The journal of law, the Postgraduate Course of Kansai University
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ニクソン政権における軍備管理政策と核戦略
現実主義の観点から
[in Japanese]
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2024 Volume 2024 Issue 105 Pages 1-53

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  • 目  次

    はじめに

    第1章 確証破壊戦略から相互確証破壊(MAD)へ

     第1節 確証破壊戦略の提唱

     第2節 相互確証破壊(MAD)の成立

    第2章 SALTⅠ

     第1節 SALTⅠ交渉に至る経緯

     第2節 SALTⅠ交渉とその成果

     第3節 SALTⅠの評価

    第3章 シュレジンジャー・ドクトリン

     第1節 ニクソンの懸念と核オプション柔軟化の模索

     第2節 シュレジンジャー・ドクトリンとは

     第3節 シュレジンジャー・ドクトリンとMAD

    第4章 ニクソンとキッシンジャーの現実主義

     第1節 ニクソンとキッシンジャーの現実主義の特徴

     第2節 ニクソンとキッシンジャーの現実主義と二つの核政策

     第3節 現在の核をめぐる課題への示唆

    おわりに

    参考文献

凡例

  • 一、引用文中の〔〕は筆者による補足である。

    一、引用文中の傍点は筆者によるものである。

    一、略称を用いる場合は初出の際にかっこ書きで正称を表記し、以後、略称を使用する。

はじめに

1945年に米国が、1949年にはソヴィエト連邦(以下、ソ連)が原子爆弾の実験に成功し、核兵器を保有した。ここに現在まで続く米ソ(米ロ)という核の超大国二カ国の間での戦略的な関係が始まる。冷戦期の米ソ関係においては、核抑止を中心とする、いわゆる「戦略的安定」が追求された。この戦略的安定を維持するため、冷戦の間、米ソは軍備管理・軍縮1に関する様々な合意を形成してきた。

そして1989年の冷戦終結、1991年のソ連崩壊によって、大国間核戦争の可能性は大幅に低減した。これに伴って、核兵器の役割縮小や核軍縮への期待が高まった。そうした中で、国際社会は「核の忘却」と呼ばれる状態、すなわち安全保障において核兵器がどのような役割を果たすべきかに関して思考が停止する状態に陥ってしまう(秋山、高橋 2019, ii)。

一方で、インドやパキスタン、北朝鮮、イスラエルなどへの核の拡散が新たな課題となった。加えて、テロリストなどの存在も考慮に入れなければならない時代に入った。こうした核アクターの拡大は「核の復権」と呼ばれるようになった(秋山、高橋 2019, 5)。核抑止の専門家であるブラッケン(Paul Bracken)は、冷戦期において、米ソが戦略的安定を追求した時代を第一の核時代とした上で、核拡散、核テロが課題となる時代を「第二の核時代(second nuclear age)」と呼んでいる(Bracken 2012, 1-2)。こうした新たな核リスクの出現によって、核抑止をめぐる議論は専門家の間で再び活発に行われるようになった。さらに、ロシアや中国による核増強や核兵器の近代化、北朝鮮による核開発やミサイル実験、さらにはサイバーやAIを含む先端技術の軍事利用など、現在の国際社会は「第三の核時代」に突入しているという見方も存在する。(吉田他 2021)。

また、2022年2月24日には、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が起こり、ロシアのプーチン(Vladimir V. Putin)大統領は、「核の恫喝」を繰り返している。こうしたことを背景に、米ロにおける軍備管理・軍縮交渉は全く進展が見られていない。さらに、現在米ロの間で存在する唯一の核軍縮条約である新START条約は、2026年をもって失効することが確定している。新START条約が失効すれば、米ロ(米ソ)の二国間に1970年代以降存続してきた核軍備管理・軍縮条約が完全に消滅することになる。加えて、現在、中国は急速な核増強を進めており、本稿の執筆時点では、米国やロシアとの核軍備管理の枠組みに参加する意思を示していない。

このような、軍備管理・軍縮の「冬の時代」に入っている現在、何らかのアプローチによって再び軍備管理・軍縮の必要性を確認し、それへの機運を高めていくことは喫緊の課題である。こうした状況の中で、軍備管理・軍縮条約が存在しなかった冷戦期において、どのような過程を経て米ソ間で軍備管理・軍縮に関する合意が形成されたのかを再検討することは有用である。

そこで、本稿では、1972年に米ソ間で初めて締結された核軍備管理条約であるSALTⅠ(Strategic Arms Limitation Talks I:第一次戦略兵器制限交渉)2を事例として取り上げる。従来の研究においては、SALTⅠの成果であるSALTⅠ暫定協定とABM条約は、相互確証破壊(Mutual Assured Destruction:MAD)3の状況を制度化するものであると理解されている。ところが、ほぼ同時期に模索されていたのが、限定的な核攻撃を認めた核戦略であるシュレジンジャー・ドクトリンであり、これはSALTⅠで制度化されたMADを修正するものであると評価された。つまり、ソ連との戦略的安定を追求するための核軍備管理政策と、安定性が崩れた際にソ連を抑止するための核戦略が同時並行的に検討されたことになる。本稿では、「MADの制度化としてのSALTⅠ」と「MADの修正としてのシュレジンジャー・ドクトリン」という一見相反する二つの核政策が、同じニクソン(Richard M.Nixon)政権において追求されたことに着目し、その背景を分析することで、両者の補完性を指摘する。

ニクソン政権における軍備管理政策と核戦略に関する従来の研究は以下の三つに大別できる。一つ目はSALTⅠに関する研究、二つ目はシュレジンジャー・ドクトリンに関する研究、三つ目は米国における核政策の通史の一部としてSALTⅠとシュレジンジャー・ドクトリンを扱った研究である。

SALTⅠについては、これまで様々な観点からの分析が行われており、非常に多くの研究の蓄積がある。主な研究としては、SALTⅠの成果である暫定協定とABM条約を国際法の観点から分析するもの4や交渉過程を通じて分析を行うもの5がある。さらに、SALTⅠ交渉を担った当事者がSALTⅠの評価・分析を行った研究6も存在する。また、多くの研究によってSALTⅠがMADを制度化するものであることが示されている7

一方、シュレジンジャー・ドクトリンについては、SALTⅠと比較しても、その研究が十分に行われてきたとは言い難い。数少ないシュレジンジャー・ドクトリンを扱った研究では、その政策決定過程に着目するものが多い8。特に、Terriff(1995)は、シュレジンジャー・ドクトリンを主題にした数少ない研究の一つである。この中では、シュレジンジャー・ドクトリンが検討される過程におけるキッシンジャー(Henry A. Kissinger)の役割を強調した上で、シュレジンジャー・ドクトリンの提唱には、国内の予算や技術、官僚的、政治的な考慮が影響を与えたとしている。また、Terriff(1995)に加えて、Freedman(2019)吉田(2009)においても、シュレジンジャー・ドクトリンがMADの修正であることが指摘されている。

最後に、米国における核政策の通史の一部としてSALTⅠとシュレジンジャー・ドクトリンを扱った研究についてである9。特に、岩田(1989)吉田(2009)においては、SALTⅠとシュレジンジャー・ドクトリンというニクソン政権における二つの核政策が、密接な関係を持ちながらも、MADの制度化とMADの修正という点で、異なった方向を向いていることが指摘されている。しかし、この二つの核政策の関係について、さらなる分析は行われていない。

以上、SALTⅠとシュレジンジャー・ドクトリンに関する従来の研究を整理した。SALTⅠについては様々な視点からの研究が行われてきた一方、シュレジンジャー・ドクトリンに関する研究は十分に行われてこなかった。さらに、米国核政策の通史の一部として二つの核政策を扱った研究はあるものの、「MADの制度化としてのSALTⅠ」と「MADの修正としてのシュレジンジャー・ドクトリン」という一見相反する二つの核政策の関係について、踏み込んだ分析を行った研究は、管見の限り見当たらない。

本稿では、ニクソン政権おいて相反すると指摘されることもある二つの核政策が、同時並行的に展開された背景には、大統領のニクソンと国家安全保障問題担当大統領補佐官であるキッシンジャーの持つ「現実主義」が大きな影響を与えたと考える。この点を検討する上で、Gaddis(1982)が指摘する、イデオロギーではなく米国の利益を重視し、ソ連との共通の利益を見出すことで関係を構築するというニクソンとキッシンジャーの現実主義は、二つの核政策の関係を論じる上で重要な糸口となる。

本稿は、「MADの制度化としてのSALTⅠ」と「MADの修正としてのシュレジンジャー・ドクトリン」という二つの核政策の関係に、ニクソンとキッシンジャーの現実主義という視点を組み込むことで、一見相反する二つの核政策が、「利益」と「脅威」という米国にとっての利害の両側面を表していたことを明らかにする。また、それによって冷戦期における米国の軍備管理政策と核戦略の関係を、政権内部の力学から解明する。こうした分析は、軍備管理・軍縮が「冬の時代」に入っている中で、今日の国際社会が直面している核の課題にどのような視点から取り組めばよいのかについて、国家間対立を超えた外交の必要性や対立する国家とのコミュニケーションの重要性という手がかりを示すものである。

第1章

第1節 確証破壊戦略の提唱

1945年、米国は原子爆弾の実験に成功し、世界初の核兵器保有国となった。その後、核兵器については米国の独占状態が続いていたが、1949年、ソ連が原子爆弾の実験に成功したことによって、米国に次ぐ二番目の核兵器保有国となり、米国による核独占の時代は終焉を迎えた。

それ以降、米国は、「大量報復戦略10」を皮切りに、ソ連に対抗するための数々の核戦略を提唱することになる。1965年にジョンソン政権の国防長官マクナマラ(Robert S. McNamara)によって提唱された「確証破壊戦略」もその一つである。これは、敵からいかなる形の攻撃を受けても、その敵に対して耐え難い損害を与え得るだけの報復能力(確証破壊能力)を維持することで、敵の先制攻撃を抑止する戦略である。言い換えると、米国に先制攻撃を行えば、耐え難い損害を被ると相手に認識させることで、米国への先制攻撃を思いとどまらせようとするものである。

マクナマラが確証破壊戦略を提唱した背景には、二つの要因があると考えられた。一つ目は、政治的な配慮、つまり、米国内において国防予算の増額と軍備拡張を求める圧力が強まったことへの対処である。当時、米国内では、特に軍部から国防予算の増額や軍備拡張を求める声が高まっており、マクナマラはこれに懸念を抱いていた。そこで、確証破壊戦略へと舵を切ることで、必要とされる米国核戦力の規模について、相手に「耐え難い損害」を与えることができる程度に設定した。そうすることで、米国が保持すべき核戦力の上限を示し、米国の国防予算を抑制し、軍備拡張に歯止めをかけようと考えたのである。実際に、表1の通り、1967年頃から米国のICBM(Intercontinental Ballistic Missile:大陸間弾道ミサイル)とSLBM(Submarine-Launched Ballistic Missile:潜水艦発射弾道ミサイル)数は頭打ちになっていることから、米国における軍備拡張を抑制するというマクナマラの意図は達成されたと見ることができるだろう。

