2014 Volume 2014 Pages 619-644
2013年のアフガニスタンはカルザイ大統領の訪米と米軍駐留についての意見交換で幕を開けた。2014年末のアフガニスタン駐留米軍・北大西洋条約機構(NATO)軍の撤退完了まであと2年を残し,2013年は順調にスタートを切ることが当初は期待された。
だが6月18日の治安維持権限移譲の式典の当日,アメリカ政府高官はアフガニスタンの正常化に向けた対ターリバーン交渉を6月20日にカタールの首都ドーハで開催すると発表,翌19日にカルザイ大統領はカーブル政権を無視しての交渉であると反発してアメリカを非難し,ターリバーンとの交渉開始を撤回する声明を出した。6月25日にはターリバーン武装集団がカーブルの大統領府近くで自爆攻撃を行うなど対立が激化,7月初めにはドーハのターリバーン事務所も閉鎖され,ターリバーンを含むアメリカ・アフガニスタンの3者交渉は頓挫した。
2014年末の撤退期限が次第に迫るなか,11月21日からはアメリカの駐留軍撤退に向けた「安全保障協定」を議論するロヤジルガ(国民大会議)が開催された。ロヤジルガは4日間の議論の末,カルザイ大統領に「安全保障協定」の年内署名を求める決議を採択して閉幕,これで米軍・NATO軍の撤退に向けての実務的調整に入るものと期待された。ところがその直後からカルザイ大統領は署名の先送りを表明,翌25日のスーザン・ライス米大統領補佐官との会談では新たな要求を持ち出すなどし,アメリカ側が2014年末以降の駐留継続を断念する可能性すらも出てきている。
経済的にもアメリカ軍の撤退が迫るなか,国内投資が急減して経済成長は減速傾向が続き,他方で2013年のケシ栽培は空前の規模に達した。また外交面ではアメリカの軍事的プレゼンスが今後中長期的に縮小するなかで,パキスタンに加えイランおよびロシアの影響力が静かに増大してきている。
2014年末の駐留米軍・国際治安支援部隊(ISAF)軍撤退以降のアフガニスタン情勢を決定づけるもっとも大きな要因は,カーブル政府,アメリカ,ターリバーン勢力の3者の間での事前の交渉にある。
アメリカおよびカーブル政権とターリバーン勢力との交渉については,2013年2月13日にパキスタン・ウラマー協会のアッラーマ・ターヒル・マフムード・アシュラフィー議長がカーブルで開催予定の平和会議への出席取り止めを表明した。これはカルザイ政権主導の対ターリバーン交渉にとって手痛い打撃となった。
その後カルザイ大統領が駐留米軍・NATO軍に代わり国内全土の治安維持権限を保有すると宣言した6月18日に,アメリカの政府高官がアフガニスタンの正常化へ向けたターリバーンとの交渉を20日からカタールの首都ドーハにおいて開始すると発表した。ところがこれに対して翌19日にカルザイ大統領が「和平交渉に関するアメリカ側の言行不一致」を非難し,2014年末以降の米軍駐留に関する協議と対ターリバーン交渉の開始を撤回する声明を出した。
カルザイ大統領がこの時点でアメリカの仲介によるターリバーンとの交渉を蹴った大きな理由は,ドーハのターリバーン事務所がカタール高官の前で「アフガニスタン・イスラーム首長国」というターリバーン実効支配時代の国名を記した記章と彼らの白い旗を掲げていたからである。
結局,ドーハでのアメリカとターリバーン勢力の間の交渉は一度も開かれることなく,7月7日にはドーハのターリバーン事務所が閉鎖したとアメリカ側が公表するに至った。その後15日にはカーブル政府側のアフガン平和最高会議のサラーフッディーン・ラッバーニー議長(2011年9月に暗殺されたブルハーヌッディーン・ラッバーニーの息子)がカタールでの交渉不調にもかかわらずターリバーンとカーブル政府側との交渉自体は継続する旨を明言,和平合意前の停戦合意を含む具体的な交渉プロセスにも言及した。
その後アメリカ側の動きとしては,5月11日のパキスタン総選挙において勝利したナワーズ・シャリーフ首相とケリー米国務長官が8月1日にイスラマバードにおいて会談し,その際シャリーフ首相側がアフガニスタンにおける和平実現のため対ターリバーン交渉を支援すると明言している。ケリー国務長官もパキスタン北西部におけるアメリカの無人機攻撃の近い将来の停止可能性に言及した。
他方でターリバーン指導者のムッラー・ウマルは,8月6日にイスラームの断食明けの声明のなかで「アフガニスタンに外国軍が駐留するかぎり,たとえどんなに少数であっても我々はこれを占領とみなして解放のための戦いを継続する」と明言し,ターリバーン側が交渉の席で妥協する余地の少ないことを印象づけた。8月21日には,6月から和平交渉のためにドーハ入りしていたターリバーン側の代表団がすでに全員引き揚げたことが明らかとなり,6月以来の交渉開始の試みが完全に不調に終わったことを印象づけた。
その直後からの新たな動きとしては,8月26日にカルザイ大統領がパキスタンを訪問した際,シャリーフ首相との会談でターリバーンのナンバー2であるムッラー・アブドゥル・ガニー・バラーダルの釈放を要求した。これに応ずる形でパキスタン当局は9月11日,バラーダルを近く釈放の予定であると明かし,その後10月30日にはアフガニスタン側の和平交渉団が近くパキスタンを訪問し,バラーダルと会談の予定であると発表している。
だがカーブル政権側が交渉開始の頼みの綱としていたバラーダルについて,ターリバーンのムジャーヒド報道官は12月22日の段階で「バラーダルは我々の和平交渉の責任者ではない」との声明を出して引導を渡す形になった。
こうしてアメリカ側・カーブル政権側ともに,対ターリバーン交渉はその端緒をもつかめないままに2013年が過ぎ,アフガニスタンでは2014年4月の大統領選挙以前に交渉が大きく進展する可能性はほとんど無くなったといわざるをえないのである。
ターリバーンの攻撃今年も続く上述のようにアメリカおよびカーブル政権とターリバーン側との交渉が軌道に乗らないなかで,ターリバーン武装勢力によるアフガニスタン各地でのテロ活動を軸とする武装攻撃は2013年を通じて一向に衰える気配はなかった。ターリバーン勢力によるさまざまな形態での武装攻撃の最近における特徴のひとつは,彼らの攻撃目標が従来に増して知名度・攻撃難度ともに高いものに移ってきているということである。
そのような事例を具体的に列挙すれば,4月6日にザーブル州でターリバーンによる自爆テロが発生し,アメリカ兵3人と外交官を含むアメリカ人2人およびアフガニスタン人3人が殺害されている。6月10日には未明に武装勢力がカーブル空港の軍事施設を襲撃しており,犯人7人のうち5人を射殺,2人は自殺に終わった。翌11日にはカーブル市内の最高裁判所近くで自動車を使っての自爆テロが発生し,裁判所職員ら15人が死亡した。さらに同月25日にはカーブルの大統領府近くで武装集団が車を爆破,その後1時間半の戦闘により大統領府の警備員3人が死亡している。この事件は児童の登校時間帯に重なったため,あわや大惨事になるところであった。
