Yearbook of Asian Affairs
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Trends in Countries and Regions
Singapore in 2023: Steady Progress in the Transfer of Power to 4G Leadership
Ryoichi Hisasue
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2024 Volume 2024 Pages 345-368

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2023年のシンガポール

概 況

2023年のシンガポールは,政権継承への足場固めと,それに向けたスケジュールが具体化した1年であった。国内政治面では,9月の大統領選挙でターマン・シャンムガラトナム前上級相兼社会政策調整相が幅広い支持を集めて当選し,新大統領に就任した。11月にはリー・シェンロン首相が,すでに後継者に内定しているローレンス・ウォン副首相への,2024年11月までの政権継承を明言した。一方で,政権・与党の最高指導層4人の醜聞が相次いで露呈した。国内では情報やメディアが比較的統制されていることを考慮すると,ウォン次期首相の潜在的政敵を牽制・排除する意図があったのではないかと推測される。

経済面では,実質国内総生産(GDP)成長率が1.1%増(改定値)となって前年比減となり,消費者物価指数(CPI)上昇率は4.8%(改定値)と前年比で低下した。また,近年上昇を続けてきた住宅価格は,政府の積極的な抑制策によって落ち着きを見せ始めた。雇用政策については,国民優先政策(シンガポーリアン・コア)の大枠を変更することはなく,一方で一部業界に生じている労働者不足には柔軟に対応した微調整を行っている。このほか,大規模なマネー・ローンダリング事件の摘発や,ASEAN域内電力供給網の実現に向けたハブ化推進といった出来事も注目された。

対外関係面では,米中対立のなかでバランス外交の大原則を重視し,双方と友好関係を維持・深化させながら仲介人であろうとする独自の立場を強めている。米国には,地域関与が安全保障面に偏る現状の是正を提言し,新しい領域での協力拡大を模索している。一方で中国とは,3月のリー首相訪中時に,両国関係を「全方位で質の高い未来志向のパートナーシップ」に格上げすることで合意し,特に経済面ではデリスキングと正反対の実利をとった対中関与を深めている。このほか,隣国マレーシアとの関係では,「ジョホール・シンガポール経済特区」(JSSEZ)構想が急浮上し,また中止となっていた両国間高速鉄道計画も急速に再開機運が高まるなど,良好に推移した。

国内政治

固まりつつある政権継承のスケジュール

11月5日,リー首相は与党・人民行動党(PAP)の党大会席上で,「すべて順調であれば,2024年11月の結党70周年前に政権継承を行いたい」として,ウォン副首相への禅譲予定を発表した。これにより政権継承のスケジュールが明確化し,シンガポールの政治的安定が担保されていることを,改めて国内外に示した。

ウォンは,2022年4月にリー首相の後継者に決定して以降,同年6月には財務相兼任のまま副首相に昇格し,次期首相としての技量を磨くと同時に,国内でのコンセンサスを固め,国外でも認知度を高めてきた。特に2023年5月1日には,首相演説が慣例となっている全国労働組合協議会(NTUC)のレイバー・デー集会で,リー首相に代わって演説を行い,後継者としての地位が不動であることを強く印象付けた。このため次の焦点は,政権継承の具体的な実施時期となった。

これについては従来から,現行国会の任期終了(2025年)に伴い実施される次期総選挙の後に新内閣が成立するか,もしくは次期総選挙前に禅譲すると予想されていた。ただし,次期総選挙後の政権継承にはリスクもある。例えば前回の2020年総選挙には,当時,次期首相に内定していたヘン・スイーキア副首相への信任投票の意味合いがあった。しかし,結果は与党が過去最低水準に近い61.2%の低い得票率となり,野党が6議席から10議席まで勢力を拡大したことで,ヘン副首相の威信に傷がつき,後継者辞退につながった。

したがって,次期総選挙を実施する場合には,PAPが高い得票率で勝利を見込めるタイミングが鍵となる。しかし現時点では,国民の価値観や政治的意見の多様化に伴う野党伸張の趨勢は衰えていない。また国民の政権・与党支持率に直結する物価や住宅価格の上昇抑制も十分な効果を得られていないうえ,政権・与党側要人の醜聞露呈も相次いだ(後述)。このため次期総選挙の前に禅譲して,ウォン政権の成立を先に既成事実とすることで,総選挙での与党得票率の如何が政権継承に影響を及ぼす事態を防ぐ戦略に傾いたと考えられる。

いずれにしても,11月のタイミングで政権継承に向けた具体的スケジュールが明らかにされたのは,それ以前にあった2つの懸念事項が取り除かれたためと考えられる。そのひとつは,ウォンを支えるべき「第4世代」内で,彼を最高指導者として推挙しなかったと思われる者が排除された件であり,もうひとつは,9月までに実施される必要があった大統領選挙の結果が確定したことである。

相次いだ要人の醜聞露呈の謎

2023年は,「第4世代」指導層の要人にまつわる醜聞の露呈が相次いだ。5月31日,首相府はK・シャンムガム内相兼法相およびヴィヴィアン・バラクリシュナン外相が賃借している国有住宅について,その手続きが適正であったかを調査すると発表した。国内有数の高級住宅街にあるこれらの国有住宅については,5月に入ると野党側から,閣僚給与で適正賃料を支払うことが可能であるのか,入札経緯が不適切であったのではないか,敷地内の樹木を不法伐採したり公費で駐車場を整備させたりしたのではないか,といった疑惑が提起されていた。

これに対して首相府では,テオ・チーヒエン上級相兼国家安全調整相が汚職調査局に捜査を命じた。6月28日に提出された報告書では,経緯や手続きに法律違反や職権乱用はなかったと結論付けられ,これに検事総長も同意したことで落着となった。リー首相は7月3日の国会で,2人の閣僚に「全幅の信頼を置いている」と述べ,7月後半には当事者であるK・シャンムガム内相兼法相が主管する法務省から,野党やオンラインメディアなどに,「偽ニュース防止法」による訂正命令が出された。