(表1)米ソにおける戦略核兵器運搬手段数の推移

                年次

項目
米国 ソ連
ICBM SLBM ICBM SLBM
1965年 854 464 262
1966年 934 592 338
1967年 1054 656 722
1968年 1054 656 902 32
1969年 1054 656 1198 128
1970年 1054 656 1498 224
1971年 1054 656 1527 336
1972年 1054 656 1527 444
1973年 1054 656 1547 564
1974年 1054 656 1567 636

(出所)SIPRI, Yearbook 1974, 106-107をもとに筆者が作成。

また、マクナマラはその上限を明確に示すため、確証破壊戦略における「耐え難い損害」の数値を用いた定義付けを試みた。1965年に国防総省が発表した年次報告では、「耐え難い損害」を「敵の人口の4分の1から3分の1、産業の3分の2」と定義した。しかしながら、1967年の年次報告では「敵の人口の5分の1から4分の1、産業の2分の1から3分の2」と、1965年の定義に修正を加えている。このことからも、これらの数字そのものは便宜的なものであり、マクナマラの真の目的が国防予算や軍備拡張の抑制にあったということがわかる(岩田 1989, 56-57)。

二つ目の要因は、軍事技術の発展、特に米ソにおけるMIRV(Multiple Independently-targetable Re-entry Vehicle:個別誘導複数目標弾頭)とABM(Anti-Ballistic Missile:弾道弾迎撃ミサイル)の研究開発・配備である。米国では、MIRVの研究・開発が具体化し、ABMについても精力的に研究・開発・実験が行われていた。また、ソ連においてはモスクワ周辺に「ガロッシュ」と呼ばれるABMの配備が進められつつあった。

MIRVとは、一つのミサイルに複数の核弾頭が搭載され、各核弾頭が誘導されてそれぞれ異なった目標に攻撃を加えることを可能にするものである。これによって破壊能力の著しい増大と同時に、防衛網を突破する能力を飛躍的に向上させることができる(佐藤 1989, 113)。そのため、MIRVの実戦化は敵のABMを突破する能力の獲得、それはすなわち第一撃(先制攻撃)能力の著しい強化を意味する。つまりMIRV技術を保有する国は、MIRV化されたミサイルによる先制攻撃によって、敵のABMを突破し、敵方ミサイル等の報復能力を破壊することで、自国への報復を困難にすることが可能になる。この意味で、MIRVは先制攻撃の誘因にもなり得るため、抑止を不安定化させる要素として懸念されるようになった。

もう一方の防御兵器としてのABMの配備は、防衛能力の強化を意味し、これにより、先制攻撃を行った際に敵から受ける報復攻撃による損害を限定することが可能になる。すなわち、ABMの配備は、相手からの報復攻撃を恐れる必要がなくなるということであり、これも先制攻撃の誘因となる。さらに、米国とソ連の一方がABMの配備によって防衛網の強化を図れば、他方はその防衛網を突破できる攻撃核戦力を一層強化せざるを得なくなり、戦略核戦力の軍拡競争はとどまるところを知らなくなる(佐藤 1989, 116)。

マクナマラは、このような米ソによる軍拡競争について「作用・反作用現象(action-reaction phenomenon)」という言葉を用いて警鐘を鳴らしている(Freedman 2019, 329)。作用・反作用現象とは、一方の行動は必然的にもう一方の反応を引き起こすことを意味する。マクナマラは、これを米ソ間における核戦力の構築に当てはめ、どのような意図であっても、米国の核軍拡はソ連の反応を引き起こし、結果的に米ソの軍拡競争を招くことになる。そして、今や米ソは互いに影響を及ぼし合い、一方の行動がもう一方の戦略計画に影響を与えるということを理解しなければならない、とマクナマラは指摘した(Freedman 2019, 329)。このことから、マクナマラが米ソ間における軍拡競争の激化を懸念していたことは明らかである。これらを背景に提唱された確証破壊戦略は、以降、米国の核戦略における中核に位置付けられる。

第2節 相互確証破壊(MAD)の成立

マクナマラによって確証破壊戦略が提唱されたと同時期に、米国はベトナム戦争への本格的な介入を開始する。しかし、この戦争は泥沼化の様相を呈し、米国内においても反戦世論が高まることになった。米国の世論調査会社ギャラップとハリスによる当時の世論調査によると、国防予算の増額に賛成する国民はわずか11%だったという(Bresler 1982, 4)。こうした世論の中、当時の米国に戦略核戦力を増強する余裕はなく、前出の表1でわかるように1967年以降、米国が保有するICBMとSLBMの数は横ばいになっている。そのような米国を横目に、ソ連が戦略核戦力の増強を進めたことで、1960年代後半には米国とソ連における戦略核戦力の量的なパリティが生まれた。これは、米国のみならず、ソ連も同様に確証破壊能力を保持するに至ったことを意味する。そして、米ソが互いに確証破壊能力を持つこの状況は「相互確証破壊(MAD)」と呼ばれるようになった。

MADの状況下では、ソ連が米国に対して先制攻撃を行えば、米国は先制攻撃から生き残った核戦力によってソ連の人口や産業に耐え難い損害を与えるというシナリオのもとで、先制攻撃を抑止できると想定された。もちろん、米国がソ連に先制攻撃を行った場合も同様である。つまり、米ソが「相互」に確証破壊能力を保持し、「相互」に相手の核攻撃に対して脆弱な状況を維持するのがMADの本質である。すなわちMADは、互いの人口や産業を「人質」にすることで、相互抑止、並びに戦略的安定を生み出そうとするものである。

さらに米国の核戦略の通史を著したフリードマンは、MADに込められたマクナマラのメッセージについて、「軍備競争を安定化させるための公式は、攻撃は良、防御は悪、都市攻撃は良、対ミサイル攻撃は悪」(Freedman 2019, 330)とまとめている。つまり、マクナマラの論理は以下の通りである。MADにおいては、先制攻撃を受けた場合、敵への耐え難い損害を与える報復攻撃が想定される一方、防御を行うということは敵からの攻撃に対して非脆弱になり、それは先制攻撃を行っても報復を恐れる必要がないということを意味する。それ故に、防御を行うことは、先制攻撃を行う誘因を生み、抑止を不安定化させる。加えて、「人質」としての人口や産業への報復攻撃を想定させることで敵の先制攻撃を抑止する一方で、ミサイルを含む敵の軍事施設への攻撃は、敵の報復能力の削減であり、それは先制攻撃を行った側が優位に立つことを意味するため、戦略に組み込むべきではないとマクナマラは考えた。マクナマラは、このような論理を用いてMADによる米ソ間の戦略的安定を追求したのである。

そのため、当然ながらマクナマラは、米国におけるABMの開発・配備に反対した(岩田 1989, 57)。マクナマラが用いた作用・反作用現象に照らし合わせてみても、米国におけるABMの開発・配備は、それに対抗するソ連の核兵器開発(特にMIRVなどのABMを突破するための技術開発)を促進することになり、軍拡競争を激化させるものであると捉えることができる。つまり、ABMはマクナマラにとって、抑止を不安定化させてしまうものであるため、導入してはならない「防御」の最たる例だとも言えるだろう。後述するように、ABMの制限については、1969年11月から始まる戦略兵器の制限に関する交渉における主要な議題となる。

第2章 SALTⅠ

第1節 SALTⅠ交渉に至る経緯

SALTⅠの具体的な内容を論じる前に、SALTⅠの概略と交渉開始に至る経緯について触れたい。SALTⅠとは、米国とソ連の間で行われた戦略核兵器の制限への試みである。交渉は1969年11月に開始され、1972年5月には数量制限を伴う初めての軍備管理枠組みであるSALTⅠ暫定協定と弾道弾迎撃ミサイルの配備を著しく制限するABM条約が締結された。

SALTⅠ交渉は、ニクソン政権の初期において開始されたものの、その構想の立案にはジョンソン政権期における核不拡散条約(Nuclear Non-Proliferation Treaty:NPT)の締結が大きく影響している。1968年7月1日、NPTが米国のジョンソンとソ連のブレジネフ(Leonid I. Brezhnev)書記長を含めた59カ国の首脳によって署名された。NPT第6条には、「各締約国は(中略)全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約について、誠実に交渉を行うことを約束する」とあり、核兵器国に対する核軍縮交渉義務が明記されている。これは、非核兵器国が負う核兵器の核不拡散義務(不取得義務)と引き換えに、核兵器国が核軍縮と原子力の平和利用の促進に取り組むという非核兵器国と核兵器国の間での政治的な取引であり、NPTにおける「グランド・バーゲン」と呼ばれるものである(秋山 2015, 21-22)。

つまりジョンソンには、NPT締結後速やかに、ソ連と戦略核兵器を制限する交渉に取り組む姿勢を見せることで、NPTに加盟する非核兵器国に対して、米国が第6条における軍縮交渉義務を真剣に受け止めているということを示し、未加盟国にもNPTへの参加を呼びかける狙いがあった(Krepon 2021, 92)。

さらに上述の通り、1967年以降、米国のICBM、SLBMの保有数が現状維持にとどまっていた一方で、ソ連は戦略核の増強を急速に進めており、米ソ間でのICBMなどの戦略核運搬手段の保有数は次第にパリティに近づこうとしていた。そのため、それまで米国が追求してきた、ソ連に対する戦略核における量的な優位を維持することは困難になりつつあった。他方、ソ連にとっても、現状維持といえども依然として大量のICBMを保有するだけでなく、戦略核の質的な向上を目指している米国に対して、それを上回る核戦力を構築するのは容易ではない。そのため、米ソ両国は激しい戦略兵器競争における安定、いわゆる「戦略的安定11」を求めることになる。

このように、NPT第6条における核保有国による軍縮交渉義務規定に加え、米ソ両国が戦略的安定の追求を目指したことで、両国に戦略兵器を制限するインセンティブが生まれ、戦略兵器を制限する交渉の開始が合意されることになる。