9月に入ると13日の早朝に,西部の中心都市ヘラートのアメリカ総領事館がターリバーン勢力による襲撃を受け,アフガニスタン人警察官ら3人が死亡した。ただし総領事館職員は全員無事であった。11月にはカーブル教育大学の近くで自爆攻撃が発生し,市民12人が死亡している。この現場は同月21日から将来的な米軍駐留について話し合うロヤジルガ(国民大会議)が開催される会場の予定地付近であり,これに合わせて人心の動揺を狙ったものであることは疑いない。
こうした攻撃の傾向の変化を受けて,米軍側は2013年の秋から冬はターリバーン側からの攻撃が減少せずに継続するだろうと警戒していた。こうしたなか12月25日の未明には,ターリバーン武装勢力がクリスマスを祝うカーブルのアメリカ大使館にロケット弾2発を撃ち込んでいる。この時は人的被害はなかった。
またターリバーンの攻撃目標はアフガニスタン人などを標的とする場合でも,より「高い効果」を期待するものとなってきている。5月20日にはバグラン州の州議会前で自爆テロが発生,反ターリバーン闘士だったラスール・モフセニー州議会議長を含む14人以上が死亡した。また9月5日にはターリバーンに関する本の著者であるインド人のスシュミタ・バネルジー女史が深夜パクティカー州の自宅から連れ去られて殺害されるという事件が発生している。これはパキスタン側に拠点をもつハッカーニー・ネットワークによる仕業であったが,犯人2人はその後アフガニスタン警察によって逮捕された。さらに10月15日にはローガル州のポレアーラム・モスクにおいてマイクに仕掛けられた爆弾が爆発し,カナダ国籍でカルザイ大統領にも近い地方高官のアルサラー・ジャマール氏が死亡している。
国際援助機関などに対するターリバーン勢力からの攻撃も頻発した。5月24日の午後4時頃,ターリバーンの武装集団がカーブルにある国際移住機関(IOM)の宿泊施設を襲撃,6時間以上の銃撃戦となって警備員・警察官2人が死亡した。これを受けて国際支援機関はアフガニスタンにおける活動の安全確保について懸念を表明している。また7月2日の未明にはカーブル市内の外国軍請負業者の倉庫においてターリバーンによる自爆テロがあり,7人が死亡した。8月26日にはアフガニスタン西部のヘラート州で,世銀の融資により農業開発省が企画した農村プロジェクトに従事していた6人のアフガニスタン人をターリバーンが殺害した。11月26日にもウルズガーン州で村落レベルの開発プロジェクトに従事していたアフガニスタン人職員3人が遠隔操作の爆弾によって死亡している。翌27日には北西部ファーリヤーブ州で,フランスの援助団体による識字教育プロジェクトのアフガニスタン人職員6人が襲撃により殺害された。
こうした攻撃についてターリバーン側からの注目すべき指令としては,1月12日にパキスタン・ターリバーン運動(TTP)のメスード司令官が北ワジーリスタン地区でアフガニスタン駐留外国部隊との「ジハード」(聖戦)に専念するため,パキスタン軍に対する攻撃の停止を呼び掛けている。4月27日にはターリバーンが春の攻勢で外国軍兵士に対するアフガニスタン国軍・治安部隊のインサイダー攻撃(内部の兵士による攻撃)を強化する旨表明した。また前述のように8月6日にはターリバーン指導者のムッラー・ウマルが断食明けの声明で「アフガニスタンに外国軍が駐留するかぎり戦いを継続する」と明言している。
「安全保障協定」をめぐるアメリカとカルザイの攻防2013年の当初,アメリカのオバマ大統領とカルザイ大統領は2014年の駐留軍撤退に向けた交渉を互いにスムーズに進めるべく準備を進めていた。1月7日にカルザイ大統領は2014年末の米軍撤退に向けたオバマ大統領との会談のため訪米している。翌8日にホワイトハウスのローズ大統領副補佐官は,2014年末以降のアフガニスタン米軍の「駐留ゼロ」案に初めて言及し,カルザイ大統領の側に交渉の圧力を掛けた。2日後の1月10日にカルザイ大統領はパネッタ米国防長官とワシントンの国防総省で会談し,2014年末以降の米軍駐留規模について意見交換を行った。その後11日にオバマ大統領とホワイトハウスにおいて会談,アフガニスタン駐留米軍の主要任務を側面支援に切り替える方針で合意した。
こうした協議を前提に,オバマ大統領は1月21日に2期目の就任演説でアフガニスタンでの12年間に及んだ戦争の終結に言及し,「アフガニスタンの平和のためとはいえ,終わりのない戦争は必要ではない」と語ってアメリカ軍の撤退の意味を確認している。さらに2月3日にはパネッタ国防長官とデンプシー統合参謀本部議長がアメリカのNBCに出演,2014年末以降の米軍のアフガニスタン駐留継続による平和維持の必要性を強調した。
2月12日の一般教書演説においてはこうした経緯を受けて,オバマ大統領はアメリカの財政負担軽減のために「現在約6万6000人いるアフガニスタン駐留米軍のうち,3万4000人を2013年末までに撤収する」との計画を表明した(実際には計画が少し遅れ,2014年2月25日現在で3万3600人が駐留している)。
ところがこうした協議の過程で蓄積していたカルザイ大統領のアメリカ側の対アフガニスタン政策全般に対する不信感は極限に達し,他方でターリバーン側との交渉も一向に進まないなかで2014年4月の大統領選挙以降に自らの影響力をどう残していくかという計算も働いて,カルザイ大統領のアメリカ側とのギリギリの「腹の探り合い」が2013年の末を越えて続いていくのである。
まず2月10日にはジョン・アレン米軍・ISAF軍総司令官が19カ月間にわたったアフガニスタンでの任務を終え,ジョセフ・ダンフォード総司令官に引き継いで任地を離れた。だがこの時の式典をカルザイ大統領は欠席している。その後21日にはNATO国防相会議が開幕し,アフガニスタン国軍の教育訓練を担うべき国際部隊の編成作業を行うための枠組みが協議されたが,これも米兵の刑事訴追の免責をめぐるアメリカとアフガニスタンの間の確執で決まらなかった。
その後24日にアフガニスタン政府はワルダク州での米軍精鋭部隊の活動禁止を突如表明し,関係者に当惑が広がった。この問題はその後3月20日に米軍・ISAF軍のダンフォード総司令官がワルダク州からの米軍特殊部隊の撤収に関してカルザイ大統領と合意し,7月になってワルダク州の米特殊部隊の通訳だったザカリア・カンダハリーが殺人・拷問および窃盗の容疑で逮捕されて一件落着となったものの,アメリカとアフガニスタンの両国間に拭いがたいしこりを残した。
また3月10日にはヘーゲル米国防長官がカーブルを訪問の最中,カルザイ大統領がテレビ演説でアメリカの対ターリバーン姿勢について「表では戦っていても裏で実際は交渉している」と痛烈に批判,2日後の12日には米軍批判をさらに激化させ,在留米軍は翌日,これに反応しての市民からの攻撃に備えて警戒を強化したほどである。