しかし,閣僚の醜聞問題はこれにとどまらなかった。7月12日,汚職調査局はS・イスワラン運輸相が「事件捜査に協力中」と発表し,リー首相は同氏に捜査終了まで休職を命じた。同日,ウォン副首相は「汚職に一切の許容はなく,確固とした態度を保つ」と述べた。もっとも,汚職捜査局はすでに11日付でイスワラン運輸相と著名実業家のオン・ベンセン氏を逮捕していた。両者には癒着による不正行為があったと推測されているが,政府が即座に逮捕を公表せず,また容疑内容を正式発表しなかったことに,野党や国民からは疑問が呈されている。

さらに,7月17日にはタン・チュアンジン国会議長が,議長および議員の辞職と,PAPからの離党を表明した。表向きは4月の国会討論の際,最大野党である労働者党(WP)の議員による演説に対し,非常に不適切な卑語を小声でつぶやいた音声が,7月10日にネット上で流布したことで,「議長としての中立性・公平性に疑問を抱かせた」との理由であった。しかし実際は,与党所属の女性国会議員との長年の不適切交際が原因で,さらに事実関係は2020年からリー首相も把握していたことが明らかになり,対処が遅れたことに国民から批判が起こった。

政権・与党,特に最高指導層の醜聞が露呈することは,情報やメディアが比較的統制されているシンガポールでは稀である。そのうえ政権継承に加え,年内実施の必要がある大統領選挙や,近い将来に国会総選挙の可能性があるなかで,醜聞の露呈が相次いだ背景には,政治的意図があるとも考えられる。上記の問題が露呈した要人は,2022年前半に「第4世代」19人に首相後継者について意見集約をした際,ウォン副首相(当時,財務相)を推挙しなかったとされる人物の可能性があり,次期政権の安定性を確保するため,政権・与党への逆風を織り込んだうえであえて醜聞を公表し,彼らを排除・牽制したとの見方がある。

大統領選挙に向けた野党系有力候補の事前排除

2023年は憲法規定による6年ごとの大統領選挙が実施される年であった。大統領は政党政治を超えた中立的存在として,国家の象徴的・儀礼的役割を担う。しかし憲法権限上では,単独裁量での国会解散や,国民投票で3分の2以上の支持を得ていない憲法改正案の差し止めなどが可能である。また,大統領顧問会議を経たうえでの裁量で,国家準備金の引き出しや国会の同意を得ない政府支出の差し止めが可能であり,最高裁判所の長官と判事,検事総長,軍総司令官,警察長官,公務員委員長,その他法定機関長の任命・解任権も有している。

このため野党側が,政権・与党の消極的支持層を奪える有力候補を立て,大統領ポストを獲得した場合,ウォン次期首相が率いる新政権の運営に支障をもたらす可能性がある。このリスクは2011年大統領選挙で,PAP系候補のトニー・タンが独立系候補のタン・チェンボク(現在の前進党[PSP]党首)に得票率0.34%の僅差で辛勝した事態を考えると,非現実的とはいえない。同様の問題は2017年大統領選挙でも懸念された。本来,新型コロナウイルス流行がなければ,ハリマ・ヤーコブ前大統領の任期内で,リー首相から次の首相候補への政権継承が実現するはずであった。そこで大統領権力を安定的に確保・継承するため,同選挙前に立候補の資格規定を厳格化したうえ,新たに少数民族優遇制を導入してハリマ・ヤーコブを無投票当選させた。だが,この露骨なやり方は国民からの強い失望を招いた。このため政権・与党にとっては,2023年大統領選挙では国民から幅広く支持される有力候補を擁立しつつ,一方では潜在的脅威となる野党系候補を排除し,予見可能範囲での複数候補による投票選挙で,意中の大統領を誕生させることが望ましかった。

政権・与党側が特に警戒したのは,リー・シェンロンの実弟であるにもかかわらずPSPに参加し,2020年国会総選挙での同党躍進を支えたリー・シェンヤンが大統領選挙に立候補することであった。兄弟は家族間問題で長年の確執を抱え,近年,弟は政権・与党を強く批判したり,LGBTの理解普及に積極的に取り組んだりとリベラルな姿勢でも知られている。リー・クアンユーの実子というカリスマもあわせて,国民から一定以上の支持を得ている人物である。

ところが3月3日の『ストレーツ・タイムズ』紙は,リー・クアンユーの遺言取り扱いをめぐる司法手続きに虚偽があったとの容疑で,警察がリー・シェンヤン夫妻を捜査していると報じた。この報道直前,夫妻はシンガポールを離れて欧州に向かっており,以降は帰国することなく実質的な亡命状態に入っている。通常,警察は内偵中の捜査情報を伏せて逮捕後に公表するのが慣例である。また,罪科を問われている人物が大統領選挙の事前資格審査を通過するには困難が伴う。そのため一連の動きは,リー・シェンヤンに立候補を断念させるための圧力であったと考えられる。

同じく3月3日,リー・シェンヤンは『ブルームバーグ』のインタビューで,「多くの人々が私の立候補を望んでおり,検討したい」と語った。しかし,同月7日付の自身のFacebook投稿では,「姉と再会できないであろうことは,言い表しようがないほど辛い」と記して帰国が難しいことを示唆し,結果的に大統領選挙への立候補を表明することはなかった。

ターマン・シャンムガラトナム大統領の誕生

5月29日,ハリマ・ヤーコブ大統領は,再選を目指さないことを表明した。そして6月8日には,政権・与党の本命ともいえるターマン・シャンムガラトナム上級相兼社会政策調整相が,リー首相宛書簡で大統領選挙への立候補を表明した。同日の記者会見では,「国民の政治的意見が多様化するなかで,大統領は統一の象徴となる必要がある」と抱負を述べ,リー首相もその立候補は「従来一貫して示してきた,公共への奉仕と義務の精神によるもの」と賛意を示した。

ターマン・シャンムガラトナムは1957年に生まれ,地元名門校アングロ・チャイニーズ・スクールを卒業後にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で学士,ケンブリッジ大学とハーバード大学ケネディ・スクールでそれぞれ修士号を取得した。ただしイギリス留学時には,PAP政権への批判者として積極的に行動していたため,1982年には内国治安局の取り調べを受け,1987年の反体制的活動家への一斉弾圧では1週間にわたって拘留されるなど,政権・与党内では異色の経歴の持ち主でもある。1982年には金融管理局(MAS)にエコノミストとして入り,明晰な頭脳が評価されてキャリアを重ねた。2001年にPAPから立候補して国会議員に初当選し,2003年に教育相,2007年に財務相,2011年に副首相に就任したのち,2019年には「第4世代」に道を譲る形で上級相となった。高い実務能力に加え,温厚でバランス感覚に優れており,「第3世代」ではテオ上級相と並び,リー首相を最も補佐する右腕であった。また政権・与党内では比較的リベラルな姿勢で,良識的賢人として国民から幅広い人気があるため,大統領候補として衆目一致する人物であった。