しかし、実際に交渉開始に至るまでの過程は容易ではなかった。米ソにおける戦略兵器競争の激化に懸念を抱いていたジョンソンは、1964年1月に開催された十八カ国軍縮委員会(Eighteen-Nation Disarmament Committee:ENDC)12へのメッセージにおいて、国際的な管理のもとでの全面完全軍縮(General and Complete Disarmament:GCD)を達成するための努力を継続すると述べた上で、現在進んでいる戦略兵器のさらなる増加を阻止しなければならないと指摘した。その中でジョンソンは、米国、ソ連及びそれぞれの同盟国に対し、戦略兵器を現在のレベルで凍結し、さらにはそれを査察によって検証することを提案した(Conference of the Eighteen-Nation Committee on Disarmament 1964, 11)。しかし、戦略核戦力の分野で米国に追いつくことを目指していたソ連はこれに対して、その時点での凍結は量的にも質的にも戦略核における米国の優位を固定することになると反対した(黒沢 1992, 3)。

1968年5月2日には、ジョンソンがコスイギンに対して再度、戦略兵器の制限に関する二国間交渉を提案した(FRUS, 1964-1968, Vol. XI, Arms Control and Disarmament, No. 237)。これを受けてコスイギンはジョンソンに対して、戦略兵器の軍拡競争に関する問題を重視していること、これについての意見交換が実現することを期待している旨を述べた書簡を送った(FRUS, 1964-1968, Vol. XI, Arms Control and Disarmament, No. 247)。これに対してジョンソンは、1968年6月22日にコスイギンに宛てた書簡の中で、NPTの署名日に戦略兵器問題に関する協議を行うという合意を米ソで共同発表することができれば、NPTに対する幅広い支持を得られるとして、ソ連との交渉開始の合意をNPTの署名日と同日に発表することを提案した(FRUS, 1964-1968, Vol. XI, Arms Control and Disarmament, No. 248)。

そして、1968年6月27日、コスイギンはジョンソンに対して、6月22日に送られたジョンソンからの書簡を注意深く検討した上で、7月1日(NPTの署名日)にソ連政府は、「米国との間で近い将来、戦略兵器の制限及び削減に関する協議に入ることで合意した」と発表する用意がある旨を述べた書簡を送った(FRUS, 1964-1968, Vol. XI, Arms Control and Disarmament, No. 249)。

こうして、1968年7月1日、NPTが署名された同日に、攻撃及び防御戦略兵器の制限及び削減に関して、米ソ両国が近い将来に交渉に入ると合意したことが、ジョンソンによって発表された(FRUS, 1964-1968, Vol. XI, Arms Control and Disarmament, No. 250)。

しかし1968年8月20日、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が民主化運動(プラハの春)を鎮圧するため、チェコスロヴァキアに侵攻した。この日は、ジョンソンが具体的な交渉開始スケジュールを発表する予定だった日の前日であった(FRUS, 1964-1968, Vol. XI, Arms Control and Disarmament, No.274)。これによってジョンソン政権下での交渉は何の進展もないまま中止を余儀なくされ、1969年1月、ジョンソンは大統領の任期を終えることになった。その後、ニクソン政権が発足し、1969年11月、フィンランドのヘルシンキにおいて交渉についての予備会談が行われ、ようやくSALTⅠ交渉が開始されることになった。

第2節 SALTⅠ交渉とその成果

SALTⅠ交渉は、上述のヘルシンキにおける予備会談を第一ラウンドとし、最終的には第八ラウンドまで行われた。交渉開始の1969年11月から締結の1972年5月まで約2年6ヶ月を要した。

第一ラウンドでは、米ソ両国の懸念事項であったABMとMIRVについての意見交換が行われたが、具体的な提案は出されなかった(Garthoff 1994, 152)。しかし、そこでソ連は、「攻撃は非道徳的であり、防御は道徳的である」、「ABMは人々の死を防ぐ防御兵器であり、戦略兵器制限の対象とならない」(Clearwater 1996, 104, 116)という従来の姿勢を転換し、ABMの制限に強い関心を示した(佐藤 1989, 122)。米国のSALTⅠ交渉団長であるスミス(Gerald C. Smith)も第一ラウンドに関する報告を行うニクソンへの手紙の中で、「彼ら〔ソ連〕はABM競争を回避することに関心を持っているようだ。彼ら〔ソ連〕はABMが攻撃的であり、兵器競争を著しく刺激するものとみなしている可能性がある」(FRUS, 1969-1972, Vol. XXXII, SALT I, No. 44)と記しており、ここからもソ連のABMに対する姿勢の転換を見てとることができる。そしてSALTⅠ交渉においては、ABMの制限がソ連の主な目的となったのである(Calvo-Goller and Calvo 1987, 3)。これについては、当時ソ連のABM開発が技術的な行き詰まりに直面していたことが背景にあると指摘されている(近藤 1984, 16)。第一ラウンドでは、このABMの制限について、米国とソ連の間で一定の意見の一致が見られた。そして「米ソ間における意見交換の主題となる問題の全般的な枠組みについて了解に達した」(Documents on Disarmament 1970, 729)という共同コミュニケが発表され、第一ラウンドは終了した。

第二ラウンドは舞台をウィーンに移して1970年4月16日に開始された。米国は第一ラウンドの後、キッシンジャーを中心に、以下のAからDの四つの選択肢を策定した。(A)ABM・MIRV双方を無制限、(B)ABMは制限するがMIRVは無制限、(C)MIRVは制限するがABMは無制限、(D)ABM・MIRV双方を制限する、というものである(FRUS, 1969-1972, Vol. XXXII, SALT I, No. 65)。その中から米国は、NSDM(National Security Decision Memorandum:国家安全保障決定覚書)51において、最初に(C)を提示し、次いで(D)を提示することを決定した(NSDM-51, April 10, 1970)。加えて、いずれの選択肢を提示する場合にも、それぞれの首都へのABMの例外的な配備を最初に持ち出すことが指示された(佐藤 1989, 124)。しかし、ソ連はいずれの選択肢も拒否した。一方で、ABMを例外的に首都に配備することについては積極的な反応を示した。

この第二ラウンドは8月14日に終了し、11月2日の第三ラウンドに引き継がれることになった。しかし、米国代表団の一員であるニッツェ(Paul H. Nitze)が「SALTⅠにおけるどん底(nadir)」(Nitze 1989, 312)と表現しているように、第三ラウンドから交渉は行き詰まりの時期を迎えることになる。問題となったのは、戦略兵器の制限に関する協定とABMの制限に関する協定について、双方の規制を行う「一括方式」にするのか、それぞれ別個の規制を行う「分離方式」にするのかという点と、「戦略」兵器をどのように定義するかという二点である。米国は一括方式を望み、ソ連は分離方式において先にABM規制に合意することを望んだ(石本 2020, 1710)。

この膠着状態を打開するため、1971年1月9日にキッシンジャーとドブルイニン(Anatoly Dobrynin)駐米大使がワシントンにおいて会談した(FRUS, 1969-1972, Vol. XXXII, SALT I, No. 124)。ここからSALTⅠ交渉は、キッシンジャーとドブルイニンによる「バック・チャンネル」を中心に進んでいく13。バック・チャンネルにおける交渉の成果もあって、1971年5月初旬、ソ連はABMの規制と戦略兵器の規制を結びつける可能性に言及した(Garthoff 1994, 167)。そして5月20日には、米ソ両国政府によって「まずはABM規制に関する合意の策定に集中し、同時に戦略攻撃兵器についても合意を目指す」とする共同声明が発表された(FRUS, 1969-1972, Vol.XXXII, SALT I, No. 160)。これは分離方式を採用した上で、先行してABM規制に関する合意を行い、その後に戦略攻撃兵器の規制についても合意を目指すことを示した声明であり、事実上、ソ連案を米国が受け入れた形となった。そして、1971年3月15日に始まった第四ラウンドは、この共同声明を最大の成果として5月28日に終了した。

7月8日に始まった第五ラウンドでは、ABMの制限について例外的に許される配備数と配備場所の詳細について議論された。ABMをめぐっては意見の対立はあったものの、進展はあった。その一方、戦略兵器の制限については、ICBM及びSLBMの制限を提案した米国に対してソ連がSLBMの制限に難色を示したため、交渉は平行線を辿ることになった(石本 2020, 1727-1728)。

こうした膠着状態が続く中、大統領選を一年後に控えた1971年10月12日、ニクソンは1972年5月下旬にモスクワを訪問することを発表した。これは事実上、SALTⅠ交渉に「デッド・ライン」を設定することであった(佐藤 1989, 131)。これを受けて第六・第七ラウンドでは、このデッド・ラインに向けて何らかの形で合意できるよう、米ソ両国が歩み寄ることとなった。そして1972年5月22日、ニクソンはモスクワを訪問し、そこでSALTⅠにおける二つの成果、暫定協定とABM条約が締結された。

この二つの成果の具体的な内容は以下の通りである。

 ⑴ SALTⅠ暫定協定

暫定協定は、米ソ両国のICBMの発射基数を量的に凍結し、SLBMの発射基数に一定の条件付きで上限を設定するものである。具体的には、米国のICBMは1054基、SLBMは710基に制限され、ソ連のICBMは1618基、SLBMは950基に制限された(SIPRI 1973, 7-9)。また、この協定は5年間の有効期限をもつ暫定的なものとなった。

この暫定協定は、米ソが初めて戦略兵器の量的な制限に合意したものであり、その点では米ソ間で懸念された無制限な軍拡競争に対して一定の制約を課すものであると評価できる。

しかし、この暫定協定は必ずしも両国にとって同等の制約を課すものではなかった。例えば、1964年以前に配備された旧型ICBM発射基もしくは旧型SLBM発射基は新型SLBM発射基に転換することが認められた。その一方、1964年以前に配備された旧型ICBM発射基もしくは軽ICBMを重ICBMに転換することは認められなかった。ICBMとSLBMの規制が非対称的なこの規定は、ソ連の戦略兵器体系に大きく影響した。重ICBMへの転換(増強)が認められないということは、当時ソ連が米国に対して優位にあったミサイルの投射重量と爆発力に対して、実質的に制限がかけられたことを意味する。すなわち、米国は暫定協定という両国が合意した制限を用いることによって、ソ連の重ICBMの脅威を一方的に軽減したことになる(佐藤 1989, 373-377)。

このような米ソ間の不平等性に加え、暫定協定をめぐっては数々の問題が指摘されている。まず、暫定協定の規制対象となっているのは発射基の数であり、そこに搭載される核弾頭の数やその威力などは全く規制されていない。さらに、暫定協定の第4条は「この暫定協定が対象とする戦略攻撃弾道ミサイル及び発射機の近代化及び代替を行うことがきる」と規定しており、第2条が規制する「重ICBMへの転換」以外の質的な強化は全て許容されている。

そして暫定協定における最大の問題とされるのが、質的な強化の中でもMIRVが規制されていないという点である。米国の軍備管理軍縮局(Arms Control and Disarmament Agency:ACDA)の副長官であり、SALTⅠ代表団のメンバーでもあったガーソフ(Raymond L. Garthoff)はこの問題について、「SALTⅠの重要な成果が失われるわけではないが」と前置きしながらも、MIRVの禁止に失敗したことは「歴史的な失敗」であり、その後に始まるSALTⅡの交渉に大きな負担を与えることになったと述べている(Garthoff 1978, 21)。