3月25日にアメリカは懸案だったバグラム収容所の移管を完了し,同日ケリー国務長官がカーブルを電撃訪問して関係改善に向けカルザイ大統領と会談している。これを受けてカルザイ大統領は5月9日にカンダハール大学で演説中,米軍がアフガニスタン国内基地9カ所の駐留継続を要求しており,アフガニスタン政府としてこれを受け入れる方針である旨発言した。
他方オバマ大統領は5月31日に,NATOのラスムセン事務総長とホワイトハウスで会談し,2014年末以降のアフガニスタン支援のあり方を協議するため2014年中にNATO首脳会議を開催することで合意している。
その後6月18日にはカルザイ大統領が駐留米軍・NATO軍に代わり,国内全土の治安維持権限を保有する旨宣言した。2011年7月以降の治安権限の移譲プロセスはその後数カ月で完了したことになる。治安権限移譲の式典にはアフガニスタンを電撃訪問したラスムセンNATO事務総長も招かれた。
ところがカルザイ大統領とアメリカ側の関係が再度暗転するのがこの同じ日,上述のようにアメリカ政府高官がドーハでの対ターリバーン交渉を開始すると発表した直後からである。その後は対ターリバーン交渉についてもアフガニスタンとアメリカの間の連携関係はほとんどみられず,互いにパキスタンのシャリーフ首相を仲介にしてターリバーンとの独自の交渉を模索するようになる。
こうして両国間の信頼関係が完全に損なわれたなかで,10月6日にカルザイ大統領はアメリカとの駐留米軍撤退交渉について協議するロヤジルガを1カ月以内に開催する旨表明した。これを受けて11日にはケリー米国務長官がカーブルを電撃訪問してカルザイ大統領と会談,2014年末の撤退以降の「安全保障協定」について2日間を費やして協議を行った。しかしここでもアフガン側による米兵の追訴権をめぐっては最終合意に至っていない。
その後はロヤジルガ開催直前の11月20日になって,アメリカ・アフガニスタン両政府の間で2014年末以降の米軍駐留に向けた「安全保障協定」の最終案について合意に至った。これを受けて21日から4日間の日程で開催されたロヤジルガにおいては国会議員や地方の有力者など2500人が参加し(ただし会議で米軍による市民の殺傷への謝罪を期待されたケリー米国務長官は出席せず),最終日の24日にはロヤジルガとして米軍の駐留継続に向けた「安全保障協定」への年内署名をカルザイ大統領に求める決議を採択して閉幕したのである。
ところが米軍関係者が安堵したのも束の間,カルザイ大統領はその直後から署名の先送り姿勢を鮮明にし,翌25日にスーザン・ライス米大統領補佐官がカルザイ大統領と会談して「安全保障協定」の速やかな署名を求めたのに対してもカルザイ大統領側から民家への軍事作戦停止など新たな要求を出すに及んだ。その後28日には駐留米軍・ISAF軍のダンフォード総司令官がカルザイ大統領の署名先送り姿勢を批判,12月3日に開かれたNATO外相会議ではアフガニスタンとの「安全保障協定」締結の調印期限について協議が行われている。翌4日にはアフガニスタンの外相および内相も招かれてISAF参加国の会合が開催された。
米軍およびNATO軍としてはアフガニスタンのみならず地域的な安定の観点からも,アフガニスタンにおける駐留継続は維持すべきということで見解が一致しているものと思われる。だが事態の展開によっては最悪の場合,イラクと同様に兵員を完全撤退させることも選択肢として残しているということであろう。
またここまでの経緯をみると,カルザイ大統領にしても,アフガニスタンをめぐる情勢判断としては米軍の駐留が必要不可欠であると認識しているものと思われる。それは「国民の意思を最高に体現する」アフガニスタンの最高意思決定機関であるロヤジルガをわざわざ招集して,米軍駐留継続のための「安全保障協定」を承認させ,そのうえで大統領の署名のみについて最後の抵抗を試みるという巧妙な戦略をとり,アメリカと対等に渉り合う姿勢を示すことで自らの影響力を当面保持するというカルザイ大統領自身の行動からも明らかであろう。
ただしこれはいうまでもなくアフガニスタンの国益には明らかに合致しない行為であって,本来ならばより長期的かつ本質的な問題について取り組むべき2014年末の駐留軍撤退完了までの限られた時間が,きわめて意味のない茶番劇によって空費されているという側面は否定しようがないのである。
2014年4月の大統領選挙実施に向けて2013年のアフガニスタンの国内政治を規定したもうひとつの要素は,2014年の4月に予定されている大統領選挙であった。2004年1月に憲法制定ロヤジルガで承認・採択されたアフガニスタンの現行憲法では,第62条に「どのような人物も2期を超えて大統領に選出されることはできない」と規定されている。このためカルザイ大統領はこの憲法を改正しないかぎり,その任期を2014年4月以降まで延長することはできない。そこで2012年以来,カルザイ大統領が次の大統領選挙を前にどのような行動に出るかが注目されていた。これが2013年7月17日にカルザイ大統領自らが国政選挙の選挙監視に関する法律を承認したことで,実際に2014年4月の大統領選挙が実施されるという方向で具体的な前進がみられたのである。
7月22日にアフガニスタン国会はゴラーム・ムジュタバー・パタング内務相の罷免を決議した。その理由は同氏をめぐる汚職の蔓延に加えて最近数カ月間のターリバーンなどの攻撃によるアフガニスタン治安維持軍兵士3000人超の人的犠牲の責任問題であった。だがこの時点でカルザイ大統領は国会決議の承認をいったん拒否し,9月1日になって腹心の在パキスタン大使であるウマル・ダーウードザイを内務相に任命する。
この人事決定はカルザイ大統領がダーウードザイ氏を彼の後継者に選択しなかったことを意味するものとして物議をかもした。ダーウードザイ氏はこれに先立つ8月17日に次期大統領選挙への立候補を示唆していたからである。そこでカルザイ大統領の意中の後継候補は誰かという点に関心が集まり,それはザルマイ・ラスール外相ではないかという推測を呼んで,同氏の去就が注目されることにもなった。
その後10月6日には大統領選挙の立候補申請が締め切られ,期日までにアシュラフ・ガニー元財務相ほか27人が届け出を行った。同月22日には独立選挙管理委員会によって公認の立候補者が27人から10人へと絞られた。前述のザルマイ・ラスール氏はこの後の10月28日に外相職を辞任し,カルザイ大統領の後継者として大統領選への立候補を表明する。カルザイ大統領は後任の外相にアフマド・モクベル・ザラール氏を任命,11月20日に選挙管理委員会は大統領選挙の資格審査を通った公認候補者を最終的に11人と発表し,ここに大統領候補者が出揃ったことになる(表1)。
(出所) Wikipediaおよび各種報道から筆者作成。マルで囲んだ番号は2013年12月時点における主要候補である。3,4,6の候補者はのちに立候補を辞退した。
