Biwako Journal of Rehabilitation and Health Sciences
Online ISSN : 2758-1799
Print ISSN : 2758-1780
OPINION
Proposal to the Rehabilitation Science and the Therapist Professionalism
Hisao Yamada
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2024 Volume 2 Pages 39-46

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Abstract

著者のこれまでの経験をもとに,リハビリテーションの現状を見て感じとってきたことから,今後のリハビリテーション学,リハビリテーション職とその養成のあるべき姿について述べる.学校法人藍野大学の理念にある,Sym-medicalの単語は患者を中心としたチーム医療の在り方を指しているが,これは患者自身が指揮棒をふるうという,新しく深い意味合いを持っている.それを実践するためにどうすれば良いのか.もう1つの理念であるPhilo-sophiaという単語は,ギリシャ文明に由来するヨーロッパの大学の思想「Philosophy=科学」を反映している.医学という科学の歴史から考えると,国家資格を持つ医療職は学問体系をもとに養成されるべきである.学問体系の土台(礎石)に相当する「身体を知る科目」群すなわち生理学や解剖学は,研究上も教育上も極めて重要で,その上に「病気を知る科目」群,「リハビリテーション療法を学ぶ科目」群へと階層性をもって配置しなければならない.そして養成教育は,暗記型・知識習得型ではなく,体験型・理解型の教育を必要とする.医師養成システムにしても万全ではないものの,医学が学問体系を意識して目指してきた過程を参考にすることが重要である.また周辺領域の歴史的・社会的背景から学び取ることも重要である.

はじめに

リハビリテーション学は医学と異なるのであろうか,医学や医師養成の取り組みから学ばない方が良いのであろうか.その答えは明瞭で,医学とは異なる独自性はあるものの,生物系・医歯薬看護と同じ生命科学系である.医学にも参考にできない点は数多く存在するものの,医学が歩いて来た歴史から学べることは大きい.その点を忘れてはならない.

私は,医師・医博であり,長く医学部で基礎医学系教員を務めてきた.その間,理学療法や作業療法の国家試験を10年以上解析するようになり,外からリハビリテーション領域を見つめてきた.また,定年後縁あって,リハビリテーション学部長を引き受け,この5年間,実際にリハビリテーション職養成を実践する過程で,いくつかの問題点に気付かされてきた.その1つとして,リハビリテーション「学」が成熟していないように感じている.そこで,私が感じている問題点を紹介しながらリハビリテーション学(療法)・リハビリテーション療法士養成についてのあるべき姿について記したい.

学校法人藍野大学の理念

私の所属する学校法人藍野大学の設立者(初代理事長)小山昭夫先生は博学で,建学の精神・教育の理念などがヨーロッパ文明の源流となる言葉使いで書かれている[1].建学の精神は,「愛智精神Philo-sophiaにもとづく人間教育」で,Philo-sophiaを「愛智精神」と訳している.このPhilo-sophiaについては後述する.一方,教育の理念はラテン語で「Saluti et solatio aegrorum」であり「病める人々を医やすばかりではなく慰めるために」と訳している.それ以外にもう1つ,シン・メディカルの理念というのが設定されていて,「医師中心の医療から患者さん中心のチーム医療」という副題がついている.HP[1]では「創設者は看護,理学療法,作業療法を含む医療,福祉,保健の専門家が一緒になり(Sym),シンフォニーを奏でるように協力して患者さん中心の医療(Medical)を行うことが重要であると考え,Sym-medical(シン・メディカル)という理念を提唱し,その考えは学校法人藍野大学の教育にも活用されております」と解説されている(図1).

