Public Health Nursing Education
Online ISSN : 2433-6890
Special Lectures
How Children Fail
Fumihiko Nanakida
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2023 Volume 7 Issue 1 Pages 2-6

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I. はじめに

2022年度の第37回全国保健師教育機関協議会夏季教員研修会にて「学生の考える力を育む教育方法」と題して講演(オンデマンド配信)をおこなった.その内容について,あらためて原稿にまとめてほしいとの依頼を受けての本稿となる.講演の内容は,2021年に刊行した拙著『保健授業の挑戦―学びの創造とデザイン―』(大修館書店)の内容をベースにしている.よって,講演の内容を振り返っていただくには,同書を手に取っていただき,具体例の中で理解をいただいた方がいいと思う.そこで,限られた本誌面では,講演でお話した内容を別の事例を示しながら理解いただけるように稿を起こした.抽象的な要点としてまとめるよりも異なる例の中で異なった角度から講演の真意を受け取っていただければと思う.

II. 教師の苦悩

教育は,学習者の学びを組織する活動(学びを生み出す活動)である.そのため,教師がいかに上手に教えたとしても,学習者の学びが伴わなければその意味を失ってしまう.

今日の学校や教育界では,効率よく教えることやその方法を探求し,これを普及させることが教育の改革であるとする立場や言説が存在する.そうしたベクトルによる教育の探究は,誰にでもできるよい方法やマニュアルを求めている.しかしながら,個性を持った個と向き合って学びを生み出す営みは,マニュアルにしたがって行うとよい結果が導き出せるといったものではない.その個が集団を形成すると,教育はさらに複雑になる.どうしていいかわからない教師は,クラスをうまく統制して教え込んだ方が楽であるから,この方法に疑問を持ちながらも一方的に「教える」授業として展開してしまう.こうなると対象が誰であろうとかまわない.教育内容を淡々と解説しながら伝達さえすれば,教師は役割を果たしたことになり,きちんと教えてさえいれば,その責任は教育内容を決めた行政が引き受けてくれるし,教えているのにも関わらず理解できなければ,それは学習者の自己責任となる.このように認識すれば,教師の責任は軽くなるだろう.

責任(responsibility)には,応答(response)がともなうが,一方的な教え込みには学習者の応答(response)がともなわないから,責任を負うことを事前に放棄することになる.その意味において,教師から一方的に伝達する授業には限界がある.上記の教育が成り立つのは,学習者の意識が高く授業に参加しているときだけである.

小学校の教室をのぞいてみればわかるように,教師が一方的に10分話を続けると,子どもの表情は曇りはじめ,つまらなそうにしている子,怪訝そうな顔をする子,横を向いたり,後ろの子に話しかけたり,体を伸ばしたりくねくねさせながら学びから逃走する子どもが出てくる.

教師から見れば,そうした子どもは「落ち着きのない子」と見えるのかもしれないが,他方で,学びの主体が教師の統制によって思考を制限されていると見るならば,その落ち着きのなさは,教師への抵抗とみることもできる.

教室に黙って座っている子どもたちは何を考えて座っているのだろうか.「授業はつまらないなあ」,「早く給食の時間にならないかなあ」「午後は体育があるから楽しみだなあ」「面白くないけどしっかり聞いていなければテストで点数とれないしなあ」など,一見して,「教える-学ぶ」行為が成立しているように見える教室においても,教える側と学ぶ側の内面は乖離している.

教師もはじめは一人ひとりの様子が気になるだろうが,日常的にその感情を押し殺して集団を統制し,一方的に教え込む授業(monologue)をおこなっていると,それまで気になっていたことが麻痺しておかしいと思えなくなる.

教育の改革は,個々の子どもと向き合い,教師自らの認識を改善するところからしかはじめられない.

以下に,いくつかの事例から,学びと関係して子どもの内面と教師の意識についてのぞいてみよう.

III. 慣例への懐疑

先日訪問した小学校において,4年生の算数の問題で「この図形の名前は?」(図1)と子どもに問うと「ひし形」とこたえる子どもが多く,「なぜ,子どもはそのようにこたえるのか疑問に思う」と教師が話をしてくれた.

図1 

ひし形に見える正方形

四つの同じ角,四つの同じ長さの辺で囲まれた図形は「正方形」であるが,45度回転させると「ひし形」のように見える.だから子どもは「ひし形」とこたえる.しかし,45度回転させる前の状態(図2)では「正方形」とこたえていた.