2013年にアフガニスタン問題とのかかわりで大きく注目されたのが,2012年10月パキスタン北西部のスワート渓谷でターリバーンによる銃撃を受けて重傷を負ったマラーラ・ユースフザイ(当時15歳)のその後の経緯である。マラーラは2009年頃からブログで地域の現状と女子教育の必要性を訴え,パキスタン政府からは英雄視されていたが,ターリバーン側は「反イスラーム的」として標的にしていた。マラーラは頭部などに2発の銃弾を受け瀕死の重傷を負ったが,その後イギリスに搬送されて2013年2月3日に頭部手術に成功,傷もほぼ回復した。
こうした過程でマラーラが次第に国際的なスポークスマンとして注目を浴びるようになった背景には,明確な信念をもった学校経営者である父親のズィヤーウッディン・ユースフザイの存在もさることながら,『ニューヨーク・タイムズ』記者のアダム・エリックらの2009年以来の支えもあった。だが同時に国際メディアへの露出がターリバーンによる銃撃を導いたことも明らかである。
マラーラは2013年の7月12日,彼女の16歳の誕生日の機会にニューヨークの国連本部で2007年12月に暗殺されたパキスタンのベーナズィール・ブットー元首相のショールをまとって演説し,パキスタンに住むパシュトゥーン人の女性や子供たちの声を代弁して教育の重要性を世界に訴えた。彼女は「自分を撃ったターリバーン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして,彼が私の前に立っていたとしても,私は彼を撃たないでしょう」と発言して現在でもターリバーンを敵視している訳ではないことを呼び掛けた。
だがこれに対してターリバーンの主要メンバーであるアドナン・ラシード司令官が,演説の直後に英文の公開書簡をマラーラ宛に送付し,彼女の主張に正面から反論したことをイギリスの「チャンネル4」が報じた。公開された書簡によると「ターリバーンがあなたを襲撃したのはあなたが学校に行っているからでも教育を愛しているからでもない…あなたが意図的に反ターリバーン的なことを書き,スワート渓谷にイスラーム的な統治を確立しようとする彼らの努力に泥を塗ろうとしたからだ」「あなたは教師やペンや本が世界を変えるという。確かにそうだが,それはどの教師,どのペン,どの本がなのか?…預言者ムハンマドは自分が教師としてまた本としてこの世に送られたと語っている」。
またこの書簡の別の箇所では欧米列強の少数のエリートによる「新世界秩序の名のもとに全人類を奴隷化しようとする」邪悪な陰謀と闘うべきだと主張する。ここではきわめて明瞭な形で彼らの陰謀史観的な世界認識と武装闘争の意図が明らかにされている。同時に彼らの主張する立場がマラーラに象徴される近代市民的な立場と妥協点を見出しうる可能性がないことも自明である。ここで指摘しておかなければならないのは,こうした両者の亀裂・対立が決してパキスタンやアフガニスタンに限られたことではなく,イランからモロッコまでを含む中東北アフリカ地域の各国で同様の断絶が顕在化しているという事実である。
その後10月に入るとマラーラの名前がノーベル平和賞の有力候補として挙がっているとして欧米での報道が過熱,結局マラーラは11日のノーベル賞受賞は逃したものの,同日ホワイトハウスでオバマ米大統領と会談してアメリカのパキスタン領内における無人機爆撃の被害を訴えた。その後24日にはパキスタンのシャリーフ首相がオバマ大統領と無人機攻撃の問題について協議,オバマ大統領は明言を避けたものの「パキスタンの主権を尊重する」旨発言している。
パキスタン国内をターリバーン勢力が跋扈する現状の続くかぎり,マラーラは身体の安全を守るために国外での生活を続けなければならないだろう。翻ってアフガニスタンにおける女性の将来的な社会的進出にとって,2014年以降の政治変化がどのような意味をもつかは注目すべき点である。
11月1日にアメリカのCIAがパキスタン国境地域において無人機攻撃を行い,TTPの最高指導者ハキームッラー・マフスード容疑者らを殺害した。その後7日にTTPが最高指導者にアフガニスタンに潜伏中のモラウーナー・ファズルッラーを選出したが,同氏はマラーラの襲撃にも関わったとされる強硬派である。パキスタン・ターリバーンとアフガニスタン・ターリバーンは密接に連携しているだけに,2014年の駐留軍撤退を見据えたターリバーンの今後の動向は,アフガニスタンにおける女性問題・教育問題と人的資源開発という観点からも注目されるところである。
1980年代から長く続いている戦争状態で元々工業部門の発展が不十分なアフガニスタンの経済は,農業に依存する不安定な産業基盤しか持っていない。銅鉱山をはじめとする鉱業資源開発への潜在的な可能性については以前から指摘されているが,これも国内情勢が安定化して交通網などのインフラ施設が整備されないかぎりは十分な収益を上げることは考えられない。
2014年末の駐留米軍・ISAF軍の撤退完了が目前に迫るなか,11月のロヤジルガ閉会直後からのカルザイ大統領による「安全保障協定」への署名拒否は,アフガニスタン経済についての将来的な展望をも著しく不透明化させた。その結果として食料や燃料の価格が上昇,銀行による融資活動や個人投資の動きまでが大きく滞った。
ドル買いの急な増加によるアフガニスタン通貨アフガニーの下落から,カーブル市内では冬の薪代までが12%ほど高騰したと報告されており,2015年以降の外国援助の減少が予想されるなかで,アフガニスタン政府が近い将来に財政的な自立を実現できる見込みもない。すでに大量の失業者を抱えているアフガニスタンの労働市場では,今後は年間40万人の新規参入が予想されているが,これに対して就労の機会は減少するばかりである。
世界銀行の発表によれば2013年のアフガニスタンの経済成長率は2012年の14%から3.1%へと急激に減速しており,新規事業の登録についても2013年の上半期には前年同時期の3500件から2000件へと急減している。アズィーズィー銀行の事例でみると,銀行の融資活動については審査基準が軒並み引き上げられ,融資総額も半分以下になったという。
このアズィーズィー銀行の例ではほかの産業セクターと同様に資本金は外国資本が大きな割合を占めており,業務の内容としてはインフラ建設などの外国援助による事業とアフガニスタン政府職員への給与支払い(すべて満額ではなくしかも外貨払い)が主な柱である。
こうした環境下で7月初旬には,アフガニスタン政府の汚職追放と人権擁護に向けての取り組みについての評価報告書が国際機関職員などによって出された。これによると今後の援助継続のための必要な要件として,(1)自由で公正な選挙の実施,(2)人権状況の改善と女性への暴力の撲滅,(3)資本の信用度と透明性の改善,(4)地方の治安状況の改善,(5)着実な経済発展,が挙げられている。