図1 学校法人藍野大学のHPに掲載されているSym-medicalの説明図(文献[1])

これからの医療職

考えてみると,数十年以上前には「医師」が中心となって患者さんの治療にあたってきたが(図2A),近年,チーム医療の概念や患者中心という言葉使いがもてはやされるようになってきたので,シン・メディカル理念を表面的に読み取ると医療の現状をあらわしているように早合点してしまう.確かに現状の法律や制度のもとでは,図2Bのように,患者さんが中心となっていても,治療の指揮を執るのは医師であって,医療職はあくまで医師の指示のもとに医療対象者に対応することになっている.しかし,カルテが患者さんのものという概念が定着し,セカンドオピニオンを活用して患者自身が治療法を選ぶような社会背景を考えると,このシン・メディカルの理念は,斬新で深い意味合いを持っているように感じられる.すなわち「シンフォニーの指揮棒を振るのは患者さん自身」で(図2C),医療環境の仕組みはそこに進まざるを得ないのではなかろうか.ただ,そこまで考えると,リハビリテーションを取り巻く何かが物足りなく感じる.

図2 患者-医師-医療職の関係

A:過去の概念,B:現状の法制度における概念,C:あるべき姿

図中凡例のように赤矢印は指示(シンフォニーの指揮)系統を,青破線矢印は補助の提供を,青実線矢印は治療または医療サービスの提供を表している.

理学療法士の先人たちの考え

そこで,理学療法領域を切り開かれた先人の奈良勲先生が代表著者・編集者として書いておられる本[2]を熟読してみた.すると,私には2つの要点が見えてきた.1つは「学問体系」という言葉が多用されていてリハビリテーション「学」に随分こだわっておられること,もう1つは川喜田愛郎先生の本[3]からの引用で「医学は長い間たしかにその志向においては科学的であろうとしつづけてきたにしても,それが事実上科学的になったのは,やっと19世紀に入ってからのことであった」という記載である.この19世紀という時期についてもMichel Foucaultが「18世紀末」と述べたことも引用しているが,リハビリテーション職の先人たちが医学をはじめとする学問体系に重ね合わせて考えようとしている様が良く理解できる.

ヨーロッパにおける医学史(ギリシャ)

解説を深めるために,「ヨーロッパにおける医学(科学)・医療にかかわる歴史」を振り返ってみたい(文献[4]を参照).紀元前数世紀には,いわゆるギリシャ文明が開花する.この時期には学問を尊ぶ生き生きとした土壌,知的好奇心,自然を観察する雰囲気が充満していた.ギリシャと言えば「哲学」で,ソクラテス(BC470–399),その弟子プラトン(BC427–377),さらにその弟子アリストテレス(BC384–322)が有名であり,何よりも「体系」が重視され,首尾一貫した「見識」を持つことが学問の大切な要件とみなされた.つまり,首尾一貫した見識こそが学問体系であり,哲学であるとみなされたのである.哲学はPhilosophyで,先述の愛智精神Philo-sophiaと同義であって,小山昭夫先生はこれを重視したものと考えられる.ギリシャ時代にはヘラフィロスやエラシストラトス(BC300頃)らが積極的に人体解剖を行ったとされる一方,ヒポクラテス(BC460–375)はスズカケの木の下で医療技術を教えていた.ヒポクラテスが「ヒポクラテスの誓い」の中で医療倫理を説いていた話は有名である.

ヨーロッパにおける医学史(ローマ)

紀元前30年,エジプトがローマに併合され,プトレマイオス朝が絶え,ローマ帝国への流れの中で,学問でのアレクサンドリアの役割は終わる.ローマの時代には手を汚す労働や生産活動が軽視されて,これを奴隷や従属民の仕事に位置付けた.また,「科学」より「技術」を追い求め,「直接的」に役立つ成果が重要視された[4].その結果,上水道・下水道・浴場などの設備が整えられて公衆衛生面がよく発達したと考えられる.従ってローマの思想は,工学など技術開発分野の原点とされているが,自然観察から始まる生命科学分野にはなじまない.このような経緯のもとに,いわゆるローマ文明は終わりを遂げ,文明の中心がアラブ地域に移っていった.

