2024 Volume 66 Issue 5 Pages 1268-1271
日本と中国の消化器内視鏡の交流は1972年に始まった.半世紀前,日本の内視鏡技術もまだ発展途上であった.私は日中友好協会からの要請で北京協和病院に招かれ,胃,大腸,ERCPの内視鏡検査のデモンストレーションをした.その顛末を紹介する.
The exchange of gastrointestinal endoscopy between Japan and China began in 1972. Half a century ago, Japanʼs endoscope technology was still developing. At the request of the Japan-China Friendship Association, I was invited to Beijing Union Medical Hospital and gave a demonstration of gastrointestinal endoscopy, colonoscopy, and endoscopic retrograde cholangiopancreatography.
日中消化器内視鏡学会交流会が始まって,既に半世紀の歳月が流れた.私は中日消化器内視鏡学会交流会の開始に関わった.私の記憶が残っているうちに記しておこうと思う.
1972年は日中国交正常化が締結され,両国間の交流が一挙に始まった記念すべき年であった.そして医学の交流も始まった.
同年,東京大学に,日本の日中友好協会から中国へ医師の派遣要請があった.
突然,私は上司の小林太刀夫教授(東大病院分院長)に呼び出され,中国で内視鏡の実技デモをしてくるように命じられた.行先は北京協和医院(衛生部)であった.
私は東京大学医学部大学院を修了して3年目の若輩医師であった.東京大学病院分院で臨床を行うと同時に,指導教官の相馬智と十二指腸ファイバースコープの開発に関わっていた.その頃ファイバースコープは直視鏡しかなく,側視鏡は試作中であった.
中国派遣の代表は東大分院外科の林田建男教授であった.彼は胃カメラを開発した宇治達郎医師の上司であった.そして同行できる医師はたった一人,しかも消化器内視鏡で,食道・胃・十二指腸から大腸,さらにはERCP(内視鏡的逆行性膵胆管造影法)の検査まで消化器全分野の観察を一人で行えることが条件であった.
当時,東大病院にはそのような内視鏡検査を一人でできる医師がいないため,中国派遣に反対する医師が多かった.小林教授と林田教授は大勢の反対を押し切って私を選んだのだ.
しかし選ばれた私も大腸内視鏡検査の経験がなかった.当時東京大学内には,大腸の内視鏡検査はスコープを回盲まで挿入できる医師はいなかった.
その3年前の1969年に,弘前大学(青森県)の田島強講師が透視下で大腸ファイバースコープを使用し回盲まで届く「逆の字挿入法」を考案したばかりで,まだ日本では普及していなかった.
そこで私は中国へ行く準備のために,青森県の弘前大学へ行き,田島講師から逆の字挿入法の研修を受けた.たった1週間の研修であったが,逆の字挿入法を体得できた.
同年12月,林田教授と私,オリンパス社の内視鏡開発者X,太陽交易の大塚社長とその社員の5名で中国に出発した.その頃中国へ内視鏡を輸出できる許可を持つ企業は太陽交易社だけであり,大塚社長は通訳として同行した.
当時は東京と北京間には飛行機の直行便はなく,先ず香港まで飛行機で行き,香港から広州まで列車で,広州から北京まで飛行機で行った.12月の北京は-12度の極寒で,北京民族飯店にたどり着いたのは,東京を出発してから3日かかった.
長旅と寒さで疲れ切った私たちを飯店で暖かく出迎えてくれたのは北京協和医院の陳敏章主任(Shěn mǐnzhāng)であった.「内視鏡検査を中国に導入したい」という陳主任の強い熱意に満ちた目の輝きは今でも私の心に焼き付いている.彼は後に衛生大臣になり,中日友好医院の創立に貢献したことは周知の事実だ.
第1日目,私は上部内視鏡検査の実技を,北京協和医院の階段教室で行った(Figure 1).教室にはたくさんの医師であふれかえった.その様子は医院内でテレビ中継された.私はファイバースコープを使って胃癌検診を行った.時々陳主任を始め協和医院の医師にも内視鏡で胃内の観察をしてもらった.初めて陳主任がスコープで胃内を観察した時,陳主任はとても興奮していた.彼はスコープをしっかり握りしめ,真剣に覗いていた光景は今でも忘れられない(Figure 2).他の医師たちも内視鏡を覗き感動していた.因みに内視鏡観察の教育にはレクチャースコープを使った.現在はビデオスコープを使ってモニターで大勢の医師が供覧できるが,当時はレクチャースコープで一人ずつ指導するという教育法であった.