評価報告書によるとアフガニスタン政府は,現状においてこれらの項目のほとんどについて国際的に求められる水準に達していない。たとえばアメリカの援助によって設立された国営の軍病院における伝染病の蔓延や劣悪な環境,職員による賄賂の要求などが『ウォールストリート・ジャーナル』紙によって2011年に報道されている。
また3月5日には裁判所が,2010年に公になったカーブル銀行の汚職事件でシャルハーン・ファルヌード前会長とハリールッラー・フローズィー前CEOの2人の経営トップを含む21人の役員に有罪判決を言い渡したが,結局最高刑を課すには至らなかった。欧米人関係者によれば,これによって2人の経営者が着服した巨額のドル資金を銀行資金として戻すことは著しく困難になった。
他方で2013年はアフガニスタンにおけるケシ栽培が過去最大規模の収穫量を記録した年でもあった。アフガニスタンにおける麻薬生産はこれまでターリバーンなど反政府勢力の主要な資金源となり,カルザイ大統領の周辺でも麻薬生産による不当な収入を摘発される政治家が出るなど,カーブル政府の腐敗の源にもなってきた。
国連薬物犯罪事務所(UNODC)が6月26日に発表した『2013年麻薬報告書』によると,2013年のアフガニスタンにおけるケシ栽培面積は前年比36%増の20万9000ヘクタールという空前の規模に達しており,生産量は前年比で49%の増加を記録した。現在アフガニスタン全34州のうち19州が実際にケシ栽培にかかわっているとされる。
過去10年以上に及んだアフガニスタンにおける麻薬撲滅の国際的な取り組みは明らかに大きな曲がり角にきている。国連は2001年以来麻薬撲滅のために60億ドルを投じてきており,代替作物の奨励を進める一方で2012年には生産された麻薬の14%を没収,密輸業者4000人を摘発した。だが2012年には品薄のため麻薬の取引価格が高騰し,現在では駐留外国軍も麻薬撲滅のための兵士の動員を控えている。アフガニスタン政府側はこうした現状について,むしろ国際的な需要国側の対策こそが必要だと主張している。
麻薬常習者の増大も近年顕著であり,上記報告書よるとアフガニスタン国内の麻薬常習者は160万人(全人口の5.3%)と世界でも最悪の水準に達している。国連機関によると同国のアヘン吸引者は2005年から2009年の間に倍増しており,ヘロインの使用者数も4割ほど増加した。
2001年の米軍駐留以降,国際的な支援の努力によって復興が達成された分野も少なくないことは事実である。年齢20歳以下が60%を占めるという若い人口構成の国であるアフガニスタンで,保健・衛生・教育・社会インフラの各部門でこの10年間に顕著な改善がみられた。アフガニスタン人の平均寿命は,以前は40歳前後であったのが近年では60歳以上にまで急伸し,就学児童数も以前は90万人程度であったのが現在では800万人を超えている(うち女生徒は260万人)。2002年に50キロメートルほどしか整備されていなかった舗装道路は現在では1万1920キロメールにも及び,アフガニスタン国内の各都市を結んでいる。アフガニスタン国民の3分の2ほどが携帯電話を持つようになり,同様に6割の国民が日常的にテレビを観ているという。
だが問題はこの10年余りにわたり国際的な復興援助によって積み重ねられてきた成果が,将来にわたってアフガニスタン国民の自助努力によって継承・発展させていけるのか否かである。ある証言によると,アフガニスタン人外交官の実に60%以上が将来的にも母国に帰国しない道を選択している。2014年の駐留軍撤退以降の情勢が不透明さを増すなかで,アフガニスタンからの頭脳流出の拡大は同国の将来的な経済発展にも深刻な影響を与えかねない。
アフガニスタンにとって現在もっとも重要な外交的パートナーであるアメリカとの関係についてはすでに述べた。ここでは重要な隣国であるパキスタン,イラン,およびロシアとの2013年の外交関係についてアメリカとの関係も交えつつ概観しておく。
パキスタンとの関係アフガニスタンとパキスタンの外交関係は,2013年も引き続きターリバーン(アフガニスタン・ターリバーンとパキスタン・ターリバーン)をめぐり混沌とした政治的駆け引きという側面が多くみられた。同時にアメリカにとってはアフガニスタンの情勢安定のためのもっとも重要な課題が,パキスタンとの関係改善であるという認識があり,その意味で5月に行われたパキスタン初の「民主的」総選挙でナワーズ・シャリーフ元首相が勝利したことの意味は大きく,欧米諸国はこれをパキスタンにおける民主化の進展として歓迎した。
こうしたパキスタン側の変化を背景にオバマ米大統領は10月24日には訪米したシャリーフ首相と会談し,アメリカのCIAによるパキスタン領内での無人機攻撃の中止について協議している。パキスタン防衛省はその直後に2008年以来のアメリカの無人機攻撃による一般人死者数の推計が死者総数2227人中のわずか67人であったと大幅に下方修正し,関係者を驚かせた。
だがその直後,11月1日にはCIAがアフガニスタン・パキスタン国境地域で再び無人機攻撃を行い,TTPの最高指導者ハキームッラー・マフスード容疑者と側近3,4人を殺害した。これに対してパキスタン政府は和平交渉への障害として態度を硬化,野党「パキスタン正義行動党」も無人機の運用が続く場合,NATO駐留軍への物資の補給路の遮断がありうるとアメリカ側に警告を発した。
こうしたなかでカルザイ大統領とパキスタンのシャリーフ首相とは両国間の新たな連携への道を独自に探っている。7月15日にはアフガニスタン平和最高会議のサラーフッディーン・ラッバーニー議長がカタールの首都ドーハでの対ターリバーンの交渉が不調に終わったにもかかわらず,ターリバーンとの交渉自体は継続すると明言。これに対し7月21日には,パキスタンのトップ外交官であるサルタージュ・アズィーズ国家安全保障外交特別補佐官がカーブルを訪問し,アフガニスタン政府との関係改善のための話し合いを行った。その後8月26日にはカルザイ大統領がパキスタンを訪問し,シャリーフ首相との会談でターリバーンのナンバー2であるムッラー・アブドゥル・ガニー・バラーダルの釈放を要請した。9月11日にはパキスタン当局がバラーダルの釈放を予定していると明言,その後アフガニスタン・ターリバーン側からバラーダルが10月9日の時点でパキスタン当局によって釈放されている事実はないと発表されたものの,10月30日にはアフガニスタンの和平交渉団が近くパキスタンを訪問し,バラーダルと会談する予定であると発表するに至った。
ただしその後2013年末に至るまで,パキスタンを介してのカーブル政府とターリバーンの交渉が軌道に乗ったとは決していえない。11月30日にはパキスタンのシャリーフ首相がカーブルを訪問してカルザイ大統領と会談したものの,対ターリバーン交渉に関して具体策が話し合われることはなかった。さらに12月22日にはターリバーンのムジャーヒド報道官が「バラーダルは和平交渉のターリバーン側責任者ではない」との声明を出し,カーブル政府によるこのトラックでの和平交渉は事実上頓挫した形となっている。