ヨーロッパにおける医学史(大学の誕生)

アラブ地域の文化がヨーロッパに伝わりつつあったルネサンスの「前夜」には,「大学」が誕生した.世界で最初の大学は北イタリアに1158年に(1088年という説もある)できたボローニャ大学で,教養学部・神学部・法学部・医学部の4つの学部で構成されていた.つまりここで,医師養成の高等教育が始まったわけであるが,実は,9世紀にはイタリアのサレルノに高度な医療技術を教える専門学校が登場していた.この専門学校は,試験を行って資格を与え,学位を認定する制度がなかったので「大学」ではない.つまり,医療(技術)ではなく医学(科学)を扱うことが大学の重要な要件であると,ヨーロッパではみなされている[4].

ヨーロッパの大学では

ボローニャに続いてヨーロッパ各地に次々に大学が生まれるが,これらの大学は先述の4学部から成り立っている.このうち,教養学部はPhilosophy(科学)を学ぶところで,神学部・法学部・医学部の3学部は「高度専門職」養成を行うところである.高度専門職とは,人間の生活活動の根源にかかわる問題を解決するための職種であり,その養成は,ギリシャ文明の思想を前提に科学の1つとして設定されている.結果として,医療も医学もmedicineという単語に集約されたのだろう.博士という学位はPhDと表現するが,これはDoctor of Philosophyの略(医学博士はPhD of Medical Science)であって,科学をその哲学(心)と共に修めたという意味である.なお,「高度専門職」ではない一般の専門職養成は,例えばギルドの徒弟制度や専門学校などでおこなわれてきたようである.

大学の変容

ヨーロッパ大陸から離れたイングランドでも,12世紀以降にOxfordやCambridgeに大学が建てられたが,19世紀になって赤レンガ造り(Red Brick)の工科系単科大学が出現する.このような動きはヨーロッパ大陸にも北米にも広がり,工学部や農学部といった応用系の学部新設が始まった.また大学の設置自体も世界的な広がりを見せるようになった.20世紀になると新たな専門職教育を行う高等教育機関(大学)が次々に登場し,歯学部・薬学部・獣医学部・看護学部・リハビリテーション学部が誕生した.

ヨーロッパの医学史から学べる事

医療職自体は長い医学・医療の歴史の中で,医療補助者として長い歴史があり,徒弟制度的な養成がおこなわれてきたであろうし,リハビリテーション類似の療法は西洋医学以外には古くから存在していた.しかし,西洋医学のもとに理学療法の概念がもたらされるのは20世紀に入ってからである.大学の変容の中で大学でのリハビリテーション職養成が一般化しつつあるが,上記の科学・医学・医師養成の歴史から学べば,リハビリテーション職養成は,科学を背景に,学問体系をもとにおこなわれるべきではなかろうか.これはSym-medicalの概念で医師と同様の知識を持ってチーム医療をおこなうためにも必要なことである.

我が国のリハビリテーション職養成の実情

そこで,現状を吟味してみることとする.我が国の現状では,リハビリテーション職養成は,大学と専門学校が担っている.大学は自主性に基づいて教育がおこなわれているものの,制度上の観点から以下の4つの基準にしたがった教育の「質保証」がなされている.その4つは,①大学設置基準(文科省)[5],②指定規則(厚労省が実施する国家試験受験要件を満たす養成機関の基準,文科省)[6],③国家試験出題基準(厚労省)[7],④コアカリキュラム(理学療法/作業療法士会)[8]である.

設置基準と国家試験とについては後述する.コアカリキュラムや指定規則では,まず科目群の分類が,大雑把で学問体系をきっちり反映していない.教育内容や科目建ても記載しているが,指定規則では専門学校を意識してどちらかというと単位数にこだわっている.いずれの基準も後述の国試出題基準と同じで,項目名程度しか記載されていない.また,コアカリキュラムの各項目は動詞で終わる「行動目標」として書かれ,使用されるべき動詞は「説明できる」「概説できる」「(項目を)列挙できる」「図示できる」「理解している」「実践できる」などであるが,リハビリテーション用コアカリキュラムでは「説明できる」くらいしか見当たらず,この面からもコアカリキュラムの完成度が低いと感じられる.