このMIRV技術においては、当時米国がソ連に対して優位に立っていた。しかし、その米国の優位が維持されたことは、かえってソ連における開発強化のインセンティブを生むことになり、その後の米ソにおける「質的な軍拡競争14」の激化を招くことになったのである。

 ⑵ ABM条約

ABM条約では、米ソ両国におけるABMの配備が原則禁止された。また、暫定協定とは異なり、有効期限をもたない恒久的な条約の形をとった。この条約では、ABMを「飛行弾道にある戦略弾道ミサイルまたはその構成部分を迎撃するためのシステム」と定義している。つまり、弾道弾迎撃ミサイル、弾道弾迎撃ミサイル発射機、対弾道ミサイル・レーダーの全てがABMシステムの一部として理解され、その配備だけでなく、開発や実験も禁止されている。さらに、自国領土防衛のためのABMシステムだけでなく、自国領土の外への配備、他国への譲渡も禁止している。

一方で、その第3条においては、例外として首都防衛用に1カ所、ICBM基地防衛用に1カ所の合計2カ所のみ配備が認められている15。この例外的な配備には大きな意味がある。首都防衛用ABMは敵国から先制攻撃を受けた際に米ソ両国の指導者、つまり意思決定機能を保護するためのものであり、ICBM基地防衛用ABMは先制攻撃を受けた際の報復用ICBMを保護することで先制攻撃の一方的優位を取り除き、報復能力を維持するためのものである(Calvo-Goller and Calvo 1987, 22)。

ABM条約は、ABMの配備を制限することで、米ソ両国が相手のミサイル攻撃に対して脆弱な状態、つまりMADの基盤ともいえる「相互脆弱性」を作り出すものである。そして、このことは両国が戦略的防衛の放棄を約束したことを意味する。そのため、この条約が米ソの間で締結されたことは、米国が抑止戦略の根幹に位置付けているMADをソ連も受け入れた証拠であるとみなされた(杉江 1985, 18)。

暫定協定におけるMIRV規制の欠落を批判したガーソフも、このABM条約については、ABMシステムの機能を戦略的に重要でないレベルまで制限するという、米ソ両国の主要な目的が達成されたとする。そのため、この条約は軍備管理において注目に値する重要な成功を収めたとして、ABM条約を高く評価している(Garthoff 1978, 12)。

第3節 SALTⅠの評価

それでは、SALTⅠにおける二つの成果、暫定協定とABM条約を米ソにおける「核抑止」の側面から見るとどうだろうか。暫定協定では、ソ連が増強を続けていた戦略核戦力に量的な上限を設けることで、米ソにおける戦略核戦力の量的なパリティを固定した。加えて、ABM条約では戦略的防衛の手段を放棄することで、米ソ両国が相互に核攻撃から脆弱な状況を作り出した。そして、互いの人口や産業を人質にすることによって相互抑止の安定化が目指された。つまり、相互脆弱性は相互抑止と同義であり(石井 2014,11)、これこそマクナマラが想定していたMADの考え方である。このMADの状況が、SALTⅠを構成する暫定協定とABM条約という制度によって固定化された。この意味でSALTⅠは「MADの制度化」と評価できるだろう。

このSALTⅠについて、ニクソンは1972年6月1日の米国議会上下両院合同会議において、以下のように述べた。

〔SALTⅠが締結されたことによって〕二つの核保有国の間で相互に合意された自制と軍備制限の新たな時代に向けた第一歩を踏み出した。これによって、我々は〔米ソ〕両国の安全を強化し、これまで両国間の関係を支配してきた無駄で危険な核兵器のスパイラルの抑制を開始した(PPP 1974, 662)。

さらに、キッシンジャーも、SALTⅠは「戦略的安定に大きく貢献するものであり、長期的かつより広範な合意に向けた重要な第一歩となった」(Kissinger 1977, 162)と述べている。このように、当然ながらニクソンとキッシンジャーは、SALTⅠを肯定的に評価している。

このように、二人が「MADの制度化としてのSALTⅠ」を肯定的に評価していることから、SALTⅠによってニクソンとキッシンジャーがMADを受け入れたと認識された(Cameron 2018, 5)。ところが、後述するように、MADに疑念を抱いていたニクソンとキッシンジャーは、このMADの制度化としてのSALTⅠと並行して、それに一見逆行する政策も検討している。それが新たに国防長官となるシュレジンジャー(James R. Schlesinger)の名を冠した「シュレジンジャー・ドクトリン」である。次章では、シュレジンジャー・ドクトリンの提唱に至る経緯とシュレジンジャー・ドクトリンの特徴を概観した上で、MADとシュレジンジャー・ドクトリンの関係について分析する。

第3章 シュレジンジャー・ドクトリン

第1節 ニクソンの懸念と核オプション柔軟化の模索

米国では新たな大統領に対してSIOP(Single Integrated Operational Plan:単一統合作戦計画)と呼ばれる核戦争計画に関する説明が行われる。1969年1月27日、ニクソン大統領にも同様の説明が行われた(Burr 2005,34)。計画の説明を受けたニクソンは、それがソ連から攻撃を受けた際、数時間のうちに多くのソ連民間人を殺戮することが想定された計画であったことやその際に大統領が取りうるオプションの少なさに愕然としたとされている(Burr 2005, 34)。また、1970年2月18日、1971年2月25日に議会宛に送付した外交政策報告書の中で、ニクソンはそれぞれ以下のように記している。

〔米国が〕核攻撃を受けた場合、米国人の大量虐殺が確実に行われることがわかっていながら、米国大統領には、敵民間人の大量殺戮を指令するという単一の選択肢しか残されていなくて良いものだろうか。狭く定義された確証破壊の概念が、私たちが直面する可能性のある様々な脅威を抑止する能力の唯一の尺度であっていいのだろうか16

私、そして私の後継者も、敵国からの挑戦に対してとることができる対応が、敵民間人の無差別大量殺戮に限定されてはならない17

つまりニクソンは、1965年以降、米国の核戦略の中心となってきた確証破壊戦略、さらにはMADの考え方に対して、大統領でありながら公の場で疑問を呈したのである。ニクソンの懸念は主に二つ挙げることができる。一つ目は上述の外交政策報告書でも言及されたように、確証破壊戦略においては、ソ連から核攻撃を受けた際に、米国大統領が取り得る選択肢にはソ連国民の大量殺戮しか残されていないことである。加えて、ソ連からのさらなる報復によって米国民にも多くの被害が出ることがわかっていながら、その判断を下さなければならいことについての懸念である。二つ目は、「大量殺戮を前提とした核戦略」が本当に信頼に値するのかという懸念である(Burr 2005, 35)。この「信頼」には二つの意味がある。ソ連の米国核戦略に対する信頼と同盟国の米国核戦略に対する信頼である。もしソ連が、米国が宣言通りに核戦略を実施するとは信じず、米国大統領は核兵器による大量殺戮を忌避し、その命令を下さないだろうと考えるならば、それはソ連による先制核攻撃の誘因となり、核抑止は不安定化する。さらに、もし米国の同盟国(特にNATO諸国)が米国の宣言政策18を信じず、米国はヨーロッパにおける有事の際に核使用を回避すると考えると、米国に対する同盟国の信頼は失われ、それを理由に独自に核保有を目指す国が出てくる可能性も否定できない。ニクソンのこうした懸念を背景に、政権発足前から核戦略の見直しに関する検討が始まることになる。

しかし、この核戦略の見直しがすぐに具体化されたわけではなかった。ニクソンは、次期大統領となった1968年11月、キッシンジャーに対して国家安全保障問題担当大統領補佐官への就任を打診した19。それを承諾したキッシンジャーは、直ちにニクソン政権発足直後に発表する政策の分析作業を開始した(ニクソン 1978, 31)。そしてニクソンは、政権発足翌日の1969年1月21日に「米国の軍事態勢と勢力均衡」と題するNSSM-3を発出し、その中で米国の軍事態勢を見直す研究の実施を指示した(NSSM-3, January 21, 969)。この研究においては、米軍の戦略が米国の安全保障と外交政策に与える影響について詳細に検討する必要があるとされた。

1969年5月12日、NSSM-3の指令に対する研究成果報告がキッシンジャーに提出された。その中では、核オプションを柔軟化する必要性が指摘されたと同時に、「戦略的十分性」という概念が登場した(FRUS, 1969-1972, Vol. XXIV, National Security Policy, No. 34)。これは、米国は軍事的・政治的主導権をソ連に握られないだけの十分な軍事力を保持すべきであり、さらには、攻撃対象を民間人だけでなく軍事目標にも広げることを指摘したものであった。その後、1971年3月9日には、レアード(Melvin R. Laird)国防長官によって発表された国防白書において「現実的抑止戦略(strategy of realistic deterrence)」が提起された。これは、戦略的、財政的、人的または政治的現実を考慮した上で、世界の警察か新たな孤立主義かという二つの極端な政策の間の賢明な中間路線を提示した形の戦略であった。

しかし、「戦略的十分性」や「現実的抑止戦略」という戦略概念は、米国の核戦力を構築する際の方針を示したものにすぎず、政策として具体性が乏しいものであった。一方で、これらの戦略概念が提起される過程で、小規模攻撃や低レベルの武力紛争の可能性とそれへの対処の必要性、カウンターフォース攻撃などが政府レベルでの核戦略をめぐる議論の対象となったことが、のちのシュレジンジャー・ドクトリンという核戦略の提唱につながる基盤となったのである。

1973年2月13日には、「米国の核政策」と題するNSSM-169が発出された(NSSM-169, February 13, 1973)。その中では、戦略的な状況の変化を考慮して、戦略核、戦域核、戦術核など全ての核戦力を含めた、米国における既存の核政策の見直しが指示された。また、政策変更の妥当性を評価する際の基準として以下の六つが挙げられている。①基本的な国家政策に照らし合わせた政策変更の望ましさ(desirability)、②同盟国(特にNATO)と潜在的な敵国との関係に与える影響、③政策変更がSALT政策に与える影響、④米国における武器調達政策との関係とそれに与える影響、⑤裏付けとなる仮定の妥当性、⑥この政策変更が採用された際の政策の宣言と実施をどのように行うのか、の六つである。