イランとの関係イランでは6月14日に第11回大統領選挙が行われ,その結果欧米諸国に対して挑発的な発言を繰り返してきたアフマディネジャード大統領が退陣してより穏健なハサン・ロウハーニー大統領が登場した。その後8月に発足したロウハーニー政権にとって当面の最大の課題は外交問題の解決であり,とりわけ2002年8月以来の核開発問題に終止符を打って国内的な経済危機を乗り切り,政権の安定性を取り戻すことが急務である。
こうしたイラン側の欧米諸国との関係改善への積極的な姿勢に対し,アメリカのオバマ政権は2011年初頭の「アラブの春」以降の不安定化した中東地域全体へのアプローチの一環としてイランとの関係改善を位置づけている。シリア情勢への対応と並んで2014年末の駐留米軍撤退後のアフガニスタン情勢の安定化のために,1979年のイラン・イスラーム革命以来のアメリカの対イラン関係の一定程度の修復はきわめて大きな意味をもっていると考えているからである。
ただ他方でイランは隣国のアフガニスタンで米軍の駐留が続くことへの警戒感が根強く,ロウハーニー・イラン大統領は2013年12月8日のカルザイ大統領のイラン訪問の際にもこのことを明言している。
2014年4月5日に予定されているアフガニスタンの大統領選挙においてアブドゥッラー・アブドゥッラーなどの旧北部同盟系の候補者が当選した場合,民族的にもイラン系に近いタジク民族の大統領が誕生することとなり,パキスタン側のターリバーン勢力とはこれまで以上に距離を置くと同時にイランとの外交関係を重視していくことになる可能性が高いだろう。さらにアブドゥッラー・アブドゥッラー候補は副大統領候補にハザーラ民族の指導者ムハンマド・モハッケクを迎えることを希望しており,これが実現した場合にはシーア派が多数を占めるハザーラ民族が新しいカーブル政権の一翼を担うことにもなる。
いずれにしても2014年末の駐留軍撤退までに時間的余裕のないアメリカとしては,ターリバーン内の穏健派との交渉の進展に期待するよりも,むしろターリバーンおよびパキスタンとアフガニスタンにおいて潜在的な対抗関係にあるイランとの関係を修復しておくことが,撤退後のアフガニスタン情勢の安定化のためにもより現実的な選択肢となっているものと思われる。
ロシアとの関係2013年の後半から明確化してきたオバマ米大統領の中東地域への新たなアプローチにとって,プーチン大統領のロシアとの良好な関係は欠かすことのできない要素である。イランの核交渉の進展を通じた欧米諸国との関係改善にとってもロシアの役割は重要であるが,それは同時にアフガニスタンを含めた中東地域におけるロシアの影響力の増大をも意味している。
ロシアは1979年末のアフガニスタン侵攻以来,1989年2月に撤退を完了するまでの9年間のロシア軍駐留で100万人規模のアフガニスタン側戦死者を出し,現在のアフガニスタン国民にとってはきわめて悪いイメージが定着している。それだけにロシア人のアフガニスタン国内での表立っての活動はありえないことであるが,それでも2014年末の駐留米軍・NATO軍撤退以降の新たな状況のなかで,ロシアが旧ソ連の一部を構成したトルクメニスタン,ウズベキスタン,タジキスタンなどの諸国を通じて,アフガニスタンに対する経済・社会・軍事など各分野での影響力を今後とも静かに増大させていくだろうことは想像に難くない。
対米不信を抱くカルザイ大統領のロシア寄りの姿勢も見られた。2013年9月13日に開かれた上海協力機構(SCO)首脳会議にカルザイ大統領がオブザーバー出席し,プーチン・ロシア大統領と会談した。因みに同会議ではシリア攻撃に反対する「ビシュケク宣言」が採択されている。
他方でアフガニスタンからの米軍・NATO軍の撤退は,これまで中央アジア諸国へのアル・カーイダなどテロリストグループの浸透を防いできた欧米の軍事的なプレゼンスが無くなることを意味しており,ロシア側としては,アフガニスタンに接する中央アジア諸国(旧ソ連領)における政情の不安定化に対して自前の軍隊で対応していくことを迫られることにもなる。
いずれにしてもロシアとしては2014年末以降のアフガニスタン情勢の不安定化を警戒しつつ,旧ソ連の中央アジア諸国を含む,より広域的な安定化のための重要なアクターのひとつとして再登場してくることは疑いない。2013年はロシアにとってそのための条件が次第に明確化してきた段階といえよう。
2014年末に予定される米軍・NATO軍の撤退完了まで1年を残すのみとなったが,カーブルのカルザイ政権とオバマ米大統領の関係は1年前と比べてさらに冷却したものとなった。カルザイ大統領がアフガニスタン国家の最高意思決定機関であるロヤジルガの承認したアメリカとの「安全保障協定」への署名を先延ばしにしている意図はさまざまに推測されているが,その根底にはこれまで12年間の駐留米軍の行動とその目的に対する抜きがたい不信感があることは否定できない。
2014年末の米軍撤退という時限がいよいよ目前に迫るなか,次の選挙での退任が決まったカルザイ大統領の「安全保障協定」への調印拒否は米軍・NATO軍撤退後の展望をますます不透明なものにしている。他方でアメリカ側およびカーブル政府側のいずれもターリバーンとの和平交渉を進めることに成功していない現状で,2014年末以降の段階ですぐにターリバーンがカーブル政権に加わるという選択肢も考え難くなってきていることは事実であろう。
他方で2014年末以降も米軍・NATO軍の一部がアフガニスタンに駐留を続けるかぎり(そして現状ではその蓋然性がきわめて高い),ターリバーン側は引き続き自爆テロなどを中心にした武力攻撃を長期間にわたって継続することは間違いない。その場合,2014年4月に新たに発足するカーブル政権が彼らといずれかの時期に停戦合意を実現し,さらにターリバーン勢力の一部穏健グループを早期に政権内に取り込んでいく可能性は現状においてきわめて低いものといわなければならないであろう。
2014年4月の大統領選挙で誰が当選するにせよ,これまでのカルザイ大統領とアメリカとの関係がある程度リセットされ,年末の撤退以降に向けての調整が進むことは期待されよう。だがその際にカルザイ大統領がどの程度新政権への影響力を保持するのか,また新政権がターリバーンとの和平交渉についてどのような方針を打ち出すのかなど,2013年末の時点で不確定な要素はあまりにも多い。
(地域研究センター上席主任調査研究員)
1月 | |
6日 | カンダハール州スピンボルダクで自爆犯2人が政府施設を攻撃。5人が死亡。 |
11日 | カルザイ大統領,オバマ米大統領とホワイトハウスで会談,駐留米軍の主要任務を側面支援に切り替える方針で合意。 |
16日 | ターリバーンの戦闘員5人がアフガン政府の国家保安局(NDS)を自爆攻撃。職員3人が死亡,警備員6人が負傷。 |