療法士国家試験

国家試験出題基準を覗いてみる.医師国試の場合,ブループリントと言って出題設計がうまくいくよう工夫がなされ,出題割合やレベル分類を含んで,出題項目や内容が事細かく指示されている[10].それに比し,理学/作業療法国試の場合,教科書の章立て程度の分類でしか記載されていない.すなわち,12世紀に出現し資格や試験制度を定めたヨーロッパの大学思想にほど遠く感じる.さらに国家試験自体も多くの問題点を含んでいる.その第1は,学術用語が使えないばかりか,同じものを指すのに年度ごとに表現が変わっていることである.第2に出題文法が全く守られていないこと,第3に重箱の隅をつついたような出題や出題者の知ったかぶりが見られることである.また第4に非専門領域の出題であろうか,教科書の文章を表面的にとらえて中身を理解していない選択肢が見られる.など,およそ「国家試験」とは言えないような代物だが,極めつけは解答方法を例示する注意事項欄[11]である.選択肢を2つ選んで解答する例として,「解体新書を完成させた人物はだれか」という問いに杉田玄白と前野良沢を選ぶ例をあげている.前野良沢は和訳を完璧にやりたくて,早く完成させたい杉田玄白と意見が合わず,途中で翻訳から降りている.従って完成版のオーサーとはなっていない.これは,研究倫理教育でオーサーシップを論じる際に盛んに引用されるエピソードである.この例題作成にかかわった方は,大学人として研究倫理をご存じでないのだろうか.思わず顔を赤らめたくなるほど恥ずかしい.国家試験出題者は「科学」を理解した大学人でなければならない.

大学設置基準と専門職大学

では,大学設置基準はどうなっているのであろうか.近年,「専門職大学」という枠組みが登場した.我々の大学も専門職大学である.一般の大学と専門職大学は設置基準が異なるとされている.制度設計の段階では,専門職大学は観光やファッションなど新規領域の,そして専門学校と大学の中間程度の高等教育機関を想定していたと聞いている.しかし,制度ができ上がってみると,専門職大学設置基準[12]は,従前の大学設置基準とほぼ同じ内容に加えて,①他職種連携や起業を意識した展開科目群があること,②実務家教員や③40名クラス制が規定されていることである.つまり,一般の大学より厳しい条件が課されている.実務家教員については,薬剤師を養成する6年生薬学部でも規定されているうえ,実務家教員とは言わないものの医学部の附属病院で働く臨床系教員も同じ立場である.指定規則でも,臨床実務に長けた教員配置を求めているし,40名クラス制が推奨されている.この観点に立つと,そもそも,医療系の学部はすべて専門職大学となるべきではないだろうか.他方,大学設置の目的として研究者を養成する大学や職業教育をする大学に区別する向きもあるが,それは予算配分や人的配置に関わる話であって,その概念は医療系専門職教育にはなじまない.あくまで我々(研究者養成を自認する大学も含めて)は,国家資格を目指す医療人材を養成しているのであって,その医療人は「科学」を背景に養成するから区別の必要がない.研究に多くのコストをかける大学では必然的に研究者が多く生まれてくるだけのことである.

現状のまとめ

ここまでのまとめとして,医学・医師養成も完璧で素晴らしいとは言えないし,決して医学と同じである必要はないものの,リハビリテーション領域はまだまだ発展途上にあると言わざるを得ない.医学をはじめとする他領域のことを参考にして欲しい.気になったのは,指定規則・国試出題基準・コアカリキュラムで,「身体のことを知る」科目群(生理学や解剖学)が軽視されていることである.これらの科目を単なる準備教育として位置づけているようにしか見えない.基礎医学系教員のリハビリテーション領域への供給が追い付いていないこともあるかもしれないが,研究上も教育上も,生理学や解剖学が学問体系の「土台」である点を忘れないで欲しい.そこで「学問体系」についてみていきたい.