図2 

正方形とひし形

同じ問題を大学2年生に出題してみると,「ひし形」とこたえる学生は一定数存在する.「四つの同じ角と四つの同じ長さの辺の図形は正方形じゃん」と他の学生に指摘されると,「ひし形」とこたえた学生は「あっ,そうだ正方形だ」とつぶやいて,恥ずかしそうに顔を赤くして下を向いてしまった.

以上の事例では,いくつか注目したい点がある.

第一に,子どもはなぜ間違えてしまうのか,第二に,大学生がなぜ間違えてしまうのか,第三に,間違えた大学生はなぜ恥ずかしそうにうつむいてしまうのか,といった三点である.

第一に,「子どもはなぜ間違えてしまうのか」について考えてみたい.先に示したように,「正方形」を45度回転させだけでひし形のように見えてしまうのはなぜだろうか.教師から「ひし形」の示し方と「正方形」の示し方が強く印象づけられているためか,「知覚」は,「認識と矛盾しない」ことによる間違いとなって現れている.

第二に,「大学生はなぜ間違えてしまうのか」,その誤りは,第一の課題を脱していないことに求められる.つまり,図形の示し方の回転角度が変わっても図形の性質は変わらないが,図形の性質(四つの同じ角,四つの同じ長さの辺の図形)と,ひし形の提示による「知覚」の優位性を乗り越えられていないことにある.このことは,第三の課題である「間違えた大学生はなぜ恥ずかしそうにうつむいてしまうのか」と関わって日本における学校教育の特徴を現している.

日本の学校では,「間違える」ことをよしとしないこと,そして「できること」,「正解すること」を過剰に求めてしまう.小学生に「わからないところがあったら,「わからない」と言っていいんだよ」と話をしても,「わからない」といえる子は多くない.「わからない」といえば「あいつは馬鹿だからと思われるんじゃないか」,「あいつのせいで授業時間が延びて休み時間がなくなった」など文句をいわれてしまうから,との声が子どもから聞こえてくる.4年生にもなれば,学校における子ども同士の相互監視システムが確立し,「わからない」という言葉は聞こえなくなる.

わからないこと,または,どこで間違えたのかを乗り越えられていないから大学生になっても間違えてしまう.そして,大学生になって小学校の問題を「間違え」てしまう恥ずかしさにおそわれる.

このようにして小・中・高等学校での生活(12年間)を経て大学に進学した学生は,主体性,積極性ともに十分に発達しているとは言い難い.近年,「指示がなければ何もできない学生が増えている」と耳にするのは,以上の学校文化が背景にあるといえよう.

疑問や間違いを置き去りにして,お互いに空気を読み合い,大人から「やりなさい」といわれたことのみを行ってきた結果が以上に紹介した様子を生み出している.

IV. 教材研究という処方箋

授業が上手くいかないという教師と話をしていると,自身の授業改善に向けてよい方法を教えてほしいとの声を聞く.その声は「どうすればいいんでしょうか」といった処方箋を求める言葉として発せられるが,その声には簡単に答えられない.なぜならば,原因がわからなければ処方箋もわからないからである.対象である一人ひとりの子どもたちの様子がわからないため,これを無視して抽象的な改善策を示したところで授業(子どもたちの学び)は何も変わらない.

改善を目指すとするならば,まずは教師自身の「どうすればいいのか」といった認識と向き合う必要がある.その問いを発する自身の認識が何に規定されているのかを知ること,そのうえで,なぜそうした状況が生じているのかの現状を理解することが必要である.

ひとつ事例をあげてみよう.

大学生に次のような問題を解いてもらった.

「氷が溶けると水になる.水が蒸発すると気体になる.このことは小学校の理科で学習してきたと思います.では,水の入ったコップに氷を浮かべます.その氷が溶けてすべて水になると,コップの水位はどうなるでしょうか.選択肢の①~③から選択し,なぜそう考えたのか理由を述べなさい」(図3

図3 

氷がとけたときのコップの水位は?

すると,①水位が上昇するとこたえる学生,②変わらないとこたえる学生,③減るとこたえる学生がいずれの選択肢にも一定数存在する.その理由をたずねてみると,①を選択した学生は,「氷が溶けたんだから水面に出ていた氷の分だけ水位は上昇する」とこたえた.逆に③「水位が低くなる」とこたえた学生の理由は,「液体である水は固体(氷)になると体積が増える.だから氷が水になればその体積分だけ水位は減少する」との理由を述べた.