21日 | オバマ米大統領,2期目の就任演説でアフガニスタンでの戦争終結に言及。「平和のための終わりなき戦争は必要でない」。 |
2月 | |
3日 | アメリカのパネッタ国防長官とデンプシー統合参謀本部議長がNBCに出演し,2014年末以降の米軍のアフガニスタン駐留継続による平和維持の必要性を主張。 |
5日 | 米軍,アフガニスタンの航空会社カム・エアーの麻薬密輸疑惑についてアフガン政府との情報共有に方針転換,その見返りにアフガン政府側も適切な対応を約す。 |
7日 | 国連,アフガニスタンの贈収賄行為が2012年増加したと報告。 |
10日 | ジョン・アレン米軍・国際治安支援部隊(ISAF)軍総司令官,離任。後任にジョセフ・ダンフォードが着任。 |
12日 | オバマ米大統領,一般教書演説で財政負担軽減のため現在約6万6000人のアフガン駐留米軍のうち3万4000人を2013年末までに撤収する計画を表明。 |
12日 | 北大西洋条約機構(NATO)軍,クナール州シガール地区を空爆,一般市民9人と武装組織4人が死亡。 |
17日 | 国軍,ナンガルハール州モフマンド・ダラ地区でパキスタン・ターリバーン運動(TTP)の首領モウルヴィー・ファキール・ムハンマドを拘束。パキスタン側も歓迎。 |
21日 | NATO国防相会議開幕。アフガン国軍の教育訓練を担う国際部隊の編成作業の枠組みは決まらず。 |
21日 | NATO高官,アフガン治安維持軍を35万2000人規模で維持する計画をNATO側が検討中と明かす。 |
24日 | アフガン政府,カーブルの南西に位置するワルダク州での米軍精鋭部隊の活動禁止を突如表明。関係者に当惑広がる。 |
27日 | 早朝,ガズニー州でターリバーンと密通した警察官が同僚17人を毒殺。 |
28日 | ターリバーン,クナール州とヘルマンド州で警官10人以上を殺害との声明。 |
3月 | |
2日 | NATO軍ヘリがウルズガーン州で薪を運んでいた子供2人を誤爆で殺害と発表,ダンフォード総司令官が謝罪。 |
5日 | 裁判所,2010年のカーブル銀行汚職事件で2人のトップ含む21人に有罪判決,ただし最高刑は課さず。 |
5日 | ターリバーン武装兵,バダフシャーン州で前日誘拐した国軍兵士16人を処刑。 |
7日 | ファラーフ州で2日前と合わせ5人の警察官がケシ栽培撲滅の活動中に即席爆発装置(IED)の爆発により死亡。 |
9日 | 朝,カーブルの国防省近くでターリバーンによる自爆テロ,市民9人が死亡。前日よりヘーゲル米国防長官が初の電撃訪問。 |
9日 | 2台のトラックに乗った武装勢力がカンダハール大学に侵入,翌日政府はアメリカのCIAの教唆による犯行として非難。 |
10日 | ヘーゲル米国防長官がカーブル訪問の最中,カルザイ大統領がテレビ演説でアメリカの対ターリバーン姿勢を批判。 |
11日 | ワルダク州でアメリカ兵らに警官が発砲,アメリカ兵2人と警官3人が死亡。前日が米軍特殊部隊の退去期限だった。 |
12日 | カルザイ大統領,米軍批判を激化,翌日これに対して駐留米軍が警戒を強化。 |
20日 | 米軍・ISAF軍のダンフォード総司令官,ワルダク州からの米軍特殊部隊の撤収でカルザイ大統領と合意。 |
20日 | シャフラーニー鉱物相,中国最大の国有石油会社・中国石油天然気集団公司が近くアフガニスタンで原油生産を開始と発表。 |
21日 | アフガン暦の新年。カルザイ大統領がトルクメニスタンおよびタジキスタンと400kmに及ぶ鉄道の建設計画に調印。 |
24日 | 外務省,対ターリバーン交渉のためカルザイ大統領がカタールを訪問予定と発表。 |
25日 | アメリカ,懸案だったバグラム収容所の移管を完了(パルワーン収監所と改称)。同日ケリー米国務長官がカーブルを電撃訪問。 |
31日 | カルザイ大統領,カタールでハマド首長や外相らと会談,ドーハにターリバーンの事務所を設置する案を協議。 |
4月 | |
3日 | ターリバーン武装勢力,ファラーフ州の州都で裁判所と検察庁舎を攻撃,9時間にわたる戦闘で市民34人と警察官10人が死亡。武装勢力側も9人全員が死亡。 |
6日 | ザーブル州で自爆テロ,アメリカ兵3人と外交官含むアメリカ人2人を殺害。アメリカにとり今年最大の被害。 |
7日 | ウルズガーン州の州都近郊でアメリカとアフガニスタンが合同作戦,カルザイ大統領に近い武器商人を殺害のため緊張高まる。 |
21日 | ガズニー州でターリバーン武装勢力が攻撃,警察官6人を殺害。 |
27日 | ターリバーン,春の攻勢で外国軍に対するアフガン国軍・治安部隊の内部兵士によるインサイダー攻撃を強化すると表明。 |
29日 | カルザイ大統領,外遊先のフィンランドで「自らの事務所が過去10年間アメリカCIAから現金を受け取っていた」と暴露。 |
30日 | ヘルマンド州で路上爆弾が爆発,通常警備中のイギリス兵3人含む12人を殺害。 |
5月 | |
1日 | ナンガルハール州のアフガン・パキスタン国境で両国軍が銃撃戦,アフガン側の国境警察1人が死亡。 |
4日 | カンダハール州でISAF軍のパトロール中に爆発,アメリカ兵5人が死亡。 |
9日 | カルザイ大統領,カンダハール大学で演説中,米軍が国内基地9カ所の駐留継続を要求している旨を発言。 |
10日 | ファラーフ州の対イラン国境でイラン側の国境警察が密入国を試みたアフガン人に発砲,21人のアフガン人を拘束しているとしてアフガン政府が調査を開始。 |
13日 | カンダハール州で路肩爆弾が爆発,民間人13人が死亡。 |
16日 | カーブルで朝の渋滞時間に自爆テロ,アメリカ人の軍事顧問6人を含む16人が死亡。「カルザイ大統領が米軍の長期駐留を認めた報復」としてヘズベ・イスラーミー(ヘクマチヤール派)が犯行声明。 |
20日 | バグラン州の州議会前で自爆テロ,14人以上が死亡。 |
22日 | ヘルマンド州のサルマー・ダム・プロジェクトを警備する警官6人が強力な路上爆弾により死亡。 |
28日 | キルギスタン共和国のビシュケクで集団安全保障条約機構(CSTO)が非公式に首脳会談を開催。2014年末以降に備え,アフガニスタン情勢への対応策を協議。 |
29日 | アメリカ,パキスタンの北ワジーリスタンで無人機攻撃,TTPナンバー2のワリーウッ・ラハマーン・マフスード容疑者を含む7人を殺害。 |
29日 | ジャラーラーバードの赤十字施設を武装勢力が襲撃,アフガン人警備員1人が死亡。赤十字職員はアフガニスタン撤退へ。 |
31日 | オバマ米大統領,NATOのラスムセン事務総長とホワイトハウスで会談,2014年末以降のアフガン支援を協議するため来年中にNATO首脳会議を開催することで合意。 |
6月 | |