ターマン・シャンムガラトナムは選挙準備と中立性確保のため,7月7日には政府内の全役職から退き,国会議員も辞した。7月13日,大統領選挙委員会は事前資格審査の受付を開始し,同月17日の締切までに合計6人が申請を行った。翌18日,選挙局はターマン・シャンムガラトナムに加え,政府投資公社(GIC)の元最高投資責任者であったン・コクソン,大手保険会社NTUCインカムの元最高経営責任者で2011年大統領選挙にも立候補経験のあるタン・キンリェンが有資格者に認定されたと発表し,投票による選挙実施が決定した。

8月の選挙運動でターマン・シャンムガラトナムは,「長きにわたる人生の目標は,公平で思慮のある包括的社会の実現であり,そのために立候補した」と述べた。これに対してン・コクソン,タン・キンリェンの両氏は,政府や政党に属さない自らの中立性を強くアピールし,支持を訴えた。

こうして9月1日に投票が行われ,ターマン・シャンムガラトナムが70.4%の得票率で圧勝した。これに対してン・コクソンは15.7%,タン・キンリェンは13.9%と,支持が伸びなかった。この結果は,PAPへの積極的支持というよりも,ターマン・シャンムガラトナムという人物が大統領にふさわしいと国民から幅広く認められたためと考えられる。9月13日,ハリマ・ヤーコブは任期満了に伴い大統領を退任し,翌14日にはターマン・シャンムガラトナムが第9代大統領として正式に就任した。

財政バランス維持への努力

2月14日,ウォン副首相は国会で,2023年度予算案(総額1237億Sドル)の演説に臨んだ。それにはいくつかの特徴がある。まず2022年度の財政収支には若干の改善が見られた。次に歳出は社会開発支出の割合が50.7%となり,なかでも教育分野が前年度比10.2%増となる一方,医療関連分野は1.9%減に抑制された。歳入は物品サービス税(GST)増税などの効果で7.1%増となった。そして,財政の持続可能性を回復させるとともに,国の経済競争力や国民の生活負担緩和も両立させたことが強調された。

具体的に見ると,2022年度の基礎財政収支は195億8000万Sドルの赤字で,これに投資運用収益組入金(NIRC)などの諸調整を加味しても20億4000万Sドルの最終赤字となった。一方で,2023年度の歳入は967億Sドル(前年度比7.1%増),歳出は1041億5000万Sドル(同2.6%増)で,諸調整した後の基礎財政収支は102億1000万Sドルの赤字と予測された。さらに,各種の基金拠出やNIRC補填などの諸調整を行うと3億5000万Sドルの最終赤字になり,前年度比では赤字幅が縮小する見通しを示した。

もっとも,今後の財政状況は楽観を許さない。基礎財政収支は長年にわたって恒常的かつ大幅な赤字で,これをNIRC補填などで緩和している。しかし,NIRC依存には限界があることから,歳入強化策として,2023年は高額不動産購入時の追加印紙税やたばこ製品税などを引き上げ,GST税率も2024年には9%となる。また,経済協力開発機構(OECD)の国際租税回避対応イニシアティブにあわせ,2025年には年間売上7億5000万ユーロ以上の多国籍企業への最低法人税率が15%に引き上げられる。それでも国民の再分配要求から,中長期的な歳出増は避けられない。

増加が予測される歳出内容は,人口高齢化による医療関連だけでなく,近年注目されている不平等の拡大や構造化を避けるための歳出もある。NPOのアクセス・シンガポールが8月に発表した調査結果では,国民の約半数が過去10年に不平等が拡大したと回答した。政府も社会活力の維持という観点から,中低所得層の貧困サイクル拡大を警戒し,是正に取り組んでいる。2023年も家計支援策「アシュアランス・パッケージ」に30億Sドルが投入されたが,一方では「ばらまき」に近い施策となることもあり,政策と規律の間で整合性が問われる場面が増えている。

経 済

景気動向

景気動向を見ると,通年の実質GDP成長率は1.1%増(改定値)となり,2022年の3.6%増から減速した。特に第1~3四半期を通じて,日米欧でのエレクトロニクス製品需要の弱さから製造業が振るわずマイナス成長となったことで,全体でも各期0.5%,0.5%,1%の増加と低い伸び率にとどまった。第4四半期に入ると,ようやく製造業が1.4%増と回復傾向を見せ,その他のセクターも堅調に推移したことから,全体では2.2%増となった。

民間エコノミストの一部では第1四半期の低成長を受け,テクニカル・リセッション(2四半期連続のマイナス成長)に陥るとの予測が出ていた。4月のMAS半期マクロ経済レビューも,0.5~2.5%増の成長予測は維持したが,見通しは不確実との見解を示した。もっとも,9月7日にはリー首相が,年内は停滞しても景気後退に陥ることはないとの見方を示し,10月のMAS半期マクロ経済レビューも,0.5~1.5%増の成長予測とともに,新たな悪材料が出ないかぎり下半期は改善する見通しを示し,結果的にこれが裏付けられた。

一方で,通年のCPI上昇率は4.8%(改定値)と2022年の6.1%を下回り,落ち着きを見せた。一昨年からのCPI上昇については国民生活に直結し,次期首相への政権継承を控えた政権・与党の支持率にも大きく影響するため,鎮静化が必要であった。このため政府は,国民への補助金給付によって物価上昇の打撃緩和を図ると同時に,MASによる機動的な金融引き締めで対応してきたが,2023年は経済成長が鈍化したこともあって,金融政策のかじ取りも難しいものとなった。