確かにどちらももっともらしい回答であるが,正答は②「水位は変わらない」である.

氷は水の体積の1.1倍,増えた体積(10%分)が水面上に出ているため,氷が溶けても水位は変わらない.この原理を応用して,さらに次のような問題を提示した.

「地球温暖化において,海面上昇が問題とされていると思いますが,先ほどの原理を考えれば,北極や南極の氷が溶ければ海面上昇するというのは嘘ではないか.だけど,なぜ海面上昇をすると考えられているのだろうか」

このように日常的な課題や状況と「つなぐ」ことによって原理が意味をもった学びへと接続する.教師の仕事は,抽象的な原理や法則を具体的な場面の中に置き換えて問いなおすこと(教材研究)ともいえる.しかしながら,学習内容が増加することに対応して,教育の効率性をあまりに求めすぎると,抽象的な原理や法則をただ伝達することが教育であると認識してしまう.先の「どうすればいいんでしょうか」との問いも,抽象的な原理や法則を効率的に伝達するよい方法を教えてほしいとの問いであったといえよう.

ちなみに,先の原理のように,氷山が溶けても海面は上昇しない.海面の上昇は,南極大陸上にある高さ4000メートルにもおよぶ氷河が溶けて海に流れ込むからである.

「どうすればいいのか」との教師の問いは,教えなければならないことだけに注目したために発せられた問いであった.教師の役割は,学習者のつまずきを引き受けること,そして,具体的な事例を基に社会に切り拓かれた思考の枠組みにつなぐことが求められる.

V. 「学び」に何が足りないのか

学習者の学びは,教師の豊かな発想と創造力によってデザインされる.

先日訪問したある中学校で,がん教育の授業が行われていた.授業では,4人一グループにわかれてがんの発生要因や予防について資料から読み解くことを課題としていた.

あるグループに示された資料には,BMI(Body Mass Index)とがんの死亡率の関係が示されていた.

そのグループが資料から読み取ったことは,①BMIの値が増加すればがんによる死亡率が上昇すること,さらに②BMIが低くてもがんによる死亡率が上昇することであった.その資料から読み取れることはそれ以外にはなく,結果として「BMIが高くても低くてもがんによる死亡率が上昇する」とグループの考えをまとめていた.他のグループがさまざまな資料を読み解くのに10分かかる中で,先のグループは数分間で資料の読み取りを終えて,グループ活動の大半の時間を持て余していた.

授業終了後,授業検討会にてBMIを検討したグループのことが話題となった.「あのグループだけが時間を持て余していた」,「もう少し別の資料を提示すればよかったのではないか」などの声が聞かれたが,具体的にどのように踏み込むことができたのかについては議論されなかった.以上の意見を受けて,教師の力量形成につなげるにはどうすればいいのだろうか.

子どもの学びの様子と他教科を例にあげながら考えてみよう.

授業終了後,私は,BMIのデータを検討したグループの生徒に「BMIが低いこととがんによる死亡率が高いことの関係を指摘していたけど,BMIが低いとがんの死亡率が上昇するのはなぜだと考える?」と聞いてみた.すると,「BMIが高いとがんの死亡率があがることは何となくわかるけど,BMIが低いこととの関係はわからない」と話してくれた.

生徒たちは,授業で「BMIが高くても低くてもがんによる死亡率が上昇する」とだけ学習したが,「なぜBMIが低いとがんによる死亡率が高くなるのか」については学ぶ術がなかった.疑問に思っているにも関わらず,「わからない」とは言い出せずに時間を過ごしていたのである.

近年,「対話(dialogue)」が教育改革のキーワードとなっているが,「わからない」という問いの表明が,「他者との対話」を生み出し,さらに他者と課題を検討する中で「法則や原理(学習内容)との対話」のきっかけをつくる.だから「わからない」といえることはとても大切なのである.以上の例において「わからない」といった疑問をもちながら,それを表現できないことによって学びが閉ざされていることが確認できる.教師はこのことを一つひとつ確認しながら自らの実践を省察(reflection)し,次の授業につなげることで教師(専門家:professionality)として成長する.

授業で生徒たちが資料から導き出した「BMIが高くても低くてもがんによる死亡率が上昇する」といったことは学びなのだろうか.その事実を知ったという意味では,学びなのかもしれない.しかし,これを社会科の学習(お茶の生産地)を例に考えてみると次のように認識できるだろう.