11日 | アフガン駐在のアメリカの高官,ターリバーン側と戦闘によるアフガン人市民犠牲者の問題について協議中であると示唆。 |
11日 | カーブルの最高裁判所近くで自爆テロ,職員ら15人が死亡。ターリバーンが犯行声明。 |
18日 | カルザイ大統領,駐留米軍・NATO軍に代わり国内全土の治安維持権限を保有すると宣言。2011年7月以降の治安権限の移譲プロセスはその後数カ月で完了。だが式典の開始直前に会場近くで爆発,市民3人が死亡。 |
18日 | アメリカ政府高官,対ターリバーン交渉を20日にドーハで開始すると発表。 |
25日 | 早朝,カーブルの大統領府近くで武装集団が車を爆破,1時間半の戦闘で大統領府の警備員3人が死亡。 |
7月 | |
5日 | ウルズガーン州の警察食堂で昼食時に自爆テロ,12人が死亡。 |
7日 | ワルダク州の米特殊部隊の元通訳ザカリア・カンダハリーが殺人・拷問および窃盗の容疑で逮捕と発表。ワルダク州市民は安堵。 |
7日 | ドーハのターリバーン事務所が閉鎖したとアメリカ側が公表。 |
9日 | カンダハールの空軍地区内で国軍兵ランベル・ハーンがNATOとの合同軍に発砲,兵士1人が死亡。ランベル・ハーンはその後14日の朝に軍の病院から脱走。 |
17日 | カルザイ大統領が国政選挙の選挙監視に関する法律を承認,2014年の大統領選挙実施に向けて前進。 |
21日 | パキスタンの外交官,アフガニスタン政府との関係改善のためカーブルを訪問。 |
22日 | アフガン国会,パタング内務相の罷免を決議,カルザイ大統領はいったん拒絶。 |
8月 | |
2日 | ナンガルハール州でターリバーンが治安部隊の車列に攻撃,5時間にわたる銃撃戦の末,治安部隊要員22人とターリバーン側60人が死亡。 |
3日 | ジャラーラーバードのインド総領事館入口で車が自爆し,市民9人が死亡。ターリバーンは関与を否定,インド側はパキスタンの関与を疑う。 |
6日 | ターリバーン指導者のムッラー・ウマル,断食明けの声明で「アフガニスタンに外国軍が駐留するかぎり戦う」と明言。 |
6日 | アフガン東部およびパキスタンで豪雨による洪水,両国でそれぞれ80人以上が死亡。 |
21日 | ドーハよりターリバーンの代表団が全員引き揚げたことが明らかに。 |
23日 | 2012年3月11日の民家襲撃事件で起訴されていた米軍2等軍曹のロバート・ベイルズ被告に終身刑の有罪判決。 |
26日 | カルザイ大統領,パキスタンを訪問,シャリーフ首相との会談でターリバーンのナンバー2であるムッラー・アブドゥル・ガニー・バラーダルの釈放を要請。 |
30日 | クンドゥズ州で葬儀会場を狙った自爆テロ,12人が死亡。 |
9月 | |
1日 | カルザイ大統領,腹心のウマル・ダーウードザイを内務相に任命。 |
5日 | 深夜,ターリバーンに関する本の著者であるインド人のスシュミタ・バネルジー女史がパクティカー州の自宅から連れ去られ殺害される。ハッカーニー・ネットワークの犯人2人はその後アフガン警察により逮捕。 |
11日 | パキスタン当局,ターリバーンの高官バラーダルを釈放の予定と明かす。 |
13日 | 早朝,西部ヘラートのアメリカ総領事館をターリバーンが襲撃,アフガン人警官ら3人が死亡。総領事館職員は全員無事。 |
13日 | カルザイ大統領,キルギスタン共和国のビシュケクで開かれた上海協力機構(SCO)首脳会議にオブザーバー参加。プーチン・ロシア大統領と会談。 |
14日 | サマンガン州の石炭採掘の坑道が崩落,27人以上が死亡。 |
18日 | クンドゥズ州の独立選挙管理委員長アマヌッラー・アマン,ターリバーンにより狙撃され死亡。 |
24日 | ハザーラ民族の指導者ムハンマド・モハッケク,大統領選での副大統領としての立候補に向けて国会議員を辞任。 |
10月 | |
6日 | 2014年4月の大統領選の立候補申請が締め切り。期日までにアシュラフ・ガニー元財務相ほか27人が届け出た。 |
11日 | ケリー米国務長官,カーブルを電撃訪問してカルザイ大統領と会談,2014年末以降の安全保障協定について2日間協議。アメリカ兵の追訴権をめぐり最終合意には至らず。 |
15日 | ローガル州のポレアーラム・モスクで爆発,カナダ国籍でカルザイ大統領にも近い地方高官のアルサラー・ジャマールが死亡。 |
28日 | ザルマイ・ラスール外相,大統領選立候補に向けて辞任,カルザイ大統領は後任にアフマド・モクベル・ザラールを任命。 |
30日 | アフガンの和平交渉団が近くパキスタンを訪問,バラーダルと会談予定と発表。 |
11月 | |
11日 | ハッカーニー・ネットワークの幹部ナスィールッディーン・ハッカーニー,パキスタン・イスラマバードで銃撃戦の末死亡。 |
16日 | ロヤジルガの開催地付近のカーブル教育大学近くで自爆攻撃,市民12人死亡。 |
20日 | アメリカ・アフガン両政府,2014年末以降の米軍駐留に向けた「安全保障協定」の最終案で合意。 |
20日 | 選挙管理委員会,大統領選挙の資格審査を通った最終的な立候補者を11人と発表。 |
21日 | 2014年末以降の米軍駐留について話し合うロヤジルガが4日間の日程で開催,国会議員や地方有力者など2500人が参加。 |
24日 | ロヤジルガ,米軍駐留継続に向けた「安全保障協定」の年内署名をカルザイ大統領に求める決議を採択して閉幕。だがカルザイ大統領が署名先送り姿勢を表明。 |
25日 | ライス米大統領補佐官,カルザイ大統領と会談,「安全保障協定」の速やかな署名を求めるもカルザイ側が新たな要求。 |
26日 | ウォールストリート・ジャーナル紙,アフガン政府が姦通罪への石打ちの刑の復活の法案を準備と報道。 |
27日 | フランスの援助団体による識字教育プロジェクトのアフガン人職員6人がファーリヤーブ州で襲撃により殺害される。 |
28日 | 米軍・ISAF軍のダンフォード総司令官,カルザイ大統領の「安全保障協定」調印の先送りを批判。 |
30日 | パキスタンのシャリーフ首相,カーブルを訪問,カルザイ大統領と会談も対ターリバーン交渉で具体策は出ず。 |
12月 | |
3日 | NATO外相会議,ブリュッセルで開会,アフガンとの「安全保障協定」締結の調印期限について協議。 |
8日 | カルザイ大統領,イランを訪問。 |
9日 | ヘーゲル米国防長官,パキスタンのシャリーフ首相にアフガニスタンのISAF・米軍の撤退に伴う物資搬出路の再開を要請。 |
11日 | アーネスト米副報道官,ホワイトハウスの記者会見で「安全保障協定」のカルザイ大統領による署名期限を来年1月まで延期すると表明。カルザイ側からの反応はなし。 |
22日 | ターリバーンのムジャーヒド報道官,「バラーダルは和平交渉の責任者でない」との声明。 |
26日 | アフガン・パキスタン国境でアメリカの無人機が爆撃,アラブ人兵3人を殺害。 |