特に,第1四半期はGDPが0.5%増と低成長になった一方,CPI上昇率は6%台と高止まりを見せた。このため4月14日のMAS上半期政策決定会合では,追加引き締めが見送られ,現状維持となった。第2・第3四半期は,GDP成長率はそれぞれ0.5%と1%と低成長が継続したが,CPI上昇率は5%台から4%台前半へ若干減速した。これを受けて,10月13日のMAS下半期政策決定会合では4月同様に現状維持を決定したが,ラビ・メノンMAS長官は10月末,インフレに勝利宣言を出すには時期尚早と述べ,依然慎重な見方を示している。

住宅価格抑制策の強化

近年,全般的に大きく上昇してきた住宅価格は,国民の住宅取得を阻害して政治への不満を惹起するとともに,外資の直接投資のコストも引き上げることで経済センターとしての競争力に負の影響を及ぼしている。このため政府は価格上昇を抑制するため,公団住宅や民間住宅の供給増を図ると同時に,外国人投資家の民間住宅取得に対して課税を強化するなど,さまざまな措置を講じている。

供給面を見ると,3月初旬にウォン副首相は,住宅価格上昇の背景には根強い需要に加えて,新型コロナウイルス流行期の工事遅滞で供給不足に拍車がかかった側面があるとの認識を示している。このため国家開発省は,建設工事の円滑化を図ると同時に,政府用地の売却計画を拡大させ,供給増を促している。同省が6月に発表した2023年度下半期計画では,民間住宅開発用の土地を8590戸分,12月発表の2024年度上半期計画では同5450戸分を供給し,2023~2025年には民間・公団住宅あわせて10万戸を完成させるとしている。

一方,課税面では,4月27日に住宅購入の際の不動産取得時加算印紙税引き上げが発表された。国民・永住権保有者は2戸目購入から3~5%の増税となるが,外国人については1戸目購入から従来30%の税率が60%に,法人・ファンドの購入も35%から65%に引き上げられた。デズモンド・リー国家開発相は記者会見で,実需購入の自国民を優先するため,投資需要を弱めて価格上昇を抑えると明言した。また7月20日には,外国の個人・法人による商業・住宅用途の土地・建物購入を抑制するため,購入時には政府承認を得ることが義務化された。

以上の措置もあり,民間住宅価格指数(改定値,都市再開発庁発表)は第1四半期3.3%上昇,第2四半期0.2%下落,第3四半期と第4四半期はそれぞれ0.8%,2.8%,そして通年では6.8%の上昇となった。過去2年の上昇率(2021年10.6%,2022年8.6%)と比較すると,価格抑制策の効果が出ていることがわかる。また中古公団住宅も,四半期ごとにそれぞれ1%,1.5%,1.3%,1.1%と価格指数が上がり,通年4.9%の上昇となった。過去2年の上昇率(2021年12.3%,2022年10.1%)と比較すると,民間住宅と同様に価格が落ち着いてきたといえる。

政府は,2025年11月までに実施されるであろう国会総選挙をにらみながら,住宅取得を望む国民の強い実需を満たして不満を高めないよう,当面は現行の政策方向性を継続するものと考えられる。

雇用政策の微調整

2023年の労働市場を見ると,外国人を含む全体失業率(季節調整済み)は1.9%(前年2.1%),国民・永住権保有者の失業率は2.7%(前年2.8%)となり,景気減速にもかかわらず堅調さを維持している。国民の雇用確保は住宅取得の問題と同様に,政権・与党の支持率に大きく影響する。このため近い将来の政権継承や国会総選挙を控えて,政府は国民優先政策(シンガポーリアン・コア)の大枠を変更することはなく,一方では過度な保護主義が国際経済センターとしての評価を損なわないよう,慎重にバランスを維持している。

ホワイトカラー・専門技術職向け就労ビザ(EP)は,昨年導入された発行基準となる最低月給額の引き上げに続いて,2023年9月からはコンパス(Complementarity Assessment Framework: Compass)というポイント制審査が導入された。これは給与,学歴,多様性,地元雇用への貢献という基本4項目の達成度がポイントで審査され,さらに人材不足の業界・業種,国家経済戦略上の優先度などがボーナス項目として加算される仕組みである。

この新制度によって,政府はホワイトカラー・専門技術職における国民の雇用保護や外国人材との置き換えを進めつつ,国内人材が不足する業界や国家戦略上の優先度が高い業界では,ボーナス項目での調整を図ることが可能となる。たとえば人材開発省は3月31日,国内人材が不足している業種として,IT,金融,医療,グリーン・エコノミー,農業技術などの27職種を指定し,9月からのコンパス審査で優遇することを発表した。

なお,中技能労働者向け就労ビザ(Sパス)も,9月1日から最低月給額の基準が引き上げられた。また,単純労働者向け就労ビザ(WP)が適用される職種では,引き続き,一部業界で労働者不足が生じている。このためサービス業と製造業の9職種について,それまで就労が許可されてきた中国本土,マレーシア,台湾,香港,マカオ,韓国以外に,フィリピン,タイ,ミャンマー,インド,バングラデシュ,スリランカからの人材の就労を可能にする緩和策が導入された。

マネー・ローンダリング対策の脆弱性の露呈

2000年代初頭以降,シンガポールは金融業界の競争力強化のため,資産運用の分野を積極的に誘致・育成してきた。これは盤石の政治的安定性や地理的利便性を基礎に,中国や東南アジアで膨張する新たな富を吸収するという点で,理に適ったビジネスモデルであった。特に2010年代以降,域内最大の国際金融センターで,中国本土系富裕層が第一に選好してきた香港が,政治的不安定性や中国本土との一体化を強めたことで,そこに蓄積されていた富がシンガポールに逃避し始めた。この動きは,習近平政権による中国本土および香港での経済・社会統制が強まるなか,特に2019年以降に加速したと見られる。

これを受けてシンガポールも,流入する富の受け皿を構築するための各種施策を用意してきた。その代表例が,富裕層の資産管理会社であるファミリー・オフィスに対する課税減免措置(13U)や,グローバル・インベスターズ・プログラム(GIP)による永住権取得の優遇策である。2023年7月も,運用資産規模が一定基準以上である特定単一家族専用のシングル・ファミリー・オフィスに対して,税制優遇の範囲が拡大された。こうしたファミリー・オフィスの累計設立数は年々増えている。2018年約45社,2019年約190社,2020年約400社,2021年約670社,2022年約690社となった。2023年1~4月末までに新規で約180社が設立され,年間累計では900社以上に増加したものと考えられる。所有者はシンガポール籍7割に対し外国籍が3割となり,特に中国本土籍は全体の約1割を占める。この数字には,すでにシンガポール国籍・永住権を取得した中国人は含まれないため,実際には中国本土系がより大きな割合を占めると推定される。