その後、1973年7月2日、ニクソンは司法長官に就任した国防長官リチャードソン(Elliot L. Richardson)の後任として、当時CIA長官だったシュレジンジャー20を国防長官に任命した21。シュレジンジャーは、米国のシンクタンク、ランド研究所で核問題を研究していた。1968年に発表した論文の中では、「確証破壊能力が安心できるものであるか、不測の事態において有用な目的を果たすことができるかどうかは疑わしい」(Schlesinger 1968, 9)と指摘しており、確証破壊戦略の有用性に疑問を投げかけている。また、ランド研究所の戦略研究部門の責任者として、政府による核オプション柔軟化の検討に関わっていた(Terriff 1995, 99-100)。実際に、国防長官の指名承認公聴会において、シュレジンジャーは「確証破壊が唯一の選択肢であってはならない。米国大統領には柔軟な選択肢があるべきだと思う」と述べている(Hearing Before the Committee on Armed Services 1973, 102-103)。さらに、MADについては「説得性を欠き、論理的に矛盾しており、道徳的欠点を持っている」と指摘し、MADを誤った政策であると厳しく批判していた(石井 2014, 21)。つまりシュレジンジャーは、政権に入る前から核オプションの柔軟化を主張しており、MADについては、道徳的な点でニクソンと同様の懸念を抱いていた人物であった。

第2節 シュレジンジャー・ドクトリンとは

シュレジンジャーの就任後、1974年1月17日、NSSM-169における指示に基づいて発出されたのが「核兵器の使用計画に関する政策」と題されたNSDM-242である(NSDM-242, January 17, 1974)。これが一般に「シュレジンジャー・ドクトリン」と呼ばれる核戦略を示すものである。NSDM-242では、米国の核戦力の基本的な役割は核戦争を抑止することであり、核の運用計画はこの役割を支えるものでなければならないとされた。その上で、紛争が発生した場合に米国にとって最も重要な目標は、低レベルの段階で紛争を早期終結させることであり、これを実現するために限定的な核使用などの幅広い選択肢が必要であるとされた。上述のように、MADの状況下では、ソ連からの先制核攻撃を受けた際に、米国大統領が取り得る選択肢はソ連国民に耐え難い損害を与える報復攻撃(ソ連国民への大量殺戮)のみであった。しかし、限定的な核使用を認めることで、紛争のエスカレーションを段階的なものにし、可能な限り低レベルでの紛争終結を目指した。つまり、シュレジンジャー・ドクトリンは、抑止が失敗し、核兵器が使用された場合のエスカレーション・コントロールを追求するためのものでもあった。

さらに、1975年度の国防総省年次報告書では、NSDM-242を踏まえた上で、シュレジンジャー・ドクトリンが具体化された。この中では、核分野において米国が取りうるオプションを硬直化することは適切な政策とは言えず、より信頼性のある抑止体制を構築するためには多様なオプションを検討する必要があるとされた(Department of Defense 1974, 37-38)。その上で、核使用のオプションを柔軟化したものの一つとして、マクナマラが想定するMADにおいては否定されていた、飛行場や軍事施設などへのカウンター・フォース攻撃を認めた(Department of Defense 1974, 39)。一方で、シュレジンジャー・ドクトリンでは、都市などへのカウンター・バリュー攻撃も否定されておらず、カウンター・フォース攻撃とカウンター・バリュー攻撃の両方を選択し得るオプションとした(Department of Defense 1974, 39)。

これらの決定によって、仮にソ連による先制核攻撃が小規模なものや軍事施設などに限ったものであり、被害が限定的であった場合に、それに対応した形での報復の目標設定や規模の選択が可能になった。つまり、シュレジンジャー・ドクトリンはソ連による核攻撃シナリオを幅広く想定した上で、小刻みで柔軟な核使用オプションを検討するものであった。また、米国がソ連による様々な形の核攻撃に対処し得る選択肢を保持していると示すことで、核抑止の信頼性を強化することも目指された。これによって、ニクソンが抱いた、米国が取り得る核オプションの少なさ、米国核戦略に対するソ連と同盟国の信頼の低下という二つの懸念は解消されたと考えられた。

第3節 シュレジンジャー・ドクトリンとMAD

ニクソンと同様の懸念を抱いていたキッシンジャーやシュレジンジャーが、ニクソン政権に入り、それぞれに核政策の策定に携わることになったことからも、政権、もしくはニクソン自身にとって、核オプションの柔軟化は重要課題の一つであったことが窺える。

しかし、シュレジンジャー・ドクトリンについては、様々な批判を受けている。以下、主な三つの批判を挙げたい。一つ目は、核オプションを柔軟化することで、紛争における核使用のハードルが下がり、核戦争の可能性が高まるという批判である(Terriff 1995, 13)。MADにおいては、敵国民間人の大量殺戮、そしてそれが引き起こす敵国の報復による自国民間人の大量殺戮というのが唯一のストーリーであった。そのため、ニクソンが懸念したように、米国大統領は核攻撃を受けた際、「敵国民の大量殺戮(それに続く自国民の大量殺戮)」か「何もしないか」という苦渋の決断を迫られることになる。一方で、核オプションを柔軟化した際には、民間人の被害をできる限り少なくする方法での核使用オプションが存在することになる。それは民間人の大量殺戮を想定する場合よりも核使用の判断が比較的容易であり、それだけ核使用の可能性が高まるということである。二つ目は、核オプションを柔軟化することで、米国が敵国に対する先制攻撃の野心を抱いているという誤解を与える可能性があるという批判である。これによって敵国の反発を招いた場合、敵国による軍拡を促してしまう可能性がある。さらに、それが新たな軍拡競争を生むことにもつながり、1972年に締結されたSALTⅠや交渉中のSALTⅡに悪影響を及ぼしかねないという指摘である(Terriff 1995, 13;Wolfe 1975, 133)。これは、マクナマラが指摘した作用・反作用現象の一つの例とも言えるだろう。三つ目は、核戦争におけるエスカレーション・コントロールそのものが困難であるという批判である(Terriff 1995, 13)。紛争において、一度核兵器が使用されてしまえば、米国の意思にかかわらず、その紛争は限度なくエスカレートしてしまう可能性が高く、米国の大統領が幅広い核オプションを得たとしても、核戦争におけるエスカレーションをコントロールできる余地は少ないという指摘である。

さらに、MADとの関係でシュレジンジャー・ドクトリンをどのように位置付けるのかという点も明確になっていない。つまり、シュレジンジャー・ドクトリンはMADからの逸脱であると考えるべきかという点である。NSDM-242では、シュレジンジャー・ドクトリンを「米国の核戦略からの逸脱ではなく、既存の政策の精緻化(elaboration)である」と説明しており、1975年度の国防総省年次報告でも「ターゲティング・ドクトリンの変更と新しい核オプションを強調することは、過去の慣例からの根本的な逸脱を意味するものではない」と説明している。つまり、米国政府の公式的な見解としては、シュレジンジャー・ドクトリンは、MADを否定するものではなく、MADを補完するものであるという立場に立っていることがわかる。

こうした公式見解に対して、研究者の間ではシュレジンジャー・ドクトリンとMADの関係について大きく二つの解釈が示されている。一つは、MADの「転換(shift)」(Payne 2019, 155; Wolfe 1975, 143)という解釈である。これは、シュレジンジャー・ドクトリンを、それまでの米国核戦略とは異なる方針を打ち出した前例のないものであると説明する文脈で使用されている。二つ目は、MADの「修正(qualified)」(Freedman 2019, 417)や「改訂・修正(revised)」(Terriff 1995, 2)、「部分的修正」(吉田 2009, 76)という解釈である。これは、シュレジンジャー・ドクトリンはMADからの逸脱ではないという政府の公式的な立場の通り、ニクソン政権はシュレジンジャー・ドクトリンの採用によってMADを放棄する意図はなかったという点を考慮した解釈となっている。

このように、シュレジンジャー・ドクトリンをめぐっては様々な解釈が存在する。しかし、シュレジンジャー・ドクトリンの主眼は、MADの放棄ではなく、それを前提としながら、MADによって制限されてきた米国大統領が取り得る核オプションを柔軟化することにあった。このことからシュレジンジャー・ドクトリンは、「MADの修正」であると判断すべきだろう22

第4章 ニクソンとキッシンジャーの現実主義

第1節 ニクソンとキッシンジャーの現実主義の特徴

ここまでSALTⅠとシュレジンジャー・ドクトリンという、ニクソン政権における二つの核政策について取り上げてきた。しかし、ニクソン政権の外交・安全保障政策を検討する上で欠かせない要素がある。それが大統領のニクソンとニクソン政権において外交の支柱となったキッシンジャーの存在である。ニクソン政権の外交を最も特徴付けるものは、二人が持つ「現実主義」に基づく外交、いわゆるニクソン=キッシンジャー外交である。

そこで本章では、まずニクソンとキッシンジャーの現実主義とはどのようなものなのか、それがニクソン政権の外交にどのように組み込まれたのか、という点を明らかにすることで、ニクソンとキッシンジャーの現実主義外交の性質を整理する。その上で、ニクソンとキッシンジャーの現実主義が二つの核政策の形成にどのような影響を与えたのかを検討する。

一般的に、現実主義(リアリズム)は以下のような特徴を持つ理論とされる。現実主義においては、国際政治における主体は国家であり、国家は損得に基づいて行動するものであると想定される。そのため、国家にとって最も重要なことは自国の利益の極大化であるとされる(吉川、野口 2015, 158)。そして、米国政治における典型的な現実主義者(リアリスト)としてしばしば挙げられるのがニクソンとキッシンジャーである(ナイ、ウェルチ 2017, 6 ; 吉川、野口 2015, 154)。

それでは、ニクソンとキッシンジャーの現実主義とは具体的にどのようなものなのだろうか。冷戦開始以降、歴代の米国政権は、(共産主義という)イデオロギーに基づいて脅威を定義してきた。そして、このイデオロギーに裏付けられた世界観によってソ連を「脅威」と位置付けてきた。しかし、ニクソンとキッシンジャーは、歴代の米国政権が持ち続けてきたこの世界観に疑問を抱いた。核の危機に対する意識が共有される時代において、イデオロギー的に最も敵対する国家であっても「共通の利益」を見出すことができると考えたのである(Gaddis 1982, 284)。そこで二人は、米国に対する脅威を定義する基準をイデオロギーではなく、「利益」に求めた(Gaddis 1982, 284)。そうすることで、イデオロギー上は相容れない国同士であっても、双方にとっての「共通の利益」を見出すことが可能となり、その上に持続的な関係を構築することを目指したのである(Gaddis 1982, 279)。つまり、相手国(ソ連)との相違点を認めた上で、できる限り共通の利益を探し出し、その実現を追求することで、国際関係の安定化を図るのがニクソンとキッシンジャーの現実主義に基づく外交と言える(高坂 1978, 349-350)。