全学問領域の中でのリハビリテーション学の位置づけ

学問体系を理解するためには,まず全学問領域の中での位置づけが重要である.例えば,科研費申請のための領域分類[13]がある.それは,系-分野-分科-細目のように階層分類されていて,系は総合新領域系・人文社会系・理工系・生物系の4つに分けられている.医学は薬学や看護学と同じ生物系に属しているのに反し,リハビリテーション学は「総合新領域系」に属している.まだまだ新しい領域ということか.しかも,分野も「総合領域」で,分科は「人間医工学」に属していて,その下に「リハビリテーション科学・福祉工学」という細目での位置づけになっている.同じ総合新領域であっても「健康・スポーツ科学」分科とは別な位置づけである.ちなみに,医学領域のひとつ整形外科の細目内キーワードに「理学療法学」「運動器リハビリテーション学」や「スポーツ医学」が,精神科の細目内に「精神科リハビリテーション医学」も登場する.科研費は,教員の専門にとらわれずどこにでも申請可能なので,さほど問題ないかもしれない.また,領域が成熟し申請者が増加すれば,新たな設定が生まれるかもしれない.しかし私がここで主張したいのは,「生物系」-「医歯薬学分野」,すなわち「生命科学」というこだわりを捨てないで欲しいということである.

図3 医学におけるピラミッド型で,階層性(積み重ね)の科目体系

青矢印:病理学は解剖学の,薬理学は生理学と医化学の応用学問であることを表している.

医学における学問体系

学問体系を内部から見るのに良い例が医学の学問体系である.図3に示すようにピラミッド型をしていて,その土台は,解剖学・生理学・生化学の生理系基礎医学である.その上に病理系基礎医学が乗っかり,さらにその上に臨床系科目が乗っかっている.また,土台の下に準備教育科目(最近この表現はあまり使用されなくなった)や一般教養科目がある.解剖学は正常人体の構造を扱うので「形態学」という別名がある.生理学は正常人体の機能を扱う.生化学は「医化学」という位置づけの大学もあり人体の化学的基盤を扱う.いずれにしても「生理系」というのは「正常の」という意味であり,病態を扱う「病理系」と区別する.この3つの科目は,医学学問体系の「3大礎石」であって,例えば,内科や外科の先生にとって,それぞれ「内科や外科の研究」という範疇があるのではなく,解剖学・生理学・生化学の3種のアプローチを使って研究している.その意味で研究上も教育上も3大礎石が重要なのである.これらの生命科学研究は,実験動物やヒト由来のサンプルを用いた実験研究である.ただしそれ以外に,患者に対して介入(投薬)をしたり,患者の身体情報を解析したりするような臨床研究も第4のアプローチとして存在する.医学という学問体系はこのようなピラミッドであるので,医師養成教育もこれに則っておこなわれ,「階層性」の科目建てになっているのが特徴である.最近,臓器系統別教育の名のもとに階層性は崩れつつあるものの,学問体系の根幹に流れる思想である.

リハビリテーション学問体系のあるべき姿

では,リハビリテーション領域ではどのようにすればよいだろうか.私からの提案は図4に示している.「身体を知る科目」群というのは,生理系基礎医学を指す.リハビリテーション領域では,病理系基礎医学と臨床医学は「病気を知る科目」群として共通に扱うことができる.そしてその上に管理学・評価学・療法学とその実習(実践)が乗っかったピラミッドで,「階層性」に科目配置をするべきである.その結果,医学と異なるリハビリテーション学の独自性が発揮される一方で,学問の体系化が維持される.実は,様々な大学のカリキュラムを観察すると,概ねこの基本構成が守られているように見える.しかし,学年配置など細かに解析すると,階層性の意味合いが理解されていないケースが多い.また,「身体を知る科目」群は,「学びの基礎」を身につけさせてから教授するべきなので,入学直後ではなく1学年後期の方が望ましい.階層性を考慮すると「病気を知る科目」群は2学年前期としなければならなくなり,必然的に療法専門科目は2学年後期以降になる.ただし,専門科目群の科目数や単位数はさほど多くないことと,実践的な実習を主体とするべきなので,残りの年数で十分可能である.それに準じて指定規則等も見直すべきと考える.また文献[2]に見られる隣接学際領域という範疇の科目の一部は準備教育科目かもしれないが,多くは専門職大学設置基準の「展開科目」に相当する.養成教育からこのような取り組みを行うと,リハビリテーション学問体系が学生自身に染み込み,それが療法士になってからも継続されると考える.リハビリテーションの学問体系を考えると,理学療法と作業療法の差異は小さい.この両者を学科で分けている大学があるが,大学の組織構造も各大学の自由とはいえ,学問体系に従って組織構造を作るべきという観点で理学療法や作業療法を「専攻」組織にした方が合理的である.