もっとも,国外からの急速な富の流入が,負の影響をもたらす傾向もある。たとえば,近年の不動産価格の高騰は,シンガポール国内での資産運用の市場や手段の多様化に限界があるなかで,特に不動産を選好する傾向のある中国本土系の投資家が,資金を流入させたことが背景にある。大幅に引き上げられた外国人への不動産取得時加算印紙税は,市場への外国資金流入を抑制するものであった。

しかし,2023年に最も顕在化した問題は,マネー・ローンダリング対策の脆弱性であった。8月15日,警察は中国本土系犯罪組織による大規模なマネー・ローンダリング事件の摘発を行い,容疑者10人を逮捕した。この犯罪組織は,中国での違法賭博や詐欺などで得た犯罪収益を,シンガポールに移転し洗浄していたとされる。多数の銀行預金,152軒の高級不動産,62台の高級車,暗号資産,貴金属・宝飾品,美術品,高級ブランド品,酒類など,最終的に約28億Sドル相当の資産が押収された。

この事件は,金額が桁違いであったことに加えて,さまざまな問題点を浮き彫りにした。第1に,容疑者10人は中国本土系だが,キプロス,トルコ,カンボジア,バヌアツなどのパスポートを所有し,全員が外国人就労ビザや帯同家族ビザ(DP)を問題なく取得していた。第2に,この犯罪集団には,地場大手3銀行や外資系大手など10社以上の著名金融機関が便宜を供与していた。第3に,容疑者たちはファミリー・オフィスへの各種優遇制度を積極的に悪用していた。

しかし,この事件は氷山の一角との見方が一般的である。従来からシンガポールは,国際間の反マネー・ローンダリング組織である金融活動作業部会(FATF)の考査でも最高水準の得点を獲得してきたが,一部専門家からは実態と乖離があるとの指摘もあった。このため7月には,MASがシングル・ファミリー・オフィス向けの制度規定を厳格化し,10月には省庁間横断のマネー・ローンダリング対策委員会が設置されるなど,対策強化に向けた具体的行動を開始している。

国内電力政策と地域内電力供給網計画の推進

シンガポールは2050年までに,炭素排出量を実質ゼロにすることを目標とし,そのための積極的な施策・投資を行っている。これは一面で,世界的課題である地球温暖化抑制のための低炭素化を技術革新や商機と捉え,環境関連技術,低炭素発送電,グリーン・ファイナンスなどのシナジーを推進する目論見がある。

2023年に目立ったのは,電力に絡んだ動きであった。シンガポールの電力需要は,中長期的な国勢拡大から今後毎年4~6%以上伸びると予測されており,一方で国内の二酸化炭素排出量の4割は,既存の石炭火力発電所から排出されている。そのため,1980年代に設計された火力発電に依存した国内電力インフラを再構築する必要がある。このためエネルギー市場監督庁(EMA)は,新規発電所の建設・運営方法を再検討し,また国内での水素や太陽光などによる低炭素発電設備を増強している。

しかし,国内の地理面積にも制約があることから,2035年までに全供給量の約30%にあたる4ギガワットは,海外にある低炭素発電施設からの電力輸入で賄う計画であり,前年にはラオスから,タイ,マレーシアを経由した送電も始まっている。これは国内の低炭素化目標と電力需要を満たすものであると同時に,シンガポールが地域内電力供給網の統合計画であるASEANパワーグリッド(APG)の中心的役割をはたすうえで,実証例を提示するものである。

5月10日にはリー首相が,インドネシアで開催されたASEAN首脳会議でAPG推進を提案した。これに先立つ3月,インドネシアとは再生可能エネルギー協力覚書を締結し,9月にはEMAがインドネシア領海上での太陽光発電による電力輸入事業5件を仮認可した。3月にはカンボジアから,10月にはベトナムからの低炭素発送電計画がEMAの仮認可を得て始動し,マレーシアでも水力発電によるシンガポールへの電力輸出計画が進んでいる。このほかASEAN域外のインドも,ベンガル湾とシンガポールを海底ケーブルで接続し,電力を輸出する計画がある。

APGには相互接続・融通調整などの技術的問題が残る一方で,実現すれば先行するシンガポールが低炭素電力の接続・取引のハブとなり,金融や技術を含めた周辺産業も振興する可能性がある。さらにシンガポールは,地域全体の安定性を増進させるため,APGによりASEAN域内の結びつきを深化させることも目論んでいると考えられる。

対外関係

米中対立のなかでのバランス外交維持

建国以来のシンガポールにおける外交原則は,時勢や環境の変化に応じつつもバランス外交に徹することにある。このため複雑化・構造化する米中対立のなかでも,一方に明確に与することはない。大局的な安全保障として,米国を軸とした多国間による既存秩序を重視しつつ,中国とは経済関係を一層深めながらも,安全保障面の接近には是々非々で対応している。

だが,このバランス維持は,単に米中を両天秤にかけるものではないことに,留意が必要である。2月27日,バラクリシュナン外相は国会演説で,「シンガポールは超大国の代理人や偵察員にはならない。原則を守りながら一方につくことはない」と述べた。4月19日にはシム・アン上級国務相(外務担当)が,「外交原則は複数の要因によって規定され,単純につり合いを取ろうとすればよいものではない」と発言し,米中双方との友好関係を維持・深化させつつ,一方の代理人ではなく,双方にとっての正直な仲介人という独自の立場を保つとしている。

また,シンガポールは米中対立の行方について,かねてから警鐘を鳴らし続けている。たとえば,リー首相は9月6日のASEAN首脳会議で,米中対立が域内問題を拡大させかねず,大きな懸念があると述べた。同日に開催されたハリス米副大統領との会談でも,ひとつの判断の誤りで域内が深刻な紛争に巻き込まれる可能性を心配している,と表明した。またリー首相は10月5日にも,「米中両国は対立を望んでいないと考えるが,双方の溝もまた大きい」と述べ,地政学的な複雑性・不安定性が増す状況に強い憂慮を示している。