北京協和医院で内視鏡検査の指導風景.
左:藤田(白衣帽子),右隣:陳主任(中央左)
北京協和医院で内視鏡検査の指導風景.
左:藤田(白衣帽子),左後:干中麟Yu Zhonglin
被験者の患者は胃の内視鏡検査と生検を行った結果,胃癌と診断された.驚いたことに協和医院では胃癌と診断されたその日のうちに手術が行われた.しかも徹夜で病理標本を作り,翌日には階段教室で標本が提出されたのだ.そんな驚異的なことを行った陳主任の内視鏡検査にかける情熱と指導力には敬服した.
第2日午前,大腸内視鏡検査は透視室で行われ,医院内でテレビ中継された.
私が弘前大学で習得した大腸ファイバースコープの「逆の字挿入法」は,透視下でスコープの挿入を確認しながら行う手法であった.
午後,膵胆管の内視鏡検査,ERCPは同じ透視室で行った.日本ではまだ十二指腸ファイバースコープが開発されて間がなかった.私はERCPを専門領域として,スコープや治療器具の研究開発に携わっていた.陳主任も胆膵領域の研究を目指していたのでお互いに意気投合した.彼は私のERCPに強い関心を持ち,積極的に支援をしてくれた.
僅か2日間で,私は胃癌,大腸,十二指腸ERCPの内視鏡検査を実演した.今考えてみれば,現在に比べスコープ,処置具,そして手技のすべてが発展途上であった.デモが無事に終わったことは幸運であり,若い私をしっかり支援してくれた陳主任の配慮と行動力のお蔭であり,心から感謝している.
陳主任をはじめとする医師たちの内視鏡検査を習得しようとする情熱,そして検査から手術までの総合的な視野とサポート体制は,教えに行ったわれわれにとって反って学ぶものが大きかった.
北京滞在は3日間であった.3日目はバスで市内観光に連れて行ってもらった.陳主任は私の隣席に坐り,内視鏡診断について様々なことを質問してきた.私も夢中で説明した.夜の歓迎会食では見たことがない料理が並び私たちは目を見張った.しかし陳主任との熱い会話が続き,何を食べたか覚えていない.わが国の早期がん研究会も話題になり,彼は研修センター設立の重要性を知り,研修センター設立を約束し,そのあと3回にわたり,研修会(第2回 相馬智団長,第3回 武藤徹一郎団長,第4回 丹羽寬文団長)が続いた.
半世紀の時を経て内視鏡診断と治療は目覚ましく進歩した.内視鏡手術,AI診断はますます進化し,コンピュータ時代に入った.これからは日本と中国が互いに技術を切磋琢磨しながら世界の内視鏡の進歩をリードするであろう.私は日中の内視鏡交流の始まりに携われたことを心から嬉しく思う.北京滞在は僅か3日間であったが,その後の私の人生に大きな影響を与えた.
後年,陳主任は膵臓癌で亡くなられた.私は彼の墓に2度もお参りをし,日中内視鏡交流40周年(オリンパス社主催)に開催された陳主任の供養会に参加し,彼が中国の医学の進歩に果たした輝かしい功績を偲んだ.また私が昭和大学に在籍中,陳主任は来日し,われわれの病院と研究室を訪ね,熱心に内視鏡診断と治療を視察した.また彼の推薦で,張斉聯(元北京大学医院教授)を始め10人の医師の研修を引き受けた.研修に来た医師たちは,その後,中国の内視鏡学会のリーダーとして活躍し,今も親交を温めている.私はJICA(Japan International Cooperation Agency)の支援で世界中の200人以上の医師たちの研修を引き受けたが,中国の医師たちの熱心さと有能さは卓越していた.
私は中国の多くの医師たちと長い友情を育んできた.その友情は今も変わっていない.今後,中国医学はさらに発展し,国際的にも大きな役割を果たしていくことだろう.日本の医師も中国との交流を深め,消化器内視鏡の発展と普及に努めることを期待したい.
最後に,中国と日本の内視鏡医学の交流に尽力してきた日本消化器内視鏡学会の歴代の理事長,特に丹羽寬文元理事長,田尻久雄元理事長,井上晴洋前理事長,田中信治現理事長に心から感謝申し上げる.
本論文内容に関連する著者の利益相反:なし
本論文はDigestive Endoscopy(2023)35, 819-21に掲載された「Dawn of the Sino-Japan Society of Gastroenterology and Endoscopy」の第2出版物(Second Publication)であり,Digestive Endoscopy誌の編集委員会の許可を得ている.