図4 リハビリテーション学に求められるピラミッド型で階層性(積み重ね)の科目体系,あるべき姿の提案

左列緑字は指定規則分類を,右列は科目群(科目例)をあらわし,配当年次は表右外のピラミッド部分に表現した.赤太字の科目群の命名は理解しやすい表現として特に私が推奨する.引用文献[2]のp. 78の表6-1に書かれている「専門基礎分野」は,この中身をさらに階層分けするべきであると考える.また同じ表中の「隣接学際領域」は,階層性とは無関係の展開科目群(一部は1学年前期の準備教育科目群)として扱うべきである.

養成教育へのアドバイス

まず教員について,国家資格の専門職教育が科学に裏付けられた学問体系を教授するので,大学教員は研究遂行能力なしには考えられない.もちろん教育力も重要であるが,一事が万事という言葉通り,双方こなすのが大学人の必要条件である.研究教授とか教育教授とかの概念は大学の目的から考えて意味不明に感じている.まれに存在する研究のみに特化した人は研究所で働くべきであろう.教育のみに特化した能力を備えた大学人は,私のこれまでの人生経験で見たことがない.

大学教育の基本は,以下の3つが参考になる.

① 教員は知識を伝授するのではなく,「学生自身が学ぶ」ことを手助けする.

② 科学的に観察し,科学的に理解し,科学的に表現する能力をつけさせる.

③ 課題を見つけ出し,解決する能力や応用力を身に着けさせる.

これを別な表現で,

「小舟に乗って冒険に行く青年に,食料を積み込むのではなく,釣り道具を持たせる」

「ネット検索に例えて,コンテンツを供与ではなく,検索エンジンを脳内に構築させる」

「『知識の得方』『知識の扱い方』を身に着けさせる」

というような言葉を聞いたことがある.

このように大学では知識を教えるわけではないので,「暗記させる」より「理解させる」ことが重要であるが,考えてみると,無限に近い医療系の知識はどんな才能者でも全てを暗記することができない.1つの事象を理解することによって他への応用ができ,さらに異なる事象の理解へと進んでいく方が,コスパが良い.また,日進月歩の医療系学問は卒業後も学ばねばならないので,丸暗記より「理解」の上に立った「知識の得方」を伝授する方が理にかなっている.そして医療系の教育は,知識習得型学修ではなく「体験型学修」なので,学生が,大学に来て講義を聴き,講義を体験し,教科書・大著・成書を読み,友人と知的な会話をし,課題を解いてみて学修する,すなわち,手・足・頭・目・耳・口を使うことである.自身の身体を使って「確かめる」というのは自然科学の基本であることを忘れてはならない.

終わりに

これまで私が感じてきたことを雑多に述べてきたが,実はこの中に一貫して主張したいことがある.それは,まずリハビリテーション学という学問体系を理解すること,そしてリハビリテーション職の養成はその学問体系に沿って科学的におこなわれるべきで,その結果としてSym-medicalに代表される,新しく深い意味合いの概念を実践することができる,というものである.なお,本稿は2023年12月15日に佛教大学(二条キャンパス)にて行った「これからの医療職」という講演を文章化したものである.

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