こうしたなかでも,シンガポールは引き続き米国との安全保障関係を維持・強化しており,1月9日には自国領海内で米海軍との5日間の軍事演習を開始し,2月24日にはン国防相が米国製最新鋭ステルス戦闘機F35Bの4機追加購入を表明している。多国間軍事演習への参加にも積極的で,2月28日からは米・タイ主導の「コブラ・ゴールド」に参加国として,7月24日からは米・豪主導の「タリスマン・セーバー」にオブザーバーとして,8月27日からは米・インドネシア主導の「スーパー・ガルーダ・シールド」に参加国として,それぞれ加わっている。

しかし,シンガポールは米国の地域への役割・関与が,安全保障面に偏っている現状を懸念し,近年は是正を提言してきた。米国もこの助言に基づき,新しい領域での協力関係を模索している。6月に訪米したバラクリシュナン外相は,ブリンケン米国務長官との会談後,両国の協力関係が気候変動,サイバー・セキュリティー,宇宙関連などに拡大すると発表した。また10月に訪米したウォン副首相も,安全保障やサプライチェーンへの懸念に対応した新しいグローバル化モデルや世界秩序の構築に向け,米国と積極的に連携すると表明した。

中国との関係を見ると,経済面での実利を得ようとする動きが進んだ。リー首相は3月に4年ぶりに訪中し,同月31日には北京で習近平国家主席や李強首相と会談した。この席上では,両国関係を「全方位で質の高い未来志向のパートナーシップ」に格上げすることで合意している。一方で,リー首相は10月のシンポジウムの席上で,中国が周辺地域との共存で実益を得るには,圧力を感じさせず影響力を拡大できるか次第,との諫言も行った。他方,ウォン副首相は5月の日本での講演で,対中依存脱却が過度になれば,反作用や意図しない結果が出現するリスクもあると警告している。

実際,シンガポールはデリスキングと正反対の実利外交を展開している。1月7日には天津で開催された「二国間協力共同委員会」にウォン副首相が出席し,シンガポール企業による中国のサービス産業22業種への出資上限比率撤廃,相互の30日間ビザ無し渡航を含む24項目で合意した。2月20日にはバラクリシュナン外相が秦剛外相(当時)と会談し,二国間航空運航の完全再開やビジネス交流の拡大で一致した。5月にはウォン副首相も訪中して李強首相と会談し,広範囲な二国間協力や,環太平洋パートナーシップに関する包括的および先進的な協定(TPP11/CPTPP)への中国加入支持を再確認している。8月には王毅外相と韓正国家副主席がそれぞれシンガポールを訪問し,協力深化を協議した。

中国の地方政府との経済協力も拡大している。4月には「シンガポール・上海包括提携委員会」,6月には「シンガポール・四川貿易投資委員会」や「シンガポール・広東省提携委員会」,10月には「シンガポール・江蘇省協力委員会」が開催され,多数の覚書締結により関係が強化された。

一方で中国側からの強い働きかけにもかかわらず,軍事交流は引き続き限定的となった。4月28日からは4日間にわたって,シンガポールで小規模な二国間合同海軍演習が開催されたほか,6月1日にはン国防相が来訪中の李尚福国防相(当時)と会談し,二国間防衛交流の再確認やホットライン設置で合意している。

マレーシアとの経済特区設立構想の浮上

マレーシアとの関係は非常に良好に推移した。1月30日,マレーシアのアンワル首相はシンガポールを訪問してリー首相と会談し,デジタルやグリーン分野での協力拡大で合意したほか,「意見が分かれる未解決の問題」(アンワル首相)で「実りある議論」(リー首相)が行われた。すなわち,高速鉄道の建設,ペドラブランカ島の帰属,水資源の供給などの課題が話し合われたと考えられる。アンワル首相は9月13日と10月30日にも再訪してリー首相と会談し,再生可能エネルギーの共同開発・輸出入,水資源問題の協議再開,両国間交通の円滑化などで合意している。

良好な関係を象徴するように,5月にはマレーシアのラフィジ・リムリ経済相が,シンガポールと隣接するジョホール州で新経済区構想が協議されていることを公表した。これはシンガポールも従来から関与してきた経済開発計画「イスカンダル・マレーシア」を,「ジョホール・シンガポール経済特区」(JSSEZ)に格上げするもので,7月中旬には両国協議のための特別タスクフォースの設置で合意した。JSSEZは,9月と10月にアンワル首相がシンガポールを訪問した際にもリー首相と協議され,2024年1月の覚書締結に向けた準備が進んだ。

ジョホール州は国境を接し,1日30万人ともいわれるヒトの往来やシンガポールへの水資源供給地であることに加え,この四半世紀はシンガポールからの産業移転先として,一体的な関係にある。このためクアラルンプールの中央政府とは別に,ジョホールのスルタンであり連邦の次期国王でもあるイブラヒム・イスカンダル王はシンガポールと独自チャンネルを持ち,10月10日にもシンガポールを訪問してリー首相と会談している。両地間では2026年に開業予定の都市型越境鉄道の建設も進み,マレーシア側からは往来円滑化に向けたシングル・クリアランス(片側手続きでの出入国審査完了)導入や新フェリー航路開設の提案も行われ,前向きな動きが続いている。

なお,2020年にマレーシア側から中止が宣言された両国間の高速鉄道計画も,急速に再開の機運が出ている。3月8日,マレーシアのアンソニー・ロク運輸相が,政府支出のない民間事業であれば可能性があると発言した。7月27日には事業者向け説明会があり,国内外の約700人が参加した。シンガポールでは,8月3日にチー・ホンタッ上級国務相(財務・運輸担当)が,正式提案は来ていないが議論の用意はあると述べ,翌日にはアンワル首相が計画再開の正式決定後に提案すると表明した。こうして,2024年1月の企業側構想案の提出期限に向けて動きが進んだ。