さらに、ニクソンとキッシンジャーの現実主義外交を象徴するのがリンケージ戦略である。キッシンジャーはこのリンケージを二つの形態に分類している。一つは「二つの別個の目的を意図的に結びつけ、一方を他方のテコとして利用する」リンケージと、もう一つは「相互依存の世界では、大国のもろもろの行動は必然的に相互に関連するため、直接的に関係のある問題や地域を超えて、広く影響を及ぼす」という考え方に依拠するリンケージである(Kissinger 1979, 129)。キッシンジャーは、この二つのうちニクソン政権では、前者のリンケージが採用されたとしている(Kissinger 1979, 129)。加えて、キッシンジャーは自身の著書『外交(Diplomacy)』の中で、リンケージ戦略を含めた、ニクソン政権の外交政策を以下のようにまとめている。

ニクソンは米国とソ連の間にある課題を、「完全に対立的なもの」と「完全に協調的なもの」という単純な二項対立で捉えるのではなく、協力可能な分野を重視し、その協力を活性化させることで、両国が対立する分野におけるソ連の行動を修正するよう努めていた。これこそが、ニクソン政権におけるデタント(緊張緩和)であり、リンケージ戦略である(Kissinger 1994, 714)。

また、ニクソンは自身の回顧録の中で「政権移行期間中、キッシンジャーと私〔ニクソン〕は、新しい対ソ政策を作り上げた。(中略)われわれは、ソ連が関心を持つ領域での進展と、アメリカにとって重要な領域での進展を連関させることを決めた」(ニクソン 1978, 37)と述べており、ニクソン自身もリンケージ戦略の策定に深く関わったことを明らかにしている。

以上がニクソンとキッシンジャーの現実主義が持つ主な特徴である。ではこの二人の現実主義は、SALTⅠとシュレジンジャー・ドクトリンという二つの核政策の形成にどのような影響を与えたのだろうか。

第2節 ニクソン・キッシンジャーの現実主義と二つの核政策

まずSALTⅠである。ニクソンとキッシンジャーが現実主義に基づいて追求した、米ソ両国における主な「共通の利益」の一つとして挙げられるのが軍拡競争、特に戦略核における軍拡競争の抑制である。そして、その手段が戦略兵器の制限(SALTⅠ)であった。

上述の通り、米国が長年堅持していた、ソ連に対する戦略核における圧倒的な優位はすでに崩れていた。さらには、量的な側面ではソ連とのパリティに近づいているだけでなく、追い抜かれる危機感もあった。そのため、米国としてはソ連との軍拡競争に歯止めをかける必要があったのである。

米国がこうした認識を持っていたことは、1969年にキッシンジャーに提出されたNSSM-3の指令に応える研究成果報告や1970年の国防白書など、複数の文書の中でも示されている。1969年の研究成果報告書では、「ソ連の最も重要な政治的・軍事的目標は、予見可能な将来において、米国とほぼ同等の戦略態勢を整えることである」(FRUS, 1969-1972, Vol. XXXIV, National Security Policy, No. 34)と指摘された。それに加えて、「ソ連がこれまで懸命に努力して得てきた成果を手放す可能性は低いため、米国が〔ソ連に対して〕優位な態勢を取り戻すことは困難である」(FRUS, 1969-1972, Vol. XXXIV, National Security Policy, No. 34)と指摘し、米国がソ連に対して優位性を追求することは現実的ではないという認識が示された。1970年の国防白書では、ソ連は戦略攻撃兵器の急速な配備を続けているため、1970年代半ばまでに米国が二流の戦略的地位に置かれる可能性があると指摘された(Statement of Secretary of Defense 1970, 1)。また、反共主義者とみなされていたニクソンまでもが、大統領の就任演説において「対立の時代を経て、私たちは交渉の時代に入っている」(PPP 1971a, 3)と述べ、ソ連との対立ではなく、交渉に重きを置いたことからも米国が危機感を抱いていたことは明らかだろう。

一方、ソ連は米ソ関係をどのように見ていたのだろうか。ソ連は1962年のキューバ危機以降、戦略核において米国のレベルに追いつくことを目標にしてきた(延 1990, 232)。その目標に近づくと、その後は戦略核において、ソ連と米国が量的なパリティにあることを米国に認めさせることが目的となり、SALT交渉の開始に合意した(長谷川 1989, 79)。さらに、量的なパリティに達したとしても、米国は依然として大量の戦略核を保有しており、さらには質的な向上も目指している中で、ソ連にとって米国を上回る核戦力を維持・構築するのは経済的にも容易ではなかった。ここに戦略兵器の制限による軍拡競争の抑制という米ソ両国における「共通の利益」が生まれたのである。

そして、その「共通の利益」を実現する形で、1972年5月にはSALTⅠ暫定協定とABM条約が締結されることになる。加えて、米ソ両国の首脳によってSALTⅠの署名が行われたモスクワ・サミットでは、SALTⅠに加えて「米ソ関係の基本原則に関する宣言23」が署名された。この基本原則はSALTⅠの陰に隠れ、あまり注目されてこなかったが、非常に重要な宣言である(Lynch 1992, 30)。その主な内容は以下の通りである。

•両国は核時代において、平和共存の基盤に立って相互関係を深める以外の如何なる選択肢もないという共通の決意を確認する

•ソ連及び米国の社会体制及びイデオロギーの差異は、主権、平等、内政不干渉及び互恵の関係に基づく正常な両国関係の発展にとって障害とはならない

•米国とソ連は両国関係の危険な悪化をもたらし得る状況の発展を阻止することを特に重視する

•両国は、直接または間接的に、他方の犠牲において一方的利益を得ようと努めることはこれらの目的に合致しないものである

•米国とソ連の平和的な関係を維持、強化するための前提条件は、平等原則と武力の使用または威嚇の放棄に基づき、両国の安全保障上の利益を認識し合うことである

•両国は、すべての国が平和と安全の中で生活し、外部からの干渉をうけないような状況を作り出すよう努力する(PPP 1974, 633-635)

この基本原則は、米ソデタントを制度化する、ゆるやかな行動基準またはガイドラインとなるように作成されたものであった(スチーブンスン 1989, 225)。特に重要なのは、米国はこの基本原則において、ソ連を自国と対等な存在と認め(ウェスタッド 2020, 143)、米ソという二つの超大国による国際秩序の安定を追求すると宣言した点である。加えて、上述の通り、冷戦開始以降、米国はイデオロギーに基づき、ソ連を脅威と位置付けてきた。しかしこの基本原則では、ソ連とのイデオロギーの差異は米ソ両国の関係構築を阻害するものではないとされた。そして、米ソにおける一方的な利益の追求を排することによって、両国の共通の利益を追求することが確認された。つまりこの基本原則は、米国に対する脅威を定義する基準をイデオロギーではなく利益に求め、共通の利益を追求することを重視するニクソンとキッシンジャーの現実主義が色濃く反映された合意であるということができる。

この基本原則とSALTⅠは、関連付けて理解する必要があるだろう。つまり米国は、もはやソ連に対して優位性を追求することはできないという状況を踏まえ、基本原則によって、ソ連を米国と対等な存在であると認めた。しかし、特に戦略核戦力の分野におけるソ連の成長を野放しにすれば、いずれ米国に対してソ連が優位性を獲得する時代が来る。すなわち、戦略核の分野において米国がソ連に対して劣位に立つということである。これはニクソンやキッシンジャーとしても当然認められない事態である。そこで、SALTⅠによって米ソ間における戦略核のパリティを固定化(=MADを制度化)することで、戦略核戦力の上限を定める一定の枠組みを作り出したのである。このように、SALTⅠと基本原則は、ニクソンとキッシンジャーの現実主義が顕著に現れたものであるということができる24

次にシュレジンジャー・ドクトリンである。シュレジンジャー・ドクトリンは、当時の国防長官シュレジンジャーの名が冠されたものの、その基本的な考え方は、キッシンジャーと深いつながりを持つ。そこで、キッシンジャーが大統領補佐官としてニクソン政権に入る前に主張した「限定核戦争論」を紹介したい。

1957年、キッシンジャーは著書『核兵器と外交政策(Nuclear Weapons and Foreign Policy)』を出版した。これは、米国のシンクタンク、外交問題評議会(Council on Foreign Relations)における議論をもとに執筆され、限定核戦争論の「教典」と呼ばれるようになった(渡辺 1958, 60)。

当時、限定核戦争に関する議論が盛り上がりを見せた背景には、アイゼンハワー政権で提唱された大量報復戦略の存在がある。キッシンジャーは、近代兵器(核兵器)の技術が進歩するにつれて、全面戦争の脅威はその信頼性を失い、それに伴って政治的有効性もまた失われると述べている(Kissinger 1969, 115)。さらに、米国の同盟国が、米国が彼らのために大量報復戦略を実施すると信じていない状況、加えて、ソ連の指導者も米国による大量報復戦略の実現性を信用せず、その脅威を恐れることがない状況下では、かえってソ連による侵略を促すことにもなりうるとして、大量報復戦略に疑問を投げかけている(Kissinger 1969, 115)。

そこで、キッシンジャーが著書の中で提唱したのが「限定核戦争論」である。限定戦争は、地理的に範囲の限られた戦争、使用する兵器が制限された戦争25、全ての兵器を使用するが、その使用が特定目標に制限された戦争など、様々な形が考えられる(Kissinger 1969, 120)。なかでも、キッシンジャーの限定核戦争論は、核兵器による限定戦争の可能性を指摘している。大量報復戦略に象徴されるように、従来は核使用=全面戦争と考えられていた。これに疑問を抱いたキッシンジャーは、局地的な核使用など、全面戦争に至らない限定的な核戦争の可能性を指摘したのである。

こうした文脈の中で、キッシンジャーは、「力の中間的な適用(intermediate application of power)」(Kissinger 1969, 125, 139)という言葉を用いたり、「限定戦争の兵器システムは柔軟でなければならない」(Kissinger 1969, 130)と述べている。つまりキッシンジャーは、核使用=全面戦争の考え方を否定し、大量報復戦略を批判した上で、大量報復に至らない中間的な選択肢、すなわち柔軟な選択肢を作るべきであるということを説いている。このことは、MADが想定するような民間人の大量殺戮か何もしないかといった二者択一ではなく、その中間に当たる柔軟な選択肢の必要性を示唆しており、ここにシュレジンジャー・ドクトリンの萌芽を見ることができる。

そして、1968年11月に大統領補佐官としてニクソン政権に入ったキッシンジャーは、上述の通り、政権発足前から核オプション柔軟化の検討において中心的な役割を担った。キッシンジャーは自身の回顧録の中で以下のように述べ、核オプションの柔軟化を含めた米国の軍事ドクトリンを再検討する目的を明らかにしている。

私とスタッフは大統領の強力な支援を受け、軍事ドクトリンの再検討に着手した。その目的は、合理的な基準に従って軍事計画を立案し、〔米国を〕防衛することができるようにすること、新たな現実、、、、、に戦略を適応させ、国民の議論を感情論から遠ざけることである(Kissinger 1979, 215)。

