会談。
11日 テインセイン大統領,スーチー氏と会談。
12日 主要8カ国会議(G8),対ミャンマー制裁緩和検討方針を議長声明に明記。
13日 イギリスのキャメロン首相,来訪。テインセイン大統領,スーチー氏と会談。
15日 ノルウェー,民主化努力を評価し対ミャンマー制裁を解除。
17日 アメリカ政府,対ミャンマーの金融制裁の一部緩和を発表。
20日 経団連,1989年以来休止していた日本ミャンマー委員会を23年ぶりに再開する方針を表明。
21日 野田首相とテインセイン大統領,東京で会談。円借款の25年ぶりの再開で合意。
23日 EU外相理事会,武器禁輸を除き制裁の1年間停止を正式決定。
23日 スーチー氏,宣誓の文言修正を求め,議会初登院を拒否。
28日 EU,ヤンゴン事務所開設。
29日 国連の潘基文事務総長,来訪。30日にテインセイン大統領と会談。
  5月
1日 韓国の金星煥外交通商部長官,来訪。
2日 スーチー氏を含む新選出議員,初登院。
7日 ティハトゥラ・ティンアウンミンウー副大統領,辞表提出。
8日 テインセイン大統領, サイマウカン副大統領,ミンアウンフライン将軍で構成する和平委員会を新たに設立。
8日 シャン国民民主連盟(SLND),政党登録認可。
9日 スイス,対ミャンマー制裁解除。
14日 韓国の李明博大統領,来訪。全斗煥氏以来28年ぶり。
17日 アメリカ政府,投資,貿易,金融サービスに関する制裁を停止。
19日 政府,シャン州軍(SSA)と和平合意。
21日 マンダレーで24時間電力供給を求める市民デモ。当局の介入はなし。
27日 ミャンマー中央銀行と東京証券取引所,大和総研がミャンマーの資本市場育成支援の覚書を締結。
28日 インドのシン首相,来訪。インド首相の来訪は25年ぶり。テインセイン大統領(28日),スーチー氏(29日)と会談。
28日 スーチー氏,タイ訪問。24年ぶりの外遊。
28日 ヤカイン州中部の村でロヒンギャとみられる若者による仏教徒女性暴行事件発生。
  6月
3日 ヤカイン族によるロヒンギャ襲撃事件発生。
10日 テインセイン大統領,ヤカイン州北部に非常事態宣言。
16日 スーチー氏,オスロにて1991年に授与されたノーベル賞の受賞演説。
26日 スーチー氏,フランスのオランド大統領と会談。
29日 ミャンマー選挙管理委員会,スーチー 氏に対し,国名の英語呼称でBurmaではなくMyanmarを使用するよう告知。
  7月
3日 オーストラリア,ミャンマー制裁を軍事技術供与,武器取引関係を除いて撤廃。
4日 第4回連邦議会,招集。スーチー氏は初日欠席。
11日 アメリカ政府,アメリカ企業・個人の新規投資と金融サービスの提供を許可。
11日 チェコのシュワゼンバーグ外相,来訪。
19日 殉職者の日の式典にスーチー氏出席。国営放送もその様子を放映。
23日 タイ訪問中のテインセイン大統領,インラック首相と会談。ダウェイ経済特区に関する覚書に調印。
  8月
1日 世界銀行とアジア開発銀行,現地事務所をヤンゴンに開設。
2日 アメリカ政府,ミャンマー製品の輸入禁止措置の今後3年間の継続を決定。
4日 テインセイン大統領,14の少数民族政党代表と会談。
7日 人民代表院,スーチー氏を「法の支配・平和安定に関する委員会」委員長に指名。
8日 ミャンマー中央銀行,2013年3月の外貨兌換券(FEC)廃止を表明。
9日 ヤカイン州北部に夜間外出禁止令発令。
12日 テインセイン大統領とスーチー氏,3度目の会談。
15日 日本の財務省,ミャンマー中央銀行と証券市場整備に協力する覚書を締結と発表。
15日 連邦議会,ティンアウンミンウー前副大統領の後任にニャントゥン海軍司令官を選出。
17日 テインセイン大統領,ヤカイン州のロヒンギャと仏教徒住民の衝突に関する調査委員会を設置。
20日 政府,新聞や雑誌などに対する事前検閲を全面的に廃止と発表。
22日 日本政府,駐ミャンマー大使に沼田幹男外務省領事局長を起用。
23日 テインセイン大統領とスーチー氏,4度目の会談。
27日 大幅な内閣改造。28日分と合わせて大臣11人と副大臣15人の交代が発表。
29日 政府,入国禁止者のブラックリストから2000人以上を削除。
  9月
1日 モーティズン氏ら1988年の民主化運動の学生リーダー帰国。
2日 枝野経済産業相,ティンナインティン国家計画経済開発相とカンボジアで会談。
2日 国連のヤカイン州のロヒンギャ問題に対する対応を批判し,僧侶約500人を含む1000人以上がマンダレーで抗議デモ。
7日 連邦議会,外国投資法改正案を大統領に送付。
10日 ミャンマー政府,民間保険会社12社の設立を認可。
10日 アメリカのコカ・コーラ社,約60年ぶりにミャンマー国内での公式販売を開始。
14日 テインセイン大統領,来訪中の呉邦国中国全人代常務委員会委員長と会見。