対日関係の発展

2010年代以降,それ以前には経済面を主軸としていた日本とシンガポールの関係は,地域内の地政学的変化を受けて,双方が国際関係上の重要性を再認識したことで,外交面でも大きく深化した。日本側はシンガポールが持つASEANや中国との深い関係性に期待する一方,シンガポール側はG7の一員である日本が依然として持つ国際的地位や潜在的軍事力を評価しており,バランス外交のなかの一辺にしたいと考えている。

このため2023年も,積極的な首脳間交流が継続した。5月5日には,岸田首相がアフリカ歴訪の帰途にシンガポールへ立ち寄り,チャンギ空港内で出迎えたリー首相と首脳会談を行った。この会談では,地政学的問題や経済相互協力が話題となり,特に前項についてはリー首相が「地域での日本の役割に期待している」と発言した。また,リー首相は12月中旬の日本・ASEAN特別首脳会議に出席するため来日し,16日に岸田首相と会談した際,両国の安全保障関係の強化を歓迎すると同時に,新しい分野での協力関係も構築したいと意欲を示した。

このほかにもシンガポールからは要人の来日が相次いだ。4月24~28日にヘン副首相が来日し,松野官房長官や旧知の河野デジタル相と会談した。ウォン副首相も5月12日のG7財務相・中央銀行総裁会議に招待国として参加し,さらに同月23~27日にも国際シンポジウム出席のため再び日本を訪れた。この2度目の訪日では,ウォン副首相が次期首相と目されていることから,岸田首相との会談(26日)が設定された。席上,岸田首相は安全保障分野での連携強化を提案し,ウォン副首相も賛意を示した。

両国政府間では,各種の協力関係も促進・締結されているが,特に重要であったのは6月3日に締結された防衛装備品・技術の移転に関する協定であった。これは,国際平和・安全に寄与するとみなされたシンガポール向けの同移転に法的枠組みを与え,第三国移転や目的外使用を適正管理するものである。この締結によって両国間では,安全保障面の協力関係がより緊密化すると期待されている。

2024年の課題

2024年の経済面の課題は財政改善,インフレ抑制,持続的経済発展であり,対外関係面の課題も米中角逐の中でのバランス外交維持と,それぞれ前年と大きく変わらない。一方,政治面では首相交代に伴い,今後のシンガポールを考える上でも,重要な節目の年になると思われる。

2024年には,ウォン次期政権の誕生が期待される。もっとも,ウォン新首相の下でも,国家の統治体制自体に劇的変化が発生するとは考えにくい。すでにウォン副首相は,「大衆迎合主義や日和見主義が,国会や国家を侵食することを拒否する」(2023年4月21日)と述べており,「第4世代」最高指導層が率いるPAPの一党優位体制という基本的枠組みは,今後も踏襲されるであろう。

一方で,第一線を退いたリー首相の去就にも着目すべきである。リー・クアンユーのように顧問相などの地位に就き,ウォン新首相の政権運営を「後見」することで,ポスト・リー・ファミリー化で薄れるとの懸念もある政治的安定性を担保しようとする可能性は否定できない。あるいはウォン新首相の政権運営を信任し,その妨げにならないよう完全引退することもあり得る。リー首相自身は11月上旬に,「退任後のポジションは後継者の裁量による」と述べているが,次期政権の性質と運営を考察するうえでは重要なポイントとなる。

いずれにしてもウォン次期政権は,政治的・社会的な価値観の多様化という抗いがたい現実を意識しながら新政権を運営することになる。注目すべきは彼自身が,従来型のシンガポールのあり方や価値観に対して,変革の必要を説き始めている点である。たとえば10月27日に,政府と国民の将来的関係性を再検討した「フォワード・シンガポール」構想を発表した際,今後の双方の関係性は従来型のトップダウン式ではなく,対話の中から見出されることになると述べている。

また,建国以来重視されてきた能力主義も,その概念が狭すぎる問題を指摘し,「能力主義は,各自が最高の自分となり,多様な才能が社会に貢献して尊敬されるためにある」(8月17日)と述べている。そして政府の役割は,多様性を賛美するだけでなく,それを経済構造やキャリア形成などと一致させることにあると指摘している。こうした姿勢は,彼自身が非エリート校出身者だが,自らの能力と職務への献身によって,今や次期首相となったことに重なる。

このように,すでにシンガポールは,リー・クアンユーが作り上げてきた建国以来の統治システムだけでなく,社会の根本的価値観の転換に向けて始動しつつある。同時に,リー・シェンロンが国政における「リー」というカリスマに幕を引いたこともあわせて,二重の意味で「ポスト・リー」の次元に入ったといえる。2024年はウォン次期首相の率いる新たな政権の誕生によって,この新時代が公式に幕を開けることになる。

(開発研究センター)