では、キッシンジャーの言う「新たな現実」とは具体的に何を指すのだろうか。その一つが、米ソ間における戦略環境の変化であることは間違いないだろう。繰り返し述べている通り、米ソにおける戦略核戦力のパリティが生まれつつある中で、これまで米国が堅持してきた戦略核における優位性は失われつつあった。さらには、米国がソ連に追い抜かれる可能性さえあったのである。これに対処したのがSALTⅠであったことは、すでに述べた通りである。

しかし、米国が直面していた「新たな現実」はそれだけではなかった。SALTⅠは戦略核における量的な制限をかけることに成功した一方、質的な軍拡競争を招くことになった。つまり、SALTⅠの規制枠外における軍拡競争である。これによって、ソ連が、MADで想定されていたような、人口や産業に耐え難い損害を与える大規模な核攻撃のみならず、米国に対する「限定的な」核攻撃を行う可能性が出てきたのである。1973年の外交政策報告書においては、このことについて以下のように述べられている。

〔米ソ〕双方の都市を巻き込んだ全面的な核攻撃の脅威は、1960年代ほど信頼できる抑止力とはならないかもしれない。侵略者〔ソ連〕は、万が一戦争が起こった場合、選択的かつ限定的な核使用を行う可能性がある26

では、ソ連が限定的な核攻撃を行った場合、米国はどのような課題に直面するのだろうか。それがニクソンの抱いた「大量殺戮か降伏か」のジレンマである。つまり、ソ連の核攻撃が限定的であるにもかかわらず、米国大統領が取り得る選択肢は二つしかない、という非対称的な状況に直面する可能性があるということである。

このような状況下において最も懸念されるのは、米国が持つ核戦略の信頼性の低下である。キッシンジャーも、米国の戦略が信頼性を失いつつあるなか、米国はどのようにして同盟国と結束すべきか、ソ連はどのような反応をするのかなど、米国核戦略の信頼性が低下していることへの対処の必要性を説いている(Kissinger 1979, 216)。その上で、1969年6月、キッシンジャーはニクソンに対して、ソ連による核攻撃が限定的だった場合の対応について検討すべきであると進言し、ニクソンもそれに同意した(Kissinger 1979, 216)。そして、ソ連による限定的な核攻撃を想定した具体的な検討が開始されたのである。

ニクソンとキッシンジャーの現実主義において、脅威を定義する基準は米国の「利益」に反するか否かである。この利益という基準に基づき、さらには米ソ両国にとっての共通の利益に基づき、SALTⅠが合意されたことはすでに述べたところである。一方、この考え方に従うと、米国の「利益」に反するものは米国にとっての「脅威」と位置付けられることになる。上述のような、SALTⅠの規制枠外においてソ連がもたらす新たな現実は、明らかに米国の利益に反する。そのため、当然「脅威」と位置付けられるのである。そして、ソ連による限定的な核攻撃の可能性が指摘された1973年の外交政策報告書においては、同時にそれに対処するために必要な方針が示されている。

潜在的な敵〔ソ連〕が、より柔軟な核戦力を保有するこの10年間には、これまでとは異なる戦略ドクトリンが必要となる。(中略)1970年代の抑止力を信頼できるものにするためには、高い柔軟性が必要である。我々の側に柔軟性が欠如していると、侵略者〔ソ連〕による核使用を誘発する可能性がある。危機においては、限定的な方法で核兵器が使用される27。そのため、もし米国が限定的な方法で軍事力を行使する能力を持っていれば、核報復の信頼性はより高いものになり、これによって抑止力がより効果的になるだろう28

シュレジンジャー・ドクトリンは、ソ連によって突きつけられた新たな現実、すなわちソ連による限定的な核攻撃の可能性とそれに伴う米国核戦略の信頼性の低下という課題に対処するものであった。つまり、米国の利益に反する「脅威」への対処として「MADの修正」という形がとられたのである。このように、シュレジンジャー・ドクトリンは、ニクソンとキッシンジャーが現実主義に基づいてその必要性を認めた政策であった。言い換えると、シュレジンジャー・ドクトリンは、ニクソンとキッシンジャーの現実主義が、米国の「利益」と合致したSALTⅠとは逆方向に向いて現れたもの、つまり米国の利益に反する「脅威」に対処したものであるということができる。

以上のことから、ニクソン政権において一見相反する二つの核政策が同時並行的に検討された背景には、ニクソンとキッシンジャーが持つ現実主義が影響したことがわかる。つまり、イデオロギーよりも利益を重視するニクソンとキッシンジャーの現実主義に照らし合わせた場合、SALTⅠは戦略核戦力における軍拡競争の抑制という米ソ両国における「共通の利益」を追求したものである。翻って、もう一方のシュレジンジャー・ドクトリンは、キッシンジャーの言うところの新たな現実という、米国の利益に反する「脅威」に対処したものであった。第2章と第3章でそれぞれ示した「MADの制度化としてのSALTⅠ」と「MADの修正としてのシュレジンジャー・ドクトリン」という一見相反する二つの核政策は、ニクソンとキッシンジャーの現実主義に基づき、「利益」と「脅威」という米国にとっての利害の両側面を表したものであった。

第3節 現在の核をめぐる課題への示唆

ここまで、「MADの制度化としてのSALTⅠ」と「MADの修正としてのシュレジンジャー・ドクトリン」という一見相反する二つの核政策が同時並行的に検討された背景には、ニクソンとキッシンジャーの現実主義が存在したことを示した。それは、米ソにおける「共通の利益」の上に持続的な関係を構築しつつ、ソ連による脅威にも対処できる手段を持つというものであった。では、今日の国際社会が直面する核をめぐる課題に取り組む上で、ニクソンとキッシンジャーの現実主義からはどのような示唆が得られるだろうか。本稿では、主に二つの手がかりを示す。

まずは、国家間対立を超えた現実主義に基づく外交の必要性である。当然のことながら、1989年の冷戦終結、1991年のソ連崩壊以降、核をめぐる戦略的な環境は大きな変化を遂げた。一方、現在の国際社会においては、しばしば「民主主義vs. 権威主義」などの体制間対立が強調される。さらに、ロシアによるウクライナ侵攻が開始されて以降、メディア等でも「西側」という言葉が頻繁に使われるようになり、より一層体制間対立が顕在化している。冷戦期の東西対立を彷彿とさせる現状においては、ニクソンとキッシンジャーの現実主義に基づく外交から、現在の国際社会が直面している核をめぐる課題に取り組む上での手がかりを見出すことができる。つまり、ニクソンとキッシンジャーの現実主義外交は、体制間対立やイデオロギー対立を抱える二国間関係であっても、そこに存在する共通の利益を見出し得るということを示唆している。そして、その共通の利益の上に持続的な関係を構築することが可能になるのである。このように、ニクソンとキッシンジャーの現実主義の論理を、今日の核をめぐる新たな課題に当てはめることで、それに対処するための重要な糸口を見出すことができるだろう。

二つ目は、一つ目とも大いに関連するが、対立する国家とのコミュニケーションの重要性である。抑止が機能するためには、三つの要件が必要とされる。①相手に耐え難い報復を課す「能力」があること、②相手に対する報復の「意思」があること、③①と②があるということを双方が「相互理解」すること、の三つの要件が全て揃った場合に、抑止は機能するのである。ここで特に重要なのが、③相互理解である。それを実現するためには、自国の能力や意図を相手に対して正確に伝達しなければならない。ニクソンとキッシンジャーの現実主義は、対立する国家との共通の利益を模索しつつ、抑止を機能させるためにコミュニケーションをとることの重要性を示唆している。実際、キッシンジャーは『核兵器と外交政策(Nuclear Weapons and Foreign Policy)』の中で、限定核戦争論を展開すると同時に、限定核戦争における外交の重要性、特に外交は双方の意図を伝達するためのフォーラムであるということを強調している(Kissinger 1969, 171)。つまり、対立する国家とのコミュニケーションを忌避するのではなく、むしろそれを進んで行うことによって、相手国との共通の利益を模索しつつ、相手国による誤解や誤算が生じるのを防ぐことが、抑止を機能させることに繋がるのである。

ここまで、ニクソンとキッシンジャーが現実主義的な思考に基づき、米ソにおける共通の利益を模索しつつ、ソ連がもたらす脅威に対処した過程を再検討した。その分析の中から、今日の国際社会が直面する核をめぐる課題に取り組む上での二つの手がかりを導き出した。ニクソンとキッシンジャーの現実主義から読み取ることができたこれらの手がかりは、軍備管理・軍縮の「冬の時代」と言われる今日の核をめぐる課題に対処する際、国家間の利害関係をゼロサムからポジティムサムに展開させ得るという観点で重要な示唆を与えている。

おわりに

本稿では、ニクソン政権における軍備管理政策(SALTⅠ)と核戦略(シュレジンジャー・ドクトリン)を取り上げた。そして、SALTⅠがMADの制度化、シュレジンジャー・ドクトリンがMADの修正であることをそれぞれ示した。その上で、一見相反する二つの核政策が同じニクソン政権で展開されたことについて、脅威を定義する基準を、イデオロギーではなく、利益に求めたニクソンとキッシンジャーの現実主義が大きく影響していたことを示した。つまり、SALTⅠは、戦略核戦力における軍拡競争の抑制という、米ソの「共通の利益」が追求された結果であった。一方、シュレジンジャー・ドクトリンは、米国の利益に反する、ソ連による「脅威」に対処するためのものであった。つまり、一見相反する二つの核政策は、ニクソンとキッシンジャーの現実主義に基づき、米国の「利益」と「脅威」にそれぞれ対応したものであったことを示した。

こうした分析に行うため、本稿ではまず、確証破壊戦略が提唱された背景とMADが成立するに至る経緯を整理した。そして、ニクソン政権が発足し、ジョンソン政権で中止されていたSALTⅠ交渉が開始され、交渉の成果としてSALTⅠ暫定協定とABM条約が合意された。そして、二つの合意が戦略的な安定に対して果たした役割を論じることで、SALTⅠが「MADの制度化」であることを示した。一方、政権発足直後からSALTⅠ交渉と同時並行的に、米国大統領の核オプションの柔軟化が検討されていた。その中で、戦略的十分性や現実的抑止戦略などの戦略概念が提起され、これらの議論は最終的にシュレジンジャー・ドクトリンという形で具体化された。核オプションの柔軟化が具体的な戦略として示されたものであるシュレジンジャー・ドクトリンは、核攻撃を受けた際の米国大統領の対応オプションが、敵国民間人の大量殺戮に限定されていた確証破壊戦略を修正するもの、つまり「MADの修正」であることを示した。「MADの制度化としてのSALTⅠ」と「MADの修正としてのシュレジンジャー・ドクトリン」という一見相反する二つの核政策が、ニクソン政権において同時並行的に検討された意味を考える上で、重要な鍵となるのがニクソンとキッシンジャーの現実主義である。