私の住んでいる埼玉県では,狭山さやま市で生産されるお茶(狭山茶)が特産品である.「狭山でお茶がたくさん生産されている」ことは,「狭山=お茶の生産で有名」といった事実がわかったにすぎない.このことは,「BMIが高くても低くてもがんによる死亡率が上昇する」(BMIの高低=がん死亡率増)と同様に関係の事実を知っただけである.学びは,なぜ狭山ではお茶の生産が多いのか,そこにはどのような原理があるのかを理解することにある.

では,狭山でお茶の生産が多いのはなぜかを学びに接続させるには,どのような方法が考えられるのだろうか.

お茶の生産といえば静岡県や鹿児島県が有名であるが,なぜ静岡や鹿児島ではお茶の生産量が多いのか.静岡のお茶の生産地といえば牧之原台地,鹿児島は笠野原台地(シラス台地),狭山は武蔵野台地,共通点は「台地」である.火山灰による堆積物でできた台地は水はけがよいこと,そして平地よりも台地は気温の寒暖差が激しいためにお茶の葉が厚くなりやすくお茶の味や風味をもちやすいといった共通の特徴がある(他にもいくつか条件はあるが).

このように狭山だけを見ていては導き出せなかったお茶の生産地の共通点を,他の地域の資料を提示することで,学びにつなげることができる.

BMIとがん死亡率による学習は,単一資料の関係性のみで学びを生み出そうとしたところに限界があったといえよう.

以上のように,他の例に置き換えてみると,視野狭窄に陥り,学びが閉ざされていたことが確認できる.

VI. おわりに―形式からの離脱―

以上にあげた,「三角形とひし形」,「氷水と氷山」,「お茶の生産」の話は,いずれも子どもの「わからない」という疑問との向き合い方を示している.わからない課題は,学習者にとっては高い課題(ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」)であり,これを理解するプロセスのヴァリエーションは教師の専門性によって支えられる.課題との対話,グループやクラスにおける他者との対話の展開は事前には予測不可能であるから,一瞬一瞬に生起する状況と対話することが求められる.しかしながら,教室をのぞいてみると,グループ活動が異なる形で展開されていることに愕然とする.

教師は,グループ活動の前に,まずは①自分で考える時間を確保し,自身の考えをプリントやノートにまとめるように指示する.次に,②他者と関わる時間としてグループ活動を行う.しかし,そのグループ活動は,個々がノートにまとめた内容(書き言葉の表現は抽象度が高くなる)を読みあわせているだけで,対話になっていない.グループで考えをまとめる場合も,出された意見を箇条書きに羅列して,どれがよいのかを多数決で選択しているだけである.ここに対話はない.

私たちは他者と関わる場合,はじめに自身の考えをまとめてノートに記載して他者と関わるようなことはしないだろう.日常生活における他者との関わりは,教室では不自然な形(形式)になってしまう.

わからないことを共有すること,そして,どこでつまずいているのか(わからないことがわかること)を共有しながら,その疑問にグループで取り組むところにグループ活動の意味がある.個々に得意な分野もあれば不得意な分野もある.これを支え合いながら課題に臨むところに対話による学びが切り拓かれる.その状況をデザインするのが教師の役割である.

先に見たように,書き言葉は抽象的な表現になりやすいがゆえに話し言葉を中心としたコミュニケーションと対話をデザインすることが必要である.

「グループ活動が学びを生み出す」と聞けば,単にグループの形式をとってしまうが,それだけでは,形式を遂行しているにすぎない.思考停止に陥らず,なぜグループ活動が必要なのか,なぜ対話が必要なのかを考えるならば,グループ活動は,目的ではなく学びを生み出す一つの様式であることがわかるだろう.

方法が目的とならないように配慮しながら,一つひとつ学びを生み出す営みを実践の中で模索することが求められる.

「どうすればいいのでしょうか」との言葉に象徴されるように,効率性は日常的に私たちを誘惑する.そうした状況におかれても,一人ひとりと向き合い,一人ひとりの内面に向きあって丁寧に学びを生み出すことが教育の名に値することを忘れてはいけないだろう.

参考文献
  • 七木田文彦(2021):「背伸び」と「ジャンプ」による学び―中学校「応急手当」の授業実践から―,保健授業の挑戦―学びの創造とデザイン―,25–40,大修館書店,東京.
 
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