重要日誌 シンガポール 2023年

   1月
9日 国内最大の新聞発行体SPHメディア,発行数の大幅な虚偽操作が発覚と発表。
13日 海軍,領海での米軍との演習終了。
30日 リー首相,来訪中のマレーシアのアンワル首相と会談。
   2月
9日 保健省,新型コロナウイルス関連規制を全解除。
14日 ウォン副首相,国会予算演説を実施。
24日 ン国防相,米国からのF35B戦闘機の追加購入を表明。
   3月
2日 テオ上級相,警察当局がリー・シェンヤン夫妻を捜査中と公表。
3日 リー・シェンヤン,大統領選挙出馬を検討中と表明。
6日 国会,予算案と改正選挙法を可決。
7日 情報通信メディア開発庁,偽ニュース防止法に基づく指定媒体にTikTokを追加。
8日 政府,新型コロナウイルス対策の総括報告書を公表。
15日 経済開発庁,大口投資家への永住権付与制度を厳格化。
16日 リー首相,訪問中のインドネシアのジョコ・ウィドド大統領と会談。
31日 リー首相,訪問先の中国で習近平国家主席と会談。
   4月
17日 タン国会議長,国会で演説中の野党議員に対し不適切発言。
26日 ヘン副首相,訪問先の東京で松野官房長官と会談。
27日 財務省,不動産取得時加算印紙税の税率を引き上げ。
28日 海軍,中国海軍との演習実施。
   5月
1日 ウォン副首相,レイバー・デー集会の演説を行う。
5日 岸田首相,アフリカ歴訪帰途にシンガポールでリー首相と会談。
10日 リー首相,インドネシアで開催されたASEAN首脳会議で,域内共通電力網の整備推進を提案。
12日 ウォン副首相,新潟で開催のG7財務相・中央銀行総裁会議に招待国として出席。
14日 リー首相,アフリカ歴訪に出発。
16日 ウォン副首相,訪問先の中国で李強首相と会談。
22日 リー首相,新型コロナウイルスに罹患と発表。
26日 ウォン副首相,訪問先の東京で岸田首相を表敬訪問。
31日 リー首相,閣僚2人の国有不動産賃借契約につき,汚職調査局に調査を命令。
   6月
1日 ン国防相,来訪中の中国の李尚福国防相(当時)と会談。
2日 ウォン副首相,来訪中のオーストラリアのアルバニージー首相と会談。
3日 日本政府,シンガポールとの防衛装備品・技術移転協定を締結。
7日 インドネシアのジョコ大統領がシンガポールを訪問。
8日 ターマン・シャンムガラトナム上級相兼社会政策調整相,大統領選挙出馬を表明。
24日 LGBTQ啓発イベント「ピンク・ドット」開催。
   7月
5日 国会,前進党(PSP)提出のグループ選挙区廃止案を否決。
7日 リー首相,来訪中のインドネシアのジョコ大統領と会談。
8日 ウォン副首相,金融管理局(MAS)理事会議長に就任。
11日 汚職調査局,S・イスワラン運輸相と著名実業家オン・ベンセン氏を逮捕。
12日 リー首相,S・イスワラン運輸相に休職を指示。
14日 シンガポールとマレーシアの合同閣僚委員会,ジョホール・シンガポール経済特区の設立検討を表明。
17日 タン国会議長と与党所属のチェン・リーフイ議員,不適切な関係発覚で辞職。
19日 ン・コクソン元政府投資公社(GIC)最高投資責任者,大統領選挙出馬を表明。
21日 首相府,次期国会議長に人民行動党(PAP)所属のシア・キァンペン議員を指名と発表。
23日 中国政府,シンガポール国民のビザ免除措置再開を発表。
24日 リー首相,来訪中の香港の李家超行政長官と会談。
26日 法務省,リー・シェンヤンに対し偽ニュース防止法に基づく訂正を命令。
30日 タン・キンリェン元NTUCインカム最高経営責任者,大統領選挙出馬を表明。
   8月
3日 チー上級国務相,マレーシアから高速鉄道計画の新提案があれば歓迎と表明。
5日 ルイ・タックユー駐米大使,シンガポール紙『聯合早報』が中国のプロパガンダに同調との『ワシントンポスト』報道に反論。
15日 警察,中国本土系犯罪組織による巨額のマネー・ローンダリング事件を摘発。
23日 警察,官庁・各国大使館など国内18カ所への爆破予告があったと公表。
   9月
1日 大統領選挙の投票実施。
2日 大統領選挙でターマン・シャンムガラトナム候補が当選。
4日 MAS,メノン長官の12月末での退任を公表。
6日 リー首相,インドネシアで開催された日本・ASEAN首脳会議に出席。
7日 カナダのトルドー首相がシンガポールを訪問。
13日 リー首相,来訪中のマレーシアのアンワル首相と会談。
14日 ターマン・シャンムガラトナムが新大統領に就任。
  10月
1日 ウォン副首相,GIC副会長就任。
10日 リー首相,来訪中のマレーシア・ジョホール州スルタンのイブラヒム・イスカンダル王と会談。
12日 タイのセーター首相がシンガポールを訪問。
18日 リー首相,訪問先のサウジアラビアでムハンマド皇太子と会談。
22日 リー首相,訪問先のアラブ首長国連邦でムハンマド大統領と会談。
25日 リー首相,内国治安局発足75周年記念式で,外国の国内干渉に警戒感を表明。
27日 ウォン副首相,「フォワード・シンガポール」構想の報告書を公表。
30日 リー首相,来訪中のマレーシアのアンワル首相と会談。
  11月
5日 リー首相,PAP党大会で2024年には次期政権への引き継ぎが行われると表明。
6日 通産省,安全保障に影響する企業投資を制限する大型投資審査法案を国会に提出。
8日 リー首相,来訪中の中国の韓正国家副主席と会談。
16日 リー首相,米国で開催されたインド太平洋経済枠組み(IPEF)首脳会合に参加。
27日 高等裁判所,2閣僚への名誉棄損裁判で,リー・シェンヤンに賠償を命じる。
  12月
4日 ウォン副首相,改訂版のAI国家戦略構想を発表。
6日 ウォン副首相,訪問先の中国で李強首相と会談。
7日 政府,南米南部共同市場(メルコスル)構成4カ国との自由貿易協定を締結。
12日 ウォン副首相,訪問先のブルネイでボルキア国王と会談。

参考資料 シンガポール 2023年

① 国家機構図(2023年12月末現在)

(注) 1) 一院制,選挙区選出議員定数93(任期5年)。与党・人民行動党79議席,野党・労働者党8議席,欠員6議席。

② 閣僚名簿(2023年12月末現在)

主要統計 シンガポール 2023年

1 基礎統計

(注) 人口関連データは6月末時点の年央値。総人口は居住権者(シンガポール国民と永住権保有者)と非居住権者(永住権を持たない定住者あるいは長期滞在者)から構成。失業率は居住権者+非居住権者の合計データ。

(出所) The Singapore Department of Statisticsウェブサイト(https://www.singstat.gov.sg)。

2 支出別国内総生産(名目価格)

(注) 2023年は暫定値。

(出所) Ministry of Trade and Industry, Republic of Singapore, Economic Survey of Singapore 2023.

3 産業別国内総生産(実質:2015年価格)

(注) 2023年は暫定値。

(出所) 表2に同じ。

4 国・地域別貿易額

(出所) 表2に同じ。

5 国際収支

(注) IMF国際収支マニュアル第6版に基づく。したがって,金融収支の符号は(-)は資本流入,(+)は資本流出を意味する。2023年は暫定値。

(出所) 表2に同じ。

6 財政収支

(注) 2023年は暫定値。

(出所) 表2に同じ。

 
© 2024 Institute of Developing Economies, Japan External Trade Organization
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