ニクソンとキッシンジャーという、ニクソン政権における二人の中心人物は、しばしば米国政治における現実主義者(リアリスト)の典型例として挙げられる。そこで、冷戦開始以降の米国政権には見られなかった、イデオロギーではなく利益によって脅威を定義するという二人の現実主義の特徴を概観した上で、それが二つの核政策に与えた影響について論じた。そして、ニクソンとキッシンジャーの現実主義に照らし合わせた場合、SALTⅠは、米ソにおける共通の利益を追求したものであり、もう一方のシュレジンジャー・ドクトリンは、米国の利益に反するソ連による脅威に対処したものであることを示した。こうした分析を通して、ニクソン政権における二つの核政策が、ニクソンとキッシンジャーの現実主義に基づき、「利益」と「脅威」という米国にとっての利害の両側面を表していることを浮き彫りにした。

ニクソンとキッシンジャーの現実主義の本質を表す象徴的な言葉がある。ニクソンが大統領退任後に著した『指導者とは(Leaders)』の中の一節である。

緊張緩和(デタント)とは、互いの差異をめぐって争うよりは異質なりに共存の道をさぐろうという努力に他ならない。(中略)ソ連はきわめて現実的な脅威であり、その脅威に対処することは西側の指導者にとって最優先の責務だろう。だが、まさにそれほどの脅威だからこそ、われわれは差異を埋める努力をしなければならず、可能なかぎり話し合いで決着をつけ、決着がつかない場合も話し合いを続けなければならない(ニクソン 1986, 242)。

反共主義者とみなされていたニクソンがこのような言葉を残したことについては、違和感を覚えるかもしれない。しかし、ここまでみてきたニクソン政権における二つの核政策が示すように、ニクソンとキッシンジャーが持つ現実主義に照らし合わせた場合、現実的な脅威に対処するために、話し合いによって差異を埋める努力をするという考え方が、ニクソン政権における政策決定の中心にあったことは明らかである。

さらに、第4章第3節では、ニクソンとキッシンジャーの現実主義が、今日の国際社会が直面している核をめぐる課題に取り組む上で、どのような示唆を与えているかを分析した。それは国家間対立に囚われない現実主義に基づく外交の必要性と、対立する国家とのコミュニケーションの重要性である。ニクソンとキッシンジャーの現実主義外交は、体制間対立やイデオロギー対立を抱える二国間関係であっても、共通の利益を模索し、その上に持続的な関係を構築することが可能であるということを示している。こうした姿勢が、今日の核をめぐる新たな課題に対処するための重要な糸口になり得ることを示した。また、対立する国家とのコミュニケーションを重ねることで、両国の間に存在する共通の利益を模索しつつ、抑止を機能させることが可能になると指摘した。

もちろん、本稿が事例とした時期の米国はベトナム戦争を戦っており、また中ソ対立という国際情勢も存在していた。これらの出来事は、ニクソン政権における二つの核政策の検討に少なからず影響したと考えられる。さらに、今日の核をめぐる環境は、冷戦期のそれとは大きく異なる。そのため、本稿で示した手がかりは、必ずしも今日の核の課題を解決するための普遍的な解とはならない可能性もある。その上で、本稿では、冷戦期において、イデオロギー対立を抱えていた米国とソ連という核超大国二カ国が、戦略核兵器の制限をめぐる交渉を行うに至った経緯と、その背景にある米国の現実主義外交の論理に焦点を当てた。こうした分析を通して、国家間対立を超えて共通の利益を見出そうとする現実主義に基づく外交の必要性と対立する国家とのコミュニケーションの重要性を示すことができた。これらは、今日の国際社会が直面する核をめぐる課題に取り組む上で、現在の核アクター(特に米国)が取り得る一つのアプローチのあり方を提示していると言える。

また、核軍備管理・軍縮の「冬の時代」に入っている今日の国際社会において、米ロ・米中(あるいは米中ロ)間で新たな核軍備管理・軍縮条約が合意に至る可能性は極めて低い。このような状況だからこそ、本稿で示した、持続的な関係の構築とコミュニケーションの追求が、誤解や誤算による衝突を防ぎ、核アクター間での信頼を醸成するために必要なのである。そして、こうした努力を継続することは、核軍備管理・軍縮に向けた取り組みの第一歩となるだろう。

Footnotes

1 「軍縮」とは、特定の兵器を削減あるいは全廃したり、兵員数を削減することである。これに対して、「軍備管理」とは、米ソにおける軍縮の実現が難しい中で、少しでも安定した関係を作りたいという考え方のもとで生まれた概念であり、特定の兵器の凍結や制限などが含まれる。(宮坂 2018, 277-278)。

2 本稿で扱う戦略兵器制限交渉(SALT)に続き、1972年11月には米ソ間で二回目の戦略兵器制限に関する交渉が始まる。そこで、本稿では第二次戦略兵器制限交渉(SALTⅡ)と区別するため、第一次戦略兵器制限交渉をSALTⅠと表記する。

3 相互確証破壊(MAD)については、第1 章第3 節において詳述する。

4 例えば、黒沢(1989)、黒澤(2021)などがある。

5 例えば、石本(2020)、近藤(1984)、Maurer(2017)などがある。

6 例えば、Garthoff(1994); Garthoff(1978)などがある。

7 例えば、秋山( 2021)、岩田(1989)、吉田(2009)、Jerome and David(1989);avid et al.( 2021)などがある。

8 例えば、Terriff(1995); Burr(2005)などがある。

9 例えば、岩田(1989)、佐藤(1989)、吉田(2009)、Freedman(2019)などがある。

10 大量報復戦略とは、アイゼンハワー政権の国務長官ダレス(John F. Dulles)によって提唱された、初めての本格的な核戦略である。米国の同盟国(特にNATO諸国)に対してソ連が軍事侵攻を行った場合、米国はソ連に即時大量の核報復を行うという意思を示すことで、ソ連による侵攻を抑止することを目的としたものであった。

11 梅本は、戦略的安定を「危機における安定」「軍備競争に係る安定」「抑止に係る安定」の3 つの次元に類型しており、この事例は「軍備競争に係る安定」にあたる。また軍備競争に係る安定とは、戦略戦力の量的拡大及び質的向上への誘因が抑制された状態を指す(梅本 1996, 100-101)。

12 ENDC とは、多国間の軍縮交渉機関であり、その前身である十カ国軍縮委員会(Ten-Nation Disarmament Committee:TNDC)から拡大されたもの。TNDCでは西側5 カ国、東側5 カ国という東西同数の原則が取られたが、ENDC ではそこに非同盟諸国が加わることになった(納家 1984, 68-69)。

13 キッシンジャーとドブルイニンによるバック・チャンネルは、SALT 交渉のために設けられたものではなかった。1969年2 月に確立された二人によるバック・チャンネルは、ベトナムや中東、核兵器の制限、貿易に至るまで、米ソ間に存在する様々な課題を議論する場であった(Hanhimäki, 2004, 34)。そのため、SALT 交渉が始まった当初は、バック・チャンネルにおいて実質的な交渉が行われることはほとんどなかった(Maurer 2017, 281)。

14 質的な軍拡競争とは、核弾頭やミサイルの数の増加などを指す量的な軍拡競争とは異なり、ミサイルの精度の向上や核弾頭の小型化などを指す。ガーソフが指摘しているように、SALTⅠ締結後に本格化したMIRV の開発競争は、質的な軍拡競争の最たる例であり、1972年11月に始まるSALTⅡ交渉が難航した要因の一つであった。

15 1974年、米国とソ連はABM条約に関する議定書を締結し、ABMの配備可能地域を2 カ所から1 カ所に制限した。さらに議定書では、米国は首都に、ソ連はICBM基地に配備しないことが明記された。

16 U.S. Foreign Policy for the 1970’s: A New Strategy for Peace (PPP 1971b, 173).

17 U.S. Foreign Policy for the 1970’s: Building for Peace (PPP 1972, 310).

18 米国の核戦略には「運用政策」と「宣言政策」という二つの形が存在する。運用政策とは、米国の核戦力のターゲットと使用計画を定めるものである。これには高度な軍事機密が含まれるため、基本的に文書は公開されない。一方で宣言政策は、米国政府によって公表され、政府要人が米国核戦略について公的に言及する際の指針となる。運用政策とは違い、宣言政策は議会の公聴会や政府文書を通じて公表される。そのため、マクナマラが提唱した確証破壊戦略は宣言政策にあたる(岩田 1989, 54)。

19 ニクソンは、1957年に出版されたキッシンジャーの著書『核兵器と外交政策(Nuclear Weapons and Foreign Policy)』を読み、キッシンジャーの外交政策に対する考え方と自身の考え方が極めて近いと認識していた(ニクソン 1978, 30)。

20 シュレジンジャーの国防長官に就任する以前の経歴は以下の通りである。1963年にランド研究所に入り、1967年にはランド研究所の戦略研究部長に就任した。その後、1971年にはニクソン政権で原子力委員長に任命され、1973年には中央情報局(CIA)長官に任命された(The New York Times, March 27, 2014)。

21 ちなみにキッシンジャーは、シュレジンジャーが国防長官に就任した2 ヶ月後の9 月22日に国務長官に就任した。国家安全保障問題担当大統領補佐官との兼任という異例の人事であった。

22 政府の公文書やニクソン政権政府高官の公式発言の中で、シュレジンジャー・ドクトリンがMADの「修正」であるという表現は、管見の限り見当たらない。

23 英語名称は“Declaration on Basic Principles of Relations Between the United States of America and the Union of Soviet Socialist Republics.”

24 一方で、ソ連は米国と対等な地位の獲得を目指していたため、米国がそれを認めたこの基本原則を「ソ連外交政策の偉大な勝利」と捉えた(シェフチェンコ1985, 264)。実際、ブレジネフはSALTⅠ合意よりも、基本原則の方が重要であると述べたとされている(シェフチェンコ 1985, 263)。

25 例えば、核兵器を使用しない戦争など。

26 United States Foreign Policy for the 1970’s: Shaping a Durable Peace, A Report to the Congress by Richard Nixon President of the United States (PPP 1975, 482).

27 キッシンジャーが主張する「限定核戦争論」の要素が盛り込まれており、ここに政権に入る前のキッシンジャーの議論との繋がりを見ることができる。

28 United States Foreign Policy for the 1970’s: Shaping a Durable Peace, A Report to the Congress by Richard Nixon President of the United States (PPP 1975, 482).

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