16日 スーチー氏,訪米のために出国。
16日 政府,服役囚514人に恩赦。少なくとも政治犯87人が含まれる。
18日 スーチー氏,クリントン米国務長官と会談。
19日 スーチー氏,オバマ米大統領と会談,アメリカ議会でもっとも権威のある勲章のひとつ「議会金メダル」を授与される。
19日 アメリカ政府,テインセイン大統領,トゥラ・シュエマン人民代表院議長を制裁対象リストから除外。
21日 スーチー氏,国連本部で潘基文事務総長と会談。
21日 テインセイン大統領,広西チワン族自治区で習近平中国国家副主席と会見。
24日 テインセイン大統領,国連総会出席などのためアメリカに向け出発。
25日 テインセイン大統領,スーチー氏とニューヨークで会談。
25日 テインセイン大統領,外国投資法改正案を連邦議会に差し戻し。
26日 テインセイン大統領,クリントン米国務長官と会談。ミャンマー製品の輸入禁止措置緩和措置開始と伝達される。
26日 タイ在住のミャンマー難民,第三国定住先として日本を希望していた3家族全員辞退。
27日 テインセイン大統領,国連総会で演説。
  10月
1日 ミャンマー中央銀行,民間銀行6行に外国為替業務を許可。
4日 エア・アジア,バンコク=マンダレー便を就航。
5日 僧侶の集団,9月にコックスバザールで起きた僧院放火事件に対してヤンゴンのバン グラデシュ大使館前で抗議デモ。
9日 タイ政府,ミャンマーのダウェイ経済特区の開発を目的とするタイ・ミャンマー共同委員会の設立を承認。
9日 台湾のエバ-航空,ヤンゴン便就航。
9日 スーチー氏,記者会見で将来的な大統領就任の可能性を示唆。
9日 テインセイン大統領,李明博韓国大統領と会談。ミャンマー首脳の訪韓は約25年ぶり。
11日 日本政府,ミャンマー支援会合を東京で開催。
15日 全日空,ヤンゴン便就航。カタール航空も同日就航。
16日 与党USDP,党大会でテインセイン氏を党議長に,トゥラ・シュエマン氏を副議長に再任。
18日 第5回連邦議会,招集。
21日 テインセイン大統領,初の公式の記者会見を開く。大統領続投の可能性を示唆。
21日 ヤカイン州でロヒンギャとヤカイン族が再び衝突。67人が死亡,95人が負傷。
  11月
1日 政府,ロヒンギャ問題に関するASEAN緊急外相会議の提案を拒否。
2日 改正外国投資法,制定。
3日 テインセイン大統領,バローゾEU委員長と会談。
5日 テインセイン大統領とオーストラリアのギラード首相,会談。両国の首脳会談は28年ぶり。
11日 ミャンマー中部でマグニチュード6.8の地震。死者26人,負傷者231人,行方不明者12人。
12日 韓国の高建元首相,来訪。
13日 スーチー氏,訪印。25年ぶり。14日にはシン首相と会談,19日に母校訪問。
15日 ミャンマー政府,服役囚452人に恩赦。
16日 テインセイン大統領,ロヒンギャ問題への対応を記す書簡を国連事務総長に送付。
16日 アメリカ政府,翡翠とルビーを除くミャンマー製品のアメリカ輸入を解禁。
19日 アメリカのオバマ大統領,現職大統領として初めて来訪。テインセイン大統領,スーチー氏と会談。ヤンゴン大学で講演。
19日 政府,服役囚66人に恩赦。
19日 野田首相,カンボジア,プノンペンでテインセイン大統領と会談。来年早期の新規円借款供与を伝達。
19日 テインセイン大統領とタイのインラック首相,ダウェイ経済特区構想で,外国政府や外資からの開発資金の共同誘致で合意。
23日 大韓貿易投資振興公社(KOTRA),ミャンマーの貿易投資振興機関(MYTRA)設立への協力を表明。
29日 政府,ザガイン地域レッパダウン銅鉱山に対する抗議デモに対し,催涙ガスなどを使用して強制排除。
29日 ベトナムのチュオン・タン・サン国家主席,来訪。テインセイン大統領と会談。
  12月
1日 テインセイン大統領,レッパダウン銅鉱山に関する独立委員会設置を発表。
11日 日本政府,ミャンマーとの投資協定締結に向けた交渉会合開始。
16日 ヤンゴンで約5万人規模の初の野外コンサート開催。
21日 日本政府,ミャンマー政府と「ティラワ経済特区」開発の覚書締結を発表。
29日 ミャンマー政府軍,KIO本拠地ライザ空爆。

参考資料 ミャンマー 2012年
①  国家機構図(2012年12月末現在)
②  2012年に制定された主な法律
③  連邦政府閣僚(2012年9月7日内閣改造時点)

主要統計 ミャンマー 2012年
1  基礎統計
2  産業別国内総生産(実質)
3  国家財政
4  国際収支
5  国別貿易
6  品目別貿易
 
© 2013 Institute of Developing Economies JETRO
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